夕礼拝

最も重要な掟

「最も重要な掟」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 申命記 第10章12―22節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第22章34―40節  
・ 讃美歌:355、481、81

ファリサイ派とサドカイ派
 本日はご一緒にマタイによる福音書第22章34節から40節の御言葉に聞きたいと思います。本日の箇所にも、ファリサイ派人々、またサドカイ派の人々が登場します。ファリサイ派の人たちとは当時の聖書、私たちにとっては旧約聖書ですが、旧約聖書の中でも比較的新しく書かれた書物、ユダヤ人たちの間で言い伝えられてきた教えを受け入れ、重んじていました。そして、ファリサイ派の人たちは主イエスの言葉じりをとらえて、罠にかけよう、主イエスを陥れようとした人々です。本日の箇所はこの直前の箇所と話と同じに日に起きている事柄なのです。サドカイの人たちも登場しますが、サドカイ派の人々は、旧約聖書の最初の五つの書、創世記から申命記までの「モーセ五書」、にある「律法」を重んじていました。「律法」を基準とし、律法に書かれていないことは受け入れないという姿勢でした。ファリサイ派とサドカイ派では、同じユダヤ教でありながらも、立場が異なり、時折論争を繰り返していました。  ファリサイ派、サドカイ派もそれぞれの主義主張がありますが、両者とも当時の指導者的立場であった人々です。ファリサイ派はやがて、主イエスを十字架に架けるように策動した人たちです。そのファリサイ派がサドカイ派と一緒になって、共同謀議をして、主イエスに迫ったのです。そのきっかけは、本日の最初の箇所にもありますように「イエスがサドカイ派の人々を言い込められた」(34節)と聞いたからです。ファリサイ派とサドカイ派はそれぞれの主義や主張が違っていたために、同じユダヤ教の中でもむしろ対立関係にあったのです。そのような対立関係にあったサドカイ派とファリサイ派とが、ここでは主イエスを十字架に架けることにおいて手を結んで、結託していく様子が記されています。普段は対立関係にあったサドカイ派とファリサイ派がここで、一緒に集まり、主イエスを試そうとしているのです。

どの掟が一番大切か
 35節にあります。「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。」(35節)「そのうちの一人」とは、ファリサイ派に属する一人でありました。主イエスへの質問の意図も、「試そうとして」と記されています。主イエスがこの問いを受けたのは、試されるためであったと言うのです。ファリサイ派に属する一人は、主イエスに対して「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と尋ねました。主イエスは『「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。』と言われました。続けて、『第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。』と言われました。まず、ファリサイ派に属する一人が主イエスに「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と尋ねましたが、ファリサイ派は律法の専門家であるのに、このような質問を主イエスにするのは少しおかしいと思います。当時は、律法の戒めには613もの戒めがありました。そして、その613の内の248の律法は、積極的にしなくてはならないことを命じています。そして、365の律法はしてはならないと禁じられていたものでした。それだけのものをとても覚えていることは出来ないので、律法の専門家が必要だったのです。あまりにたくさんのことを教えられるとかえって覚え切れなくなる。どうしたら良いのか、分からなくなってしまいます。更に、この613の戒めの適応については、更に各種の意見があって、それによって学派が出来るほどであったのです。例えば、マタイによる福音書の15章の始めには「父と母を敬え」という十戒に対して、「あなたの差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言えば、そちらの方が優先するという解釈をファリサイ派はしていたのです。

全身全霊をもって神を愛せよ
 「どの掟が最も重要でしょうか。」という質問に対して、主イエスは『「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。』と言われました。主イエスはここで、イスラエルの人ならば、誰も知っているような、基本的な戒めをあげられました。この戒めは旧約聖書の申命記第6章4節以下にある有名な教えです。6章4節をお読みします。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。」とあります。この「聞け、イスラエルよ。」という最初の言葉は、ヘブライ語で「シェマー」という言葉です。一般的に「シェマー」と言えば、この戒めを指すというほどに著名なものでした。しかも、この少しの箇所ではこの掟を「子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(申命記6:7-9)と命じられていたものです。この箇所では、全身全霊をあげて、ただひたすら神を愛せよという神様への愛を命じているのです。このようにイスラエルの家庭において、その教育の根幹に、神様を愛するということが命じられ、具体的に父親によって実行されていたのです。主イエスが受けた質問への返答とは、このように当時の誰もが良く知っていた戒めでありました。

