夕礼拝

聖霊を受ける

「聖霊を受ける」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第55章1-5節
・ 新約聖書:使徒言行録 第8章4-25節
・ 讃美歌:492、401

 今日は、「フィリポ」という人が登場します。フィリポがサマリアという地方で伝道をして、聖霊なる神様が豊かに働いて下さり、主イエスの十字架と復活の福音が多くの人々に伝えられていった様子が書かれています。
 そして今、ここで礼拝を守る私たちにも、聖霊なる神様は力強く働いて下さっています。その力強いお働きに注目しながら、本日の箇所を共に読んでまいりたいと思います。

 先週は、キリストを宣べ伝えていた「ステファノ」という人が殉教をしたという箇所を共にお読みしました。そこから、エルサレムの町では教会への大迫害が起こり、キリストを信じる人々は町にいられなくなって、使徒たち以外はユダヤとサマリアの地方へ散って行った、とあります。今日登場するフィリポも、その一人です。

 フィリポは殉教したステファノと特に親しい一人でした。6章に書かれていたことですが、教会で問題が起こった時に、教会全体が神の御言葉に集中するため、特別に役割を担う7人が選ばれました。ステファノとフィリポはその選ばれた7人の一人だったのです。
 教会の問題は、ユダヤ人の二つのグループの間で起こりました。エルサレムを中心とする地域、つまりユダヤの国内にずっと住んでいる、ヘブライ語を話すユダヤ人のグループと、海外に出て、様々な地域に住み、当時の世界の共通語だったギリシャ語を話すユダヤ人のグループです。
 生粋の国内育ちのユダヤ人が、異文化に触れて育ったギリシャ語を話すユダヤ人を軽んじて、不公平な態度をとっている、という訴えがあったのです。
 そこで選ばれた7人は、軽んじられている者をフォローするために、同じギリシャ語を話すユダヤ人から選ばれたのではないかと考えられています。彼らはみなギリシャ風の名前を持っているからです。フィリポはおそらく、このギリシャ語を話すユダヤ人でした。

 さて、そのようなフィリポが向かった先は、サマリアという地方の町でした。
 この町は、実はユダヤ人からとても嫌われている町です。敵対関係にあったのです。ユダヤ人もサマリア人も、昔は同じイスラエル民族でした。しかし、過去に戦争が起こった時に、外国の勢力に屈してしまい、外国の人々がたくさん入ってきて、混血がすすんだのがサマリア人です。ユダヤ人は、民族の純血を重んじますから、こうやって混血がすすんだサマリア人を軽蔑し、嫌っていたのでした。

 フィリポは仲間を殺されてしまい、エルサレムの教会にもいられなくなり、サマリアの町へと向かいました。逃げていくにしろ、本来であれば、ユダヤ人であるフィリポは、憎むべきサマリア人のところへ行くのは避けるのかも知れません。
 しかしフィリポは、ユダヤ人の中でさえも、ヘブライ語を話すか、ギリシャ語を話すかで、諍いが起こることを経験しました。ところがそれでも、違いのある人々が、神の言葉によって一つになり、同じキリストを信じ、同じ信仰を持ち、共に神を礼拝することをも経験してきました。
 ですから、ユダヤ人もサマリア人も、キリストの救いの前ではそのような違いは関係ないことを確信し、フィリポはサマリアへ下って、福音を伝えていったのだと思います。

 フィリポはキリストを宣べ伝え、また、そのキリストを証しするために、癒しや悪霊を追い出す「しるし」を行っていました。「しるし」はキリストの御名によって、キリストを指し示すために行われるものです。6節に、「群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った」とあります。御言葉を証しする「しるし」を見て、主イエスの十字架と復活の福音を聞いて、人々は大変喜んだ。サマリアの人々は、この福音を受け入れたのです。

 ところで、このサマリアの町に、「以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた」とあります。そしてサマリアの人々は、魔術師シモンのことを「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目し、この魔術に心を奪われていました。
 この「偉大な人物」というのは、異教で「神々」が自分を呼ぶときに使う名前であるとも言われています。つまりシモンは、自分を神だと自称していた、ということでしょう。
 そして魔術を使って人々を驚かせ、人々は心を奪われていた、とあります。この「驚かす」、「心を奪う」というのは、同じ「エクセステー」という言葉が使われています。これは、自分の存在の外に出てしまうこと、我を忘れてしまうことです。恍惚状態のエクスタシーの語源となっています。シモンは、人々をびっくりさせ、我を忘れさせて自分の虜にし、人々の心を支配していました。それによって自分を神として注目させ、人々を従わせようとしていたのです。まるでカルトの宗教のようです。

