夕礼拝

信仰のないわたしを

「信仰のないわたしを」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 詩編 第61編1-9節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第9章14-29節
・ 讃美歌 ; 12、440、79

 
山の下での議論
 主イエスの弟子たちと律法学者たちが議論をしています。この議論の時、主イエスはこの場にいませんでした。主イエスは、弟子たちの中からペトロとヤコブとヨハネだけを連れて高い山に上っていたのです。山の上では、三人の弟子たちは、主イエスが栄光に輝く姿を見、「これはわたしの愛する子。これに聞け」という声を聞いたのです。主イエスが栄光に包まれ、神の子としての権威が示されたのです。そして山から下りて来た時の状況が14節に記されています。「一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた」。主イエスと三人の弟子が山から下りると、山の麓にいた弟子たちと律法学者が議論をしていて、群衆が回りを囲んでいたのです。主イエスが「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えます。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれていて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」。悪霊に取りつかれている息子をもつ父親が弟子たちの所に来て、何とかしてほしいと頼んだのです。しかし、弟子たちは、その悪霊を追い出すことが出来なかったのです。そこで議論が起こったのです。おそらく、主イエスの弟子たちが、悪霊を追い出すことが出来ないので、「何故主イエスの弟子なのに癒すことが出来ないのか」が問題となったのです。山の上で、主イエスの神の子としての権威が示されている間、山の下では、悪霊を追放出来ない弟子たちのことを巡って議論がされていたのです。そこには神の権威が示されることはなかったのです。

悪霊を追い出す
 ここで、この子供の症状から、子供が具体的に何の病だったのかと思いめぐらすことは、それ程重要なことではありません。重要なのは、「悪霊の力」が見つめられていることです。悪霊というのは、一言で言ってしまえば、私たちを試み、罪に誘い、神様から引き離そうとする力のことです。この力は、神様に信頼すること、神様を信じることをやめさせようとするのです。聖書は、様々な病や障碍に苦しむ人々を記します。しかし、そこにおいて問題にされているのは、私たちを神様から引き離そうとする悪霊の力です。本日の箇所でも具体的な病の症状と悪霊の力が結びつけられているのです。このことは、私たちにはイメージしにくいことです。しかし、私たちも、しばしば、病を始めとして、様々な不幸や困難の中で、神様から離れます。何故自分がこのような苦しみを負わされるのかとの思いから、神様を見上げることが出来なくなります。神様から見捨てられたと思うこともあるでしょう。そこには、私たちが意識するにせよ、しないにせよ、神様を見失わせようとする悪霊の働きがあるのです。そして、「悪霊を追い出す」というのは、そのような、私たち人間を神様から引き離そうとする力を排除することです。この悪霊の追放こそ、主イエスがなさる宣教の業なのです。マルコによる福音書の第6章には、主イエスが十二人の弟子たちを宣教に派遣されたことが記されていました。そこには、「その際、汚れた霊に対する権能を授け」とあります。さらに、「十二人は出かけていって、悔い改めさせるために宣教した。そして多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」とあります。主イエスの宣教の目的は、悪霊を追放し、人々を神様の下に立ち返らせることなのです。主イエスは、病を治す有能な医者として来られたのでも、奇跡的な業によって人々を引きつける煽動家として来られたのでもありません。人々を悪霊の力からを解放し、罪の中にある者に信仰を与えて神の下に立ち返らせることによって神様の支配を実現するために来られたのです。宣教とは神様と人間を引き離そうとする力と闘いつつ、神様の御支配を実現していくことなのです。主イエスの弟子たち、そして、現代の教会も、その業に仕えているのです。

弟子たちの不信仰
 しかし、この時、弟子たちは悪霊を追い出すことが出来ませんでした。力強い神の業が現されることなく、人間のむなしい議論だけが行われていたのです。なぜ、ここで弟子たちは、悪霊を追い出せなかったのでしょうか。そもそも、弟子たちは、宣教のために遣わされた時は、悪霊を追い出す権能が授けられ、それによって多くの悪霊を追い出していたのです。主イエスの権威によって、伝道の業に参与していたのです。しかし、この時はかつて出来たことが出来なかったのです。その理由は、主イエスに仕えている中で、弟子たちがいつしか、悪霊追放の業が、「神の権威」によってなされていることを忘れてしまったからです。伝道の業を自分の力でしているかのように錯覚してしまったのです。授けられる神様の力によってではなく、自分の力でしてしまったのです。この時、弟子たちが、神の権威によってではなく、自分の力で、主の業をなしていたことを明確に示すのが、28節以下です。弟子たちがひそかに「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねます。それに対して主イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と答えられます。悪霊、私たちを神から引き離す力は、祈り以外のことによっては追い出せないというのです。弟子たちが祈っていなかったから悪霊を追い出せなかったというのです。この時、弟子たちは全く祈っていなかったのではないと思います。しかし、主イエスが語られる意味では祈っていなかったのです。ここで弟子たちが祈っていたのかどうか、祈っていたとして、それがどのようなものであったのかは知ることが出来ません。しかし、ここで主イエスが言う「祈る」とは、自らの力で何とかしようとするのを止めて、神様に委ねることによって、自分自身を神様に明け渡すことです。弟子たちは、そのような祈りをしていなかったのです。ここで言われている祈りとは、このような仕方で祈れば良いとか、この文言を祈っていれば良いと言うようなものではありません。どのような仕方で、どのような文言で祈っていても、そこにおいて、真に主に委ねつつ、自らを明け渡していることが大切なのです。このこととの関連で、思い起こすのは、主イエスが多くの人々を、その場にあった僅かな食料で養われた給食の出来事です。そこで、主イエスは「天を仰いで讃美の祈りを唱え」ました。主イエスも又、祈りによって父なる神に委ねつつ、御業をなさったのです。

