主日礼拝

飼い葉桶の救い主

「飼い葉桶の救い主」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: ミカ書 第5章1-3節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第2章1-7節
・ 讃美歌: 18、127、183

秋を迎えて
 9月に入りました。暑い夏もようやく終わろうとしています。今年の夏は、前半は猛暑でしたが、後半は天候不順でやけに涼しかったりして、平均気温は平年を下回るようです。「ゲリラ豪雨」という言葉が生まれました。局地的にものすごい雷雨が襲うということが日本各地であり、いろいろな被害をもたらしました。以前とは、雨の降り方が明らかに違ってきています。やはりこれも温暖化の影響でしょうか。北京オリンピックが行われました。純粋にスポーツとして、いろいろな感動があったし、喜んだり残念に思ったりしました。しかしその背後には、チベット問題に代表される中国における人権問題があるし、自由な取材が妨害されるという報道規制がありました。また同じ時期に、ロシアのグルジア侵攻が起り、「新冷戦」という言葉も語られるようになりました。またこの夏私たちは、アフガニスタンで、現地の人々の生活向上のために懸命に働き、住民からも信頼を得ていた一人の日本人が無惨に殺害されたというニュースに衝撃を受けました。個人の善意による働きが、国際政治の大きな流れによる憎しみに飲み込まれ、押しつぶされてしまったという出来事です。この世界には、個人の善意のみではどうしようもない現実があることを思い知らされます。国際社会の中で、この国がどのような考え方に立って歩むのかということが問われています。その点で政治家の責任は重大です。ところがその政治においては、先週福田首相の突然の辞任表明がありました。安部も福田も二世議員で、自分の力で地位を築き上げてきたわけではないので、それに執着する思いがないのだ、と解説されていましたが、それにしても最近の政治家はみんな小粒になったと感じずにはおれません。日本の政治はこれからどうなるのか、アメリカの大統領選挙によって世界の情勢はどう動くのか、私たちはそのような深い憂慮、不安を抱きつつ秋を迎えようとしています。  そのような私たちに、本日この9月最初の主の日、ルカによる福音書第2章冒頭の、主イエス・キリストの誕生を語るみ言葉が与えられました。この箇所は、当然ながらクリスマスに毎年のように読まれます。12月24日のクリスマス・イヴの賛美夕礼拝においては、ルカによる福音書の第2章と、マタイによる福音書の第2章を交代で読んでいます。去年はルカでしたから、今年はマタイの番です。そのように私たちはこの箇所をクリスマスの祝いの中で読むことが多いのですが、本日はそれとは違う文脈の中でこの箇所を味わっていきたいと思います。

アウグストゥス
 主イエスの誕生を語るこの箇所は、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」という文章をもって始まっています。皇帝アウグストゥスという、高校の世界史の教科書に必ず出てくる名前がここに記されています。この「皇帝」とは、ローマ帝国の皇帝です。そしてこのアウグストゥスは、ローマ帝国の最初の皇帝です。彼の時代から、ローマは帝国になったのです。アウグストゥスというのは名前ではありません。彼はもともとはオクタヴィアヌスという名前でした。紀元前44年に暗殺されたユリウス・カエサルの養子、後継者だった彼が、カエサル亡き後の長い内戦に終止符を打ち、勝利者となったのです。ローマの元老院は紀元前27年に彼に「アウグストゥス」という尊称を贈りました。それは「尊厳ある者、尊敬されるべき者」というような意味の言葉で、そういう称号を贈ったからといって元老院は別に彼を皇帝に任命するつもりではありませんでした。しかし後から振り返って見ると、これはアウグストゥスが皇帝となり、ローマは皇帝の治める帝国となったことを意味していたのです。およそ百年後にこの福音書を書いているルカは、当たり前のように「皇帝アウグストゥス」と書いています。歴史の教科書にも、紀元前27年がローマの帝政開始の年とされているのです。

