主日礼拝

主の招き

「主の招き」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; イザヤ書、第57章 14節-19節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第2章 37節-42節

 
大いに心を打たれ
 「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」。  聖霊が降って教会が誕生した最初の日、ペトロが使徒たちを代表して語った最初の説教を聞いた人々は、こう問いかけました。彼らは「大いに心を打たれ」たとあります。聖霊の働きによって、神様のみ言葉が語られ、聞かれる時、聞く人の心は大いに打たれ、揺さぶられ、「わたしたちはどうしたらよいのですか」という問いが生まれるのです。先週の礼拝の説教において、矢澤先生が、私の不在をいいことに、私が彼との食事の席で語った言葉を紹介されたと聞きました。「一人の人が、我々牧師の語る説教を聞いて信仰を得るというのは奇跡以外の何物でもない」と私が言ったということです。その通りなのですが、それは裏返して言えば、聖霊なる神が働いて下さることによってそういう奇跡が起こる、ということです。教会が今こうして存在するということは、二千年にわたってそういう奇跡が起り続けてきたということです。今ここに何人の信仰者の方が集っておられるかわかりませんが、その数だけ、今もそういう奇跡が起っている。聖霊が働いて下さったことによって、拙い人間の言葉を聞いた人々が、大いに心を打たれ、揺さぶられて、そこに神様から自分への語りかけ、呼びかけがあると感じるという奇跡が、確かに起っているのです。そしてみ言葉によって大いに心を打たれ、揺さぶられた者は、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と問わずにはおれません。神様のみ言葉が語られ、聞かれる時、それは私たちの心を大いに打ち、揺さぶり、それまでのままではおれなくするのです。自分は今のままでいることはできない、変わらなければならない、変えられたい、という願いがそこに生まれるのです。

罪の指摘
 ペトロがこの時語った説教の結論は36節です。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。ここには、イスラエルの人々の重大な罪が指摘されています。主イエスを十字架につけて殺した罪です。主イエスこそ、神様から遣わされた救い主であられ、数々の奇跡や不思議な業によってそのことをお示しになっていたのに、あなたがたはその神様からの救い主を受け入れずに、十字架につけて殺してしまった、とペトロは語ったのです。人々が「大いに心を打たれ」て「わたしたちはどうしたらよいのですか」と訊ねたのは、まず第一には、自分たちがそのように大きな罪を犯してしまったということを示され、愕然としたからだと言えるでしょう。私たちが大いに心を打たれ、揺さぶられ、このままではいけない、変わらなければならない、変えられたいと願うようになるのも、自分の罪をはっきりと示され、指摘される時です。それも、ただ通り一遍に、自分にも反省すべき点がある、というぐらいのことではなくて、神様からの救い主を十字架につけて殺してしまった、というような、どうしようもない、言い訳のしようもないしとりかえしもつかない罪を犯してしまった、という事実に愕然とする時、「わたしたちはどうしたらよいのですか」という問いが生まれるのです。神様のみ言葉はそのように私たちの心を打ち、揺さぶります。聖霊の働きによってみ言葉が語られる時、私たちは自分の罪を示されて愕然とするのです。逆に言えば、聖霊が働いて下さらなければ、私たちは自分の罪に気づくこともなく、従って「わたしたちはどうしたらよいのですか」と問うこともないのです。

