「主イエスのみあとに従う」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; イザヤ書、第52章 1節-12節
・ 新約聖書; 使徒言行録 、第25章 1節-12節
2年間の監禁
本日の聖書の箇所は使徒言行録25章1節以下ですが、24章27節を合わせて読みたいと思います。先週読んだ24章には、ローマ帝国の囚人としてカイサリアに監禁されているパウロが、総督フェリクスのもとで裁判を受けたことが語られていましたが、その裁判は決着がつかないまま、延期されていました。フェリクスは判決を下すことなく、パウロを監禁し続けたのです。そのような状態で2年が経ったということが24章27節に語られています。25章に入ると、その事態が新しく動き始めるのですが、それまでには2年の月日が経っていたのです。25章を読むに際して私たちはこのことをしっかりと頭に置いておきたいと思います。パウロはカイサリアで、2年間、裁判に何の進展もないまま監禁されていたのです。
信仰における苦しみ
このことはパウロにとってまことに大きな苦しみだったと思います。囚人として監禁されていることはそれ自体が大きな苦しみですが、それだけではありません。パウロは、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えるためにローマに行くという希望、志を持っていました。そして23章11節には、ある晩、主イエスご自身がパウロのそばに立ち、「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言って励まして下さったことが語られていました。これは、命令であると同時に、神様がそのように決めておられるのだから、このことは必ず実現する、という約束でもあります。パウロの抱いている志を、神様ご自身が認め、それを実現して下さるという約束を主イエスが与えて下さったのです。この時パウロはエルサレムで捕われの身でした。しかしこの直後、彼は急遽カイサリアに護送されたのです。このことは、ローマへと向かう道における大きな前進です。パウロはこの体験によって、大きな励ましと希望を与えられたことでしょう。神様が確かに自分をローマにまで導いて下さるのだ、という確信を得たに違いないのです。ところが、そのように大きく前進したと思ったローマへの歩みが、このカイサリアでぴたっと停滞し、全く動かなくなってしまったのです。パウロはカイサリアの獄中で2年間足留めをくらい、ただ待たされました。総督フェリクスは、パウロを有罪とするでもなく、さりとて無罪放免にすることもなく、ただ獄に留め置いたのです。それは、27節にあるように、「ユダヤ人に気に入られようとして」です。彼はユダヤ人の言いなりになってパウロを処刑するつもりはありませんでしたが、無罪にすることがユダヤ人を怒らせ、統治に影響することも感じ取っていたのです。そのような政治的判断によってパウロは2年間、獄につながれ続けたのです。このことはパウロにとって、肉体的よりも精神的に大きな苦痛だったでしょう。神様の約束が与えられ、志の実現に向けて前進が与えられたのに、その歩みが、総督の勝手な思いによって妨げられ、停滞してしまったのです。この苦しみは信仰における苦しみです。信仰のつまずきをもたらすようなことです。「あなたはローマでも私のことを証ししなければならない」という主イエスのあの約束はどうなってしまったのか、神様はなぜこの事態を打開するために何もして下さらないのか、そういう思いが起ってきても当然だと思うのです。
私たちなら
このような苦しみはパウロだけのものではありません。信仰者としてこの世を生きていく私たちは皆、このような苦しみを覚えるのではないでしょうか。信仰に生きるとは、神様の約束を信じて、そのみ心に従い、恵みの実現を待ち望みつつ生きることです。その信仰における歩みが、人間の様々な思いや都合によって妨げられてしまうということがしばしばあります。確かにこれこそが神様のみ心だ、と信じて歩んでいる道が、様々なこの世の力や人間の利己的な思いによってストップをかけられ、挫折させられてしまうことがあるのです。その時私たちは、信仰における苦しみ、またつまずきを覚えます。神様がこの世界を、私たちの人生を支配し、導いて下さっているはずではないのか、それなのに何故このような妨げが起り、み心に従う歩みがストップさせられてしまうのか、どうして神様は手をこまねいて見ているだけで何もして下さらないのか、ひょっとして神様よりもこの世の力、人間の力の方が強いのではないか、いやそもそも、神様など本当におられるのだろうか、全ては人間が勝手に考え出した作りごとだったのではないだろうか…、そのような疑いの思いが私たちの心を捕えるのです。カイサリアでの2年間のパウロの獄中生活を思う時、私たちだったら、この2年がたとえ1年でも、いや数カ月であっても、すぐにそういうつまずき、神様が自分のことをほったらかしにしている、という不平不満に満たされていってしまうことは確実だろうと思わずにはおれないのです。
