主日礼拝

聖なる生活を

「聖なる生活を」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:レビ記第19章1-18節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第6章15-23節
・ 讃美歌:329、122、514

福音への誤解
 ローマの信徒への手紙第6章15-23節から説教をするのはこれで三回目となります。しつこいなと思われるかもしれませんが、ここはとても大事な箇所ですので、丁寧に読み進めたいのです。この手紙を書いたパウロがここで語っていることは、冒頭の15節に集約されていると言うことができます。「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない」。「律法の下ではなく恵みの下にいる」というのは、神は私たちの罪を厳しく裁こうとしておられるのではなくて、それを赦して私たちを救おうとして下さっている、ということです。「恵み」とは罪の赦しの恵みであって、神が遣わして下さった独り子主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、この恵みによる救いが私たちにもたらされ、与えられたのです。それが、パウロが宣べ伝えているキリストの福音、喜ばしい知らせ、救いの知らせなのです。この罪の赦しの恵みの下に置かれているのだから、罪を犯してよいということになるのか、決してそうではない、とパウロは語っているのです。彼がこのようなことを書いているのは、キリストによる罪の赦しの福音を誤解ないしは曲解しているユダヤ人たちからの批判に応えるためですが、同じような誤解ないし曲解は今日の私たちの間にも起っています。「あなたはありのままでいいのだ」という教えにそれが表れているのです。

ありのままで
 それこそ誤解してはならないのですが、「あなたはありのままで救われる」という教えは決して間違いではありません。「律法の下ではなく恵みの下にいる」とはそういうことです。つまり神の掟である律法をきちんと守ることができる立派な人になれれば救われるのではなくて、それを守り行なうことができない罪人である私たちが、罪人であるままで、ありのままで、ただ神の恵みによって赦され、救われるのです。つまり聖書が見つめている私たちの「ありのまま」とは、罪人である、ということです。ありのままの、生まれつきの私たちは罪に支配されており、自分の力で救いを獲得することはできないのです。そのことをパウロはこの手紙の最初の方で強調していました。3章9節以下に、彼が見つめている人間のありのままの姿がこのように語られています。「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行なう者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。』」。ここには人間が一人残らず罪に陥っていることがこれでもかこれでもかというほどに語られており、「そこまで言うか」と思ったりもしますが、しかし冷静に考えてみれば、ここに語られていることはまさに私たちの、そしてこの社会の現実だと言わなければならないでしょう。「ありのままの私たち」とはこのような罪ある私たちなのです。そのありのままの私たちが、主イエス・キリストの十字架の死によって罪を赦され、その復活にあずかって新しい命を与えられている、それがキリストの福音です。ありのままの罪人である私たちを、神は独り子キリストによって赦し、救って下さっているのです。それが「律法の下ではなく恵みの下にいる」ということです。

もはやありのままではあり得ない
 しかし問題はそこからです。パウロがこの6章の前半で語っていたのは、罪に支配されていたありのままの古い自分がキリストの十字架の死にあずかってキリストと共に死んで葬られ、そしてキリストの復活にあずかって新しく生まれ変わったのだ、ということです。その救いの印が洗礼です。洗礼を受けることにおいて私たちは、キリストの十字架の死と復活にあずかって、死んで生まれ変わるのです。ありのままの古い自分はキリストと共に十字架につけられて死んでしまって、キリストの復活にあずかって神によって新しくされた自分が生き始めるのです。ですから、洗礼を受け、キリストの救いにあずかった信仰者は、もはやありのままの、生まれつきの古い罪人である自分のままではないのです。恵みの下にいるのだから罪を犯していいということには決してならない、とはそういうことです。罪を犯すというのは、罪に支配された古い自分が生き続けていることです。それはあり得ない、古い自分はもう死んでおり、神の恵みによって新しくされ、罪の支配から解放されて神に従い仕える者とされているのだから、その私たちが、なお生まれつきの、ありのままの姿であり続けることはあり得ないのだ、とパウロは語っているのです。
 それは、私たちが努力して罪を犯さない者とならなければ救われない、ということではありません。それが出来ないのが生まれつきの私たちであり、その私たちを神が恵みによって、主イエス・キリストの十字架と復活によって赦し、救って下さるのです。だから確かに私たちはありのままで救われるのです。しかしその救いにあずかった私たちは、もはや古い自分であり続けることはあり得ないのです。神が与えて下さった新しい自分として生き始めるのだし、そのために努力もしていくのです。そこにおいて私たちはもはや「ありのままでいいんだ」とは言わないのです。ありのままで救われた私たちは、もはやありのままであり続けることはないのです。そこでなお、「ありのままで救われたのだからありのままでいいんだ」と言い続けることが、「律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよい」と言うことなのです。

義認には聖化が伴う
 つまりパウロがこの6章後半で語っているのは、良い行いによってではなくただ神の恵みによって与えられる救い、具体的には主イエス・キリストの十字架と復活によって罪を赦され義とされることを信じる信仰が、新しい生き方、新しい生活という実を結ぶことです。以前にも申しましたが、これをキリスト教の用語では「義認と聖化」と言います。キリストを信じる信仰によって罪を赦され、神によって義と認められることが「義認」であり、義とされた者が神に従う新しい生活を築いていくことが「聖化」、聖なる者と化していくことです。この義認と聖化は分ち難く結びついているのであって、義認には聖化が必ず伴うのだということをパウロはここで語っているのです。