 サマリアの人々は、古い時代の、魔術なんかを信じてしまう、単純な人々なのでしょうか。そうではありません。一体人はこの現代でも、どれほどの魔術的なものに、心を奪われているでしょうか。迷信に捉われたり、縁起を担いだり、占いを信じたり、お金が貯まる財布の色を気にしたり。もし朝、仕事の出がけにテレビで星占いランキングなどをやっていて、「信じていないし」と思いながらも、自分の星座が最下位であるのを知ってしまったら、やはり何となく嫌な気分になってしまうものです。
 多くの人は、自分の人生を動かしたり、影響を与えたりする、人の力を超えた何かがあるのではないか、と思っていて、それが自分の望み通りになるよう、コントロールしたい、支配したいと思っているのではないでしょうか。そして様々な手段、占いや、お守りや、神様と呼ばれるものに頼ったりして、自分に良い結果が起こるように、動かしたいのです。そうやって自分にふりかかる運命のようなものを支配しようとしていたのに、実際にはいつしか頼ってきた手段が、自分をすっかり支配してしまっていた、ということがあるのではないでしょうか。
 いや、わたしは強い意志で、自分を自分で支配している、と言う人もいるかも知れません。でも「わたし」という者は、実はそんなに強くありません。外から内から、あらゆることにすぐ驚き、心を奪われ、ぐらついて、すぐ自分から自分の外に飛び出してしまうのです。そこに、あらゆるものが支配しようとやってきます。

 人々の心は隙だらけです。魔術師シモンは巧みに、魔術によって人々の心を支配し、自分を神として人々の上に立とうとしていたのでした。

 しかし、そこにフィリポがやってきました。
 12節にフィリポは、「神の国と、イエス・キリストの名について」福音を告げ知らせていた、とあります。「神の国」と書かれていることは特に重要です。これは主イエスが、十字架にかかられる前から、復活した後も、使徒たちに教え続けて下さったことです。
 神の国とは、神の支配のことです。主イエスが来られたことによって、神のご支配が始まったのです。主イエスの十字架と復活によって、わたしたちの罪が赦され、わたしたちが全ての造り主、まことの全ての支配者であられる、神のもとに立ち帰って、神の恵みのご支配のもとで生きることが出来る、ということです。それが神の国の福音です。
 神はわたしたちを奴隷のように支配するのではありません。神の御子、主イエスに結ばれることで、神はわたしたちをも「子ども」として下さり、わたしたちが神を「父」と呼ぶことをゆるして下さいます。保護し、慈しみ、養い、恵みを注いで下さる、そのような愛のご支配です。

 フィリポが告げている神の支配は、魔術師シモンのように、自分自身を「偉いもの」、「神」と名乗り、魔術で人を驚かせて支配しようとするものではありません。
 神のご支配は、キリストの十字架と復活によって、告げ知らされたのです。神のご支配を実現するために、神の御子が人となられ、最も低いところまで下られ、十字架で血を流し、わたしたちの罪のために死なれました。そして主イエスは復活し、死に打ち勝たれ、神の全権を委ねられました。この方によって、すべての者は、罪からも、死からも、悪からも、また他のあらゆる支配からも解放されたのです。
 そうやって、神がわたしたちを支配して下さった。もう他の何ものにも、支配されなくて良いのです。わたしたちを支配する方は、主となって下さったイエス・キリストだけです。

 サマリアの多くの人々が、フィリポを通して語られるこの福音を信じ、洗礼を受けた、と書かれています。
 そしてなんと、魔術師シモンも、信じて洗礼を受けたのでした。そして、フィリポが行うすばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていたといいます。シモンは洗礼を受けましたが、しかしなお、中心であるキリストの福音よりも、証しのために行われているしるしや奇跡の方にばかり、心が奪われていた様子です。