権力に翻弄されるパウロ
この事態がようやく動き出したのは、2年経って、本日の25章に入ってからです。しかしそれは、神様が直接何か行動を起されたということではありませんでした。事態が動き出したのは、総督の交代という、つまりローマ帝国における人事異動によってです。フェリクスに代わって、ポルキウス・フェストゥスという人が総督として赴任したのです。この人が、着任から三日後に、カイサリアからエルサレムへ上り、ユダヤ人たちの宗教的中心地であるこの都を視察したのです。その時、エルサレムの祭司長やユダヤ人のおもだった人々は、新総督フェストゥスにパウロのことを訴え出ました。前総督フェリクスはのらりくらりとして2年も裁判を延期していたので、今度こそはという思いでしょう。彼らが願い出たのは、パウロをエルサレムに送り返すことでした。そこには、以前にもそうだったように、道中を襲ってパウロを暗殺しようという企みがありました。しかしフェストゥスはこの願い出を退け、あなたがたがカイサリアに下ってきて告発するように、と申し渡します。これによって彼は、ユダヤ人たちに、おまえたちの意のままには動かないぞ、ということを新総督として印象づけたと言えるでしょう。そのようにして、2年ぶりに、パウロの裁判が行われることになりました。その席でフェストゥスはパウロに、9節にあるように、「お前は、エルサレムに上って、そこでこれらのことについて、わたしの前で裁判を受けたいと思うか」と言っています。つまり先ほど拒絶したユダヤ人らの願いをかなえる道を探っているのです。それは「ユダヤ人に気に入られようとして」のことでした。このように、フェストゥスも、前任者のフェリクスと同じように、一方でユダヤ人の言いなりにはならず、しかしできるだけ彼らを敵に回さないようにという姿勢を取っています。これが、ローマ帝国のユダヤ統治のやり方だったのです。このようにパウロは、フェリクスによってもフェストゥスによっても、ローマのユダヤ統治の道具として利用されています。パウロの運命は、総督の思惑によって翻弄されているのです。いったい神様のあの約束はどうなってしまったのでしょうか。この事態の中で神様は何をしておられるのでしょうか。
パウロの裁判と主イエスの裁判
8節には、ユダヤ人の訴えに対してパウロが語った弁明が記されています。彼はこう言っています。「私は、ユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、皇帝に対しても何も罪を犯したことはありません」。ここから、ユダヤ人たちの訴えの内容が分かります。それは24章の時と同じです。ユダヤ人の律法と神殿に対しての罪、これはユダヤ人の宗教的伝統に対する罪です。また皇帝に対しての罪というのは、ローマ帝国に反逆する政治的な罪です。宗教的と政治的、両方の罪が告発されたわけですが、ユダヤ人たちはそれを何一つ立証することができなかった、と7節にあります。総督の前で、パウロの有罪を決定づける証拠、証言を得ることはできなかたのです。このような裁判の様子から、私たちが思い起こすことがあります。それは、ポンティオ・ピラトのもとでの主イエスの裁判です。ピラトは、主イエスの当時のローマ帝国ユダヤ総督です。つまりフェリクスやフェストゥスの前任者です。このピラトのもとで、ユダヤ人たちの訴えによって主イエスの裁判が行われました。しかし有罪を確定するような証拠、証言をあげることはできなかったのです。使徒言行録と同じ著者によって書かれたルカによる福音書において、その場面は23章1~5節にあります。ユダヤ人たちの訴えは、「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」ということです。「わが民族を惑わし」というのは、ユダヤ人の宗教的な伝統に反することを教えているということです。主イエスが安息日に病気の人を癒したり、徴税人や罪人と共に食事をしたり、ファリサイ派の人々の偽善を批判したり、またエルサレム神殿の崩壊を予告したことに、彼らはユダヤ人の伝統への冒涜を感じたのです。また、「皇帝に税を納めるのを禁じ、自分が王たるメシアだと言っている」というのは、ローマ帝国への反逆を企て、ローマに代わって自分が支配者になろうとしている、という政治的な罪状です。これがなければ、ローマの総督の裁判で有罪にしてもらうことができないのです。主イエスを訴えたユダヤ人たちのこの告発は、パウロを訴えたユダヤ人たちの告発と同じであると言えます。そしていずれの場合も、その訴えを裏付ける証拠はあげられなかったのです。ピラトも、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言っています。ローマ帝国のユダヤ総督の目から見て、主イエスも、パウロも、有罪にして処刑すべき者ではなかったのです。
