「満たしてくださる主」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; 列王記下 第4章42-44節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第6章30-44節
・ 讃美歌 ; 56、198
はじめに
本日お読みした箇所には、主イエスが、二匹の魚と五つのパンで五千人もの人々を満腹させたという出来事が記されています。主イエスがその場にあった五つのパンと二匹の魚を割き皆に配ると、五千人の人々が満腹し、さらに、パンの屑と魚の残りを集めると十二の籠が一杯になったというのです。福音書には多くの奇跡物語が記されています。数々の奇跡物語の中でも、この物語は、最も良く知られた物語の一つです。新共同訳聖書は、内容のまとまりごとに区切りがもうけられ、それぞれに小見出しが付けられています。その脇には、他の福音書の並行箇所が記されています。本日の箇所を見ますと、「五千人に食べ物を与える」と記された後に、マタイ、ルカ、ヨハネそれぞれの福音書の並行箇所が記されています。この物語は聖書に収められた四つの福音書すべてに記されている唯一の出来事なのです。全ての福音書に記されていることに加えて、マルコによる福音書においては、第8章で、再び、これと同じような出来事が記されています。そこには、主イエスが四千人の群衆を七つのパンと少しの魚で満腹させ、残ったパン屑を集めると七籠になったとあります。これらのことは、主イエスによる給食の出来事が、その場にいた人々を捉え、語り継がれていたということに他なりません。この出来事を体験した弟子達や人々の心に深く刻まれ、繰り返し語られ、繰り返し聞かれたのです。そして、その度に主イエスの恵を深く知らされていったのです。
私たちの戸惑い
この物語は、人々から好まれ、語り継がれている一方で、ここに記されていること程、私たちが理解しにくいこともないのではないでしょうか。私たちは、聖書によって、主イエスがなさった様々な奇跡の出来事を知らされます。主イエスによって悪霊を追い出される、病を癒される等の出来事が記されています。それらは確かに、私たちに戸惑いを引き起こすことがあります。しかし、信仰生活を送る中で、このような物語が語っている主イエスの力に触れることは少なくないと思います。病の中で、医療行為がなされることはもちろんですが、それに加えて、主イエスに対する信仰が与えられたことによって内面から健やかにされて、闘病生活を闘い抜き、病が癒されるという体験をするということがあるでしょう。又、それを悪霊と認識するかは別として、私たちを罪に誘う力から、御言葉を聞くことによって解き放たれたというような体験をすることもあるでしょう。病の癒しや悪霊追放の出来事は、信仰生活の中での私たち自身の体験として受け入れやすいと思うのです。そのような主イエスの業に比べると、五千人の給食というのは、少し理解しにくいと思います。主イエス・キリストを信じていない人には、馬鹿げた話にしか思えないと感じる方もいるでしょう。主イエスを信じている者にとっても、この物語をどのように聞いたらよいかと思い巡らし、困惑してしまうことがあるかもしれません。実際、この話には、実に様々な解釈や説明がなされているようです。実は皆が少しずつ弁当を持ってきていたのだと説明されることがあります。皆で分け合うことによって精神的に満たされたとの解釈もあります。しかし、そのような説明から導き出されるのは、せいぜい、恵を皆で分かち合おうという教訓じみたことでしかありません。私たちも時に、奇跡を自分の常識に従って、そのような解釈や説明をしようとしてしまうのではないでしょうか。しかし、主イエスのなさった、パンの出来事は、私たちの常識で考えて、自分の納得がいく説明や解釈を加えることによって理解することはできないのです。
弟子達の無理解
この時の主イエス弟子達もパンの出来事を理解しませんでした。この物語の直後には、主イエスが湖の上を歩かれるのを見た弟子達が非常に驚いたことが記されています。その最後52節に「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」とあります。弟子達もこの出来事を理解することが出来なかったのです。ここで、弟子達の心の鈍さが見つめられています。心の鈍さの故に、主イエスのなさる事を理解できないのです。ここで言われている「心の鈍さ」とは、どのようなものでしょうか。それは、主イエスが、神の子として、救いの業をなすために働かれていることが分からないということです。弟子達は、今まで主イエスと共に歩み、その業を見てきました。ただ見ていただけではありません。自分たちもその働きを担っていたのです。そこで主イエスによって授けられた権能で奇跡を行っているのです。本日の物語は、弟子達の報告によって始まっています。「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」。マルコによる福音書6章7節以下には、主イエスが十二人を呼び寄せて、汚れた霊に対する権能を授けて、派遣されたことが記されています。この十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教し、多くの悪霊を追い出し、多くの病人を癒したのです。そこでは主イエスがなさった業と同じ業をなしたのです。しかし、このような弟子でさえパンの出来事は理解出来なかったというのです。