 さて、このようにサマリアの人々が神の言葉を受け入れ、主イエスを信じたことが、エルサレムの教会にも伝わってきました。生粋のヘブライ語を話すユダヤ人であった彼らは、かつて自分たちが軽蔑し、敵視していたサマリア人が福音を受け入れたことに、少し複雑な気持ちがあったかも知れません。しかし、仲間が殺され、教会が迫害される中で、それでもキリストの福音が証しされ、宣べ伝えられていく。信じる者が次々と起こされていく。その力強い神の御業に、戸惑いを超える、大きな喜びがあったに違いありません。

 彼らははっきりと主イエスが仰っていたことを思い出したでしょう。
 主イエスは復活して天に昇られる前、1:8でこのように言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。聖霊の力によって、フィリポがサマリアで主を証しています。主イエスが語られたことが、一つ具体的に確かに実現しているのです。

 またこれが主イエスの御心であったことが、ヨハネによる福音書の4章から伺うことが出来ます。
 主イエスはサマリアの地方を通られた時に、サマリアの女と会話されました。本来敵対関係にある、ユダヤ人の主イエスと、サマリア人の女が一緒にいて話をしていることは、常識では考えられないことでした。主イエスは女に、ご自分が与える水を飲む者は決して渇かない、主イエスが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る、と語られました。
 サマリアの女は「その水を下さい」と求め、また主イエスが預言者だと思って、「サマリア人の先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたユダヤ人は、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」と言いました。当時、ユダヤ人はエルサレム神殿で礼拝し、サマリア人は別の山に礼拝所を持っていたとされます。
 しかし主イエスは、「あなたがたが、この山でも、エルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」と言われました。ユダヤのエルサレムだ、サマリアのどこどこの山だと、場所に拘った形式的な礼拝ではない。そのようなことからは解放されて、聖霊が働いて下さり、神の御言葉が聞かれ、信仰によって従う、まことの礼拝をする時が来るのだと、主イエスは仰ったのです。
 そして主イエスが十字架にかかられ、復活され、天に昇られ、神の救いの御業が成就した今や、この主イエスの仰っていたことが実現したのです。
 救いは、ユダヤ人も、サマリア人も、そして異邦人も、そのような線引きは全く関係がない。人の思いや、慣習や、規則からも解放されて、聖霊によって、キリストを信じる信仰によって捧げられる礼拝、復活の主イエスと、父となって下さった神との交わりに生かされる、まことの礼拝が実現したのです。

 サマリアで福音が受け入れられたことを聞いた使徒たちは、エルサレムの教会からペトロとヨハネを派遣しました。そして、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った、とあります。
 16節には、人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも下っておらず、ペトロとヨハネが手を置くと、彼らは聖霊を受けた、と書かれています。 
 ここは難しいところです。洗礼と、聖霊を受けるのは全く別の時なのか。でも、使徒言行録には洗礼を受けると聖霊が降る、と書いてあったり、聖霊が降った後に洗礼を受けた、という記事もあります。
 今、教会のあるグループでは、ここの箇所から、水の洗礼と霊の洗礼は別々のものだ、と言っているところもあります。また、使徒にしか聖霊を与える権威がないのだ、という考えもありました。しかし、どれもそのように考えることは出来ないと思います。
 洗礼と聖霊どちらが先か、後かを決めつけて主張すること、聖霊を与える権威を持っているのは誰かというのを決めることは、聖霊を把握しようとして、神のお働きを人の理解できる範囲で決めつけ、自分たちの手で扱おうとしてしまっているかも知れません。

 最も大事なことは、聖霊は三位一体の神様であり、信仰を与え、主イエスを救い主であると告白させるのは聖霊であり、またわたしたちに与えられる聖霊の賜物は、誰からでもなく、ただ神から与えられる、ということです。
 そしてここの箇所では「フィリポのサマリア伝道において、聖霊のことがなぜこのように語られているのか」ということに注目することが大切です。

 ここで、エルサレムの教会からやってきたペトロとヨハネが、フィリポが伝道して洗礼を授けたサマリアの人々が聖霊を受けるように「祈った」というのは、これまで対立してきたユダヤとサマリアだけれども、もはやその区別なく、同じ主イエスの福音を信じ、同じ一つの聖霊を受けていることを、確かにするためだったのではないでしょうか。
 ペトロとヨハネの神への執り成しの祈りによって、サマリアの人々に霊が与えられることで、エルサレムの教会と、サマリアの教会は、確かに同じ聖霊によって、同じキリストを信じる、同じ一つの教会であることが確かめられたでしょう。

