主日礼拝

互いに重荷を担いなさい

「互いに重荷を担いなさい」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:コヘレトの言葉 第4章9-12節
・ 新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 第6章1-10節
・ 讃美歌:259、540

罪を犯した人を正しなさい
 ガラテヤの諸教会に限らず、私たちの教会も含めて、教会は神様に招かれ、キリストの十字架による救いに与り、洗礼において聖霊を受け、聖霊の導きによって生きている者たちの集まりです。その一方で教会は、救われてなお日々罪を犯している者たちの集まりでもあります。キリストによる救いはすでに決定的に実現しました。しかしその完成はキリストが再び来られる時を待たなければなりません。救いの実現とその完成の間にあって、教会は救われた者たちの集まりであると同時に、救われてなお罪を犯す者たちの集まりです。そのために私たちは、ガラテヤの諸教会の人たちがそうであったように、教会において、その交わりにおいて罪に直面することがしばしばあるのです。
 教会の交わりにおける罪についてパウロは1節前半で「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」と語っています。「正しい道に立ち帰らせなさい」は、口語訳や聖書協会共同訳では「正しなさい」と訳されています。つまり教会の交わりにおいて罪を犯した人がいたら、聖霊に導かれて生きているあなたがたはその人を柔和な心で正しなさい、と言われているのです。

霊の結ぶ実としての柔和な心
 けれどもそもそも私たちは「柔和な心」で隣人に接することができません。穏やかに優しく人に接することができたら良いと思いますし、そのような人になりたいとも願います。周囲を見回せば、いつも穏やかで、優しい心で人に接している、と思える方もいらっしゃいます。しかし自分でどれほどそうありたいと願っても、ほかの人からはそのように見えたとしても、私たちの誰もが「柔和な心」を自分の力で持つことなどできないのではないでしょうか。私たちは表面的には穏やかに見えたとしても、その心の奥深くでは絶えずひどく荒れているのです。私たちの心は隣人に対する優しさではなく、隣人に対する優越感や劣等感、見下したりねたんだりする思いによって占領されています。ですから「柔和な心」とは私たちが持っているものではありません。それは聖霊の働きによって結ぶ実です。5章22、23節には「霊の結ぶ実」について語られていましたが、その一つとして「柔和」がありました。努力して「柔和な心」を獲得することによって、私たちは穏やかに優しく罪を犯した人を正すことができる、ということではないのです。柔和な心で正すこともまた、聖霊の働きによって実を結んでいくことだからです。パウロは、聖霊の導きに従って生きている者たちは、聖霊の働きによって柔和な心を持って罪を犯した人を正すという実を結んでいく、と告げているのです。

罪を正し、罪を犯す
 教会の交わりにおいて罪を犯した人がいたら柔和な心で正すというのは、教会には罪を犯す人と罪を正す人が別々にいるということではありません。すでに救われた私たちは、誰もが聖霊の導きによって生かされています。しかし同時に実現した救いとその完成の間を生きている私たちは、誰もが罪を犯すのです。誰もが聖霊の導きによって隣人の罪を正す者であり、誰もがなお罪を犯し続けている者です。ガラテヤの諸教会の人たちはこのことが分からなくなっていたのではないでしょうか。自分たちは聖霊に導かれて生きているのだから、ほかの人の罪を正すことはあっても、自分自身はもう罪とは関係がない、自分たちは特別だという優越感を持っていたのです。3節でパウロは「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています」と言っています。ガラテヤの諸教会の人たちの中には、「自分をひとかどの者だと思う人」、つまり自分はほかの人と違って特別だと思う人がいたのです。しかしパウロはそのように思っている人たちに警告して、1節後半でこのように言っています。「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」「あなたがた」ではなく「あなた」と言われています。一人ひとりに向かって、自分は聖霊の導きに従って生きているから罪を犯すことはない、などとは言えないと語りかけているのです。一人ひとりが絶えず罪の誘惑に晒されているからです。

