主日礼拝

聖霊による教会の誕生

「聖霊による教会の誕生」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第44章1-5節
・ 新約聖書:使徒言行録 第2章37-47節
・ 讃美歌:341、1、392

ペンテコステの日の出来事  
 本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。主イエス・キリストの復活を記念するイースターから五十日目のこの日に、弟子たちに聖霊が降りました。主イエスは復活から四十日目に、彼らの見ている前で天に昇りましたが、その十日後に、天におられる父なる神と、そのもとに昇られた主イエスから、弟子たちの群れに聖霊が注がれたのです。それによってこの世にキリストの教会が生まれました。ペンテコステは教会の誕生を記念する日です。使徒言行録の第2章にその日の出来事が語られています。この第二章は三つの部分に分けて読むことができます。1~13節が第一の部分です。そこには、五旬祭つまりペンテコステの日に弟子たちが集まっているところに突然激しい風が吹いて来るような音が聞こえ、炎のような舌が現れて一人ひとりの上にとどまったこと。すると彼らは聖霊に満たされて、いろいろな国の言葉で、神の偉大な救いのみ業を話しだしたことが語られています。聖霊に満たされて、弟子たちが語り出した、伝道を始めた、それがペンテコステの出来事だったのです。

ペトロの説教  
 第二の部分は14~36節で、そこには、弟子たちを代表してペトロが語ったこと、ペトロの最初の説教が記されています。ペトロは先ず、今起っていることは聖霊の働きによることであり、旧約聖書において預言されていたことの成就なのだと語り、そして、ナザレのイエスこそ神が遣わして下さった救い主であること、そのイエスをあなたがたは十字架につけて殺してしまったが、神は死の力に勝利して主イエスを復活させ、さらに天に昇らせてご自分の右の座に、つまり神のご支配を司る座につかせて下さった、その主イエスから、聖霊が今私たちに注がれたのだ、ということを語りました。

教会はどのようにして出来たのか  
 第三の部分が、本日の箇所、37節以下です。ここには、このペトロの説教を聞いた人々の反応が語られています。41節に「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」とあります。ペトロの説教を聞いた人々が、信じて洗礼を受けた、このようにして、洗礼を受けた者たちの群れである教会がこの世に出現したのです。  
 この41節だけを見るならば、弟子たちが宣べ伝えた教え、つまりキリストの福音を信じた者たちが、その信仰を言い表して洗礼を受け、その人々によって教会という共同体が築かれた、というふうに感じられるかもしれません。だとすると、教会というのは、信仰者たちが集まって築いている団体である、ということになります。この世には、人間が集まって築いている団体が沢山あります。様々な目的のために、思いを同じくする同志が集まって共に活動する団体を作っているのです。教会もその一つであり、同じ神を信じる信仰の仲間たちが共に集まって活動し、互いに支え合い、またその信仰を人々に伝えるために築き、営んでいる団体である、ということになるでしょう。しかし使徒言行録第2章が語っている教会の誕生の事情を読むならば、教会というものはそういうものではない、ということが分かってくるのです。

教会に加えられた私たち  
 確かに、ペトロの説教を聞いた人々がそれを受け入れて洗礼を受けたことによって教会が生まれました。教会は信仰者の共同体であり、洗礼を受けた者たちがそのメンバーです。しかし彼らが教会を築いたとは語られていません。彼らは洗礼を受けて、「仲間に加わった」のです。ここの原文には「仲間に」という言葉はありません。また「加わった」ではなくて「加えられた」という受け身の形が使われています。つまり彼らは洗礼を受けたことによって、既に存在している教会に加えられたのです。彼らが教会を築いたのではありません。それでは教会はいつ、何によって生まれたのでしょうか。それはこの第2章の第一の部分に語られていたことにおいてです。弟子たちに聖霊が降り、彼らが力を与えられ、主イエスの福音を宣べ伝え始めた、その出来事こそ教会の誕生であり、そこに、洗礼を受けた人々が加えられていったのです。そのことはこの第二章の最後の47節にも語られています。その後半に「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」とあります。ここも「仲間に」という言葉は原文にはありません。ここでの「加える」は能動態です。主語は「主」だからです。主なる神が、救われる人々を日々、加えていって下さったのです。そのようにして教会は次第に広がっていきました。その主のみ業が、今日まで、この日本にまで及んできて、今私たちもこうして主イエス・キリストの救いにあずかり、神を礼拝する群れに加えられているのです。私たちは皆、この主のみ業によって教会に「加えられた」者たちです。そして私たちが加えられている教会を誕生させて下さったのが、聖霊なる神なのです。その聖霊が降って教会が誕生したことを記念するのがこのペンテコステの日なのです。