赦しの宣言によって
 ペトロの説教はしかし、イスラエルの人々の罪を指摘し、断罪しただけではありませんでした。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」という言葉には、イスラエルの人々の罪を乗り越え、それをも用いて救いのみ業を達成して下さった神様の恵みが示されています。罪が指摘されていると同時に、その救いと赦し、人間の罪に対する神様の恵みの勝利が宣言されているのです。だからこそ、聞いた人々は深く心を打たれ、揺さぶられたのです。神様のみ言葉は、人間の罪を暴きたて、断罪して打ちのめすものではありません。罪が指摘されるのは、それが既に主イエス・キリストの十字架の死によって担われ、復活によって赦されているからです。神様の恵みが、人間の罪と死に既に打ち勝ち、それを滅ぼしてしまっていることを、み言葉は告げるのです。聖霊のお働きによってみ言葉が語られ、聞かれる時、この恵みが、人の心を大いに打ち、揺さぶるのです。そこでこそ、「わたしたちはどうしたらよいのですか」という問いは私たちの真実な思いとなります。自分のどうしようもない、言い訳のしようもない、とりかえしのつかない罪が、主イエスの十字架の死と復活によって担われ、赦され、神様の恵みが自分の罪に既に打ち勝っている、その救いの事実を示された時に私たちは、その恵みに大いに心を打たれ、揺さぶられ、自分はこれまでのままではおれない、変わらなければならない、変えられたいと真実に願うようになるのです。
 彼らの問いがそのように救いの恵みに心打たれたことから発せられたものであることは、「兄弟たち」という呼び掛けから分かります。彼らはペトロら使徒たちを「兄弟たち」と呼んでいるのです。それは、同じユダヤ人の兄弟、というだけの意味ではないでしょう。彼らは、自分たちの深い罪を指摘するペトロらの言葉に、単に彼らを責め、断罪する敵対的な言葉ではなく、兄弟としての愛を感じ取っているのです。罪を指摘するこの言葉の中に、救いがあることを感じているのです。神様によって罪を指摘され、断罪されることには、救いがあります。神様による罪の指摘は、絶望へと至らせるものではありません。むしろ新しく生かされる希望がそこには与えられるのです。それゆえにこそ、「わたしたちはどうしたらよいのでしょうか」という問いが生まれるのです。どうしようもない罪が指摘され断罪されて絶望するしかないなら、このような問いは生まれてこないでしょう。聖霊によって語られた恵みのみ言葉に大いに心を打たれて、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と問うことこそ、信仰の始まりなのです。

悔い改めと洗礼
 人々のこの問いに対してペトロは、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と答えました。このペトロの言葉を丁寧に読み味わいたいと思います。まず、「悔い改めなさい」と言われています。神様の遣わされた救い主イエスを十字架につけて殺してしまった、そのとんでもない罪を悔い改めることが求められているのです。それは、自分の犯した罪を心から悔い、悲しみ、反省して、二度とそういう罪を繰り返すまいと決意することです。けれども大事なことは、そのように悔い改めることによって罪を赦していただくことができる、とは語られていないことです。「悔い改めなさい」に続いて、「めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」とあります。イエス・キリストの名によって洗礼を受けることによってこそ、罪の赦しの恵みにあずかることができるのであって、悔い改めれば赦される、というものではないのです。ここに、キリスト教信仰における罪の赦しとはどのようなものか、その大事な根本が語られています。それは簡単に言えば、罪の赦しは自分で獲得するものではなく与えられるものだ、ということです。悔い改めることは、自分で自分の罪を悔い、反省し、嘆き、そして二度と繰り返すまいと決意すること、つまり私たちが自分ですることです。それはもともとの言葉の意味から言えば、心の向きを変えることです。自分で自分の心の向きを180度転換するのです。信仰にはそういうことが必要です。罪を悔い、反省し、それまでの歩みの向きを変えることなしには、神様を信じる者、神様と共に生き、神様に従う者となることはできません。だからこそ、「わたしたちはどうしたらよいのですか」という問いへの答えの冒頭にそのことが求められているのです。けれども、そのように私たちが自分で罪を悔い、反省し、向き変ることで罪の問題が解決するのかというと、そうではありません。そういう人間の努力、あるいは謙虚さや誠実さによって罪の赦しが得られるわけではないのです。罪の赦しは、外から与えられるものです。自分で作り出したり獲得できるものではないのです。そしてそれを与えることができるのは神様のみです。私たちの罪を本当に赦す権威と力を持っているのは、神様だけなのです。イエス・キリストの名によって洗礼を受けることは、この神様による罪の赦しをいただくことです。神様は、その独り子イエス・キリストを人間としてこの世に遣わして下さり、その主イエスが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。主イエスは私たち罪人の身代わりになってご自分の命を与えて下さったのです。この主イエスの十字架において、私たちの罪の赦しが実現しています。神様はその主イエスを復活させることによって、主イエスを信じる者に罪の赦しと新しい命の恵みを与えることを約束して下さったのです。主イエス・キリストの名による洗礼は、私たちが、主イエスを信じて、その十字架の死と復活とにあずかり、罪の赦しと新しい命をいただくために神様が与えて下さったものです。洗礼を受けることによってこそ私たちは、主イエスの十字架と復活による罪の赦しと新しい命を与えられるのです。洗礼という儀式が罪の赦しを実現するわけではありません。しかし洗礼において、罪の赦しが、主イエス・キリストによる神様の恵みとして私たちに与えられるのです。

