主日礼拝

聖霊により大胆に

「聖霊により大胆に」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 詩編、第51編 1節-21節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第18章 24節-第19章10節
・ 讃美歌 ; 50、202、402
・ 聖歌隊 ; 22-4

第三回伝道旅行
 使徒言行録第18章は、23節から、パウロの第三回伝道旅行のことを語り始めています。23節に「パウロはしばらくここで過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた」とあるのが、第三回伝道旅行への出発です。「ここ」とはシリアのアンティオキア、パウロの三回の伝道旅行はいずれもここを出発点として行われました。第三回伝道旅行は、第二回と同じようなコースをたどっています。23節後半に、「ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力つけた」あります。聖書の後ろの付録の地図の8、「パウロの宣教旅行2、3」を見ていただくと、第三回の点線は、デルベ、リストラ、イコニオン、アンティオキア(これは先ほどのアンティオキアと同じ名でも別の町で、ピシディアのアンティオキアと呼ばれています)、このあたりまでは第二回の実線と重なっています。この重なっているあたりが、23節に語られていることです。その後の歩みは、19章1節に語られています。その二行目に、「パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て」とあります。アンティオキアからの点線がまっすぐ西に向かい、エフェソに至っているのがこのことです。これは以前にも申しましたが、第二回の時にパウロが本当はたどりたかった道です。しかしその時には、聖霊によって別の道へと導かれ、ギリシャに渡ることになったのでした。この第三回では、以前の願いが実現し、また先週読んだ第二回の最後のところではちょっと寄っただけですぐに出発せざるを得なかったエフェソに、じっくり腰を落ち着けて伝道をすることができたのです。パウロがエフェソに留まった期間は、8節に先ず「三か月間」とあり、さらに10節に「二年」とありますから、二年以上だったことがわかります。20章で、彼がこの旅の終わりにエルサレムへ向かう途中でエフェソの教会の長老たちに別れの説教をしたところの31節には「わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして」とありますから、三年間と考えてもよいでしょう。いずれにせよこれは、パウロがひと所に留まって伝道をした最も長い記録です。エフェソ伝道へのパウロの深い思い入れが感じられます。

アポロ
 さて本日の18章24節以下は、そのパウロがエフェソに到着する前のエフェソでの伝道の様子を語っています。ここに、アポロという人が登場します。この人は、24節にあるように「アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しい雄弁家」でした。25節には「彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていた」とあります。「主の道」とは主イエス・キリストを信じる信仰のことです。ですから彼はキリスト信者であり、聖書、つまり旧約聖書への深い知識と雄弁によって、イエスこそキリスト、救い主であることを熱心に宣べ伝えていた伝道者だったのです。この人がエフェソに来て、ユダヤ人たちの会堂で大胆に教え、伝道を始めたのです。そのアポロの語ることを聞いていたのが、プリスキラとアキラの夫婦でした。彼らは既に18章2節に出てきています。パウロが、第二回伝道旅行の途上、コリントでこの夫婦と出会ったのです。夫アキラとパウロはテント造りという共通の職業技術を持っていたので、パウロは彼らの家に滞在し、共に仕事をしながらコリントで伝道したのです。この夫婦はパウロの力強い協力者となりました。18章18節には、パウロがコリントを去ってエフェソに行った時に彼らも同行したことが語られています。19節に「一行がエフェソに到着したとき、パウロは二人をそこに残して」とあるのは、この夫婦をエフェソに残して、パウロはエルサレムへ向けて出発した、ということを言おうとしているのだと思われます。プリスキラとアキラは、パウロがあわただしくエフェソを去った後もそこに残り、エフェソ伝道を続けたのです。そのプリスキラとアキラが、アポロの大胆で熱心な伝道の様子を見、26節後半にあるように、「彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した」のです。「もっと正確に」というのは、アポロが、25節にあるように、「ヨハネの洗礼しか知らなかった」ためでしょう。アポロは、聖書に通じており、熱心に、大胆に、雄弁に、イエスこそキリストであると宣べ伝えていましたが、主イエス・キリストのみ名による洗礼を知らず、ヨハネの洗礼しか知らなかったのです。ヨハネとは、洗礼者ヨハネです。主イエスが活動を開始される前に、ユダヤの荒れ野で、来るべき神の怒りを告げ、悔い改めて神様に立ち返ることを教えていました。その悔い改めの印としての洗礼を授けていたのです。それがヨハネの洗礼です。アポロはこの悔い改めの印としての洗礼しか知らなかったのです。プリスキラとアキラが彼に「もっと正確に神の道を説明した」というのは、主イエスの名による洗礼のことを語ったということでしょう。洗礼者ヨハネは悔い改めの印である洗礼を授けることによって、主イエスへの道備えをした、主イエスの十字架と復活によって罪の赦しの恵みが実現し、今や私たちは、主イエスを信じる信仰によって、主イエスのみ名による洗礼を受け、罪の赦しと永遠の命の約束にあずかることができるのだ、ということを語り聞かせたのです。プリスキラとアキラによってアポロは聖書理解、福音理解を軌道修正されて、伝道者として大きく成長したのです。その後アポロはアカイア州へ、つまりコリントへ渡ることを希望しました。プリスキラとアキラは、かつての仲間であるコリント教会の人々に彼を歓迎してくれるようにとの紹介状を書いて彼を送り出しました。アポロはコリントに着き、28節にあるように、「聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せた」、このように力強く伝道をしました。コリント教会は、その礎を据えたパウロが去った後、このアポロの指導の下に歩んでいったのです。パウロが後にこの教会に宛てて書いた第一の手紙の3章6節に、「わたしは植え、アポロは水を注いだ」とあるのはこのような事情を言っているのです。