み言葉によって心を打たれる  
 私たちは、洗礼を受けることによって、聖霊によって誕生した教会に加えられます。それはペンテコステの日に起り、その後日々起っていったのと同じことです。あの日そのことがどのようにして起ったのかを、本日の箇所から確認したいと思います。先ず37節には、彼らがペトロの説教によって「大いに心を打たれ」、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねたとあります。イエス・キリストによる救いの知らせ、福音を語る説教を聞いて心を打たれる、この言葉は「刺し貫かれる」という意味でもあります。そういうことから信仰は始まるのです。心を刺し貫かれた人々は「私たちはどうしたらよいのですか」と尋ねました。彼らは、今のままではだめだ、どうにかしなければ、と思ったのです。神の言葉によって心打たれ、刺し貫かれることによって私たちの中にそのような思いが起って来ます。でもどうしたらよいのか分からない。その問いにペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と勧めました。心を揺さぶられ「どうしたらよいのだろう」と思っている人々にペトロは、「あなたがたに必要なことは、罪を赦していただくことだ。そのために洗礼を受けなさい」と語ったのです。神の言葉は私たちに、自分が神に対しても隣人に対しても罪を犯している者だということを気づかせます。しかもその罪は、自分でどうにかして解決できるようなものではない、反省してやり直せばなんとかなるようなことではない、もはや神によって赦していただくしかないのだ、ということが示されるのです。このことは、私たちが自分で考えて理解できることではありません。私たちは、自分に罪があることをある程度は分かりますが、でもそこで必ずするのは、他の人にだって同じように罪があるのであって自分だけが特別悪いわけではない、という言い訳です。そうやって自分の罪を人との関係の中で相対化していくのです。しかしその私たちが神の言葉を聞くことによって、心を打たれ、刺し貫かれ、自分の罪を示されるのです。

罪の赦しのための洗礼  
 でもペトロはここでただ、「あなたがたは罪人だ、それがあなたがたの問題だ」と言って彼らを責めたのではありません。「罪を赦していただきなさい」と勧めたのです。赦して下さるのは神です。神があなたがたの罪を赦して下さるのだから、その赦しの恵みにあずかりなさい、と言ったのです。つまり神の言葉が告げているのは、私たちが罪人であるということだけでなく、神が私たちの罪を赦して下さるということなのです。そのために神が与えて下さっている道が「洗礼を受ける」ということなのです。洗礼を受けるとは、自分が罪人であることを認め、その罪を神が赦して下さることを信じてその救いの恵みをいただくことです。そのことによって神は私たちを、救いにあずかる者たちの群れである教会に加えて下さるのです。

悔い改めるとは  
 ペトロはここで、洗礼を受けて罪を赦していただくために「悔い改めなさい」と言いました。悔い改めるとはどういうことなのでしょうか。普通これは、これまで犯してきたいろいろな悪いこと、罪深い思いや行いを自分が悔いて、もうそんなことはやめようと決心することだと思われています。でも聖書における悔い改めはそれとは違います。聖書において悔い改めるとは、向きを変えること、方向転換をすることです。生まれつきの私たちは神の方を向いておらず、神から顔を背け、自分が主人になって生きています。その私たちが、神の方に向きを変え、神をこそ見つめて生きる者となるのです。それは言い替えれば、人との比較という相対的な関係の中のみを生きていた私たちが、神のみ顔の前で、神との関係に生きるようになることです。そのように悔い改める者の罪を神は赦してくださるのだ、とペトロは告げたのです。つまりこれは、私たちが自分の罪を悔いて、もう罪は犯さないちゃんとした人間になることに免じて、それまでの罪を赦してもらえる、ということではありません。求められているのは、品行方正な人間になることではなくて、神の方に向き直り、神をこそ見つめ、神と共に生きる者となることです。その時、神が私たちの罪を赦して下さるのです。そういう悔い改めの印が洗礼なのです。

聖霊によって誕生した教会  
 この勧めに従って三千人の人々が洗礼を受けました。三千人という数には誇張があるかもしれません。しかしとにかく、教会に最初に加えられた人々は、洗礼を受けて、神の方に向きを変え、神を見つめ、神と共に生きる者となり、神によって罪を赦していただいたのです。それは彼らが自分で決心して心を入れ替えて新しい生活を始めたとか、罪を反省して自分でそこから抜け出して立派な人になったということでは全くありません。彼らは、神の言葉を聞くことによって心を刺し貫かれ、そのことの中で自分たちを赦して下さる神と出会い、その神によって赦され、新しく生き始めたのです。それもまた、聖霊のお働きによることです。ペトロは38節で、洗礼を受け、罪を赦していただきなさい、と言ったのに続けて、「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と言いました。悔い改めて洗礼を受け、罪を赦していただくならば、聖霊が賜物として与えられるのです。それは私たちにも与えられている約束です。ペンテコステの日に弟子たちに降り、教会を誕生させた聖霊を、神が私たちにも注ぎ、与えて下さるのです。そのことによって私たちは、聖霊によって誕生し、聖霊のお働きによって生きている教会に加えられるのです。教会とは、洗礼を受けた者たちの群れですが、それは、聖霊を与えられ、聖霊のお働きによって生かされている者たちの群れであるということです。ですから教会は、人間が集まって造っている団体ではなくて、聖霊が築き、保ち、導いて下さっている神の民なのです。

