夕礼拝

大胆に御言葉を語りたい

「大胆に御言葉を語りたい」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書第14章24節
・ 新約聖書:使徒言行録第4章23-31節
・ 讃美歌:361、352

 今日一緒にお読みした聖書箇所には、教会の祈りの言葉が書かれています。それは、どのような祈りだったのでしょうか。     

 主イエスの使徒であったペトロとヨハネは、主イエス・キリストの十字架と復活を証し、この方こそ、すべての人を救う救い主だ、ということを宣べ伝えていました。しかし、そのペトロとヨハネが捕えられるという出来事が起こりました。   
 その後、二人は釈放されて、仲間のところ、つまり信仰を持つ者たちの共同体である教会に戻ってきました。そして、みんなで心を一つにして祈ったことは、「思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」ということでした。   
 それが神の御心であり、それが神に救われた群れである教会の祈りでした。   
 この教会の祈りを、わたしたちも共に祈っていきたいのです。      

 今日のところは、ペトロとヨハネが釈放された場面から始まります。   
 神殿で、ペトロとヨハネは生まれつき足の不自由だった男を、「主イエス・キリスト」の名によって立ちあがらせ、癒しの業を行いました。生まれつき足が不自由で、40年間一度も歩いたことがない男でした。この男は、主イエスの名によって立ち上がり、その足で神殿に行って神を礼拝する者となり、そして神を賛美しながらこの二人にくっついて来ました。すると、多くの人が驚いて集まってきました。そこでペトロはこの人々に、この男を癒した 「主イエスの名」こそ、すべての者を救う名前だ。主イエスこそ、旧約聖書に預言されていた救い主だ、ということを教えていたのです。      

 そこに、ユダヤ人の指導者たち、祭司や神殿を守る人や律法学者がやってきて、二人を捕えてしまいました。連れて行かれたのは、今でいう最高裁判所のようなところです。翌日には議会が開かれ、裁判が行われました。しかし、ペトロもヨハネも少しもひるまず、むしろ大胆に主イエスこそ救い主であるということを語ったのです。しかも、その主イエスの名によって癒された男が横に立っているのですから、議会の人々は何も言えません。結局どうしたら良いか分からなくて、「もうイエスの名によって話してはならない」と命じ、脅した上で、ペトロとヨハネを釈放したのでした。      

 二人は、釈放されるとすぐに仲間のところに行って、言われたことを全部報告した、とあります。   
 主イエスを宣べ伝える伝道は、ペトロとヨハネが自分たちだけで頑張っていたのではありませんでした。彼らは伝道をしている中で、起こった出来事を報告し、分かちあっていました。語ったこと、男の癒しのこと、人々が大勢信じたこと、教えることを妨害され捕まったこと、脅されたこと…。   
 仲間たちは、もちろん二人が捕えられたことを知っており、二人のために懸命に神に祈って待っていたでしょう。そして釈放され、二人が帰ってきた時には、大きな喜びがあったでしょう。教会は、このように互いに祈り、苦しみも、喜びも共有して、共にキリストに支えられて伝道していく群れなのです。   
 ペトロとヨハネは、聖霊を受けて、神ご自身のお支えのもとにあったことはもちろんですが、彼らには共に主イエスを信じ、祈りによって、一緒に伝道の業に参加している仲間たちがいました。それぞれ役割や、置かれた場所は違っても、心を一つにして祈ることで、キリストの一つの体として、同じ目標に向かって、一緒に働き、一緒に歩んでいたのです。      

 さて、これを聞いた仲間たち、つまり「教会」は、心を一つにし、神に向かって声をあげて言った、とあります。皆で神に祈ったのです。   
 「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」。   
 この最初の「主よ」という言葉は、少し特別な単語が使われていて、「主権者」とか「支配権を行使する君主」というような、絶対的な権力を持つ人を指す言葉です。   
 神は、すべてを支配される全能の方であり、そして天と地と海と、すべてを造られた創造主である。神はそのような方であられる、ということを、まずほめ讃え、告白しているのです。      

 そして、この全能で万物の作り主である神ご自身が、イスラエルの先祖であるダビデの口を通して、聖霊によって告げておられたことを述べます。   
 『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、  
 諸国の民はむなしいことを企てるのか。   
 地上の王たちはこぞって立ち上がり、  
 指導者たちは団結して、  
 主とそのメシアに逆らう。』
これは、旧約聖書の詩編の2編1節以下から引用されています。(旧835頁)そこには   
 「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、   
 人々はむなしく声をあげるのか。   
 なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して   
 主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか』と書かれています。   
 旧約聖書には、主なる神と、油注がれた方、つまりメシアに、世界中がこぞって逆らう、ということが預言されていました。「メシア」というのは、神に選ばれ油を注がれた者のことで「救い主」を指し、このギリシャ語が「キリスト」という言葉です。      