隣人を愛せよ
 そして、主イエスが続けて、第二の戒めとして言われたのは「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」という戒めでした。「隣人を自分のように愛しなさい」ということです。この教えは、旧約聖書のレビ記第19章の18節にあるもので、先ほどの「シェマー」ほど有名なものではなかったようです。この戒めを第1の戒めである「シェマー」と結びつけて、最も重要なものとしたところに、主イエスの新しい洞察がありました。そして、最後に「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と主イエスは言われました。「律法と預言者」とは、当時のユダヤ人にとっての「聖書」の全体を指す言葉、私たちにとっては旧約聖書全体という意味です。この「基づいている」という言葉は、以前の口語訳聖書では「かかっている」と訳されていました。元の言葉の意味はまた「ぶら下がる」という意味です。旧約聖書の教えの全体が、この2つの掟にかかっっている、ぶらさがっているということです。この教えがなければは下に落ちてしまう。この教えによって、旧約聖書全体を支えるということです。旧約聖書には色々な戒めが記されています。その中で結局はこれらの2つの教え、神様への愛、そして人への愛ということに帰結するのだという意味です。

十戒の構造
 この神様への愛と隣人への愛という二つの基本的な戒めに旧約聖書の全体の、いわばエッセンスがあるのだと主イエスは言われました。この主イエスのご指摘は、改めて私たちの目を、例えば、十戒、主の祈りの構造に向けさせてくれます。十戒は律法をまとめた、神様の言葉を表すものです。この律法の戒めは二つに分けることができます。前半の戒め、まず第一戒の「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」、次に第二戒「あなたはいかなる像も造ってはならない」、第3戒の「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」第四の「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と言う前半の4つの戒めを指します。そして、この前半は神様に関する戒めです。つまり、神様への愛を規定したものです。そして、後半は隣人に関する戒めです。第5の戒め「父と母を敬え」というのは前半にも後半にも属する戒めですが、ここでは後半の戒めに含めますが、第5戒「あなたの父母を敬え」第6戒「殺してはならない」第7戒の「姦淫してはならない」第8戒「盗んではならない」第九の「隣人に関しては偽証してはならない」第十戒の「隣人を家を欲してはならない」が後半の戒めです。この後半六つの戒めは隣人に関する戒め、つまり隣人への愛を規定したものです。この二つの要素が十戒を構成しています。

主の祈りの構造
 また、私たちが礼拝の度に唱えている主の祈りも同様の構造を持っています。最初の三つの祈り、「御名を崇めさせ給え」「御国を来たらせ給え」「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」はすべて、神様を真実に神として、遇することが出来ますようにという神様への愛を祈るものです。また、また後半の三つ、「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」「われらに罪を犯すものをわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」はいずれも隣人の間にあって生きる私たちのために捧げられる祈り、隣人への愛を祈る祈りです。日用の糧の祈りもまた、自分と自分の周囲にいる者たちの祈りということではないのです。隣人のために日々の糧のことを祈る、隣人のために祈ることによって、初めて、生存競争のために隣人を蹴落として生き残れますようにという祈りではなく、隣人と共存して生きていけますようにという意味を明確にするものとなります。主の祈りも十戒も、神様への愛のための祈りと、隣人への愛のための祈りが一体となっているのです。

