「主の復活の証人」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:箴言第16章33節
・ 新約聖書:使徒言行録第1章12-26節
・ 讃美歌:2、378
【祈って約束を待つ】
本日の聖書箇所は、主イエスが天に上げられた直後の様子から始まります。
十字架の死からよみがえられた主イエスは、使徒たちに40日間も現れて、ご自身が生きていることを、たくさんの証拠をもってお示しになりました。
そして、使徒たちの目の前で、天に上げられました。
このとき、使徒たちには、二つのことが約束されていました。
一つは、主イエスが1章4節で、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」と、語られたことです。「聖霊による洗礼」を授けられるという約束です。それは同時に「エルサレムを離れず、待ちなさい」というご命令でもありました。
もう一つは、主イエスが天に上げられて、雲に覆われて見えなくなった後、天使によって告げられたことです。1章の11節、「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」。
主イエスが、また来られる、という約束です。
主イエスが再び来られる日の約束については、いつ、どこで、ということは言われていませんでした。
そして、この約束は、教会が、わたしたちが、今も待ち続けていることです。
はじめの、天に上げられる前の主イエスの約束は、使徒たちに対して、いつ、どこで、ということが言われていました。
主イエスは、「『エルサレムを離れず』、待ちなさい」「あなたがたは『間もなく』聖霊による洗礼を授けられる」と仰ったのです。
使徒たちは、主イエスが天に上げられた後、そのご命令通り、約束を待つために、エルサレムに戻ってきました。彼らは「オリーブ畑」と呼ばれる山から、エルサレムに戻ってきたと書かれています。そして、一つの部屋にみんなが集まったのです。
今日の聖書箇所には、その時にいた使徒たちの名前があり、ほかに婦人たちや主イエスの母マリア、そして主イエスの兄弟たちも一緒にいたと書かれています。
そして、使徒たちが「エルサレムを離れず、待ちなさい」と命じられてしたことは、心を合わせて熱心に祈るということでした。
待つということは、何もしないでいることも出来ます。例えば、誰かが訪ねて来るのを待っている時、何もせずにぼんやりと待っていることも出来ます。でも、人が来る前に、その人を受け入れるための十分な準備をしておくことも出来ます。それは訪ねて来る人が大切な人であればあるほど、部屋を整えたり、喜んでもらえるものを用意したりと、その人のことを考えて、待ちわびて、一所懸命に準備をしたくなるものです。
使徒たちは、聖霊が自分たちの所に来られるための準備をしました。それは、祈ることによってです。
祈るということは、神との交わりの時であり、自分たちの心を神の方に向けること、そして神がなさることを、受け入れようとすることです。そのようにして、来るべき時に備えるのです。
約束が、必ず実現すると信じて待つこと。そこには神への信頼と、聖霊が与えられるという確かな希望があります。旧約聖書に書かれた救いの約束を実現して下さった方の約束です。彼らは自分の目で実現したことを見ました。疑う余地はありません。
確かな希望があるので、心からそのことを待ちわびて備え、祈り求めながら待っていました。
また、使徒たちの心には、いつも祈っておられた主イエスのお姿があったでしょう。
つい、先ほどまで、主イエスが天に上げられた時に彼らがいた「オリーブ畑」と呼ばれる山は、ルカによる福音書で、十字架に架かられる前の主イエスが、いつも祈るために行かれた場所であると書かれています。
十字架の直前の苦しみの時も、悶えながら、父なる神に、「御心なら、この杯を取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに」と、祈られた場所です。