 主イエスの救いの恵みは、人の考えるような区別や分け隔てなどなく、神が招かれる者すべてに注がれます。
 ユダヤ人は神に選ばれた民族、神の民であることを重んじていました。しかしもはや、父なる神が、御子イエス・キリストを救い主として遣わして下さったことによって、神の支配、キリストの福音は、ユダヤ人から始まり、混血のサマリア人、そしてこれから異邦人へと、地の果てまで広がっていきます。そして、キリストの一つの体に結ばれ、一つの霊によって造られる「新しい神の民」が興されていくのです。この箇所は、その聖霊による一致が示されていると理解することが出来ます。

 さて、またここで魔術師だったシモンが出てきます。シモンは使徒たちが手を置くことで霊が与えられるのを見て、お金で、その力を買いたいと申し出ました。
 シモンは大きな過ちを犯しています。一つは、人に聖霊が降るのは、使徒が所有する力、権威だと思ったことです。使徒たちに、そのように聖霊を自由にする力があるのではありません。使徒たちは、サマリアの人々のために神に聖霊が降るようにと執り成し、祈ったのです。聖霊を与えて下さるのは、神ご自身の御業であり、恵みです。使徒たちはその御業に用いられているにすぎません。
 もう一つは、しかもその力を、金で買えると思ったことです。何かと引き換えに何かを得るということは、わたしたちにとってはとても分かりやすいことです。
 しかし神が与えて下さる恵みは、そのようなものではありません。
 主イエスの罪の赦しの十字架は、わたしたちに代わりの何かを要求したでしょうか。神の御子の命と引き換えにできるものなど、わたしたちは何も持ちません。ただ、一方的に恵みを受けただけなのです。悔い改め、その恵みを、喜んで受け取りなさいと、そう言われただけなのです。わたしたちが差し出すことが出来るのは、悔い改め、神の前にへりくだった心です。

 シモンの心はなお神の前で高ぶっており、その恵みを分かっていません。人を驚かすための一つのトリックのネタのように、神の賜物を買おうとしたのです。

 シモンはペトロに、「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ」と言われました。
 シモンは、そうならないように、わたしのために祈って欲しい、と願いました。しかしシモンは、結局自分自身に聖霊が降るように祈って欲しいということは願いませんでした。
 シモンが聖霊を受けることを望まなかったということは、シモンが自分を神のご支配に委ねなかったということでしょう。

 聖霊を受けるということは、わたしたちが自分を神のご支配に委ねるということです。
 聖霊は、わたしたちをキリストの福音へと導き、キリストに結び付け、世の支配から解放し、キリストに従う者、新しい者へと造り変えて下さいます。
 そして、まことに神に信頼し、神の御手に守られ、神と共に生きる、幸いな歩みが始まるのです。

 わたしたちは窮屈な世の中に住んでいると思っているかも知れません。そして、色々なものに縛られているように感じるかも知れません。そして恐れることが沢山あります。罪も、悪も、そして死も、わたしたちの目に圧倒的な力を持って襲ってきます。
 しかし、聖霊が導いて下さり、すべてに勝利されたキリストをわたしの救い主と告白し、神をわたしの父よと呼ぶ時、このまことの支配者によって、わたしたちは他のあらゆることから解放され、主にある自由が与えられます。迷信も、星占いも、運勢も、何も気にしなくて良いのです。死ということさえ、恐れなくて良いのです。わたしを永遠の命にあずからせてくださり、わたしを、そして世界のすべてを恵みの内に支配し、導いておられる方を知っているからです。

 聖霊なる神様は、この使徒言行録の時から、この今も、これからも、キリストを信じる信仰を与え、わたしたちを新しく自由にして下さいます。そして聖霊による一致によって、互いの違いや分け隔ての思いを乗り越えさせ、教会を一つにして下さいます。そしてわたしたちに地の果てまで主イエスを証する力を与えて下さり、新しい神の民を一人一人招きつつ、主イエスが再び来られる日までの歩みを導いて下さるのです。

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