賜物としての聖霊
 そしてこの洗礼と結びついているのが、「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」ということです。洗礼を受け、罪の赦しの恵みをいただいた者は、聖霊を賜物として受けるのです。それは何か特別な霊的な力を得ることではなくて、教会に加えられることです。そもそもこの第2章に語られているのは、弟子たちに聖霊が降り、それによって教会が誕生した、その日の出来事です。ペトロ自身が、聖霊を賜物として受けたことによって、このようにみ言葉を語ることができているのです。そして最初に申しましたように、その聖霊が働いて下さることによって、彼の言葉が人々の心を大いに打ち、「わたしたちはどうしたらよいのですか」という問いを生んだのです。「悔い改めて、イエス・キリストの名による洗礼を受けなさい」という彼の勧めは、その聖霊の働きのもとにある信仰者の群れ、教会への招きに他なりません。洗礼を受け、罪を赦していただくことによって、私たちは、聖霊によって生まれ、聖霊によって導かれ歩んでいくキリストの体である教会の一員となり、自分も聖霊を賜物として受けて、その導きの内に歩む者となるのです。悔い改めて、イエス・キリストの名による洗礼を受けて罪を赦していただき、教会に加えられて聖霊のみ力の下で生きること、それこそが、神様のみ言葉によって大いに心を打たれ、このままではいけない、変わらなければならない、変えられたいという願いを与えられた者の歩むべき道なのです。

主の招き
 ペトロはさらに39節でこのように語っています。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」。「この約束」、それは、悔い改めて主イエス・キリストの名による洗礼を受ける者の罪を神様が赦して下さり、聖霊を注ぎ与えて、主イエスの救いにあずかる者の群れである教会の一員として新しく生かして下さる、という約束です。その約束が、「あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも」与えられている。つまり神様は、この救いの約束、恵みを、私たちに与えて下さるのみでなく、私たちの家族にも、あるいはさらに今は遠くにいる者たちにも与えようとしておられるのです。この「遠く」は、物理的に遠くということのみでなく、精神的に遠く、つまり体は近くにいても心が遠く離れてしまっている、ということでもあるでしょう。つまり物理的にも精神的にも、神様の恵み、救いとの間に距離のある人、遠ざかってしまっている人です。しかし神様はその物理的、精神的距離を乗り越えて、その人々にも、救いの約束を与えようとしておられるのです。そしてそのことはさらに、「わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも」と言い換えられています。ここに、私たちが神様の救いの約束にあずかることの最も深い根拠が示されているのです。それは、主の招きです。私たちが救いの約束にあずかり、私たちの家族も、また遠ざかっているすべての人にもそれが与えられるのは、私たちの神である主が招いて下さっているからなのです。主の招きこそ私たちの救いの根拠です。私たちが、悔い改めて主イエス・キリストの名による洗礼を受け、罪を赦していただくのも、賜物として聖霊を受け、教会に連なって生きる者とされるのも、全ては神様の招きによることなのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第57章14節以下は、神様がご自分の民を悔い改めへと、そして神様が与えて下さる罪の赦しへと招いておられること、その招きが遠くにいる者にも近くにいる者にも与えられていることを語っています。そこをもう一度読んでみたいと思います。
 「主は言われる。盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。わたしの民の道からつまずきとなる物を除け。  高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。  わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように、わたしの造った命ある者が。  貪欲な彼の罪をわたしは怒り、彼を打ち、怒って姿を隠した。彼は背き続け、心のままに歩んだ。  わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ、慰めをもって彼を回復させよう。 民のうちの嘆く人々のために、わたしは唇の実りを創造し、与えよう。  平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる」。 この招きが、主イエス・キリストによって、私たちに与えられているのです。
 「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」という問いへの根本的な答えは、従って、神様のこの招きに応え、それを受けなさい、ということです。み言葉によって大いに心を打たれ、自分はこのままではいけない、変わらなければならない、変えられたいという願いを与えられた者に求められているのはこのことなのです。私たちが本当に変わるために、変えられるために必要なのは、自分で何かをすることではありません。罪を悔い改めることも、主イエス・キリストの名による洗礼を受けることも、私たちが何かをすると言うよりも、主イエス・キリストによる神様の招きに応え、それを受けることなのです。そこにこそ、それまでとは違う、本当に新しい歩み、本当に新しい人生が与えられるのです。