父なる神の御心に、主イエスがいつも祈りつつ従順に従われたことを覚えて、これから聖霊を受け、遣わされようとしている使徒たちも、父なる神の約束して下さったものが与えられますように、御心に従うことができますようにと、心を合わせて熱心に祈ったのではないでしょうか。
そして、それは、それぞれがバラバラで祈っていたのではありません。大勢の者が、心を合わせて、熱心に、一緒に、祈っていたのです。
聖霊が、約束通りに使徒たちに降るということは、1章8節で主イエスがお語りになった、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」ということが、実現するということです。
聖霊を受ける約束を待つ時というのは、使徒たちが、証人となるための準備の時を過ごしていると言ってもよいでしょう。
聖霊を受けて、主イエスを宣べ伝える証人の集まりが、教会です。
ですからこれは、教会の誕生を待っている時であるとも言えます。
一つになって、心を合わせて熱心に祈ること。
一人の神に共に祈り求め、同じ確かな約束を信じ、共に希望を持つこと。
これが、信じる者たちが、神の御心を求め、祈り、礼拝する、教会の姿なのです。
【ユダの後継者】
さて、主イエスに選ばれた使徒であるペトロが、みんなの中に立って話をしました。
ペトロが話したことは、十二使徒のうち、ユダが死んでしまったので、他の人をもう一人、使徒として選ばなければならないということでした。
ユダの存在は、何かわたしたちの心を掻き乱すものがあります。
主イエスを、祭司長や律法学者に引き渡した裏切り者です。そして、主イエスが捕らえられた後に、悲惨な死を遂げました。
ユダはそのような死に方をしても仕方のない人物だったのだと、一般的な考えでは、悪い行いをした罰のように語られたりするかも知れません。
しかしペトロは、ユダのことを、そのように語ることはできなかったでしょう。
ペトロは主イエスに「ご一緒になら、牢に入って死んでもよいと覚悟しております」とまで言ったと、ルカによる福音書に(22:33)書かれています。しかし、その後、ペトロは主イエスが予告されたように、三度も主イエスを知らないと言って、ペトロ自身も主イエスを裏切ってしまったのです。
ユダだけが裏切り者だったのではありませんでした。誰一人として、主イエスに最後まで従った者はいませんでした。
神の御子である主イエスお一人が、十字架の道を歩まれたのです。
ペトロは、ユダを断罪し、とんでもない奴だったと言ったのではありません。
ただその出来事によって、旧約聖書の言葉が実現した。だから、また聖書に書かれている通り、欠けたユダの務めを引き受ける人を、一人選ばなければならない、と述べたのです。
ユダの裏切りさえも、聖書の言葉の実現となりました。旧約聖書は、神の救いの歴史と共に、神に逆らい続ける人の罪の姿も、ずっと語り続けています。
神がユダをそのように仕向けたのではありません。神に逆らい、裏切ることは、人の弱さであり、人の罪なのです。
この箇所は、ユダに対して様々な感情が湧きおこるかも知れません。
しかしむしろ、ここでわたしたちは、父なる神が、そのように旧約聖書の時代から変わらず、ご自分に逆らって滅びに向かう、罪の中にある人々を、ご自分の御子の命によって贖ってくださるほどに、人を憐れみ、愛して下さったということを、心に留めたいと思います。
ペトロも、主イエスを裏切りました。また主イエスが十字架で死なれた時は、救い主ではなかったのだと、絶望を覚えたかも知れません。
しかし、ペトロは、ユダとは違い、復活の主イエスにお会いしました。
主イエスの復活によって、主イエスがまことの救い主であったこと、神の救いの業が成し遂げられたのだということを知りました。
ですから、かつて主イエスを裏切ってしまったペトロは、すっかり変わりました。復活の主イエスとの出会いによって、変えられました。
今や、主イエスの救いの御業を、命をかけて証言する証人として、遣わされようとしているのです。
復活の主イエスが、「従いなさい」、「わたしの証人になりなさい」と命じて下さることで、初めてペトロは、自分自身が主イエスに罪を赦され、救われた者として、主イエスに従っていくことが出来たのです。
最初から使徒としてふさわしい、という人は一人もいませんでした。