アポロの影響を受けた人々
 さて19章に入って、話は再びパウロの第三回伝道旅行のことになります。パウロがこの伝道旅行においてエフェソに到着したのは、アポロがコリントに去った後のことでした。エフェソにおいて伝道を始めたパウロは、アポロの影響を受けたと思われる12人ほどの人々と出会いました。彼らがアポロの影響を受けた人々であることは、ヨハネの洗礼のみを受けていたということから分かります。パウロはこの人々に、4節にあるように、「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです」と教えました。この教えを聞いて人々は、主イエスのみ名による洗礼を受けました。このパウロの働きは、プリスキラとアキラがアポロに、「もっと正確に神の道を説明した」のと同じことです。ヨハネの洗礼しか知らなかった人々に、ヨハネが指し示していた主イエスを示し、その救いにあずかる洗礼を教えたのです。

聖霊を受けたか
 けれども、パウロがここでしたことと、先ほどのプリスキラとアキラの働きとでは、違う要素もあることに気付かされます。それは、聖霊についてのことです。パウロは、エフェソでこの人々に出会った時に、2節にあるように、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と尋ねたのです。すると彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と答えたのです。おそらくパウロは、エフェソの教会の信者たちと話をしている中で、この人々だけがどこか違っている、と感じたのだと思います。そして次第に、その違いは、聖霊を受けているかいないかの違いだと思い当たったのです。それで、あなたがたは聖霊を受けましたか、と尋ねてみたら、案の定、聖霊があるかどうかすら、聞いたことがない、という返事だったのです。この人々の信仰は、聖霊を受けていない信仰だったのです。
 私たちの信仰はどうでしょうか。聖霊を受けている信仰になっているでしょうか。いったい、聖霊を受けている信仰ってどのような信仰なのでしょうか。私たちは毎週礼拝において、使徒信条を信仰告白として唱えています。そこには、「我は聖霊を信ず」とあります。だから、聖霊という言葉は知っているし、それを信じると告白もしています。しかし、それを受けているか、と問われたらどうでしょうか。「いいえ、聖霊があることは聞いていますが、受けたことはありません」というのが、私たちの正直な答えなのではないでしょうか。ということは、私たちの信仰も、聖霊があることを知らなかったこの人々と大して変わらない、「聖霊を受けていない信仰」になっているということでしょうか。そもそも、「聖霊を受けている信仰」と「受けていない信仰」はどう違うのでしょうか。