かつてと今
 本日はそのことを、この箇所の後半から見ていきたいと思います。19節の後半にこのように語られています。「かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい」。ここには、「かつて」と「今」とを対比しての勧めが語られています。その「かつて」と「今」は、17、18節において「あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました」と語られていたのと同じ「かつて」と「今」であり、具体的には洗礼を受ける前と受けた後ということです。洗礼を受ける前と受けた後では、あなたがたが奴隷として仕える主人が変ったのであって、かつては罪の奴隷として罪に仕えていたあなたがたが、今は神の奴隷となったのだから、義に仕える者として歩みなさい、とパウロは勧めているのです。そしてここには、かつての歩みと今の歩みそれぞれの行き着く先、つまりそれぞれの歩みがもたらす生き方、生活の違いが見つめられています。そのことは以前の口語訳聖書の方がよく分かる訳となっていました。口語訳ではこのようになっていました。「あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法の奴隷としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない」。かつての歩みの結果として「不法に陥った」のに対して、今の新しい歩みは「きよくなる」ことへと至る歩みだ、ということです。口語訳聖書が「きよくならねばならない」と訳していた言葉を新共同訳は「聖なる生活を送りなさい」と訳しました。このように訳すと、非の打ちどころのない理想的な生活をしなさい、という意味にとられがちですが、原文の言葉は「きよくならねばならない」という口語訳のように「清くなる、聖なる者となる」という動きのある言葉です。つまりパウロはここで、義の奴隷となった今の新しい生活は、先程の「聖化」、聖なる者へと次第に変えられていく歩みなのだ、ということを見つめており、その聖化への道を歩みなさいと言っているのです。

罪の奴隷から神の奴隷へ
 このようにパウロはここで、罪の奴隷として生きていたかつての歩みと、神の奴隷として生きている今の新しい歩みの行き着くところ、そこに生まれる実りの違いを語っています。そのことが20-22節にも語られているのです。「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対して自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です」。ここにも、かつての歩みと今の歩みの行き着くところの違いが語られているわけですが、かつての歩みについては20節で「罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした」と言われています。ここは原文を直訳すると、「罪の奴隷であった時には、義に対しては解放されていた」となるのですが、これと22節の「今は罪から解放されて神の奴隷となり」とは対になっています。罪の奴隷であった時には義に対しては解放されており、神の奴隷となった今は罪から解放されているのです。奴隷は自分の主人に対してのみ従属しているのであって、主人が変われば、元の主人からは解放されるのです。洗礼を受けることによって私たちに起るのもそういうことです。洗礼を受けた者は、罪という主人から神という主人の下に移されるのです。それによって、もはや罪からは自由になるのです。

神の前での恥ずかしさ
 聖書が語っている人間の罪の根本は、神から自由になろうとすることです。最初の人間アダムとエバは、神に従って生きるなどという不自由なことはやめて、神から自由になったらいいではないか、という蛇の誘惑によって神に背きました。つまり神からの自由を求めたのです。その結果、確かに神から自由になりましたが、そこに生じてきたのは、自分が主人となり、自分の権利、欲望、願いを実現することを求める生き方でした。そこには様々な争い、対立が生まれ、思いが満たされないという不満が生じ、人に対する妬み、憎しみの思いが増大していったのです。要するに神から自由になったことによって罪の奴隷になったのです。その結果生じたのが先程読んだ3章9節以下のありのままの人間の姿です。それは「あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです」と21節にあります。今では、つまり洗礼を受けて主イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しにあずかり、新しくされた今では、罪の奴隷としての生き方に留まることは「恥ずかしい」ことなのです。その恥ずかしさは、人間どうしの比較の中での恥ずかしさではありません。神の前での恥ずかしさです。独り子主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって罪を赦して下さった、その神の救いの恵みをいただきながらなお、生まれつきの、ありのままの罪人として生き続けるのは恥ずかしいことなのです。

