夕礼拝

主がなさったこと

「主がなさったこと」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第28章16節 
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第21章33-46節  
・ 讃美歌 : 259、271

人々の敵意の中で
本日はマタイによる福音書第21章33節から46節の御言葉をご一緒にお読みしたいと思います。主イエスはそのご生涯の最後にエルサレムへ来られ、大勢の群衆が主イエスを迎えました。けれども主イエスは十字架へと架けられます。本日の箇所はいわゆる受難週の出来事と言えます。そして、本日の箇所には主イエスのたとえ話しが語られています。主イエスの語られたたとえ話とは小見出しにもありますように「ぶどう園と農夫のたとえ」というものです。本日の箇所の直前の箇所、28節以下において、主イエスは「二人の息子」のたとえを話されました。28節において、主イエスは「ところで、あなたたちはどう思うか。」と問いかけられております。また、31節では「どちらが父の望みどおりにしたのか」と問われております。本日の箇所にも主イエスの問いかけがあります。40節ですが、「このぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」と主イエスは問われます。私たちの信仰の歩みというのは、自分の方から神様に問いかけられるということも大切なことですが、主イエスの方から私たちの方に問われているということです。  主イエスはこのたとえ話を誰に対して語られているのと言いますと、本日の箇所が23節からの続きであることからしますと、その相手はエルサレムの神殿の祭司長や民の長老たちです。けれども、本日の箇所の45節には「祭司長やファリサイ派の人々」とあります。どちらにせよ、これらの人々はユダヤ人たちの指導者であり、エルサレムの神殿の祭儀の責任を負っている人です。これらの人たちは主イエスに対してどのような思いだったのでしょうか。主イエスが神殿の境内に入られ、そこで彼らの許可を得て商売をしていた人々を追い出しました。その様子を見て、彼らは主イエスに対して「何の権威でこのようなことをするのか」と問い詰めたのです。イスラエルの指導者たちは主イエスに対して、心から迎えるのでなく、主イエスに対して、敵意を覚え、主イエスを殺そうとしていました。そのような状況の中で主イエスは本日のたとえを語られたのです。そして、本日の箇所には、主イエスのお言葉を通して、主イエスがこの世に来られた、クリスマスの出来事の持つ意味が語られています。

ぶどう園
主イエスはたとえをお語りになりました。33節です。「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。」これはこのたとえ話の舞台設定です。イスラエルの生活では、ぶどう園は身近なものでした。当時のぶどう園は、ぶどうの実を出荷するのではなく、採れたぶどうからぶどう酒を造り、売っていたのです。「垣を巡らし」とは、いばらの茂みのことで、それによってぶどう園を荒らす動物やぶどうを盗みに入る者を防いでいたのです。「搾り場」というのはそのぶどう酒を作るための施設です。「見張りのやぐら」も、そのようなぶどう畑を荒らす獣や泥棒を見張るためのものです。主人は、これらの設備を全て整えた上で、それを農夫たちに貸して旅に出ました。旅に出ましたのは、当時のパレスチナの情勢が不穏だったために地主は自分の土地を人に貸して、自分は別の土地で暮らし、そこから時々出てきて地代を集めていたことが反映されています。主イエスはこのような当時の人々がよく知っている事柄を用いて、たとえを語られました。  そして、主イエスがここで語られる譬え話は、明確な内容を持っています。この家の主人と言うのは、神様を意味しています。その主人がぶどう園を造っているのです。神様がぶどう園を造られる。そして、このぶどう園が一体何を意味するのか、ということについては二つの意見があります。今でも議論の対象になっていることですが、1つの理解はこれを神の民イスラエルのことだとします。イザヤ書第5章では、神の民イスラエルがぶどう園に譬えられます。そうしますと、ぶどう園で働いている農夫たちは、そのユダヤの人々の指導者、ここで主イエスの問い掛けの対象となっている人たちのことです。もう1つの理解は、このぶどう園を被造物全体と理解することです。神様は天地の造り主です。私たちが生きているこの地上の世界、人間が生きている世界が神様の造られたぶどう園です。そのぶどう園で責任を持って働くのがユダヤ人たちということになります。ユダヤ人全体が、神様が造られた世界が栄えるために特別な任務を神様から与えられているのだと、理解するのです。この解釈も確かに当たっております。いずれが正しいかということは今でも問われております。いずれの意味に取れるということです。けれども、ここではっきちしていることは、このぶどう園は主人が造ったということです。主人が、周到な注意を払って、このぶどう園を造ったのです。