誰の名による洗礼を受けたか
 このことを考えていく上で、パウロがこの人々に、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と尋ねていることがとても大事な導きを与えてくれます。聖霊を受けているかどうか、ということは、どんな洗礼を受けたか、ということと密接に結びついているのです。このパウロの問いの文章は、口語訳聖書では、「だれの名によってバプテスマを受けたのか」と訳されていました。こちらの方が原文のニュアンスをよく表しています。「どんな洗礼を受けたのか」という問いは、どんな儀式の洗礼を受けたのかとか、そこでどんな信仰を言い表したのか、ということではなくて、「誰の名による洗礼を受けたのか」ということなのです。つまりパウロは、聖霊を受けている信仰であるか否かは、誰の名による洗礼を受けたかによる、と考えているのです。この人々は、「ヨハネの洗礼です」と答えました。聖霊を受けていない信仰とは、ヨハネの名による洗礼しか知らない、それしか受けていない信仰です。逆に、聖霊を受けている信仰とは、主イエスの名による洗礼を受けた信仰のことなのです。
 誰の名による洗礼を受けたかということがそれほどに大事であるのは何故でしょうか。そのことは、この「誰の名による洗礼を受けたか」という言い方を、もっと正確に訳してみることによって分かってきます。この言葉は直訳すれば、「誰の名の中へと洗礼されたか」です。「洗礼する」というのは「どっぷり浸す」という意味でもあります。ですから言い換えれば、「誰の名の中へとどっぷり浸されたのか」となります。つまり、「ヨハネの名による洗礼を受ける」とは、「ヨハネの名の中へとどっぷり浸される」ということであり、「主イエスの名による洗礼を受ける」とは、「主イエスの名の中へとどっぷり浸される」ということなのです。聖書において「名前」は、その人の存在全体、その人によって示され、あるいは実現されている事柄の全体を示すものですから、その中にどっぷり浸されることは、生活、考え方、生き方の全体に影響を及ぼします。誰の名の中へと洗礼を受けるかによって、その信仰のあり方、信仰による生活は全く違ったものとなるのです。誰の名による洗礼を受けたかは、そういう意味で大変大事なことなのです。

ヨハネの名による洗礼
 ヨハネの名の中へとどっぷりと浸されるならば、ヨハネによって示され教えられた事柄、つまり迫っている神の怒りを恐れ、悔い改めて神に立ち返るという信仰によって生きる者となります。パウロがエフェソで出会った人々はそのような信仰に生きており、自らの罪を悔い改め、神様に喜ばれる生活をしていこうと熱心に努力している、大変真面目な人々だったのでしょう。しかしパウロは、彼らの信仰生活を見ていて、また彼らの語る言葉を聞いていて、どこかがおかしい、これは、主イエスの名による洗礼を受けた者の、つまり主イエスの名の中に、主イエスが教え示し、また十字架の死と復活によって実現して下さった救いの恵みの中にどっぷり浸されて生きている者の生活や言葉とは違う、と思ったのです。

主イエスの名による洗礼と聖霊
 それでは、主イエスの名によって洗礼を受け、主イエスの名の中へとどっぷり浸された者の生活や言葉とはどのようなものなのでしょうか。この人々は、パウロの教えを受けて、主イエスの名による洗礼を受けました。すると、6節にあるように、「パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした」ということが起ったのです。パウロが彼らの上に手を置いた、それは洗礼を授けることと結びついてなされることです。すると彼らに聖霊が降った。主イエスの名による洗礼を受けた者が、聖霊をも受けたのです。つまり先ほども申しましたように、聖霊を受けている信仰とは、主イエスの名による洗礼を受けた信仰なのです。そこには、どのような歩みが、あるいは言葉が与えられていくのでしょうか。
 彼らは、「異言を話したり、預言をしたりした」とあります。これが、彼らが主イエスの名による洗礼を受け、聖霊を受けたことによって与えられたことです。異言というのは、霊的な興奮状態、恍惚状態になって、意味不明の言葉を発することです。初代の教会において、異言を語ることが聖霊の賜物として位置づけられていました。パウロ自身も、それを大切な賜物としていますし、彼自身も異言を語ったことがあると言っています。それに対して預言は、通常の言葉、人が聞いて意味の分かる言葉で、神様の示して下さることを語り、また恵みを証しする言葉です。これは私たちの今日の感覚で言えば、教会の礼拝や集会において語られる説教や奨励、聖書研究などに当たるものだと思えばよいでしょう。このように、異言と預言とは性格が全く違うものであるわけですが、その二つが、主イエスの名による洗礼を受け、聖霊が降ったことによって与えられた賜物として並べられているのは、どちらも、主イエス・キリストによって示され、実現された神様の救いのみ業をほめたたえ、感謝し、またそれを証しするための言葉だからです。主イエスの名による洗礼を受け、聖霊をも受けた人々は、賛美と感謝と喜びの証しの言葉を与えられたのです。主イエスの名による洗礼を受けるとは、主イエスが教え示し、また十字架の死と復活によって実現して下さった救いの恵みの中にどっぷり浸されることです。それによって私たちは、主イエスによる神様の恵みを体験し、分かり、その恵みの中で歩む者とされるのです。そこに聖霊が働いて下さいます。そして聖霊によって私たちは、主イエスによる神様の恵みを賛美し、感謝し、証しする言葉を与えられるのです。ここでこの人々に起ったのはそういうことです。聖霊が降り、異言を話したり、預言をしたりした、ということを、何か特別な神秘的、霊的体験をした、と考える必要はありません。彼らは、主イエス・キリストの恵みの中で、主イエスとの交わりに生きる者へと変えられ、その恵みを感謝し、賛美し、証しする者とされたのです。それが、聖霊を受けている信仰です。主イエスの名による洗礼を受け、主イエスによる神様の救いの恵みの中で歩む者となり、その恵みに感謝して神様をほめたたえ、その恵みを少しでも証ししようという思いを与えられているなら、私たちの信仰は、聖霊を受けた信仰なのです。