 そして今日の4章27節にあるように、「事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました」とあります。旧約聖書の詩編で告げられていたことが、事実、起こった、ということを述べているのです。   
 領主であったヘロデは26節の「地上の王」、そしてピラトは「指導者」です。また異邦人とはローマ人の兵士たち、そして諸国の民とはイスラエルの民。みなが一緒になって、神が選び、油を注いで救い主として遣わされた、神の聖なる僕であるイエスに逆らい、十字架につけて殺したのでした。   
 ここでの「聖なる僕」の「僕」と言う言葉は、25節でダビデのことをさす「僕」や、このあと教会が自分たちのことを「あなたの僕たち」という時の「僕」とは違う言葉で、実の子や、特別に愛されている家臣などを指す言葉です。   
 旧約聖書に示され、預言されていた通りに、神の御子であり、救い主として世に遣わされた方に対して、みなが一緒に逆らい、十字架で殺してしまったのです。   

 しかし、それらの出来事も、神はすべて知っておられ、定めておられたことでした。   
 28節「そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです」。   
 すべての者の反逆も知っておられた神の御心によって、定められていたことが、主イエスの十字架によって実現しました。神の御計画が成し遂げられたのです。神ご自身が、定められていたことを、すべて行われたのです。   
 世の王や指導者、異邦人、諸国の民すべてが、救い主を受け入れず、神と救い主に逆らうことも、神はご存知でした。彼らは神の御心を知らず、自分たちの思いによって、ただ「むなしいことを企てた」のです。   
 ペトロも、3:17でイスラエルの人たちに向かって、神から遣わされた救い主を殺してしまったことについて、「あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています」と述べています。また主イエスご自身、十字架上において、逆らう者のために祈って下さいました。ルカ23:34「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られたのです。   
 人々の反逆によって、主イエスご自身がお受けになった迫害も、十字架の死も、すべてを支配しておられる、全能の神の救いのご計画の中にありました。御子主イエスを地上に遣わされるずっとずっと前から、神は人々を救うためのご計画を立てて下さっていました。すべての者の罪を赦すため、悔い改めて福音を信じるすべての者を救うため、神は救いの御計画を立て、聖書で預言し、定められた通りに行って下さいました。   
 神に逆らうことの頂点ともいえる、救い主が十字架に架けられるというその出来事において、すべての者のための救いの御業を実現して下さったのです。      

 だから、今、ペトロとヨハネが捕まったり、脅されたりして教会が受けている迫害も、困難も、すべてその神の御手の内にあるのです。すでに定められた救いの御業を実現して下さった神が、終わりの日が来るまで、すべての人が救いにあずかるために成そうとしておられることがある。だから、教会にとって困難な状況があろうとも、迫害があろうとも、神は御心を必ず実現して下さる。   
 その、神への信頼と希望を、教会は確かに持つことが出来るのです。      

 教会は主イエスが再び来られる日、終わりの日を待ち望んでいます。主イエスは、すべての人のための神の救いのご計画を、十字架の死によって成し遂げ、そして死者の中から復活され、今も生きて天におられます。そして、主イエスは再び来られるという約束が与えられています。   
 使徒言行録1:11に天使が告げたその約束が書かれています。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」   
 それは神の国の完成の時、終末の時です。そして、その神の救いのご計画が全て完成する日を待つ今は、その約束と共に、主イエスが送って下さった聖霊が、いつも信じる者と共にいて下さり、力と導きを与えて下さいます。   
 教会には、すべてを支配され御心を成し遂げられる神への確かな信頼と、そうして実現された主イエスの十字架と復活による救いと、主が再び来られる日、神の国の完成の希望があります。ですから、教会は現実において襲いかかる困難や迫害を恐れず、主イエスの「地の果てに至るまで、わたしの証人となりなさい」というご命令に、喜んで従っていくことができるのです。      

 そして、そのように定められていたことをすべて行われる、あらゆるものの主権者である神への信頼を告白し、その神の御心に、教会が従って行くことが出来るように祈られた祈りが、この祈りです。   
 29節「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」。      

 彼らの祈りは、教会への迫害を止めさせて下さい、二度と脅されないようにして下さい、というような祈りではありませんでした。なぜなら、今起こっている迫害も、すべて神の御手の内にあり、キリストによって救いの御業を実現された神は、必ず教会の歩みにおいても御心を実現して下さると知っているからです。教会は、困難や迫害の中にあっても、神に委ねられた務めを果たすことが出来るようにと、心を一つにして祈りました。   
 「彼らの脅しに目を留め」とあります。神は、反逆する者がいることをご存知です。教会が受けている迫害や脅しを見ておられます。苦しみや困難をご存知です。それらをすべて、神の御手の内に置いて下さい、ということです。   
 すべてご存知で、すべてを支配しておられる全能の神は、ご自身の御心を必ず実現して下さるからです。神の御心とは、すべての者が御子の十字架と復活を信じ、神の許に立ち返ることです。そして終わりの日に神の御支配が完成することです。神がすべてに勝利され、神がすべてを支配し、信じる者たちがキリストの復活にあずかりよみがえる、そしてまことに生ける神と共に、永遠に生きるということです。   
 神の御心が必ず実現することを確信しつつ、教会は神に命じられたことを行っていくことが出来るようにと、祈り求めたのです。   
 それが、「思い切って大胆に御言葉を語ることができるように」との祈りです。   
 それは、救われた者たちが、聖霊の力を受けて、主イエス・キリストの証人となること。主イエスの十字架と復活の出来事を宣べ伝えていくことです。   
 すべて定められたことを実現なさる、神の力強い御手の中で、教会は主イエスを証する者としての使命を与えられ、世界中に遣わされていきます。   
 30節からの、「御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」という祈りは、その宣べ伝えられる「神の御言葉」が確かなものであることを証するものとして現される御業です。      