息子さえも
収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、主人は僕たちを農夫たちのところへ送りました。けれどもどうでしょうか。35節からです。「だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前より多く送ったが農夫たちは同じ目に遭わせた。」(34-36節)収穫の時期が近くなり、主人は自分の僕たちを派遣してその収穫を受け取ろうとしたところ、農夫たちは僕の一人は袋だたきにし、後の二人を殺してしまったというのです。そして、主人は最後に「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って、主人は自分の息子を送りました。けれども農夫たちは、その息子を見て「これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしょう。」と話し合いました。そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外に放り出して、殺してしまったというのです。主人はとうとう自分の息子なら尊重しれくれるだろうと考えて、息子をぶどう園へ送りますが、跡取りを殺して相続財産を自分たちのものにしょうと考えた農夫はその息子まで殺してしまったのです。悲惨な物語です。  そして主イエスは「『さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。』と問いかけられます。主イエスが問いかけられた相手は、これは先ほどの祭司長、ファリサイ派の人々、エルサレムの神殿の祭儀の責任を負っている、イスラエルの指導者たちですが、このように答えました。『その悪人どもをひどい目に遭わせ殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。』」(40ー41節)悪人であるそのような農夫を殺して、ぶどう園がもっと適切な他の農夫たちに貸すだろうと答えています。もっともな答えだと思います。この主イエスのたとえでは、この主人が神様です。ぶどう園はイスラエルの民、そして農夫たちが、その指導者である祭司長、長老、ファリサイ派の人々のことだと言えるでしょう。このたとえ話は、神様とイスラエルの民とその指導者たちとの関係を表しています。主人が最初に送った僕たち、旧約聖書に出て来る預言者たちのことです。そして、主人が最後に遣わした息子とは、神様の独り子主イエス・キリストです。

隅の親石
そして、主イエスご自身が言われます。42節以下です。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。だから言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」(42-44節)たとえ話しでは、主人の息子がぶどう園に放り出されて殺されるという、とんでもない、あってはならないことが起こったのです。決して起こってはならないことが起こったのです。このたとえ話しは、このようにとんでもない、起こってはならないようなことを通して、神の救いの御業がなされたということを示しています。主イエスが引用されている聖書の箇所は詩編の第28編の22節から23節のギリシア語訳です。私たちの用いている新共同訳聖書では「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。」とあります。その意味は、建築をする際に、邪魔だとばかりに捨てられた石が、実は家を建てる時にどうしても必要な、なくてはならない親石であったということです。真にそれは驚くべき神の御業であったのです。43節以下にあります「だから言っておくが、」の以下の部分はイスラエルの指導者との対立を強調している、マタイによる福音書の特徴がよく表れています。先ほども申しましたが、ここではっきりとこのたとえでぶどう園の持ち主である主人とは父なる神であり、何人も次々と送られてきた僕とは父なる神の意志を伝達するために遣わされた預言者たちのことです。息子とは独り子主イエス・キリストです。ぶどう園の外に放り出されて、殺される息子が隅の親石になると言われているのですから、この石とは主イエス・キリストのことです。イエス・キリストという石の上に落ちる者は裁かれ、打ち砕かれ、このイエス・キリストが誰かの上に落ちれば、その人は裁きを受けて押しつぶされるのです。イエス・キリストの十字架は人間の罪に対する決定的な裁きなのです。45節以下で、祭司長やファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、主イエスが自分たちのことを言っておられるのだと気付いたとあります。「イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。」(46節)とあります。このたとえを聞き、イスラエルの指導者たちは主イエスに対する反感をつのらせます。けれども、主イエスを預言者だと信じている群衆を恐れて手が出せなかったとあります。やがて、その反感は、群衆をたきつけて、主イエスの十字架へと結集されていくのです。

人生の土台
私たちはそれぞれが自分の人生を営んでいますが、私たちの人生の土台は一体何の上に置かれているでしょうか。本日のたとえ話を語られた主イエスは指導者たちの反感を買い、主イエスはやがて十字架に架けられ殺されます。神の独り子主イエスがエルサレムの都の外に放り出されて、殺されるということです。そのように人々が放り出し、捨てた石が、すべての建築の土台となる隅の親石であることを語っています。そして、「これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」とありますように、神様がなさったことなのです。人々に捨てられた石を神様が用いられ、新しい家をお建てになったのです。人間の目には不思議に見える神様の御業です。私たちの人生の土台として、私たちを支えるのは、クリスマスの夜、最も低き者としてこの世にお生まれになり、十字架に架けられた主イエス・キリストなのです。私たちの歩みを、人生のすべてしっかりと支えて下さる土台の石です。隅の親石が主イエス・キリストです。

関連記事

TOP