主イエスのみあとに従う
ピラトのもとでの主イエスの裁判と、フェリクスやフェストゥスのもとでのパウロの裁判はこのように共通しています。このことには深い意味があります。それは、パウロの歩みが、主イエス・キリストの十字架への歩みと重なり合っている、ということです。パウロが、逮捕され、監禁され、裁かれることによって受けている苦しみは、主イエス・キリストが、十字架への歩みにおいて既に味わわれた苦しみであり、パウロは、主イエスの苦しみを、後を追うように体験しているのです。主イエスの苦しみにパウロもあずかっているのです。私たちの信仰は、イエス・キリストを自分の主と告白し、その弟子として、師である主イエスの後に従っていくことです。主イエスに従っていくとは、主イエスの歩まれた道を私たちも後を追うように歩んでいくことです。古来、信仰者の生き方を表す言葉として、「キリストに倣いて」、ラテン語ではイミタチオ・クリスティという言葉がありました。主イエス・キリストを模範として、キリストの歩みに自分の歩みを重ね合わせていく、ということです。主イエス・キリストと私たちの関係はそれだけで言い尽くせるものではありませんが、信仰者のあり方にはそのような面もあることを私たちは忘れてはならないでしょう。信仰者はキリストの弟子です。弟子が師を本当に仰ぎ、尊敬し、その教えを大切にしていくなら、弟子は師に似てくるはずなのです。主イエスと私たちの間でもそれは同じです。もしも私たちが、主イエスの歩みに自分の歩みを重ね合わせていくということを全く考えることなく、イエス様と私は全然違うんだから、と言ってキリストに倣う者となることを追い求めることが全くないならば、私たちは、本当に主イエスの弟子、信仰者であろうとしているのか、と問われなければならないでしょう。
苦しみの歩みこそが
主イエスに従い、主イエスの歩みに自分を重ね合わせていくということを、特別な、大それたことと考える必要はありません。パウロだってこの時、自分は主イエスに倣って、その後を追って歩んでいくのだなどと思っていたわけではないでしょう。彼は、もともと教会を迫害していたのが、主イエスと出会い、主イエスこそキリスト、救い主と信じる者へと変えられ、さらにはキリストの福音を宣べ伝える者として立てられ、遣わされた、その神様の導きのままに歩んでいるのです。与えられた信仰を大切にして、与えられた使命に忠実に生きようとしているのです。そのような彼の歩みは、知らず知らずの内に、主イエスの歩みに重なり合い、キリストに倣う歩みとなっているのです。つまり、キリストに倣って生きようという一大決心をしなくても、主イエス・キリストを心から信じて、神様に導かれて与えられた使命、務め、役割をしっかり果たそうとしていくなら、その私たちの歩みは必ず、主イエスの歩みと重なり合ってくるのです。そのことは既に私たち一人一人において起っています。カイサリアでの2年間の監禁生活の中でパウロが受けた苦しみは、私たちも、信仰を持ってこの世を生きようとする時に味わうものだと申しました。神様を信じて、導きに従って歩んでいる自分の道が、この世の力や人間の都合、利害などによって妨げられ、挫折させられることを、私たちも体験するのです。その時私たちは、神様は何故何もしてくれないのか、本当に神様などいるのか、などと思ってしまいます。しかし、パウロの味わったそのような苦しみの歩みこそがまさに、十字架へと向かう主イエス・キリストの苦しみの歩みと重なり合っているのです。その苦しみの歩みにおいてこそ私たちは、主イエス・キリストに倣って、キリストの苦しみに自らを重ね合わせて歩んでいるのです。主イエス・キリストは、父である神様のみ心に従って、人々に神の国の福音を宣べ伝え、癒しの業を行い、神様の恵みをお示しになりました。しかしその主イエスの道は、ユダヤ人の宗教的指導者たちの敵意によって妨げられ、何の罪もないのに捕えられ、裁かれました。その裁判においても、権力者たちの都合や思惑に翻弄されています。ピラトは、主イエスに何の罪も見出せないと言いつつ、イエスを十字架につけろと叫ぶ民衆を満足させるために、死刑の判決を下したのです。主イエスはまさに権力者の身勝手な都合によって十字架につけられたのです。いったい神様は何をしていたのか、このようなひどいことをどうして黙って見過ごしにされたのか、と思うような出来事です。主イエス・キリストはそのような苦しみの中で死なれたのです。私たちが、信仰を持って生きることの中で体験する苦しみは全て、この主イエス・キリストの苦しみと重なり合っています。私たちはこの苦しみにおいて、主イエス・キリストの後に従って歩んでいるのです。
神は何をしておられるのか
