主日礼拝

もめ事を超えて前進

「もめ事を超えて前進」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 詩編、第37篇 1節-22節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第6章 1節-15節
・ 讃美歌 ; 18、55、393

 
もめ事
 礼拝において使徒言行録を読み進めておりまして、本日から第6章に入ります。これまで読んできたところには、ペンテコステの日に、聖霊が降って誕生した教会が、主イエス・キリストの福音を大胆に宣べ伝え、いろいろな妨害や迫害に遭っても、かえってそれによって確信を深められて伝道をしていったこと、その教会に多くの人々が加わっていき、またたく間に成長していったこと、教会は周囲の人々から尊敬を受け、好意を持たれていたということが語られていました。ところが、本日の第6章に入ると、教会の中にある問題が起ってきたこと、もめ事が生じたことが語られています。人々に尊敬される、素晴らしい群れとして見つめられてきた教会に、内部の対立が生じてきたのです。使徒言行録は決して、現実の教会とかけ離れた理想化された教会の姿を描いているのではありません。むしろリアルに、教会の現実を見つめ、語っているのです。教会は、何の問題ももめ事も起らない天国のような所ではありません。同じ信仰に立っている群れだから、対立や争いが起らない、ということはないのです。むしろ教会の歴史は、もめ事や対立の歴史であるとすら言えます。エルサレムに生まれた最初の教会からしてそうだったのです。使徒言行録がこのことを記しているのはしかし、このことによって大切なことを教えるためです。私たちはここから、教会に起ってきたこの最初のもめ事はどのようなことだったのか、また最初の教会はそれに対してどのような対処をしたのか、その結果どうなったのか、ということをしっかりと見つめ、私たちの歩みのための糧としていきたいのです。

生きて成長する教会
 このもめ事は何だったのでしょうか。1節をもう一度読んでみます。「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである」。もめ事が起ってきた原因は基本的には、「弟子の数が増えてきた」ことにありました。教会は、最初は、一つの部屋に皆が集まれるほどの、ほんの一握りの人々の群れでした。しかし彼らが聖霊を受け、伝道を開始してしばらくすると、何千人という人々が群れに加わったのです。せいぜい数十人の群れと、何千人の群れとでは、あり方が根本的に違って来ざるを得ません。何千人もの人々が、教会という一つの共同体として、一つの信仰に立って歩み、その信仰に基づく指導や、相互の交わり、助け合いが組織立って行われていくためには、数十人の群れだった時とは違う体制が必要になるのです。つまりこのもめ事は教会の成長に伴って必然的に起ってきたことであると言うことができます。教会は生きて成長していきます。生きて成長するということは、変化していくということです。変化にはある苦痛や軋轢が伴います。そういうもめ事を通して、教会は成長し、また相応しい体制を整えられていったのです。

二つのグループ
 このもめ事は、「ギリシャ語を話すユダヤ人」と「ヘブライ語を話すユダヤ人」との間に起りました。最初の教会に、そういう二つのグループがあったのです。「ギリシャ語を話すユダヤ人」とは、イスラエルの地を離れて、当時の地中海世界のあちこちに移り住んでいたユダヤ人が、何世代も経るうちに、当時の共通語だったギリシャ語に慣れ親しみ、それを主に使うようになった、そういう人々です。そういう外国出身のユダヤ人で、先祖の地であるユダヤ、エルサレムに帰って住んでいた人々がいたのです。それに対して「ヘブライ語を話すユダヤ人」の方は、ずっとイスラエルの地に住み続けており、従って言葉もイスラエルの言葉であるヘブライ語を話している、正確には当時の言葉はヘブライ語の近い親戚であるアラム語だったようですが、そういう人々です。彼らは自分たちを「生粋のユダヤ人」であると誇り、外地帰りのギリシャ語を話すユダヤ人を、民族の伝統を失った連中として軽蔑するきらいがありました。そういう、当時のユダヤ人社会の中にあった対立の構造が、教会にも持ち込まれて来たのです。教会は社会の縮図です。社会にある様々な問題、対立と教会は無関係であることはできません。礼拝を終えて一歩外へ出れば社会の一員として生きている私たちなのですから、社会と無関係に信仰の世界に生きることはできないのです。