1つのもの
 神様への愛とは、私たちの目には見えない神様を全身全霊をあげて愛するということです。信仰とはそのようなものです。神様を愛するという戒めは、神様との垂直の関係をもっとも明らかにしている戒めです。隣人への愛ということは、私たちの目の前にいる隣人を自分のように愛する、隣人の負っている重荷を他人事としてではなく、自分の問題、重荷として受け止め、共に担う姿勢を持つという、極めて具体的なことなのです。神様との関係が垂直的な、縦の関係であれば、この隣人との関係は水平的な、横の関係です。通常は、このような垂直面と水平面が分離され、神様への信仰の生活と私たちの日々の隣人との生活ということが別々のことになってしまうことも少なくありません。けれども、主イエスは聖書のエッセンスはこれらの垂直の関係、神様との関係、つまり信仰と、横の隣人との関係、日々の歩みとが、決して分離されるものではなく、1つである。一体である、ということが示されています。目に見えない神様への愛と、目に見える隣人への愛とは、決して別々のことではなく、1つのものなのです。ヨハネの手紙一4章20節には「目に見える兄弟を愛さない者は、目身見えない神を愛することができません。」と言っております。神様への信仰の生活とはまさしくこの世における日々との隣人との関係なのです。そして、また隣人との関係とは、神様との関係、信仰による関係を表すものなのです。  主イエス・キリストは私たちに教えを示され、この事実を明らかにして下さいました。主イエス・キリストは自ら、この垂直の関係、神様との関係と水平面の隣人との関係の交錯するところにお立ち下さいました。主イエス・キリストはまことの神であり、まことの人です。このお方が、この縦と横の交錯する十字架の主として、本日の教え、神を愛する、隣人を自分のように愛せよと語って下さっています。

大切な戒めを大切にしているか
 けれども、主イエスの教えて下った重要な二つの戒めをこの世界の誰が完璧に守ることができるでしょうか。日々の歩みを振り返って、私たちの現実はどうでしょうか。心や精神や思いの全てを傾けて神様を愛していると言えるでしょうか。もちろん、私たちの中に神を愛する心がないとは言えません。けれども私たちはなんと多くの時を神様以外のものに心を奪われて、愛することが出来ていないでしょうか。もし自分は、神様を愛していると胸をはっきり言うのであれば、それは単なる傲慢です。私たちには生まれつき、神様を愛することが出来ない本性があります。それが私たちの罪なのです。私たちは自分自身が一番、そのことを知っているのではないでしょうか。隣人との関係においても同じです。果たして私たちは自分を愛するように、隣人を愛しているでしょうか。普段の生活では、隣人に対して愛の行為、業を行うということ意識しつつ、信仰者らしく歩もうとしていると思います。けれども、いざという時、また自分が困っている時など、どんな時も隣人を愛するというのは本当に難しいことです。隣人への愛を、自分を愛するように貫くということは、簡単なことではないでしょう。私たちは神様を愛することにおいても、人を愛することにおいても欠けの多い者です。愛することができないだけでなく、ファリサイの一人のように、主イエスに対しても実は敵意、憎しみを抱く者なのです。私たちは本当に主イエスの教えから遠い所に生きています。

律法の完成者
 主イエスはそのような人間を罪から救うために、憎しみの闇から、敵意の連鎖から救い出して下さるために十字架の道を歩まされました。主イエスご自身がその生涯をもって究極の愛を示されました。主イエスは、この福音書の第5章17節で、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われました。「完成させる」ということには、前のものを受け継ぎ、引き継ぐという面と、それを変え、新しくするという両面があります。旧約聖書の律法を受け継ぎつつ、しかしそれをそのままではなく、新しい、完成されたものとするのが主イエスの教えです。本日の箇所は主イエスは私たちの罪をすべて背負って十字架にかかって死んで下さるために、十字架の死への最後の一週間を歩んでおられる場面です。主イエスの受難の歩みの中で、このような教えが語られています。神様が、心や精神や思いのみでなく、独り子の命を捧げ尽くして、私たちを愛して下さったのです。そのような神様を私たちはどのようにして愛することができるでしょうか。この世の歩みにおいて、自分に与えられた賜物を生かしつつ歩むことでしょう。それも大切なことです。けれども、最も大切なことは、神様を愛し、隣人を自分のように愛することです。神様を愛するとは、どういうことでしょうか。英語では、礼拝も奉仕もサーヴィスと言います。ドイツ語でも、礼拝は神奉仕と言われます。礼拝において、結集される神様への愛をますます明らかにします。そして、その神様への愛と決して切り離すことができない、与えられた隣人への愛の業において現わしていくことができますように。十字架の主を仰ぎみつつ、歩んで参りたいと思います。

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