互いに重荷を担う
 自分自身が罪を犯す者であるにも関わらず、聖霊の導きによって隣人の罪を正すとは一体どういうことでしょうか。5章19~21節には「肉の業」のリストがありましたが、あなたの行いはこのリストの何番目に当てはまるから、そのような行いはしてはいけない、と指摘することでしょうか。そうではありません。パウロは2節でこのように言っています。「互いに重荷を担いなさい。」「重荷」とは、第一には罪のことです。1節で「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら」と言われていましたが、その「何かの罪」が「重荷」です。ですから隣人の罪を正すとは、相手の罪を指摘し「あの人はキリスト者にふさわしくない」と裁くことではなく、隣人の罪を担うことなのです。単に相手の重荷を担え、と言われているのではありません。「互いに重荷を担いなさい」と言われています。互いに互いの重荷を担い合いなさいということです。日本語でははっきりしませんが、もとの文では「互いに」という言葉が強調されています。私たちはそれぞれに罪を抱えています。それぞれに抱えている罪を互いに担い合うことが、「互いに重荷を担うこと」であり、互いに隣人の罪を正すことなのです。
 ここで言われている「重荷」が第一には罪のことだとしても、それに限られているわけではありません。救いが完成するまでの地上の歩みにおいて罪の力によってもたらされる弱さや欠け、苦しみや悲しみもまた、私たちが抱えている「重荷」です。「互いに重荷を担いなさい」とは、互いの弱さや欠け、人生におけるあらゆる苦しみや悲しみを互いに担い合っていくことにほかなりません。本日共に読まれた旧約聖書コヘレトの言葉4章9-10節には「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす」とあります。この御言葉の背景には戦乱が続く社会があり、その中で一人よりも二人、二人よりも三人と共同体を形作っていくことが語られています。教会の交わりにおいて「互いに重荷を担う」歩みとは、「倒れれば、ひとりがその友を助け起こす」歩みなのです。

隣人の罪と関わりを持つ
 しかし、私たちは隣人の重荷を担うことをできれば避けたいと思うのではないでしょうか。そのことによって、自分のペースが乱されるかもしれません。自分の時間を割かなくてはならないかもしれません。それだけではありません。重荷を抱えている隣人と関わる自分自身も罪を犯す者なのです。ですからその隣人と関わることで良い結果が得られるとは限りません。関わることによって、互いに重荷を担い合うどころか互いに傷つけ合ってしまうことがあります。倒れた友を助け起こそうとして自分も倒れてしまうことがあるのです。そのようなとき、こんなことになるなら相手の重荷を担おうとしなければよかった、相手と関わらなければよかった、と思います。しかし相手の重荷について見て見ぬふりをして、それを担おうとしないことは、相手と真剣に本気で関わろうとしないことです。表面的な付き合いだけ、楽しいことでだけ関わりを持つことで終えてしまっているのです。実現した救いとその完成との間にあって、私たちはなお罪を犯す者であるために、隣人と関わりを持つことは、相手の罪と関わりを持つことでもあります。罪を犯してしまう者同士が、互いに互いの弱さや欠けを、苦しみや悲しみを担い合っていくのです。2節後半にあるように、そのことによってこそ「キリストの律法を全うすることになる」からです。5章14節では「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」と言われていました。律法全体によって示される神様のご意志は「隣人を自分のように愛する」ことであり、それは「互いに重荷を担うこと」によって全うされ、満たされるのです。パウロは、「隣人を自分のように愛する」とは「互いに重荷を担うこと」にほかならないと告げているのです。