住民登録
 さてこの皇帝アウグストゥスが、「全領土の住民に、登録をせよとの勅令」を出したとあります。これは、人口調査のための住民登録です。今日で言えば「国勢調査」です。国勢調査が「国の勢いを調査する」と書くように、人口調査はそれぞれの地域に住む人々の数や経済状態、生活の様子を調べることによって、ローマ帝国全体の力、勢いを正確に知り、それによって税金収入の計画を立てたりという政策決定の基礎データを収集するために行われるものです。アウグストゥスはその治世の間に三度この調査を行ったのだそうです。この時のユダヤは1章5節にあったように、ヘロデが王である王国でした。いちおう独立国家でしたが、それは形ばかりで、ヘロデがユダヤの王になり、またあり続けることができたのはローマの後ろ楯によるものでした。ですからユダヤは既に事実上ローマの支配下にあり、ローマ帝国の住民登録の対象にもなっていたのです。2節には、この住民登録が「キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の」ものだったとあります。このキリニウスも歴史の本に出てくる人物で、アウグストゥスによって登用され、第二代皇帝ティベリウスの時代まで長くローマ帝国シリア州の総督を務めた人です。ただし、主イエスがお生まれになった時の住民登録が、キリニウスがシリア州の総督であった時の最初のものだったということについては、学者の間で異論があります。これが歴史的に正確な記述であるかどうかは疑問があるのです。そういう疑問はさらに、3節の「人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った」ということについても提起されています。果して当時の住民登録がここに語られているように、おのおのが自分の町、つまり先祖の町、いわば本籍地に行って登録するという仕方で行われたのかどうかはかなり疑問です。ヨセフもそうであったように、本籍地を離れて暮らしていた人も多かったはずです。それらの人々がいっせいに本籍地に戻って登録をするなどというのは現実離れしているように思われます。そのことによって経済活動も停滞するでしょうし、国にとってあまりよい結果は生まないでしょう。むしろ、私たちの現在の国勢調査がそうであるように、今住んでいる所で登録をした方が現状が把握できてよいはずです。ですから、このような仕方での住民登録が本当に行われたのかどうかは、かなり疑問があるのです。

主イエスの誕生の様子
 このように考えて来ますと、ルカが語っている主イエスの誕生の物語は、歴史的には疑問だらけであると言わざるを得ません。クリスマスに毎年のように行われる教会学校の子供たちによる降誕劇、いわゆるページェントは、このルカの記述を軸に構成されています。皇帝アウグストゥスの勅令によって、ガリラヤのナザレに住むヨセフとマリアが、住民登録をするために、遠いユダヤのベツレヘムまで、マリアの出産が迫っていたのに旅をしなければならなかった。ようやくベツレヘムに着いた時、マリアはいよいよ産気づいた。あちこちの宿屋を探したが、どこも住民登録のための客で一杯で泊まれる部屋がない。それでマリアは、馬小屋で主イエスを産み、飼い葉桶に寝かせなければならなかった。だいたいそういうストーリーでページェントは構成されています。こういう話は物語としては面白いし、メルヘンチックだし、またそれなりのメッセージを含んでいます。つまり、時の権力者の身勝手な命令に振り回される貧しい庶民の苦しみの中で救い主イエスがお生まれになったのだということが一つ。また、この日ベツレヘムに住んでいた人の中に、あるいは宿屋に泊まっていた人の中に、今にも子供が生まれそうになっている貧しい夫婦に手を差し伸べ、自分の家や部屋に迎え入れて出産をさせてやろうとする人は一人もいなかったということ。つまり「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と7節にあるけれども、それは単に部屋が空いていなかったということではなくて、人々の心に、困っている貧しい夫婦を迎え入れようとする思いがなかった、それほどまでに人々の心が荒んでいたことを意味している。そのように誰にも迎え入れられず、顧みられない中で、主イエス・キリストはお生まれになったのだ、というのがもう一つです。私もこれまで、クリスマスにはよくそういうお話をしてきました。この箇所からそのようなメッセージを読み取ることは間違ってはいないと思います。けれども、歴史的事実はどうだったのかと考えてみるならば、主イエスの誕生の状況をそのように断定することには無理があると言わなければならないでしょう。さらに6節には「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて」とあります。これもページェントとは矛盾するところです。「ようやくベツレヘムに着いた。さあ宿屋を捜そう」というのがページェントですが、ここには、彼らは既にベツレヘムに滞在していたと語られているのです。既に寝泊まりしている場所があったと考えられます。それでは「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」というのはどういうことか。この場合の宿屋は、今日のようなプライバシーの守られる個室ではなくて、登山者が泊まる山小屋のように、皆が雑魚寝する所だったと考えることができます。「彼らの泊まる場所がなかった」というのは、いよいよ出産が始まる時に、それを多くの人々が雑魚寝している所でするわけにはいかなかったということではないか。だから出産の場所として馬小屋が、―この言葉も聖書には出てこないのであって、「飼い葉桶に寝かせた」という一言から推測されているだけですが―、そこが出産の場所として選ばれたということではないかと思われるのです。そのように考えると、ここに語られているのは、当時の状況の中では仕方のないことであって、ベツレヘムの人々や一緒に泊まっていた人々の心が特別に荒んでいたわけではないとも言えるのです。