ただ、復活の主イエスと出会い、罪を赦されたことによって、神によって使徒として立てられたのです。
その証人となるべき使徒は、いまや12人から、ユダを欠いて11人になってしまいました。そして、ペトロは父なる神の約束、主イエスの「聖霊による洗礼」に備えて、新たにもう一人を選ばなければならないと言います。
【十二使徒とは】
使徒が十二人であるということには、意味があります。
旧約聖書に書かれている、神が選ばれたイスラエルの民には、十二部族ありました。イスラエルの民は、自分たちの国が救われ、復興することを願っていました。
しかし、神の救いのご計画は、もっと大きなものでした。イスラエルという地上の一つの国、十二部族だけではなく、地の果てにまで、全世界に及ぶ救いのご計画です。
神は、地の果てからも、ご自分が選ばれた民を救おうとなさいます。
それで、教会は、主イエスの十字架と復活によって救われた人々を、「新しく選ばれた神の民である」という意味で、「新しいイスラエルである」という言い方をします。
これから遣わされ、教会を建てていく十二人の使徒たちは、教会が新しいイスラエルであるということを示します。主イエスの御業、神の救いを宣べ伝えて、世界中から新しいイスラエルの民を起こすために、選ばれたのが十二使徒です。
ですから、今、教会に連なる者は、神に選ばれた民、新しいイスラエルの民なのです。
そして、その神がご支配される国が完成するのが、わたしたちが待ち望んでいる、主イエスが再び来られる日なのです。
【使徒の条件】
さて、この使徒に選ばれるには、条件がありました。
21~22節に述べられているように、ヨハネの洗礼のときから、天に上げられた時まで、主イエスといつも一緒にいた者です。十字架の出来事の前から、主イエスを知っているということが大切でした。
そして、主の復活の証人になる、ということです。十字架の死から復活させられた主イエスと出会い、生きておられることを証言できる、ということです。
主イエスは天に上げられて、もはや地上では見えません。しかし、今現在もなお、確かに生きておられ、天におられる、ということを証言する者ということです。
この証言は、ただ死んだ人が復活した、という出来事を言うのではありません。
神の救いの御業を証言するのです。
主イエスの十字架と復活の出来事は、旧約聖書から示されている神の救いのご計画であり、その救いの業が、神ご自身によって成し遂げられたということ。
そして、主イエスの救いを信じるすべての人の罪が赦され、復活の命にあずかり、永遠の命を生きる者とされるのだ、ということを、証言するのです。
そして、証人となる使徒は、さらにこの後、皆で祈りを合わせて待っている「聖霊」を受ける者であるということでした。これが、使徒の条件だったのです。
【使徒の証言を語り続ける教会】
では、この選ばれた使徒たちが死んでしまったら、もう主イエスのことを証言する人はいなくなってしまうのでしょうか。
使徒たちがこの後、約束の聖霊を受け、神から遣わされて、神の救いの御業を証言したことにより、神を信じる者の集まりが生まれました。
これが教会です。
洗礼を受け、聖霊を受けて、使徒たちが証言した今も生きておられる主イエスと、共に生きる者の群れです。
そのようにして、信仰者の群れである教会自体が、生ける主イエスと共に歩んでいるのであり、復活の主イエスの証人となっているのです。
また教会は、宣べ伝えられた使徒たちの証言、そして神の救いの御業を、新約聖書として記し、旧約聖書と共に聞いてきました。そうして救いの御業の証言を絶えず聞き、また宣べ伝えつつ、信仰を守っています。
わたしたちが礼拝で聖書を読み、御言葉を聞くということは、生きておられる主イエスと、その神の救いの御業を証言する言葉が、使徒たちの時から、今もずっと語り続けられている、ということなのです。
そうして教会は今も、聖霊を受けて、神から遣わされ、生ける主イエスの救いの御業を証し続けています。
このように、「主の復活の証人」として立てられた十二人の使徒たちは、神が選ばれた民、新しいイスラエルである教会のスタート地点となったのです。
【一人を選ぶ】