主イエスがなさる業
このパンの出来事の一つの特徴は、この業が人々の求めに応じる形でなされた奇跡ではないということです。聖書には、人々の願望に応える形で主イエスがなさる奇跡が記されています。病を癒すとか、悪霊を追放するという奇跡は、たいていそのようなものです。しかし、今日お読みした奇跡は、少し性格が違います。人々は確かに主イエスを求めてやってきたのです。しかし、ここで人々は、食べ物が与えられることを求めていたわけではありません。空腹ということはそれほど深刻に捉えられていないのです。食べ物が与えられなくても、餓死するという訳ではありません。近くの村に行って食料を買えばよいのです。又、願い出る人々に答える形で、主が奇跡をなされる聖書箇所を読むと、多くの場合、癒された人の喜びや、そこに居合わせた人々の驚き、讃美の声等の人々の反応が記されています。しかしパンの出来事においては、この場にいた人々の反応が記されていません。五千人が満たされ、十二の籠がいっぱいになるという驚くべきことが起こっているにも関わらず、驚き、喜び、感謝、讃美と言ったことが記されていません。主イエスは人々の願いを聞き入れてこのことをなさったのではないのです。この奇跡は、誰かの求めに答える形でなされるのではなく、周囲の者が誰も理解しない中で、主イエスの方が働きかけておられるのです。私たちは日々の生活の中で、主が働かれるということを忘れてしまいます。自分の求めが満たされる、病が癒されたり、悪霊の力によるとしか言えない艱難から解き放たれたりすることがあれば、そこにある神の働きを感謝することが出来るかもしれません。しかし、自分の思いを超えたところで、主が恵で満たし、それを溢れさせて下さっているということは理解できないことが多いのではないでしょうか。いつの間にか、主の業ですら自分が捉えられるものに限ってしまうのです。私たちが理解しない中で、真の奇跡がなされているということがわからない。主によって満腹させられている。にもかかわらず、そこに神の救いの業がなされているということを理解しないのです。この出来事を通して、私たちが示されるのは、私たちが求める以前に、私たちが理解するかしないかに関わりなく、人間の思いを超えた所で、主なる神の働かれるということです。
主の業に仕える
主が私たちを満たすためになされている働きを理解できない時、私たちは、自分の力で全てのことをなしているかのように錯覚し、自分の力にのみ頼るようになります。弟子達が、主イエスによって派遣される際、主イエスは、杖の他何も持って行ってはならないと命じられていました。様々なものを身につけていくことで、主なる神に頼るよりも、自分の持っているもの頼り、自分自身の業をなしてしまうことがあるからです。何も持たないことによって主に委ねることによって主の働きに仕えることが出来るからです。そして、主によって授けられた権能によってなした業だからこそ、多くの成果があったのです。十二人はその成果を報告したのです。しかし、弟子達は、主の業をなしていながら、いつの間にか、それが主の働きであることを忘れてしまったのではないでしょうか。「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」と記されてあります。いつしかそれがまるで自分の力によってなした、自分自身の業のように思えてしまう。それらがあたかも自分のなした働きであるかのように報告したのです。自分は用いられているのであり、働かれているのは主なのであるということを見失って、自らを誇る思いにとらわれていたかもしれません。
自分の思いによって
主の働きを理解しない弟子達は、主イエスと食い違ったやりとりをします。報告を終えた弟子達に対して、主イエスは休むように言われます。一同は舟にのってこぎ出すのです。ところが人々は、行く先に先回りして、駆けつけてくるのです。主イエスは自らの周りに集まってきた群衆の、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、教えを語られます。そのような中で、日が傾いて来たころ、弟子達は、人々を帰らせて、近くの村に食べ物を買いに行くようにさせようと、主イエスに提案するのです。それに対して、主イエスは、弟子達の提案を聞かずに、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と語られます。この主イエスの言葉に対して、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と問います。主は、自分たちに、五千人分の食べ物を買って来させようとしていると考えたのです。弟子達は、本当に主イエスに委ねて主に仕えるよりも、自分自身の考えや判断を優先させているのです。自分の常識において主イエスがなさろうとしていることを先走って判断しているのです。そして主がなさろうとしていることと全く異なることを考えてしまうのです。主イエスに従う歩みをしていながら、心が鈍くなる中で、主の働きに自らを委ねることが出来ずに、主の思いと全く異なる思いを抱くのです。
休息の中での祈り