いったい神様は何をしているのか、私たちの苦しみをただ見ているだけで何もして下さらないのか、果たして神様など本当にいるのか、その疑問あるいはつまずきへの答えも、この主イエス・キリストの十字架の苦しみと死においてこそ与えられます。キリストがあのような理不尽な裁きによって十字架につけられた時、神様は何をしていたのか。その時神様は、ご自分の独り子の十字架の苦しみと死によって私たちの罪を赦して下さる、その救いのみ業をしておられたのです。罪人である私たちが神様の赦しの恵みにあずかるためには、独り子イエス・キリストが私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さらなければならなかったのです。もしも神様があそこで、主イエスを十字架の苦しみから救い、敵対する者たちをけちらして勝利しておられたなら、私たちの罪の赦しは、救いはなかったのです。私たちの救いは、主イエス・キリストの苦しみと死とによってこそ与えられているのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第53章の、いわゆる「苦難の僕の歌」が語っているのはそのことです。そしてそこから、私たち自身が、信仰者としての歩みにおいて様々な苦しみにあう、その時神様は何をしているのかということも分かってきます。神様はそこで私たちを、主イエスの本当の弟子、主イエスに従う者としようとしておられるのです。私たちの救いが、主イエスの十字架の苦しみと死とによってこそ与えられたものであることを私たちに本当に悟らせ、私たちを、その主イエスに従うまことの信仰者としようとしておられるのです。このことに思いを致す時に私たちは、神様は何をしているのか、神様などいないのではないか、という苛立ちやつまずきに代わって、信仰の歩みにとって不可欠な「忍耐」を与えられるのです。信仰をもってこの世を生きる上で、私たちに一番大切なことは忍耐することです。この世における私たちの歩みは、様々な力によって妨害にあい、停滞させられ、時には挫折させられてしまうことがあります。死の力によって私たちの人生そのものが打ち切られてしまうことすらあります。しかし主イエスの十字架の死を経て、復活の勝利の恵みが与えられたように、それら一切の妨げを通して、神様の救いが実現していくのです。そのことを信じて、忍耐して生きることが、主イエス・キリストに倣う信仰者の生き方なのです。 忍耐と待つこと この忍耐ということを別の言葉で言い換えるなら、「待つこと」と言ってもよいでしょう。今日から教会でも販売しますが、このたび、加藤常昭先生の講演を本にした、『黙想と祈りの手引き』という書物が出版されました。祈りの手引きとしてとてもよい本です。その中に、一つの詩が紹介されています。その冒頭と最後の行をここでご紹介します。「祈るなら、ちょっと待たねばなりません」これが冒頭の言葉です。そして最後の行には「待つこともできないのなら、祈らないでください」とあります。「祈るなら、ちょっと待たねばなりません。待つこともできないのなら、祈らないでください」。祈ることこそ、信仰に生きることです。そして祈るためには、待たなければならない、待つことができないなら、祈ることだってできない、つまり信仰に生きることはできないのです。この「待つこと」こそ「忍耐」です。私たちはしばしば、苦しみの中でせっかちに答えを求め、待つことができなくなり、忍耐できなくなり、祈ることができなくなり、「神様は何をしているのか、神様なんて本当にいるのか」とつまずきに陥るのです。しかしパウロは、カイサリアでの2年間の監禁生活において、神様がもう自分のことを忘れてしまったのではないか、と思われるような変化のない苦しみの日々の中で、忍耐したのです。祈りつつ待ったのです。その忍耐、待つことの中で彼は、ここぞという大事な時に、自分の運命を新しく切り開いていく、決定的な言葉を語ることができました。それが10、11節の言葉です。エルサレムに行ってユダヤ人たちの訴えている件について私の裁判を受けるかというフェストゥスの提案に対して彼はこう言いました。「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します」。私はローマ市民権を持つ者として、皇帝が最終的な裁判官である法廷に立っているはずだ、だから皇帝に上訴する、このパウロの言葉によって、停滞していた事態は新しく動き始めたのです。彼は、皇帝に上訴した囚人として、ローマへと護送されていくことになったのです。もはや総督も、ユダヤ人たちも、それを止めることはできません。そのようにして、彼自身の志であり、また神様のみ心であるローマ行きが、実現していったのです。信仰の歩みにおける苦しみを、主イエス・キリストのみあとに従うこととして受け止め、忍耐しつつ、その苦しみの中で祈りつつ待つ信仰者の道は、このようにして開かれていくのです。