弟子
 けれども、それでは教会もこの社会と全く同じかというと、決してそうではありません。教会に集う私たちは、社会においてどのような立場にあり、場合によっては対立し合う関係にあり、そして教会の交わりもそういうことの影響を受けてしまうことがあるとは言え、しかし教会の外にはない一つの絆によって結ばれているのです。その絆とは、「信仰」であると言えるでしょう。しかし本日の箇所には、それをもっと具体的に言い表わす言葉が用いられています。それは、「弟子」という言葉です。「そのころ、弟子の数が増えてきて」とありました。この「弟子」は、主イエスの十二人の弟子、つまり使徒たちのことではありません。教会に加わった信仰者たち全てのことが、「弟子」と呼ばれているのです。この言葉がこういう意味で用いられているのはここが初めてです。そして使徒言行録はこの先何度もそういう言い方をしていきます。そこには一つの大事なメッセージが込められているのです。つまり、信仰を持つとは、主イエスの弟子になることだ、ということです。教会とは、主イエスの弟子の群れであり、教会に連なる者は主イエスの弟子なのです。私たちを結び合わせている絆は、主イエスの弟子である、という絆です。社会において、いろいろな違いがあり、対立関係があったりもする、どうも気が合わない、考え方が違う、生活習慣が違う、だからあの人とは付き合いづらい、うまく行かない、そう思う人であっても、共に教会に連なり、礼拝を守っていることにおいて、共に主イエス・キリストの弟子として生きているのです。もめ事は確かに起ります。しかし教会におけるもめ事は、共に主イエスの弟子である者どうしの間でのことなのです。その共通の絆あるいは土台の上にお互いがしっかり立つことができるならば、それを乗り越えていく道が開かれるはずです。私たちはそのことを信じて歩みたいのです。そこにおいてこそ、教会はこの世の様々な団体とは違う群れであることを示していくことができるのです。

分配の業
 もめ事の内容ですが、それは「やもめに対する日々の分配」に関することでした。ギリシャ語を話すユダヤ人のやもめたちが、ヘブライ語を話すユダヤ人のやもめたちよりも軽んじられている、という苦情が寄せられたのです。このことを理解するためには、4章32節以下に語られていた、最初の教会において人々が、財産を分かち合いつつ生活していたことを思い起こさなければなりません。財産のある豊かな人が、それを売って教会に献金し、教会が、貧しい人、生活に困っている人に必要に応じてそれを分け与えていたのです。そういうお金や物の分かち合いが日常的になされていました。それが「日々の分配」です。やもめは、みなしごと並んで、当時の社会において、社会的弱者の代表でした。ですから貧しい人への分かち合いの多くはやもめたちの生活を支えることだったのです。その分配において、不公平が生じたのです。2節で使徒たちが、「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない」と言っているように、その分配はそれまで使徒たちが行なっていました。しかし人数が多くなっていく中で、全体を正確に把握するには手が回らなくなり、不公平が生まれてしまったのでしょう。ここで注目したいのは、このもめ事が、教会において信者たちが互いに支え合い、助け合うために分かち合いに生きている、そこにおいて起ったということです。分かち合いは初代の教会における素晴らしい信仰の実りです。そのことのゆえに、周囲の人々は教会を尊敬の目で見ていたのです。よりにもよってそこにもめ事が生じました。教会におけるもめ事は多くの場合、よい事をしようとしているところに生じるのだ、ということを私たちは覚えておかなければなりません。いっしょうけんめい良いことをしようとしている、そこにおいてこそ、人は罪に陥りやすいのです。また良いことをどのようにするか、においてこそ対立が生じやすいのです。何故なら、自分は良いことをしている、と思っている時に、人は最も傲慢になるからです。日々の分配というすばらしい信仰の業においてもめ事が起ったことは、そのことを教えていると言えるでしょう。

按手
 さて、このようなもめ事が起ってきたことに対して、教会はどのようにそれに対処したのでしょうか。2節以下に、使徒たちが弟子たちを、つまり信者たちをすべて呼び集めて一つの提案をしたことが語られています。その提案とは、食事の世話、つまり日々の分配の業を担う七人の奉仕者を新たに選び出すことでした。一同はこれに賛成し、ステファノを始めとする七人を選び、使徒たちは祈って彼らの上に手を置いたのです。祈って手を置く、それは「按手」と呼ばれていることです。教会において、人をある奉仕の務めに任命する時にそれが行われます。そこでなされる祈りは、聖霊が働いて下さって、その人が与えられた奉仕の務めを果たすことができる力を与えられるようにとの願いの祈りです。そして、先にその務めを負っていた者たちが手を置くことによって、その奉仕の賜物が継承される、ということも象徴されています。私たちにおいても、牧師、長老、執事が新たに立てられる時に、この按手が行われます。この箇所から、教会において按手が行われ、奉仕者が立てられることの基本的な意味を確認しておきたいと思います。それはつまり、按手を受けるとは、ある教会において具体的に奉仕の任務を与えられることと結びついている、ということです。按手を受けることは、何かの資格を取ることとは根本的に違います。資格は個人が、例えば運転免許証のように持っているものですが、教会における按手は、教会がその人を務めへと任命し、立てることです。そのことを離れて資格として独り歩きするようなことではないのです。つまり按手は、「とりあえず資格を取っておけば将来役に立つだろう」というような感覚で受けることはできません。按手を受けることは即ち教会において具体的な務めに着くことなのです。