主イエスは、弟子達に、「人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われていました。ここで、主イエスは、ただ肉体的に休ませようとされたのではありません。「人里離れた所」というのは、マルコによる福音書においては主イエスが祈られた祈りの場所でもあります。主は弟子たちに祈ることを求められたのです。それは主なる神との交わりを持つということです。そのような中で本当の休息を取るように言われたのです。自分の力のみで歩み、自分の働きの成果を誇るところでは、真の安らぎが得られません。主が働かれていることを忘れて、自らに頼って忙しく働く中で、本当の働き手を見失ってしまっている弟子達に、主なる神と向かい合う時を持たせようとされたのです。
しかし、この時、ゆっくり祈り、休息するどころではありませんでした。人々が、全ての町から一斉に、無我夢中に主イエスを求めて駆けつけて来たのです。飼い主のいない羊のような群衆が、真の主を見いだせないまま追いかけてくるのです。救いを求め、先回りして主イエスのもとにやって来るのです。主イエスはそのような人々に教えを語らます。語られるだけでなく、弟子達に命じ、人々を、青草の上で、百人、五十人と組になって座らせます。そして、主イエスは、「天を仰いで讃美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子達に配らせた」のです。ここで弟子達にしてみれば、追いかけてきた群衆によって、本来、与えられようとしていた休息が妨げられたという風にも見ることが出来ます。しかし、そうではありません。この出来事の中に真の休息があるのです。
礼拝の交わりの中で
主イエスはここで、教えを語り、飼い主のいない羊のような群衆を青草の上に座らせます。羊飼いが羊を導くように、人々整列させたのです。そして、天を仰いで、讃美の祈りを唱えます。そして、パンを割き、弟子達を用いてパンを配られたのです。ここには、私たちが守る礼拝が示されています。礼拝の交わりとは、主イエスが整えて下さる食卓に招かれ、共にそれに与ることです。主の教えを聞き、共に食卓を囲むことで、真の礼拝がなされるのです。
詩編23編は次のように続きます。「主は羊飼い、わたしには何もかけることがない。/主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとり伴い/魂を生き返らせて下さる。」
結果として、ここで、主イエスは礼拝する交わり形作ることによって、ご自身を示し、人々だけでなく、弟子達に自らの業を示しておられるのです。礼拝において、主の下に集うことによって憩うということは。主イエス・キリストの十字架と復活の出来事が示されることによって起こります。
弟子達の歩みは、主イエスのなさる業を理解せず、主イエスを裏切る歩みでした。主イエスが十字架につけられ、復活されるまで、本当の意味で主イエスのことを理解できなかったのです。主イエスは、そのような、主イエスを理解しないで、自分たちの思いに従って歩む人々の罪によって十字架に架けられたのです。この十字架の出来事がなされた時、弟子達は誰もこれが人間の救いの出来事だとは理解しませんでした。弟子達は、主イエスを見捨てて逃げてしまいます。ただ復活して罪と死の力に勝利された主と出会うことによって、弟子達は、主がなして下さる本当の救いの業を知らされたのです。主を理解せず、自分の思いに従って歩む者の罪を赦すために、主が十字架に架かり救いを成し遂げて下さっているということを知らされたのです。そして、これこそ、主が、私たちに与えて下さる恵なのです。この恵によって、私たちは満たされるのです。
弟子達を用いられる主
ここで、注目しなくてはならないのは、この業をなす時、主イエスは、終始、弟子達を用いられたということです。弟子達に命じて、人々を整列させて座らせ、弟子達に裂いたパンを渡して配らせたのです。主イエスは、主の業に仕えていながら、それを自分の手による業としてしまう弟子達の手を用いて、ご自身の業をなさるのです。主が、この世で業をなさる時、人々が用いられます。主が用いる人々は、主が働かれていることを理解しないものたちです。しかし、それでも尚、主は、ご自身を示し、弟子たちを用い続けられるのです。それは、この方が、真の主の救いを理解しない者のために、十字架にまで架かって下さった方であり、そのことによって、私たちを贖って下さった方だからです。その恵を繰り返し示して下さることによって、日々新たに主の働きに用いて下さるのです。
おわりに
先ほど引用した詩編23編は次のように結ばれています。
「命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。」
「恵みと慈しみはいつもわたしを追う」。本当の羊飼いを見いだす。自らの主が示され、それを見いだす時、この詩を自分のこととして歌うものとされます。私たちが、自分の力によってのみ様々な業をなしていると錯覚し、主のなさる奇跡を理解しない者であったとしても、主の恵が、私たちを追うことを知らされるのです。礼拝において、主イエスと出会う中で、今日も、私たちの罪が主イエスによって赦されていることを示されます。この方が、必要な糧を与えて下さり、恵を溢れさせて下さるのです。主を理解し得ない者が、主の恵で満たされつつ、神様を礼拝する交わりに加えられ、更に、主イエスの溢れる恵を配る者とされるのです。そのような中で、主の働きの中に加えられて行くのです。それは、まさに奇跡としか言いようのない主の救いの業なのです。