夕礼拝

キリストの恵みと平和

「キリストの恵みと平和」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: 民数記 第6章22-27節
・ 新約聖書: フィリピの信徒への手紙 第1章1-2節
・ 讃美歌 : 3、476

牢獄の中から教会への手紙
 本日からフィリピの信徒への手紙を読み始めます。この手紙は、獄中書簡と言われています。使徒パウロが、その伝道生活の中で捕らえられ、牢獄の中から教会に宛てた手紙です。現在の形通りの手紙があったわけではなく、フィリピの信徒たちに送った3通の手紙をまとめたものであると考えられています。パウロは、繰り返しフィリピの人々に手紙を送ったのです。ここには、パウロと教会の深い結びつきが示されています。手紙と言うのは、多くの場合、手紙を送ろうとする人に対する熱い思いが形になったものです。愛する人や、親しい家族、出来ることならすぐにでも会いたい、遠くにいる友人等に自分の思いを伝えるのです。私たちは、現在、聖書に収められた様々な文書を、信仰の規範、正典として読みます。しかし、この聖書は、キリスト教の教義が体系的に記されているものではありません。新約聖書の多くの文書は、手紙として書かれたものであることを忘れてはならないでしょう。このフィリピの信徒への手紙も、地上に立てられた具体的な教会に愛を込めて書かれた手紙なのです。神学に精通した人が、難しい本と格闘しながらまとめ上げた教理の体系と言うのではなく、使徒として伝道に励んだ伝道者が、福音を伝えたがために獄に捕らえられていると言う伝道活動の真っ直中で、教会に宛てて書かれたものなのです。そのような手紙を聖書として、現在、私たちが読んでいると言うことは、この手紙が、特定の教会に宛てられたものでありつつも、時代や場所を越えて、全ての時代の、全ての場所に立てられた教会にとっての福音であるからです。私たちは、このフィリピの信徒への手紙を、この時代、この場所に建てられた、横浜指路教会への手紙、愛のメッセージとしても読むのです。

一般的な形に従った挨拶
 本日は、1章の1-2節をお読みしました。この最初の2節に、この文書が、紛れもなく手紙であることが記されています。ここには、教会の人々への挨拶が、当時の手紙における一般的な書き方に従って記されています。当時の手紙文の挨拶は、最初に、差出人が誰であるのかが記され、次ぎに手紙の受取手が記され、最後に、祝福が記されるのが一般的でした。聖書に収められている手紙は、どれも、この書き方に従って始められています。手紙には、時代や場所にかかわらず、一定の書式があるものです。現代の日本であれば、「拝啓」と記した後、季節の挨拶記すことによって始めます。そこには、たいてい、定型的な文言が記されます。手紙の書き方を紹介する本が売られているのを目にしますが、普段あまり手紙を書き慣れていない者でも、そこに記された文例をそのまま記すことによって、常識に従った形で、手紙を記すことが出来るのです。パウロの手紙も、当時の手紙の書式に従って記されています。しかし、それらは、全て同じ文言というわけではありません。挨拶だけを読み比べて見ると、差出人、受取手、祝福と言う三つのことを記しながらも、その記し方がそれぞれに異なっているのです。パウロは、これらの挨拶を、熟慮して書いていたのか、それとも、書き慣れた手紙の挨拶を、筆の進むままに記したのかは定かではありません。しかし、確かなことは、パウロは、ただ、手紙の挨拶文の文例をそのまま記すように、同じ挨拶の文言を記したのではないと言うことです。そこには、その時々のパウロの思いが現されているのです。その手紙の書かれた具体的な事情や、その手紙が含んでいるメッセージが、現れていると言っても良いでしょう。それは、私たちが手紙を記す時、一般的な挨拶を記しつつも、相手を思い浮かべる時に、その相手に向けた思いが、短い文章の中に、表されていくのと同じです。