新たな務め
 教会員による選挙と按手によって、七人の奉仕者が新たに立てられました。彼らはどういう務めを与えられたのでしょうか。食事の世話の仕事を任せる、という言い方がなされています。それはもめ事が起った「日々の分配」の働きです。つまり、信者たちが献げたものを、必要のある人に、つまり貧しい人、支えを必要としている人に、必要の度合いに応じて分配し、その生活を支えていく働きです。その働きがきちんとなされることによって、4章34節に語られていた、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」ということが実現していくための働きです。そういう務めを負う新たな奉仕者が立てられたのです。

自らを変える勇気
 このことから私たちはいくつかの大事なことを教えられます。私たちは通常、もめ事に対してどのように対処しているでしょうか。特に教会においては、もめ事が起るなら、そういうことはやめる、もめ事の原因となるようなことからは手を引く、という消極的な対処の仕方をする場合が多いように思います。しかしこの場合は全く逆でした。もめ事の種になるから、日々の分配の働きをやめるのではなくて、もめ事を解決して、そのことがより適切に、きちんとなされていくように、新たな奉仕者が立てられたのです。つまり、今行われている良い働きをさらに拡大、成長させるための積極的な対処がなされたのです。そのことは、弟子の数が増えてきたという状況の変化に対応して教会が新しい体制を整えたということでもあります。それまでになかった新しい事態に直面して、教会は自らを変えて新しくなったのです。先程、生きて成長するということは、変化していくことだと申しました。変化にはいろいろな苦痛や軋轢が伴うけれども、新しく起ってきた事態に対応して、自らを変えていく、新しくなっていく、それこそが生きているということなのです。教会はまさにここでその生命を示したと言うことができます。それこそが、聖霊のお働きによって生かされている教会の姿です。聖霊は、教会に、必要とあれば積極的に自らを変えていく、新しくなっていく、その勇気を与えるのです。

献げものの管理
 次に、新たに立てられたこの奉仕の務めの内容を考えていきたいと思います。彼らの奉仕は、信者たちが献げたものを管理し、それを適切に、必要なところに分配する働きです。それは今日の私たちの教会に当てはめて言えば、献金の管理ということになります。会計の働きです。信者たちが神様に献げたものを大切に管理し、それを適切に用いていくための働きが教会には必要なのです。しかしこの務めは、単に会計係ということに留まりません。これは、弱い者、貧しい者、支えや助けを必要としている人を、教会として支え、必要な助けを与えるための働きです。つまり、神様の恵み、主イエス・キリストの救いが、教会に連なる信仰者一人一人に、具体的に及んでいくための働きです。それはただお金を分配すればできることではありません。私たちが使っている言葉で言えば、牧会、それは羊飼いが群れを養い、導き、世話をする働きを意味していますが、そういうことがこの人々の奉仕には含まれているのです。つまり彼らは、教会において牧会が適切に行われるために立てられたとも言えるのです。

執事職
 この6章の記事は、教会における執事職の起源として読まれてきました。「日々の分配」の「分配」という言葉と、「食事の世話」の「世話」という言葉は原文では同じ「ディアコニア」という言葉です。その意味は「奉仕」です。そしてそれを担う職務として「ディアコノス」というのが生まれました。それが訳せば「執事」です。ここに語られている、献げものを管理し、必要な所にそれを分配するという働きを負っていった人々は、後に執事と呼ばれるようになったのです。教会における執事の務めの本質がここに示されていると言うことができます。そこにおいて間違えてはならないのは、執事がするのは分配の働きだ、ということです。分配されるものは信者一人一人が献げたものです。つまり奉仕そのものは信仰者一人一人がしているのです。その一人一人の奉仕を適切にアレンジして、必要なところに必要な奉仕が行き届くようにするのが執事の務めです。執事が奉仕をする、のではありません。教会員の奉仕を取りまとめ、それを導いて、教会全体として互いに仕え合い、支え合う群れを築いて行くための奉仕を執事はするのです。

