主日礼拝

証し人の喜び

「証し人の喜び」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; イザヤ書、第40章 1節-11節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第5章 12節-42節
・ 讃美歌 ; 130、202、402

 
心を一つにして
 使徒言行録は、弟子たちに聖霊が降ってこの世に主イエス・キリストの教会が誕生し、成長していった、その過程において起ったいろいろな出来事を物語として描いています。本日の箇所にも、使徒たち、つまり聖霊を受けて主イエス・キリストのことを宣べ伝えていった教会の最初の指導者たちが、逮捕されて牢に入れられたこと、しかし夜中に、主の天使が彼らを不思議な仕方で救い出し、朝になってみると、牢にはちゃんと鍵がかかっており、番兵も立っているのに、中はもぬけの空だったという大変不思議な、また劇的な話が語られているわけです。しかしそのような劇的な物語の合間に、使徒言行録は、最初の教会の信者たちの様子、彼らがどのような信仰生活を送っていたか、また周囲の人々との関係がどのようだったかをも書き記してくれています。本日の所の最初の12~14節がそれに当たります。「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」。これと同じようなことは、前回読んだ4章32、33節にも語られていました。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた」。さらに戻って2章の43~47節にも似たようなことが語られています。「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」。これらの箇所に、最初の教会の信者たちの様子がまとめられているわけですが、今読んだ三つの箇所に共通しているのは、信者たちが「心を一つにして」いたということです。主イエス・キリストを信じる人々が、心を一つにして共に集まり、祈り、礼拝をしている、教会とはそういう群れだったのです。12節には「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた」とあります。つまり、奇跡が行われたのです。そのことは2章43節にもありましたし、4章32節以下の、彼らの間には持ち物を自分のものだと言う者がおらず、豊かな者は財産を売って貧しい仲間と分かち合っていたということも、一つの奇跡であると言えるでしょう。最初の教会において、そういう驚くべき奇跡的なことが数々行われたのですが、それらの原動力となったのは、彼らが心を一つにしていたことなのです。心が一つになっている群れだからこそ、財産を分かち合うこともできたし、多くのしるしと不思議な業をすることもできたのです。

主イエスに向かって
 それはしかし、人々が心を合わせさえすれば奇跡をも行う力になる、という意味ではありません。人間の力を、どれだけ心を合わせて集めたところで、例えば本日の所の16節に語られているような、病人や汚れた霊に悩まされている人々が一人残らず癒されるようなことは起こり得ません。こういうことはもう人間の力をはるかに越えています。そういう業がなされたということは、そこに、神様の力、聖霊の力が働いたということです。信者たちが、心を一つにして集まってしていたことは、人間の力を一つに結集することではなくて、この神様の力、聖霊のお働きを祈り求めることだったのです。しかもそれは、ただ病気を癒すことのできる力を与えてください、と祈り求めることではありません。4章29、30節に彼らの祈りの言葉が記されています。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」。確かに、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください、と祈っています。しかしそれは、「聖なる僕イエスの名によって」なされることです。信者たちが何か超能力のような力を持つのではなくて、主イエスのみ名の力が発揮されるのです。3章の始めのところで、ペトロとヨハネが、生まれつき足の不自由だった男を癒したのも、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」という言葉によってでした。神様の力、聖霊の力は、主イエス・キリストのみ名においてこそ働くのです。彼らはそのことをこそ祈り求めました。それゆえにその祈りは、「思い切って大胆に御言葉を語る」ことを求める祈りでもあるのです。御言葉とは、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現した神様の救いの恵みを語る御言葉です。救い主イエス・キリストを宣べ伝える言葉です。使徒たちは、聖霊の力を与えられて、彼らを捕えたユダヤ人の最高法院の前で、その御言葉を思い切って大胆に語りました。29~32節にその言葉が記されています。「ペトロとほかの使徒たちは答えた。『人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます』」。教会の信者たちは、この御言葉において心を一つにしていたのです。心を一つにしてこの御言葉を宣べ伝え、証ししたのです。この御言葉が語る、救い主イエス・キリストへと、みんなの心が一つになって向けられていたのです。そこに、聖霊が働き、神様の力が発揮されて、多くのしるしと不思議な業が行なわれていったのです。