キリストが私たちの重荷を担ってくださったから
 6章2節では5章14節とは異なり、「律法全体」ではなく「キリストの律法」と言われています。「キリストの」と強調されているのは、ガラテヤの諸教会の人たちに、そして私たちに、キリストが重荷を担ってくださったことに目を向けさせるためではないでしょうか。私たちが互いに重荷を担い合うのは、キリストが私たちの重荷を担ってくださったからです。キリストが私たちの弱さや欠け、苦しみや悲しみを担ってくださり、今も担い続けてくださっているからです。なによりキリストは私たちの罪を担ってくださり、十字架で死んでくださいました。そのキリストの十字架の死において神の愛がはっきりと示されたのです。その愛にお応えして私たちもまた隣人を愛し、キリストが私たちの重荷を担ってくださったように互いに重荷を担うのです。ですから「互いに重荷を担うこと」は道徳の教えではありません。神様の愛にお応えすることなのです。

終わりの日の審判を見据えて
 5節で「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」と言われています。おやっと思います。互いに重荷を担いなさいと言われていたのに、「めいめいが、自分の重荷を担うべき」とは、矛盾しているように思えるからです。しかしここで「重荷」と訳されている言葉は、もともとの言葉では2節の「重荷」とは違う言葉です。また「担うべきです」は文法的には未来形なので、5節は「自分の重荷を担うことになるからです」と訳せます。つまりここで語られているのは、救いの実現とその完成の間のことではなく、救いが完成する終わりの日の審判のことです。終わりの日の審判において私たちは神様の御前に一人で立ち自分自身の責任を問われます。その責任とは神様の愛によって救われた者として、その愛にお応えしていく責任であり、その責任をほかの人が代わりに担うことはできません。ガラテヤの諸教会の人たちは、この責任を受けとめることなく、救われたのだから、聖霊を与えられたのだから、と誇っていたのです。しかし私たちは神様の愛にお応えしていく責任があります。それは義務感や恐れによって果たす責任ではなく、救いへの感謝と喜びによって果たしていく責任です。4節で「各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう」と言われています。要するに、ほかの人と比べることによって自分を吟味するのではなく、自分自身で自分を吟味することが求められているのです。それは、終わりの日の審判を見据えているからです。終わりの日に神様の御前に一人で立ち自分自身の責任を問われるのであれば、自分と他人を比べることによって他人に向かって誇ることなど意味がないのです。
 6節には「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい」とあります。伝道者を支えるよう勧めていると、しばしば読まれてきました。確かに6節だけを取り上げれば、そのように解釈するのが良いのかもしれません。しかし6節は前後の文脈からは孤立しているように思えます。むしろ終わりの日の審判について語っていた5節は7節以下に結びついています。7節で「神は、人から侮られることはありません」と言われていますが、神様を侮るとは、救いに与った私たちが神様から与えられている責任を軽んじること、つまり「互いに重荷を担うこと」を軽んじることです。終わりの日の神様の裁きを私たちは侮ってはなりません。しかし同時に裁かれる神様は、私たちの救いのために御子キリストを十字架に架けてくださるほどに私たちを愛してくださったということも忘れてはなりません。その愛を注がれている私たちは神様から与えられている責任を軽んじることなどできないのです。そうするならば、神様の愛を軽んじることになるからです。