 教会は、このように迫害や脅しの中においても、ますます主イエス・キリストの福音を大胆に宣べ伝えていくことを祈り願ったのです。神の御心が成るように、自分が受けた恵みを、一人でも多くの者に伝えていく。それが神に救われた者の群れ、神に従う群れである教会の、祈りと願いです。      

 そして、神はその祈りを聞き入れて下さいます。祈りに応えて下さいます。   
 31節には、「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」とあります。   
 場所が、地面が揺れ動く、というのは、神がそこにおられること、神の臨在を現すときに使われる表現です。神がそこにおられ、祈りを聞いて下さり、聖霊の力を、心を一つにしていた一同に注いで下さったのです。そして彼らは力を受け、大胆に神の言葉を語りだしたのです。      

 そのようにして教会が、困難や迫害の中にあっても神の御心が成されることを信じ、「大胆に神の御言葉を語りたい」と求めた祈りが聞かれ、神の御言葉は語られ続けて、今、当時から2000年も後のわたしたちが、エルサレムからこんなにも遠く離れた日本で、同じ神の御言葉、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を聞いているのです。今も福音が宣べ伝えられ、救われる者が次々と起こされているのです。   
 世界でも、そして日本でも、教会の歩みの歴史は、困難なことばかりでした。多くの迫害が起こりました。殉教者がたくさん出ました。戦争が起こりました。神に反逆する者は、教会の外にも中にも数多くいました。今でも迫害の中にあり、戦いを続けている教会も数多くあります。   
 しかし、教会は、歴史の中で消えてなくなったり、御言葉を語ることを止めたりはしませんでした。神の御心が必ず行われると信じて従う教会の歩みを、祈りを、神は支え導いて下さり、神の言葉は大胆に語られ続けたのです。また今も、語られ続けています。   
 神はこの使徒言行録の時代の教会から、現代のわたしたちの教会にいたるまで、キリストに連なるすべての教会に聖霊を豊かに注いで下さって、神の御言葉が語られ、聞かれるように導いて下さいます。そして、主イエスが再び来られる日まで、神の国の完成に向かって、そのわたしたちのための救いの御計画を、確かに今も行って下さっているのです。      

 わたしたちは、すべての主権者であり、すべての創造主である神の御手の内にいます。わたしたち一人一人が苦難や困難、試練にある時も、そして教会が、迫害や試練に遭う時も、わたしたちは、すべてを定めたとおりに行ってくださる神を信頼し、わたしたちの救いのための神の御心が必ず実現することを確信し、確かな希望を持って、歩んでいくことができます。   
 わたしたちは困難に遭うと、その困難のことで頭と心が一杯になり、不安や恐れの中で、その困難が小さくなりますように、無くなりますように、と祈ることが多いかも知れません。それはもちろん、してはいけない祈りではありません。神には何でも祈り求めて良いのです。   
 しかし、わたしたちが、神はその困難も全てご存知であると知っており、目の前の困難の向こう側にある、すべてを支配しておられる神の御心に目を向けることが出来るなら。そして、神が望まれていることが出来ますようにと、祈り求めることが出来るなら。わたしたちは主にあって、もっと前向きに、大胆に歩んでいくことが出来るのではないでしょうか。   
 そのために、神は聖霊でわたしたちを満たして下さいます。また、わたしたちは一人で苦しんだり、悩んだりするのではありません。共に生き、共に伝道の道を歩む教会の仲間が与えられており、祈り合い、困難も恵みも分かち合っていくことが出来るのです。         

 神がわたしたちのために成し遂げて下さった、主イエス・キリストの十字架と復活の御業を、教会によって大胆に語られてきた神の御言葉を、わたしたちも聞いて、神の許に招かれました。そして救いに入れられました。   
 また、今救いに招かれている者がおり、神がご計画に従って、主イエスの十字架と復活に与らせようとしておられる者がいます。   
 神は御心を必ず行って下さいますから、わたしたちの教会も、その枝である一人一人も、「地の果てに至るまで、主イエスの福音を宣べ伝える」というご命令に従って、受けた福音を、思い切って大胆に語っていくことが出来るように、そして御心が成りますようにと、心を一つにして祈り求めましょう。

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