キリスト・イエスの僕
 先ず、パウロは、手紙の差出人について、「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから」と記します。ここで、パウロは自らを「キリスト・イエスの僕」と呼んでいます。僕とは奴隷のことです。この言葉には、パウロ自身が現在置かれている状況が反映していると言うことが出来るでしょう。パウロ自ら、この時、獄に捕らえられていて奴隷のような状態にありました。そして、そのような状況にあることは、パウロ自身が、キリストに仕える者であることの結果なのです。パウロは自分を主人とするのではなく、キリストを主人とし、キリストに従って、福音を語り伝えていたからこそ、事実、獄の中に捕らえられているのです。キリストを主人とすると言うことは、そのことによって、自らに苦難が降りかかる時にも、その苦しみを担うと言うことです。ですから、パウロは、この時、苦境を嘆き、主イエスを恨んでいるのではありません。主イエスの福音を宣べ伝えたがために不幸な目に遭ってしまったと不満を漏らすことはないのです。パウロはむしろ、喜んで、自分自身がキリストの僕であると記すのです。
更に、ここにはテモテの名が記されていることに注目したいと思います。テモテも又、パウロと同じようにキリストの僕として見つめているのです。パウロは、他の手紙においては、テモテのことを「信仰によるまことの子」と呼んでいます。テモテはパウロと同行し、パウロを助けた弟子のような人だったのです。パウロは、手紙を記すに当たって、敢えて、このテモテの名を挙げているのです。つまり、ここでパウロは、この手紙に記されていること、教会に語られる福音が、パウロ個人の考えではないと言うことを明らかにしています。自分自身が到達した知恵や教訓ではなく、キリスト者の群れである教会に注がれている聖霊の働きの中で、自らが使徒として立てられ、その中で福音を伝えていると言うことを意識しているのです。その働きは、自分の力による業ではなく、それ故、自分の名前のみを掲げて行うような業ではないのです。だからこそ、信仰の兄弟であり、共に同じ働きのために仕えているテモテの名を共に記さずにはいられなかったのです。パウロとテモテは年齢において、親と子程の差があったかもしれません。信仰においては、師弟関係があったと言っても良いでしょう。しかし、両者は、キリスト・イエスの僕と言うことでは同じなのです。共に同じ主を仰ぎ、同じ業に仕えているのです。つまり、自分ではなくキリストを主人とする時、人間的な主従関係や、上下関係を超えた、共にキリストの僕として生きることにおいて一致している者、テモテを見出すのです。

全ての聖なる者たち、監督たち、奉仕者たち
 更に、キリストの僕として生きるパウロの姿勢は、受取人についての記述においても明確に示されています。これまで、差出人についての記述を見て来ましが、この記述は、フィリピの信徒への手紙に独特のものではありません。パウロが、自らを「キリスト・イエスの僕」と記したり、テモテを始め、信仰の仲間の名を共に記すことは、他の手紙にも見られることです。むしろ、この手紙が他の手紙と際だって異なる箇所は、続いて記される受取人についての記述にあると言わなければならないでしょう。そこには次のようにあります。「フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ」。このような記し方をしている手紙は他にはありません。例えば、他の代表的なパウロの手紙の記述を見てみると、「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」、とか「コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ」、とあります。これらはいずれも、それぞれに説明が加えられていますが、どれも、「聖なる者たち」、つまり「教会の人々」が一括りにまとめて記されているのです。しかし、フィリピの信徒への手紙の場合は、フィリピ教会の人々について、「聖なる者たち」、「監督たち」「奉仕者たち」と言う三つの者たちが挙げられているのです。「聖なる者たち」とは、教会の信徒たちのことです。「監督たち」「奉仕者たち」とは教会の中で特別な務めに立てられた人々です。「監督たち」と言われていることで、現在、監督制を取る具体的教派教会の制度における監督をイメージする必要はありません。ここでは、当時の教会における指導的な立場にあった人々のことが見つめられていると言って良いでしょう。そして、「奉仕者」と言われているのは、教会の様々な奉仕を中心となって担っていた人々のことであると言えます。私たちはここで、当時のフィリピ教会の制度がどのようなもので、それが今日、様々に枝分かれした教派教会の制度とどのように違うのかと言うことを詳しく見ることは出来ません。ここで注目したいことは、パウロは、フィリピの教会の人々に手紙を書くに当たって、「フィリピにいる聖なる者たちへ」とだけ書かずに、むしろ、その役職、務めに注目していると言うことです。現在、長老主義の伝統を受け継いでいる横浜指路教会において、このパウロの手紙を自分たちに宛てられた手紙として読むのであれば、パウロは、「横浜指路教会に集う人々へ」とは記さず、「横浜にいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての信徒たち、長老たちと執事たちへ」と記したのです。