祈りとみ言葉の奉仕
 さて、起ってきたもめ事に対処するためにこのような新たな奉仕者が立てられたわけですが、使徒たちの提案における最も大事なポイントにはまだ触れていません。2節の使徒たちの言葉をもう一度よく読んでみたいと思います。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない」。また、4節も大事です。「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」。使徒たちは、食事の世話、日々の分配を担当する新たな奉仕者を立てよう、と提案したのですが、それは、そういう奉仕者がいた方が分配の業がスムーズに行われるとか、もめ事が起らないですむ、ということではありません。使徒たちが見つめているのは、神の言葉がないがしろにされないように、ということであり、祈りと御言葉の奉仕が教会においてしっかりとなされることなのです。教会には、いろいろな問題やもめ事が起ってきます。それは教会にとって一つの危機です。しかし最も大きな危機は、神様のみ言葉がないがしろにされることです。み言葉への真剣な思いが失われ、み言葉に聞き従おうという姿勢がなくなってしまうことです。それは、どんなもめ事や対立にも勝って、教会にとって致命的な危機なのです。何故ならば、主イエス・キリストの十字架の死と復活による罪の赦しの恵みを告げるみ言葉こそ、聖霊によって教会に与えられている生命だからです。このみ言葉に対する真剣な思いが失われてしまうならば、どんなに活発な活動がなされていても、そこには聖霊による生命はありません。神のみ言葉が語られ、それが真剣に聞かれるということにこそ、教会の生命があるのです。そしてその生命が維持されるためには、「祈りと御言葉の奉仕」がしっかりとなされなければなりません。「祈り」とは個人の祈りのみでなく、皆が集まって共に祈る共同の祈り、つまり礼拝をも含んでいます。礼拝においてみ言葉が語られるための奉仕がしっかりと担われることによって、神の言葉がないがしろにされることが防がれ、教会の生命は守られるのです。
 従って、使徒たちの提案は、新しい奉仕の職務を立てようということでもありますが、同時にそれは、祈りと御言葉の奉仕をしっかり確立しよう、ということでもあります。新しい奉仕職を立てるのは、礼拝においてみ言葉がしっかり語られ、それが真剣に聞かれるためなのです。このことが、もめ事を解決するために教会がとった対処の中心だったのです。もめ事、問題の解決は、礼拝においてみ言葉が語られ、それが真剣に聞かれることによってこそ得られるのです。そのために教会を整えることこそ、もめ事への最も有効な対処なのです。

教会の自己変革
 このことはさらに、教会において立てられている牧師、長老、執事といった務めが最終的に何を目指しているのかを教えています。牧師と長老と執事はそれぞれ異なった働きを担っていますが、それらの働きが相俟って、最終的には、教会においてみ言葉が語られ、それが真剣に聞かれ、そのみ言葉によって生かされる群れとなることが目指されているのです。さらに、先程申しました、生きているとは変化していくことだ、聖霊は私たちに、自らを変えていく勇気を与えるのだ、ということとの関連で言えば、融通無碍にただ何でもどんどん変えていけばよいというものではないことがここに示されています。聖霊によって私たちが変えられ、新しくされるのは、み言葉に聞き従うことにおいてです。み言葉をないがしろにして、ただ周囲の状況に流されて変わっていくのでは意味がありません。それではかえって大切な生命を失うことになるのです。教会が、新しい状況に応じて自らを変えて新しくなるとは、その新しい状況の中でみ言葉がよりしっかりと語られ、より真剣に聞かれていくようにするためです。そのために、変えるべきことは変え、捨てるべきものは捨て、新しい務めが必要ならそれを立てるのです。本日の箇所で、もめ事に対処するための教会がしたのはそういう自己変革でした。それによって、教会の生命が、つまり主イエスの福音のみ言葉が、より力強く響き渡るようになったのです。7節にそのことが語られています。「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」。教会がもめ事を通して新しい職務を立て、自らを新しくしていったことによって、神の言葉がますます広まり、弟子の、つまり信仰者の数も非常に増えていったのです。祭司も大勢信仰に入ったというのは、ユダヤ人の宗教的権威、指導者である人々にすら、み言葉が広まり、信仰者が起されたということです。教会の伝道力がそれだけ強くなったのです。

ステファノの伝道
 8節以下には、そのことの具体的な現れとして、ステファノが力強く伝道をしていったことが語られています。ステファノはあの新たに選出された七人の奉仕者の一人です。しかしここを読むと、彼は食事の世話、日々の分配の働きだけをしていったのではないことが分かります。むしろ彼は伝道をしていったのです。それは、彼が与えられた務めとは違うことをしていったということではなくて、彼を始めとする七人が立てられ、教会が祈りと御言葉の奉仕によってその生命をしっかりと養われ、生かされつつ、日々の分配、分かち合いの業も充実していったことによって、教会に連なる一人一人が、神の言葉によって豊かに養われ、生かされ、伝道する力を与えられていったということです。祈りとみ言葉の奉仕がしっかりと確立し、教会全体が主イエス・キリストにおける神様の大いなる愛を告げるみ言葉に真剣に耳を傾け、聖霊のお働きを受けて主イエスと共に歩んでいく時に、連なる一人一人が、証しの力、伝道の力を大いに与えられていくのです。本日はこれから聖餐にあずかります。聖餐も、み言葉を体全体で味わい、主イエスと一つにされて歩むための恵みの時です。み言葉に聞き、聖餐にあずかることによって、様々に起ってくるもめ事を越えてさらに前進していく群れでありたいのです。

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