不信仰な時代
 主イエスは、悪霊を追い出せなかったことを議論している弟子たちの不信仰を嘆かれます。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい」。主イエスは祈らない弟子たちを嘆きつつ、「信仰のない時代」と言われます。祈りがないとは、信仰がないことなのです。主イエスが受難予告をされ、もうすぐ殺されようとしている。もう弟子たちとは一緒にいられなくなるにも関わらず、弟子たちは祈らずに、不信仰の中にあるのです。ここで、「時代」、と言われているのは特定の時期を示しているのではありません。人間が主なる神に対して逆らって歩むことが見つめられているのです。ですから特定の時代を指していると考えるよりも、時代を超えた「この世」と捉えた方が良いと言えます。この弟子たちの不信仰は、現代を生きる私たちと無縁のことではありません。例えば、様々な困難の中で、主を見失うことがあります。又、伝道の業や教会の奉仕の業を、あたかも自分たち自身の業であるかのように思い違いをしてしまうことがあります。そこでは、奉仕を誇ったり、隣人と自分を比べて、裁く思いに捉えられることがあります。そこでは真の祈りが忘れられているのです。主イエスは、そのようなことを嘆かれるのです。では、ここで主イエスが見つめている祈り、信仰による祈りとはどのようなものなのでしょうか。それは、ここで悪霊に取りつかれた父親の姿の中に示されています。

父親の不信仰
 この父親は、立派な信仰生活を送っていたとういのではありません。主イエスは、この父親に、「このようになったのはいつ頃からか」と問われます。それに対して、父親は幼い頃からであることを語った上で、「おできになるなら、わたしたちを憐れんでください」と願います。「おできになるなら」という言葉には、この父親の正直な思いが現されています。この父親は、様々な方法を用いて、息子から悪霊を追い出すために努力して来たことでしょう。しかし、子供の幼い頃から今に至るまで、結局癒されることはなかったのです。そのような中で、心の中ではもう諦めていたのかもしれません。誰に頼んでも無駄だろうと思っていたのです。今回、主イエスの弟子たちに頼んでもやはり無駄だった。おそらく、主イエス本人に頼んだところで、結果は同じで、悪霊を追い出すことは出来ないだろうと思っていたのです。その思いがこの「おできになるなら」という言葉に表れているのです。主イエスの力に委ねきることが出来ないのです。自らの内にある、不確かな思いに縛られて、主イエスに願い出ているのです。主イエスに願い求める時も条件を付けて、もし出来るなら癒して下さいと言うのです。ここでは、弟子たちの不信仰だけではなく、父親の不信仰も示されているのです。この父親の不信仰も私たちの現実です。私たちはどこかで、主イエス・キリストを自分の考える可能性の中に押し込めています。主イエス・キリストはこのようなことはお出来にならないだろうと心で決めつけているのです。例えば、ここでは宣教の業が問題となっていますが、キリストを伝えるという時にも、どこかで諦めがあるのではないかと思います。出来ることなら、私の知っているあの人を教会に誘いたいと思う。しかし、一方で、あの人を教会に誘っても無駄だろうとか、あの人がキリスト者になる訳がないというような思いになる。そのような人間の思いによって主の業を狭めてしまうこともあるのです。

信じる者には何でも出来る
 この父親に対して、主イエスは、「『できれば』と言うか。信じる者には何でも出来る」と言われます。ここで、主イエスは、もし、あなたが確信を持って信じるのなら、そのことはかなえられるのだから、それを目指して努力しろと激励しているのではありません。ここで、「信じる者」とは、私たちが目指す努力目標ではないのです。私たちが、自ら、「信じる者」となるために、確信を求めようとすれば、信仰を自らの業にしてしまいます。むしろ、ここでは、私たちが、悪霊の力に対して無力であり、決して「信じる者」になることは出来ないことを見つめなくてはならないのです。ここで、主イエスが語る「信じる者」とは主イエスご自身のことです。あなたは「できれば」と言うが、「信じる者」である私には何でも出来ると言われているのです。「信じる者」とは、父なる神さまに自らを委ねきっている者です。そして、神の独り子である主イエスは、神さまにゆだねつつ歩むことによって十字架への道を歩まれることで、人々を罪から救って下さったのです。私たちは、自分の中に不信仰しか見いだせないとしても、「信じる者」でいて下さる主イエスによって救いに与るのです。