パックス・ロマーナ
 さらにもう一つ、私たちはこの物語から、あるいは後のローマ帝国におけるキリスト教迫害の事実から、ローマ皇帝というのを悪の代表のようにとらえてしまいがちです。そしてその皇帝の悪行の代表としてこの住民登録の勅令がある、こんな命令のおかげで弱い貧しい人々が大変な苦しみを受け、その中にヨセフとマリアもいたのだ、というふうに考えがちです。しかしそれも歴史的事実とは違うと言うべきでしょう。国勢調査は先ほど申しましたように国の統治のための基礎データを収集するためのもので、どうしても必要なことです。それは皇帝の気まぐれや身勝手な思いから行われることではありません。勿論それによって税金を徴収されることになるのは人々の感情を損ねることであり、特に神様に選ばれた民であると自負していたユダヤ人たちにとっては、異邦人であるローマに支配され、税金を取られることは屈辱でした。それゆえにユダヤにはしばしば反ローマの暴動が起っていました。ユダヤ人たちがローマ皇帝の支配を苦い思いで見ていたことは事実です。しかし当時ローマが支配していた地中海沿岸の世界全体において見るならば、皇帝アウグストゥスは、この地域全域に平和をもたらした名君だったのです。「パックス・ロマーナ」という言葉があります。「ローマの支配の下での平和」という意味です。それを確立したのがこのアウグストゥスなのです。そしてそのパックス・ロマーナのもとで、いろいろな産業も商業活動も文化活動も盛んになっていきます。人々の生活が安定し豊かになっていったのです。このアウグストゥスからの二百年ほどがローマ帝国の最盛期です。アウグストゥスによってこの「ローマの平和」が実現したまさにその時に、主イエス・キリストがお生まれになったのです。そしてキリスト教信仰は、ローマ帝国による平和と治安の安定の中、ローマが整備した交通網を通って、瞬く間に帝国各地へと広がっていきました。パウロがあのような大伝道旅行をすることができたのも、ローマによる平和と交通網の整備のおかげだったのです。そのことを思うにつけ私は、主イエスがあの時代にお生まれになったことに神様の深いみ心、摂理があることを感じます。皇帝アウグストゥスはキリスト教の発展の礎を間接的に据えた人であると言うことすらできると思うのです。

本当の救い主は誰か
 皇帝アウグストゥスについて、そして主イエスがお生まれになった時の時代状況について見てきましたが、それでは、本日のこの主イエス誕生の物語においてルカは何を語ろうとしているのでしょうか。私たちはここから何を聞き取ればよいのでしょうか。洗礼者ヨハネの誕生物語の冒頭の1章5節に、先ほど申しましたように「ユダヤの王ヘロデの時代」とありました。洗礼者ヨハネの誕生はヘロデがユダヤの王であった時のことだった、とルカは語っていたのです。同じように本日の箇所では、主イエスの誕生が皇帝アウグストゥスの時代だったこと、しかもただその治世の間だったというだけでなく、アウグストゥスが出した住民登録の勅令の影響の下で主イエスがお生まれになったのだということをルカは語っています。当時の人々にとって、ローマ帝国こそが様々な民族を包み込む世界でした。帝国の外の世界のことはほとんど人々の意識になかったでしょう。つまり皇帝は全世界の支配者だったのです。その皇帝の勅令つまり支配の下でヨセフとマリアの旅がなされ、その旅先で主イエスがお生まれになったと語ることによってルカは、主イエスの誕生が、この世界全体の政治的、経済的、軍事的な動き、支配と無関係ではないこと、それと深く結びついた出来事であることを語ろうとしているのです。有名なシリア州総督キリニウスの名を挙げているのもそのためです。このような支配者、権力者の統治の下で主イエス誕生の出来事は起ったのです。しかしそれは主イエスもこれらの政治的支配者に従属している、ということではありません。ルカは既に第1章で、生まれてくる主イエスが、いと高き方である神の子であり、神の民の王ダビデの王座を受け継ぎ、神様の救いにあずかる民を永遠に支配する方であることを語ってきました。神の子主イエスこそまことの王、支配者であられるのです。ですからルカはここで世界の支配者皇帝アウグストゥスの名を挙げることによって、主イエスとアウグストゥスとを並べて、いったいどちらが本当の王、支配者なのか、という問いを読む者に提起していると言えます。実際当時、アウグストゥスのことを「救い主」と呼び、その誕生日を「福音」つまり救いをもたらす良い知らせとして祝うということがなされていたようです。そういうことを皇帝が要求したのではなくて、平和をもたらしたアウグストゥスに、人々がそのような仕方で感謝を表したのです。ルカはそのような中で、本当の救い主は誰なのか、本当の良い知らせとは何なのか、誰の誕生をこそ本当に福音として喜ぶべきなのか、ということを問いかけているのです。