邪悪な時代からの救い
 40節には、「ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救われなさい』と勧めていた」とあります。「邪悪なこの時代」、罪が支配し、悪が力を振るい、憎しみと争い、対立と抗争、血で血を洗う報復合戦が繰り広げられているこの邪悪な時代から救われたいと私たちは心から願います。そのことは何によって実現するのでしょうか。私たちはどうすればよいのでしょうか。その答えがここにあります。それは、私たちが、自分の力で努力して、頑張って平和を作り出していくことではありません。そうではなくて、主イエス・キリストによる神様の招きを受けることです。悔い改めて主イエスの名による洗礼を受け、賜物として聖霊を受けることです。この神様の招きによって、私たちは邪悪なこの時代から救われるのです。そして、罪を赦していただき、聖霊の与えて下さる力と導きによって、平和を造り出す者として生きるのです。「平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる」という神様の約束が、聖霊の力により、私たちを通して実現していくのです。

教会
 41節には、「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」とあります。ペトロの言葉を受け入れた人びとは洗礼を受けたのです。それは、主の招きに応え、それを受けたということです。自分は招かれるのに相応しいなどと思ったわけではありません。神様が遣わされた救い主を十字架につけて殺してしまった、そういうどうしようもない、言い訳のしようもない、とりかえしのつかない罪を犯してしまったことを指摘され、愕然としたばかりの者たちです。しかし神様が、主イエスの十字架の死と復活によってその罪を滅ぼして、赦しの恵みを与え、招いて下さっているのです。その招きが、神様から遠く離れてしまっているようなこの自分に向けられているのです。その招きの言葉を受け入れ、感謝して招きにあずかったのです。洗礼を受けるとはそういうことです。そのようにして、洗礼を受け、教会の仲間に加わった人が三千人ほどありました。三千人という数には誇張があるようにも思います。しかし大事なことは、実際に何人だったかではなく、ここに、主イエスによる神様の招きに応えた人びとの群れである教会が生まれたということです。み言葉を聞いて大いに心を打たれ、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」という問いを抱いた者たちに与えられた答えは、教会に加えられ、その一員として生きることだったのです。その教会の姿、そこに集う人びとが何をしていたかを語るのが42節です。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。この42節については、次週、43節以下を読むのに合わせて語ることにしたいと思います。
 「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」。私たちも、み言葉によって大いに心を打たれ、この問いを呼び覚まされたいと願います。そして、「悔い改めて主イエスの名による洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」という招きの言葉を受け入れた三千人の人びとの後に続いていきたいのです。

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