教会の中での務め
 ここで、パウロは、教会の人々を、務めを挙げて記すことによって、何を伝えようとしているのでしょうか。もちろん、指導的な立場に立つ人々を、特に覚えて記すことによって、それらの人々を励まそうとしていると言うことが出来るでしょう。しかし、更に進んで、パウロはここで様々なつとめが結び合って一つとされている教会の群れを見つめていると言うことが出来るでしょう。教会に集う人々は、それぞれの人に神様から賜物が与えられ、それによって、各自に与えられている務めを果たしているのです。手紙の差出人を記す時、自分一人ではなく、テモテの名を連ねたパウロは、受取人である教会の群れについて記す時に、教会が様々な務めがたてられることによって一つの共同体を形成していることを見つめているのです。ここには、直接記されてはいませんが、教会を「キリストの体」という一つの共同体として捉えるパウロの信仰が現されていると言って良いでしょう。そのことは、受取人を記す、最初の部分に、「キリスト・イエスに結ばれている」とあることから分かります。この群れが、キリスト・イエスに結ばれて一つであり、おのおのが、与えられた賜物によって、この地上において一つの体を構成し、そのことによって、キリストの御業に用いられているのだと言う信仰に立っているのです。

福音の喜び
 このような、パウロの信仰を深く受けとめることは、他の手紙と同様に、この手紙を読んでいく時にも、極めて重要な姿勢です。パウロは、この時、福音のために牢に捕らわれているのです。つまり、人間的に見れば、マイナスとしか言いようのない状態なのです。もし、牢に捕らわれていなければ、もっと自由に活動出来たでしょう。より、活発に福音を伝えることも出来たはずです。しかし、パウロにとっては、牢に捕らえられていることは決してマイナスではありませんでした。このフィリピの信徒への手紙は、獄中書簡と言われています。しかし、同時に、牢獄で書かれたこの手紙は「喜びの手紙」とも言われるのです。事実、「喜ぶ」という言葉が数多く出て来ます。これは、私たちの常識的な見方からすれば矛盾していると言わなければならないでしょう。そして、この常識では考えられないような喜びの根拠こそが、パウロの教会に対する信仰なのです。パウロは、自分自身の業を行い、自分自身の主張を言い広めようとして活動しているのではありません。一つの大きなキリストの体と言う結びつきの中で、キリストの業が進められていることを信じているのです。たとえパウロ自身が牢の中にいたとしても、世に建てられている教会が、力強くキリストを証している。更には、自分が牢に捕らえられているということ自体も、教会の働きの中で大きな意味があることであり、そのことによっても福音が力強く世に示され、神様の御業が進んでいることを信じることが出来るのです。もしパウロが、自分の業を進めようとして、自分の力だけを頼りに歩んでいたとしたら決して喜びを記すことはなかったでしょう。

自己完結しない信仰
 更に、パウロは、自分自身をキリストの僕として、自分の業は自分だけのものではないことを弁え、教会を信じる信仰に生きているからこそ、パウロは、福音を伝える働きにおいて自己完結することはなかったと言うことが出来ます。自らをキリストの僕とすることは、共に僕として生きるテモテを見出すことであり、キリストに仕える歩みにおいても、決して自己完結しないと言うことなのです。このようなパウロの信仰は、聖書が語る福音の中心的なことでもあります。私たちは、とかく信仰を個人のこととして考えがちです。聖書の御言葉に接する時も自分自身の心の修練のために御言葉に接したり、自分の人生をより豊にするという目的のために聖書を読んだり、又、自らが生きて行く上での指針、在るべき姿を知ろうとして聖書から教えを聞こうとします。もちろん聖書の御言葉には、そのような側面があるでしょう。しかし、ただ、聖書を自分のために読み、自分自身だけを見つめていたとしたら、本当にパウロが生きた信仰が生きられることはありません。たとえキリストに従おうとしていても、私たちが、自分のみを見つめ、自分のことだけが見つめられているのであれば、その限りにおいて、自分を主人として歩んでいるのです。そして、そこには、確かに、自己満足はあるかもしれませんが、真の喜びは生まれないのです。むしろ、そこには、自己完結しようとする人間の罪が明らかになると言うことも起こるでしょう。場合によって、主イエスに対する奉仕においてさえ、自分と他人を見比べる思いが生まれ、怒りや、嫉みが渦巻くことにもなるのです。 自分自身の歩み、自分自身の生が大きなキリストの御業の中で用いられている。教会と言う神の民の中に位置づけられていることを知らされていく時に、本当に聖書が語る福音に生かされることになります。自分のことだけを見つめ、自分の歩みのみを考えて、聖書に接するような姿勢でいたとしたら、例えばパウロが置かれたような牢獄に捕らえられると言う状況、自分の人生においてマイナスとしか思えない状況は、喜べるようなことにはならないでしょう。しかし、もし、自分が神の御業の中で用いられていると言う信仰に生かされるのであれば、人間的に見た時の不幸や、マイナスとしか考えられないような状況も、喜びとなるのです。