さて、ペトロの発言を聞いて、人々は使徒を選ぶために候補者を二人立てました。一人はバルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフ。もう一人は、マティアという人でした。
そして、くじを引いてマティアに当たったので、この人が使徒に加えられた、とあります。
ここだけ読むと、なんだ、くじ引きか、運任せか、と思ってしまうかも知れません。
しかし、これはわたしたちが悩んだ時に「どちらにしようかな」と偶然に任せて決めるようなやり方と、同じではありません。たまたまくじ引きに当たったのがマティアだったので、使徒になったのではないのです。
まず、初めに祈りがありました。24節にあるように、人々は共に、神の御心を尋ねて祈ったのです。
「すべての人の心をご存知である主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。」
「どちらをお選びになったかを」とあります。神は、もうすでにどちらかをお選びになっているのです。そのことを、わたしたちに示してください、という祈りです。
今日お読みした旧約聖書、箴言の16:33に「くじは膝の上に投げるが ふさわしい定めはすべて主から与えられる」とあるように、旧約聖書の時代から、くじは神の御心、神が定めて下さったことを、人々が知るために用いられていました。
人々は祈りで、「すべての人の心をご存知である主よ」と呼びかけています。皆が神の方に心を向け、神ご自身がすでに定めておられることを、わたしたちに明らかにしてください、と祈ったのです。この祈りなくしては、くじはただの占いのようなものになってしまいます。
くじを引いてマティアが選ばれたことは、神の御心がそこに現れる、という、祈りと信仰において、なされたことでした。神にはご計画しておられることがあり、そのために定めておられることがあります。
人々は、神が定められたことを受け取るために、祈りをもって神の御心を尋ね、一人を選ぶということを行ったのです。
こうして、「主の復活の証人」となる使徒たちの準備は整いました。あとは、聖霊を待つばかりです。
【祈って待つこと】
今日の聖書箇所では、使徒たちや人々は、ずっと祈っています。
主イエスが聖霊を送ってくださると約束され、天に上げられてから、次の章で語られる、聖霊が一同の上に降ったという出来事が起こるまでは、十日間ありました。
その間、復活の主イエスは天に上げられて、目に見える地上にはおられません。
「間もなく」と約束された聖霊は、いつ来てくださるか分かりません。
しかし、最初に申し上げたように、使徒たちは、この約束をして下さった方は、聖書の預言を成就して下さる、まことの神であると知っていました。十字架の死から復活させられた主イエスをその目で見たのです。約束が守られるということは確かなことでした。
だから、彼らは神に祈りました。神を信頼して祈ることで、ますます希望が確かにされ、準備をして待つことが出来たのです。
教会を建てていくのに必要な人を選ぶ時も、神が定めておられることに従えるようにと祈り、神の御心を問いました。
心を神に向けて、心を合わせて、一同が熱心に祈るところに、聖霊が送られて、教会が誕生したのでした。ペンテコステ、聖霊降臨の出来事の前には、このような祈りの備えの時があったのです。そして、わたしたちも、その祈りの群れに連なっているのです。
教会はそのように祈って備えをなし、神の御心に従って、主イエスのご命令に従って、地の果てまで復活の主を証言するのです。
そうしてわたしたちは、終わりの日の約束を待っています。
主イエスが再び来られる約束です。神の救いの御業が完成する時です。
わたしたちが、永遠の命を与えられ、主イエスの復活にあずかる、最高の喜びの時、その約束が成就する日です。
信頼する神によって、必ず成し遂げられる希望の約束があるからこそ、苦難の時、悲しみの時も忍耐し、喜びの時には感謝し、過ぎる日々が約束の日に近づいているという確信をもって、祈り、待つことができます。
わたしたちは神を礼拝し、その日が来るまで主イエスのことを宣べ伝えつつ、共に、心を合わせて熱心に祈り続けましょう。