教会らしい歩み
 心を一つにして主イエス・キリストに向かい、その恵みによって生かされることによって、教会は、他の人々とははっきりと一線を画する群れとして成長していきました。そのことが本日の13節に語られています。「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた」。ここには、「ほかの者」つまり信者でない人々にとって教会が、自分たちとは明らかに違う者たちの群れであり、容易にそこに入っていくことはできない、という思いを抱いていたことが示されています。先日の教会研修会の主題の言葉で言えば、教会の敷居の高さを感じていたのです。そのことは、5章1~11節に語られていたこととも関係すると言えるでしょう。アナニアとサフィラという夫婦が、土地を売ってその代金を教会に献げましたが、代金の一部を全部と偽って献げたために、神様の怒りを受けて死んでしまったのです。11節に、「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」とあります。教会に加わり、信仰者となることは、生ける神様との深い交わりに入ることだ、そこにおいては、神様の怒りを受けて撃ち殺されてしまうようなことすらも起るのだ、ということを教会の人々は勿論、周囲の人々も感じたのです。そういう群れには気軽に近づけない、と人々が思うのは当然です。「触らぬ神に祟りなし」という思いが働くのです。しかしこの13節には同時に、民衆が教会の信者たちのことを称賛していた、ともあります。畏れを覚え、気軽には加われない群れであることを感じつつ、人々は教会を称賛、尊敬の目で見ていたのです。そして次の14節には、「そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」とあります。畏れを乗り越え、つまり高い敷居をまたいで教会の仲間に加わる人々がますます増えていったのです。これは13節の「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった」ということとは矛盾しているようにも思えます。しかし現実には、この両方のことが同時に起るのです。教会が、この世の他の群れとは明確に一線を画し、生けるまことの神様との深い交わりに歩み、畏れを覚えずにはおれないような、気軽に関われないような群れとして確立していく時に、言い換えれば教会が本来あるべき敷居をしっかり据えて、教会らしく歩む時に、教会はかえって人々から称賛され、あこがれをもって見つめられ、そして大きな決断をもってそこに加わろうとする人々が起されていくのです。逆に、教会が、この世におもねり、人々に喜ばれ受け入れられようとして、その信仰の根本を曲げ、本来あるべき敷居を取り払ってこの世に同化しようとするならば、教会はそれで世の人々に受け入れられる群れになるかというと、決してそうではありません。一時そういうことを喜ぶ人々もいるかもしれませんが、結局は、教会は、世の人々にとって何の魅力もない、称賛もされないものになってしまうのです。畏れを覚えさせることもない代わりに何の魅力もない、気の抜けたサイダーのような、つまりただの砂糖水になってしまうのです。そうならないために、つまり教会がこの世の他の群れとは一線を画する、生けるまことの神様との深い交わりの場としての本来の特質を保っていくために必要なことは、私たちが心を一つにして主イエス・キリストに向かい、主イエスの十字架の死と復活によって成し遂げられた神様の救いの恵みにしっかりと立つことです。それは先程読んだ31節の使徒たちの言葉をしっかり噛み締めることです。「神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました」。神様は独り子主イエスを、私たちを悔い改めさせ、罪を赦すために、導き手、救い主として立てて下さったのです。私たちは主イエスの十字架の死によって、自分の罪を見つめさせられます。何の罪もない神様の独り子が、この私の罪を全て背負って、本当は私がかからなければならい十字架について下さった、私の身代わりになって死んで下さったことを示され、主イエスを十字架の死に追いやったのはこの自分であることを知らされ、悔い改めを求められるのです。それと同時に、その主イエスの十字架の死によって、神様がこの私を赦して下さったことをも知らされるのです。そして主イエスの復活は、神様の力が、私たちの罪と、そのもたらす死の支配とに打ち勝って下さったことを意味しています。復活して天に昇り、父なる神様の右に上げられて、今私たちを導いて下さっている主イエスによって、私たちは悔い改めを与えられ、罪を赦され、古い生き方から解放されて、新しくされるのです。私たちが心を一つにしてそのことに集中していく時に、教会は真に教会らしい歩みをすることができるのです。