聖化の道
 22節には、洗礼を受けて罪から解放されて神の奴隷となったあなたがたは、「聖なる生活の実を結んでいます」とあります。この「聖なる生活」も先程の19節と同じく、「聖なる者となっていく、聖化」という動きのある言葉です。口語訳聖書では「きよきに至る実を結んでいる」となっていました。つまりパウロはここで、罪から解放されて神の奴隷となったあなたがたは完全な清い生活を送っている、と言っているのではなくて、きよきに至る、聖なる者とされていく聖化の道を歩んでいるのだ、と言っているのです。それが、神の奴隷となり、罪から解放されて新しく生きていく私たちの歩みの実りなのです。昨日まで罪の奴隷だった私たちが、洗礼を受けたら突然完全無欠な聖なる生活をするようになるとか、そうならなければいけない、などというヒステリックなことを聖書は語ってはいません。主イエス・キリストの十字架と復活によって罪から解放され、神の奴隷となった私たちは、聖なる者とされていく、聖化の道を歩み始め、そこを一歩一歩前進していくのです。私たちは、どんなに信仰の深い、長年の信仰者であっても、この聖化の道をほんのわずか歩み始めたばかりの者です。私たちに求められているのは、その聖化の道を、主イエス・キリストの模範に倣って生きる道を、一歩一歩歩み続けていくことなのです。礼拝前の求道者会で学んでおり、教友会でも学び始めた「ハイデルベルク信仰問答」はこのことについてこのように語っています。「十戒」について語っている部分のしめくくりの問114において、「それでは、神へと立ち返った人たちは、このような戒めを完全に守ることができるのですか」という問いに対して、その答えは、「いいえ。それどころか最も聖なる人々でさえ、この世にある間は、この服従をわずかばかり始めたにすぎません。とは言え、その人たちは、真剣な決意をもって、神の戒めのあるものだけではなくそのすべてに従って、現に生き始めているのです」となっています。わずかばかり始めたに過ぎず、不十分不完全なことが沢山あるが、しかし神に従って生き始めている、それが、罪から解放されて神の奴隷となり、聖化への道を歩んでいく信仰者の姿なのです。

聖化の道を歩むとは
 私たちが聖化への道を歩むことを導いてくれるのが「十戒」であるし、また、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、レビ記19章もそのような箇所であると言えるでしょう。レビ記19章2節において主なる神はイスラエルの民に、私は聖なる者だから、私の民であるあなたがたも聖なる者となりなさい、と命じておられます。そして聖なる者として生きるとはどういうことかが3節以下に語られているのです。それは先ず、父と母を敬い、安息日を守り、偶像を造ったり拝んだりせず、み心にかなう献げ物を主にささげること、つまり主なる神を愛し、み心に従って主を礼拝して生きることです。そして次に9節以下が語られています。9、10節に「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない」とあります。つまり、日々の生活の中で弱い者、貧しい者のことを顧み、支えなさいということです。そういうことが様々な事柄において語られています。それらのまとめが最後の18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という教えです。私たちが、罪から解放されて神の奴隷となって聖化の道を歩んでいくとは、このように、主なる神を愛し、み心に従って神を礼拝しつつ、隣人を自分自身のように愛していくことなのです。私たちは、洗礼を受けて主イエスの十字架の死と復活にあずかり、罪を赦されて新しく生まれ変わることによって、この聖化の道を歩み始めるのです。この世を生きる中で完全に聖なる者となってしまうことはありません。この世の歩みには常に罪がつきまとって私たちを捕えようとしており、また私たちの弱さのゆえにそれに捕えられてしまうこともあります。しかしそうであったとしても、私たちはもう罪の奴隷ではないのです。私たちの主人は罪から神へと変わっており、もう罪からは解放され、神の奴隷として生き始めているのです。この「生き始めている」ということが決定的に大事なことなのです。

罪の報酬と神の賜物
 罪の奴隷としての歩みの行き着く先と、神の奴隷としての歩みの行き着く先の対比が最後の23節に語られています。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです」。罪という主人がその奴隷に支払う報酬、神から自由になり罪の奴隷として生きた者が最後に得るもの、それが死です。それは単なる肉体の死ではなくて、神から引き離されての滅び、完全な絶望としての死です。しかし神の賜物、神の奴隷として生きた者に神が最後に与えて下さるものは永遠の命です。それは神が肉体の死に勝利して与えて下さる復活の命、永遠なる神と共にある永遠の命です。主イエスは復活してその永遠の命を既に生きておられます。その主イエスの復活に私たちもあずかって永遠の命を生きる者とされるのです。この永遠の命を神は「報酬」としてではなくて「賜物」として与えて下さるのです。つまり永遠の命は、私たちが神の奴隷としてどれだけしっかり働いたか、聖なる生活の実りをどれだけあげたか、その働きへの報酬ではありません。罪に代って私たちの主人となって下さった主イエスの父である神が、その恵みのみ心によって、賜物としてこれを与えて下さるのです。洗礼を受けることによって私たちは、罪というかつての主人から解放され、主なる神という新たな、いや元々私たちを造り、生かして下さっていた本来の主人の下に移し変えられるのです。そして本日も共にあずかる聖餐において、主イエス・キリストの十字架の死による救いの恵みを体をもって味わい、主イエスの復活による永遠の命の希望を確かにされつつ歩んでいくのです。ありのままの、罪に満ちていた私たちが、このように洗礼において神が与えて下さる救いにあずかって新しくされ、聖餐においてその救いを繰り返し味わいつつ生きていくのです。それゆえに私たちは、ありのままの自分に留まってはおれないのです。自分自身を神に献げて、聖なる者とされていく聖化の道を一歩一歩前進していくのです。その歩みにおいて挫折を体験し、自分の弱さや罪深さを思い知らされることもしばしばですが、しかし洗礼において主なる神のものとされ、聖餐においてその恵みを味わいつつ生きる信仰者は、絶望してしまうことなく、神が恵みによる賜物として与えると約束して下さっている永遠の命に向かって歩み続けることができるのです。

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