信仰の本質
 この主イエスの言葉を聞いて、この父親はすぐに「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫びます。この父親の言葉は明らかに矛盾しています。「信じます」と告白する私は信仰のない者だと言っているのです。この父親は、自分が、どんなに信じようとしても、その信仰は、決して真実な信仰だとは言えないことを知っています。しかし、主イエスが、真実な方でいて下さることに信頼したのです。神様の救いの業を自分の思いで判断し、自分の考える可能性の中でしか捉えてしまうような不信仰の中で、尚、主イエスに助け求めたのです。ここに、信仰の本質が示されています。自分には信仰はない、信じることが出来ない。しかし、そこで、主イエスに叫ぶのです。そして、この叫びこそ、主イエスが言われる祈りなのです。私たちは祈りによって、自分の不確かさの中に確信を持とうとするのではなく、真実な方である主イエスに確かさを求め叫ぶのです。私たちは、信仰を自分の中で確信をもつことだと思っている節があります。強い信仰だとか、立派な信仰者ということが言われます。しかし、そのような所には真の信仰は生まれません。信仰の確かさを自分の内側に探し求めるのではなく、自分は不信仰であると知らされつつ、自分の外に真実な信仰を求めて行くことこそ、私たちの信仰なのです。自らに信じられない中で、主なる神に全てを委ねるのです。主イエスは、この父親の叫びを受けて、霊を叱り「わたしの命令だ。この子から出て行け」と言われます。この主イエスの言葉によって霊はこの子から出て行ったのです。そこで、主イエスは、死んだようになっているこの子の手を取って起こされたのです。それによって、この子は立ち上がるのです。ただ主イエスにある真実な信仰にすがった父親の言葉を受けて、主イエスは、この子供を立ち上がらせるのです。
祈りの可能性

 この父親は、自分の中に不信仰しか見いだせない中で、主イエスの可能性に助けを求めました。そのような祈りにおいて、この息子は、主イエスによって起こされたのです。自分の信仰のなさの中で、主イエスに助けを求め祈りとは、多くの言葉を費やして願い求めれば、神様はその祈る態度に報いて、願いを聞いて下さるというものではありません。私たちは、祈りによって、神様の力を呼び起こして、直面している困難を取り除くのではありません。祈りによって、すべてを神様に委ね、自分自身を明け渡すことによって、神様の救いの確かさに生かされるのです。そして、そのような祈りがなされる所から、神様の業が始まるのです。「何故悪霊を追い出せないのか」という議論は、私たちの間でもなされる議論です。伝道の不振が叫ばれています。何故、主イエスの福音が伝わらないのかと思うことがあります。そして、主イエスの業に「できることなら」と語ってしまいます。又、どうしても信じることが出来ないと悩みに陥ることもあるでしょう。しかし、そのような時、私たちは、自分自身で何かをしようとしているのです。そのような者に主イエスが、「『できれば』と言うか。信じる者には何でも出来る」と語って下さるのです。この主の宣言を聞いて、私たちも「信じます。信仰のない私をお助け下さい」。と叫ぶのです。自分自身の中に神様を信じる信仰の確かさが全く見いだせない私たちの中で、神様に祈り求めるのです。その祈りから始める時に、信仰を与えられて、神様によって与えられる救いに生かされる者とされるのです。

聖餐の食卓から
 父なる神に祈りつつ、真実に歩まれた主イエスは、十字架の苦しみを受けられ死から復活されることによって、私たちの罪を贖い、死の力に勝利されました。この十字架の故に、主イエスは、私たちを神から引き離そうとするどのような悪霊の力も退け、私たちを助け出して下さるのです。本日、共に聖餐に与ります。この聖餐を通して、主イエスは、私たちに十字架の主を示して下さっているのです。この聖餐によっても、私たちは、主イエスが確かな救いを成し遂げて下さる真実な方であると知らされるのです。聖餐に与る時に、必要なのは、私たちの中の確信ではありません。ただお一人「信じる者」でいて下さる主イエスが、私たちの救いを成し遂げて下さっていることに委ねつつ、自分自身をこの方に明け渡すのです。その時、私たちは主によって助けられ、十字架の主の救いが私たちの間で確かなこととされるのです。信じることが出来ない者が助け求める祈りが確かに答えられていることを知らされるのです。主の体と血に与ることによって、主の十字架を思い起こしつつ、不信仰の中から立ち上がらせて頂きたいと思います。

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