聖霊のみ業
 教会がこのように真実に教会として歩んでいくならば、そこには聖霊なる神様の力が豊かに働いて、み業を行なって下さいます。私たちの力や思いをはるかに越えた恵みのみ業が行なわれていくのです。15節には、人々が使徒ペトロの通る道に病人を連れ出し、せめてその影が当たるようにした、ということが語られています。ペトロの影にでも当たれば病気が直る、と人々が思うほどに、教会によって、使徒たちによって、めざましい救いの業がなされたのです。これはちょっと魔術のような、迷信的な話だと私たちは思います。しかしここで語られていることは、ペトロを始めとする使徒たちが魔術的な力を持っていたということではなくて、人々がこんなふうに思うほどに、聖霊が力強く、具体的に、教会において働いたということです。それは教会が心を一つにして主イエスの十字架と復活を見つめ、それを証ししていったことに伴って与えられた恵みでした。16節の、「また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった」というのもそれと同じです。病人や汚れた霊に悩まされている人々が一人残らず癒されたというのは、これらの人々のかかえていた様々な悩みや苦しみ、問題の全てを、主イエス・キリストが、聖霊のお働きによって担って下さったということです。人間にはそのような力はありません。私たちは、ただ一人の隣人の苦しみすら、本当に担い支えることはできない者です。しかし主イエス・キリストは、私たちの罪を背負って死んで下さった方です。私たちの身代わりになって死んで下さったのです。この方との出会いによって私たちは、自分の苦しみや悲しみ、問題の全てが、主イエスによって確かに担われていることを知らされるのです。そういう体験を全ての人々が与えられた、というのが、ここに語られている奇跡の内容だったのだと思うのです。

命の言葉
 教会が、心を一つにして主イエス・キリストを見つめ、証しをしていくときに、それに対する妨害や迫害が起ってきます。妨害や迫害は教会が教会として歩むことに必ずついて回るのです。畏れの思いを与えるような群れであるからこそ魅力ある群れでもある、という先程のことと同じように、迫害を受けるくらいの群れであるからこそ人々を引き付けると言うこともできるでしょうし、逆に、人々を引き付ける群れだからこそ迫害を受けるとも言えるでしょう。第4章では、ペトロとヨハネが捕えられて尋問を受けましたが、ここでは、使徒たち皆が捕えられて牢に入れられました。しかし最初に申しましたように、主の天使が夜中に彼らを牢から解放したのです。この奇跡において大切なのは、20節の天使の言葉です。天使はこう言って使徒たちを解放したのです。「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」。迫害の中で、神様が天使を遣わし、使徒たちを助けて下さいました。しかしそれは、単に彼らを危険から守って下さったということではありません。彼らの解放は、使命のための解放だったのです。牢から出てどこかへ身を隠すためではなく、神殿の境内に立って、つまり多くの人々の集まる公の場所で、命の言葉を残らず民衆に告げるために、彼らは解放されたのです。つまり主の天使は、迫害の中でも、命の言葉が告げ知らされ、伝道がなされていく、そのために力を発揮して下さったのだし、彼らを守り助けて下さったのです。その結果彼らは再び引き立てられて、最高法院の尋問を受けることになりました。そしてそこで、先程の29~32節にある「命の言葉」を力強く語ったのです。主イエスの十字架と復活と昇天とによって、神様は私たちを悔い改めさせ、罪の赦しの恵みを与えようとしておられる、主イエスを導き手、救い主として信じ、受け入れ、従っていくことによって、悔い改めて罪の赦しを受ける命の道を歩むことができるのだ、聖霊の助けによって彼らはそういう「命の言葉」を語ったのです。
 この使徒たちの言葉と、彼らを尋問している大祭司の28節の言葉は対照的です。大祭司は使徒たちに、おまえたちはイエスのことを宣べ伝えることによって、その血を流し、殺した責任を我々に押しつけようとしている、と言っています。この言葉には、真理を求める思いも、神様のみ心を問う思いもありません。あるのは、自分の身を守ろうとする思いのみです。彼らは確かに主イエスに有罪を宣言し、死刑にしてもらうためにピラトに渡したのです。それが正しいと信じてしたのならば、その責任を当然負うべきなのです。しかし彼らは自分のしたことへの責任を負おうとはせず、人からの批判を避けることに汲々としています。そもそも使徒たちの説教は、主イエスの死について、彼らの責任を追求しようとしているのではありません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は復活させられた、と語ることによって、彼らの罪を越えて、あるいはそれすらも利用して、神様の救いのご計画が実現したのだと語っているのです。だから、それを信じて悔い改め、罪の赦しを受け、命の道を歩めと勧めているのです。しかし彼らにはこの「命の言葉」を聞く耳がありません。自分の言葉や行いの責任を神様のみ前で負おうとはせず、人の評判や批判ばかりを気にしているために、人から批判されると、言い訳や開き直りによって身を守ろうとするばかりで、神様の前で自分の罪を認め、悔い改めて赦しを受け、新しく生かされるという命の道を歩むことができないのです。それゆえに彼らの言葉は、自分をも人をも生かすことができません。「命の言葉」を聞くことも語ることもできないのです。それに対して使徒たちは、人間に従うよりも神に従おうとしています。それは、権力者たちの脅しに屈しない、というだけのことではなく、自らの歩みにおいて、人間の思いや評価ではなく、主イエスの十字架と復活において示された神様のみ心をこそ第一とし、それに従おうということです。人間の思いから言えば、彼らは主イエスの弟子だったのに、肝心な時には見捨てて逃げ去ってしまっただらしのない連中です。今さら主イエスのことを宣べ伝えることなどできないはずの者たちなのです。それが人間の思いであり評価です。だから彼らも人間の思いで自分を見つめていったら、使徒などではあり得ないのです。しかし神様は復活された主イエスとの出会いによって彼らに、悔い改めを与え、罪を赦して下さって、新しく生きる者とし、命の道を歩ませて下さったのです。彼らは人間の思いや評価ではなく、この神様の恵みのみ心を信じ、それに従おうとしているのです。その時彼らは、使徒として、大胆に、力強く、命の言葉を語ることができるようになったのです。
 33節には、「これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた」とあります。命の言葉が大胆に語られる時、人間のこと、この世のことしか見つめていない人々は激しい怒りを覚え、殺意まで抱くようになるのです。しかしこのたびはガマリエルという律法学者の言葉によって、使徒たちは死を免れました。ガマリエルは、彼らの活動が人間から出たものならそのうち自滅する、もし神から出たものなら、誰もそれを止めることはできないし、下手をすれば神に逆らうことになってしまうかもしれない、と言ったのです。自分たちが裁いてしまうのでなく、神様の裁きに任せようというこの意見はしごく全うなものです。ファリサイ派の中にもこのような人がいたのです。このガマリエルの名前は使徒言行録の後の方でまた出てきます。ここはそのための伏線となっていると言えます。そのことについては、後にそこへ来た時にお話ししたいと思います。