隣人を愛することにギブアップしない
 8節では「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります」と言われています。自分の肉に蒔くとは、自分を中心として生きることであり、霊に蒔くとは、聖霊の導きに従って神様と隣人とに仕えて生きることです。ここで「自分の肉」に蒔くと言われているのに対して、「自分の霊」に蒔くではなく、単に「霊に蒔く」と言われています。それは霊に蒔く、つまり隣人に仕え、隣人の重荷を担って生きることは、自分の力によるのではなく、神様の力、聖霊の働きによるからです。「刈り取る」とは、終わりの日の審判を意味します。救いの実現とその完成の間にあって、自分を中心として生きるのであれば、終わりの日に滅びを与えられ、聖霊の導きに従って愛によって隣人に仕え、隣人の重荷を担って生きるのであれば永遠の命を与えられるのです。もちろん私たちは、愛によって隣人に仕えることも隣人の重荷を担うことも不完全にしかできません。しかし終わりの日に問われる責任とは、その不完全さではありません。どれだけできたのか、あるいはできなかったのか、ではないのです。そうではなく神様に愛された者として、終わりの日の復活と永遠の命の約束を与えられた者として、隣人を愛することに誠実であったかが問われるのです。言い換えるならば、互いに重荷を担うことを諦めてはならない、ということです。聖霊の働きによって互いに重荷を担い合う者とされることを信じ続けるということです。ですから9節で「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります」と言われているのです。「善を行う」とは、あれこれの善い行いではなく、隣人を愛し、隣人に仕え、隣人の重荷を担うことです。私たちは隣人と関わり隣人の重荷を担うことで、あるいは自分の重荷を担ってもらうことで、傷ついたり傷つけられたり、嫌な思いをしたり嫌な思いをさせたり、時にはそのことによって相手との関係が壊れてしまうことがあります。そのようなとき私たちは簡単に隣人を愛し、隣人に仕え、隣人の重荷を担うことを諦めてしまうのです。上手く関われない人がいると、ほかの誰とも関わりたくないと思ってしまいます。今できないから、これからもできないと決めつけてしまいます。隣人を愛することにギブアップしてしまうのです。確かに自分の力によって隣人を愛するのであればギブアップして当然です。自分の力で隣人を愛することはできないからです。しかし聖霊の働きによって互いの重荷を担う者とされることを信じるならば、私たちは勝手にギブアップするわけにはいかないのです。神様は、独り子を十字架に架けてまで私たちを愛することをギブアップされませんでした。そのキリストの十字架を見上げるならば、どれほど不完全で、弱さと欠けだらけであったとしても、たゆまず飽きずに隣人を愛することに励むのです。そのように歩むとき、私たちは終わりの日に「滅び」を与えられるのではないかとビクビクする必要はありません。「時が来て、実を刈り取ることになる」とは、私たちに与えられている神様の約束です。互いに重荷を担い合うことにギブアップせずに歩む私たちに、終わりの日の復活と永遠の命の約束が与えられているのです。

互いに重荷を担うことは救われた者の生き方
 10節に「ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」と言われています。「今、時のある間に」の「時」は、9節の「時が来て」の「時」とは違い、終わりの日のことではありません。救いの実現とその完成の間のことです。私たちが生きている「今」のことです。私たちは終わりの日に与えられる復活と永遠の命の希望を見つめつつ、今、救いの実現とその完成の間を歩んでいます。その歩みにおいて、隣人を愛し、隣人に仕え、隣人の重荷を担うのです。「特に信仰によって家族になった人々に対して」とは、キリストに結ばれた神の家族に対して、教会に連なる人たちに対してということです。このことは、教会に連なる人たちに対する愛のほうが、すべての人に対する愛より大切だ、ということではありません。そうではなく、互いに重荷を担うことは教会の交わりの中からしか起こらないことが見つめられているのです。なぜならキリストの十字架による救いを抜きにして、互いに重荷を担うことはできないからです。このことは、まずなによりも教会の交わりの中で実を結び、そしてすべての人々に広がっていきます。キリストの十字架による救いと共に広がっていくのです。互いに重荷を担うことは、神様の愛によって救われた者の生き方そのものです。私たちは、隣人と関わる中で、相手の罪を、弱さや欠けを、苦しみや悲しみを担っていく者とさせてください、と聖霊の働きを祈り求めます。私たちは、聖霊の導きに従って生きていく歩みにおいて、互いの重荷を担い合うことによって、それぞれが抱えている重荷をわずかだとしても軽くすることができると信じて良いのです。2021年を迎えようとしています。新しい年も、救いの実現とその完成の間で、神様の愛にお応えして、ギブアップすることなく互いに仕え、互いに重荷を担って歩んでいきましょう。

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