本当の支配者
 そしてルカが、歴史的事実とは必ずしも一致しなくても、このような住民登録の物語によって主イエスの誕生を語っているのは、このことによって主イエスがベツレヘムでお生まれになることが実現したことを語るためです。ガリラヤのナザレに住んでいたヨセフとマリアがベツレヘムで出産をする必然性など少しもないのです。しかし皇帝アウグストゥスのあの勅令のために、彼らは身重の体でベツレヘムまで旅をすることになり、そして旅先のベツレヘムで主イエスが生まれたのです。ベツレヘムで生まれるということにどういう意味があるのか。そのことが4節に語られています。ヨセフはダビデの家に属し、その血筋だった、要するにダビデの子孫だったのです。ベツレヘムはダビデ王の出身地です。そこにヨセフの本籍もあり、彼は身ごもっていたいいなずけのマリアを連れて、そこへ登録に行ったのです。そのことによって、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、ミカ書第5章1節の預言が成就したのです。そこにこうあります。「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」。神様の民イスラエルを治める者、本当の支配者であり救い主である方が、ベツレヘムで、ダビデの子孫から生まれるという預言です。主イエスがベツレヘムでお生まれになったことによって、この預言が実現したのです。ということは、主イエスがベツレヘムでお生まれになったのは、主なる神様が前もって計画し、告げておられたご計画の成就、み心の実現だったのです。皇帝アウグストゥスの勅令は、この神様のご計画の実現のために用いられたのです。皇帝が、この世の支配者として下した命令、それによってヨセフとマリアも苦しい旅を強いられた、その皇帝の支配を象徴する勅令が、実は主なる神様の救いのご計画、み業の中にあり、ベツレへムでの救い主の誕生という預言の成就のために用いられたのです。ですから、主なる神様こそ、皇帝をもみ手の下に置き、用いて私たちの救いのためのみ心を実現して下さる本当の支配者なのです。ルカが主イエスの誕生をこのように描いたのは、そのことを語るためであり、私たちがこの箇所から聞き取るべき最も大事なこともこのことなのです。

この世の現実に絶望することなく
 私たちには今、いろいろと気掛かりなことがあります。環境破壊、温暖化のこともあるし、この国の政治のことも、また国際社会の動向、世界は再び冷戦に向かうのかなど、不安なことをあげればきりがありません。それぞれの個人的な生活の中でも、いろいろな不安、気掛かりなことがあります。そのような不安、憂慮、心配をかかえつつこの世を歩んでいる私たちに、本日、この主イエス誕生の物語がみ言葉として与えられたのです。このみ言葉を通して私たちは、主イエス・キリストが、不安、憂慮、心配に満ちたこの世の歴史のただ中に生まれて下さったことを示されます。主イエスの誕生の出来事そのものが、世界を支配する皇帝の権力に翻弄される中で起ったのです。けれども、私たちがここで同時に示されるのは、それら全てのことを本当に支配し、導き、用いておられたのは主なる神様だということです。皇帝の勅令も、その神様のみ心を実現するために用いられたのです。そして神様はこの不安に満ちた現実の中に救い主を誕生させ、飼い葉桶の中に寝かせて下さいました。この飼い葉桶は、主イエスがこれから歩まれるご生涯を、とりわけその最後の十字架の死を暗示しています。しかし神様は主イエスの苦しみと十字架の死とによって私たちのための救いのみ業を成し遂げて下さり、復活によって私たちにも、死に勝利する新しい命の約束を与えて下さったのです。私たちが今感じている様々な不安、憂慮、心配は全て、この主イエスの父なる神様のみ手の中にあります。神様はそれらのことをも用いて、救いのみ業を必ず実現させて下さるのです。私たちはそのことを信じてこの秋を歩み出したいのです。神様を信じて生きるとは、この世の事柄、政治や経済の問題、平和の問題から目を背けて信仰の世界に閉じこもることではありません。ルカが皇帝アウグストゥスや総督キリニウスの名を挙げているのは、主イエスによる救いが、これらの人々によるこの世の支配、政治、経済、軍事などの問題と無関係ではないことを示すためです。私たちも、この国に、国際社会に、正義を行い、平和を実現するための働きを積極的に担っていきたいのです。私たちがこの世の現実に絶望することなくそのような歩みを続けていくことができるのは、飼い葉桶の救い主イエス・キリストを遣わして下さった父なる神様こそが、この世界の全てを本当に支配し、どのように厳しい現実の中においても、救いのみ業を成し遂げて下さる方であることを知っているからです。

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