証し人の喜び
 さて使徒たちはこのガマリエルの発言によって死を免れ、釈放されたのですが、しかし怒った人々の腹いせまた見せしめのために、鞭で打たれ、4章に続いて再び、イエスの名によって語ることを禁じられました。使徒たちに対してここで初めて、肉体的暴力、辱めが加えられたのです。そのことを使徒たちがどのように受け止めたか、が41節に語られています。「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」。「イエスのために辱めを受けるほどの者にされた」。ここは、前の口語訳聖書では、「御名のために恥を加ええられるに足る者とされたことを喜びながら」となっていました。またさらに前の文語訳聖書では「御名のために辱しめらるるに相応しき者とせられたるを喜びつつ」となっていました。実際ここには、「相応しい」と訳される言葉が使われているのです。主イエスのみ名のために辱めを受けるに相応しい者とされたことを喜ぶ、これが、使徒たちの受け止め方でした。それは、主イエスのためなら苦しみをも喜びとするという高尚な精神、ではありません。苦しみと辱めは、主イエスが私たちの罪の赦しのために引き受けて下さったのです。主イエスの受けて下さった辱めによって、私たちに、悔い改めて罪を赦していただく命の道が開かれたのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所は、イザヤ書第40章の前半です。そこには、「慰めよ、わたしの民を慰めよ」という神様の恵みのみ言葉があります。「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた」、「罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた」、だからあなたがたはもう赦され、慰められるのだ、と神様は語って下さるのです。しかしその償いのための苦役は、罪の報いは、私たちに代って、主イエス・キリストが受けて下さったのです。主イエスの苦しみ、辱め、十字架の死によって、私たちは、慰めを、赦しを受けたのです。私たちは、教会は、その主イエスの十字架と復活による救いの恵みを心を一つにして見つめ、共にそれにあずかり、その恵みによって新しくされて、主イエスを証しする命の言葉を語っていくのです。そこにおいて私たちも、様々な苦しみに遭うことがあり、辱めを受けることがあります。しかしそこには、主イエスと共に歩む証し人の喜びがあるのです。私たちがこの証し人の喜びを共有しつつ歩む時に、教会は、この世の他のどのような群れとも違う、独特な、確かに敷居が高くてそう気軽には入れないけれども、しかしそこには本当の喜びと慰めと赦されて生きる新しい命がある、そういう群れとなることができるのです。

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