聖霊を受けていない信仰
 逆に、聖霊を受けていない信仰とは、主イエス・キリストによる救いの恵みの中に生かされていない、従って感謝も賛美も証しもない信仰です。そこには、罪の悔い改めはあっても、赦しの恵みに感謝して生きることがありません。罪を悔いて、自分の心や生活を自分でがんばって正しいものにしていこうとする、そういう努力と気負いに生きることになります。それは真面目な、立派な生活です。しかし、いつもこいでいなければ倒れてしまう自転車に乗っているような、疲れる歩みです。そしてそのような歩みにおいて私たちは、自分の、また人の、弱さや罪を受け止めることができなくなります。赦しの喜びに生きることができなくなります。自分ががんばっていることを拠り所として、人のことを裁くようになります。そこに生まれるのは、感謝や賛美や喜びの証しではなく、不平不満、文句、批判です。

真実の悔い改め
 しかし私たちは、ヨハネの名による洗礼ではなく、主イエスの名による洗礼を受けているのです。まだそれを受けておられない方々も、そこへと招かれているのです。私たちが歩んでいくのは、主イエスの名による洗礼を受け、聖霊のお働きの中で歩む道です。聖霊は私たちを、主イエスとの交わりに生かし、主イエスの十字架と復活による罪の赦しの恵みの中に歩ませ、感謝と賛美と喜びの証しを与えて下さいます。私たちは、自分で自分を正しい者にしなければという気負いから解放されて、神様の恵みによって赦された喜びの中で、元気に、生き生きと歩むことができるのです。そして、本当の悔い改めも、そこにおいてこそ与えられるのです。私たちが自分の罪を本当に見つめ、それを悔いて神様に赦しを求めることができるのは、罪人である私たちが主イエス・キリストの十字架と復活による赦しの恵みの中にどっぷり浸されて生きる者となることによってです。主イエスによって与えられている赦しの恵みと喜びを知り、感謝と賛美と喜びの証しに生きる者こそが、罪を悔い改め、神様の赦しにすがって新しく歩み出すことができるのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第51編は、代表的な悔い改めの詩編ですが、その12?14節にこう歌われています。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください」。これこそが、真実の悔い改めです。悔い改めとは、しかめっ面をして、自分についても人についても、「あそこが悪い、ここが問題だ、ダメだ、ダメだ、ダメだ」と言っていることではありません。神様に背き逆らうどうしようもない罪人であるわたしの内に、神様が清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さる、神様の聖なる霊、聖霊を宿して下さる、その聖霊の働きによって、御救いの喜びを味わわせて下さり、自由の霊によって支え生かして下さる、このことを信じて祈り求めていくことこそが、真実の悔い改めなのです。ヨハネの洗礼が指し示していた悔い改めは、主イエスの十字架と復活の恵みの中で、感謝と賛美と証しの中に位置づけられています。主イエスのみ名による洗礼を受け、聖霊のお働きの中で歩む私たちは、悔い改めて神様のもとに常に立ち返りつつ、感謝と賛美と喜びの証しに生きることができるのです。

聖霊によって大胆に
 8節以下には、パウロがエフェソにおいて大胆に福音を語り、伝道をした様子が語られています。かたくなで信じようとしないユダヤ人たちの非難によって、ユダヤ人の会堂から離れ、ティラノという人の所有する講堂で、二年にわたって伝道を続けたのです。パウロがこのように大胆に福音を語ることができたのは、主イエスのみ名による洗礼において彼にも降り、働いて下さっている聖霊の力によることです。私たちも、同じ主イエスのみ名による洗礼を受けています。あるいはそこへと招かれています。私たちにも、同じ聖霊が働いて下さっているのです。聖霊は私たちにも、感謝と賛美と喜びの証しを与えて下さいます。それによって私たちも、大胆に福音を宣べ伝えることができるのです。その大胆さは、私たちの勇気や決意、意志の力によるものではありません。聖霊が与えて下さる感謝と賛美と喜びの証しに生きる者の姿は、よそから見ればまことに大胆に見えるのです。

関連記事

TOP