主イエス・キリストの恵みと平和
 テモテを見つめ、聖なる者たち、監督たち、奉仕者たちを見つめるパウロの信仰に生きる時、私たちは、キリストを主人とする僕として、キリストを頭とする教会の働きの中に連なっているのです。そうであれば、あらゆることは喜びとなるのです。私たちの信仰とは、この喜びに生かされていくことなのです。それは、キリストにある恵みと平和の内を歩むことに他なりません。挨拶の締め括りでパウロは祝福を語ります。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。これは本日お読みした旧約聖書民数記には、祭司であるアロンの子らに、主の民であるイスラエルを祝福する時の文言が記されています。そこにも、主なる神が恵みと平安を神の民イスラエルに賜るようにとの文言が語られています。イスラエルの民は、この恵みと平和という言葉をもって語られる祝福の下を歩んで行くのです。そして、教会は、新しいイスラエル、神の民として、同じように、神の恵みと平和の内を歩むのです。ここでパウロが告げる、恵みと平和は、主イエス・キリストからの恵みと平和です。主イエスが、十字架で死に、復活なさることによって成し遂げてくださった救いの出来事が見つめられています。そして、キリストの救いの恵みに共にあずった者たちが、その恵みを受けつつ、共にキリストの体なる教会の枝とされて、神様の御業に用いられていくのです。ここには、教会に集められた人々に与えられている賜物が、共に、一つのキリストの恵みにあずかることによって与えられているものであると言う信仰があります。一つの恵みが分与されているのです。そして、そのような信仰に生きる時、真の平和に生きる者とされるのです。救いにあずかることによって、神さまとの平和を与えられていると言うだけではありません。同時に、人々との平和も与えられていくのです。集められた人々が、同じキリストの恵みに共にあずかってキリストに仕えている時、そこでは、自分の成功、プラスと思えることを誇ったり、他人のそれを嫉んだりすることはありません。又、自分の失敗やマイナスに見えることを嘆いたり、他人のそれを裁くこともありません。全てが恵みのもとに置かれていることを喜ぶ者とされるのです。

教会を信じる信仰に生きる
 私たちは、福音に接する時、教会を信じる信仰に生き始めます。この教会の交わりは、ただ人間的な親しさによって結ばれる交わりではありません。たとえ人間的な親しさがなかったとしても、それでも共に一つの群れとされ、共に、キリストの働きを担っている。そのような信仰に生かされていくのです。
 本日、共に聖餐に与ります。これは、主イエス・キリストが、私たちのためにキリストが死んで下さったことを覚えつつ、その十字架の死に与るために定められたものです。本来、この聖餐は一つのパンを分け合う形で守られていました。この聖餐に与ることは、キリストの十字架の贖いと言う恵を知らされることでありつつ、私たちが一つのキリストの体の部分であること、一つの恵を分け合う者たちであることをも知らされていくのです。 私たちは、時に、自分の歩みを進めることに奔走してしまいます。信仰を個人的なものとして捉え、信仰生活において自己完結しようとし、そのようにして自らを主として歩もうとしてしまいます。しかし、そのような者に、パウロは手紙を通して、福音の中心を語りかけるのです。そして、絶えず、パウロが生きた、教会の信仰を与えられ続けて行くことこそ、私たちの信仰生活において大切なのです。自分が、自分の業ではなく神様の福音宣教に用いられているのであって、それは、教会と言う一つの大きな共同の働きの中にあるのだと言うことを知らされて行く時、私たちもパウロやテモテと共にキリスト・イエスの僕として生きているのです。そのようなキリストの僕としての生き方は、真の恵によって、どのような状況にあっても、喜んで平安の内を歩む歩みを生んでいくのです。

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