神が招いて下さっているから  
 39節には「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」とあります。「この約束」とは、悔い改めて神の方に向きを変え、洗礼を受けて罪を赦していただくなら、神が聖霊を賜物として与えて下さり、救われる者の群れである教会に加えて下さるという約束です。その救いにあずかることができるのは、限られた少数の人だけなのではない、「わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも」それは与えられるのです。私たちが特別に立派な、清く正しい人間にならなければ救いにあずかることができないのではない。神が招いて下さるなら誰でも、この救いにあずかることができる。しかも神の招きは、「あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも」与えられているのです。その神の招きがあったから、私たちは今こうして礼拝を守っているのです。少しも立派ではない、清く正しくもない、むしろ罪と弱さだらけの自分を神が招いて、聖霊を注ぎ、罪を赦して新しく生かして下さる、そのことを信じることが信仰であり、洗礼を受けるとは、この神の招きをお受けする、ということなのです。この神の招きによって私たちは教会に加えられるのです。

使徒の教え  
 聖霊が降ったことによって誕生し、聖霊のお働きによって歩んでいる教会はどのように歩んでいったのでしょうか。そのことが42節に語られています。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。生まれたばかりの教会において熱心になされていたのはこれらのことでした。それは今も、教会において私たちがしていることです。これらのことに励んでいるという点で、ペンテコステに生まれた最初の教会と、約二千年後の私たちの教会とは全く同じなのです。ここには四つのことが語られています。先ず、「使徒の教え」です。使徒とは、主イエスの弟子であり、主の復活の証人となった人々、ペンテコステの出来事において最初に聖霊を受けた人々です。彼らの教えを聞き、それを受け継いでいくのが教会です。その教えを記したのが新約聖書ですし、使徒たちの信仰をまとめたものが「使徒信条」を始めとする教会の信条、信仰告白です。使徒たちの時代以降、その教えを聞き、そによって生きるために、礼拝において聖書が読まれ、その説き明かしである説教が語られ、信仰告白がなされてきたのです。聖書が読まれ、説教が語られ、使徒信条を共に告白する礼拝の中で、聖霊なる神が私たちにも働いて下さって、私たちも使徒の教えを聞きつつ歩んでいるのです。

相互の交わり  
 次に「相互の交わり」とあります。共に洗礼を受け、教会に加えられ、賜物として聖霊を与えられた者どうしの交わりに生きることが私たちの信仰の生活です。最初の教会の人々のその交わりの姿が、本日の箇所の44~46節に語られています。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし」。ここには、信者たちがすべての物を共有にして分け合い、互いに支え合っている姿が語られています。「交わり」という言葉の元々の意味は「分かち合い」です。神の方へと向き変り、共に神のみ前で生きる者となった私たちは、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しに共にあずかり、復活による永遠の命の約束をも共有しています。それが教会に加えられた私たちの交わりです。その交わりにおいて私たちは、いろいろなものを分かち合いつつ共に生きるのです。自分に与えられているものを、他の人のために用いていき、また他の人に与えられているものによって自分も支えられていくのです。献金をすることが礼拝の大事な要素であることにはそういう意味があります。勿論分かち合うのはお金だけではありません。互いに執り成しの祈りをし、お互いを訪ね、語り合うことによって、私たちは主イエス・キリストの恵みを分かち合う交わりに生きるのです。そういう交わりの中心がこの礼拝です。私たちは礼拝に共に集い、同じ礼拝の場に身を置き、同じ神の言葉を共に受け、それによって神からの慰めや励ましを分かち合いつつ生きるのです。礼拝においてその恵みを与えて下さるのは聖霊なる神です。礼拝こそ、聖霊によって生きる教会の交わりの中心であり土台なのです。

パンを裂くこと  
 「パンを裂くこと」が三つ目に挙げられています。45節にも「家ごとに集まってパンを裂き」とあります。そこには「喜びと真心をもって一緒に食事をし」ともあります。共に食事をすること、それを愛餐と言いますが、それも教会における私たちの交わりの大事な要素です。本日はこの礼拝の後でペンテコステの愛餐会が行われます。共に食事をいただき、新たに加えられた方々の歓迎の時を持つのです。そういう共同の食事は最初の教会以来大切にされてきたものであり、それもまた聖霊なる神が働き、導いて下さる場なのです。そしてこの愛餐から次第にはっきりと区別されていったのが「パンを裂くこと」です。特別な意味を込めてパンが裂かれ、裂かれたパンに共にあずかるのです。それはこの礼拝でも行われる聖餐です。主イエスご自身が最後の晩餐において、パンを裂くこととぶどう酒の盃にあずかることを弟子たちにお命じになりました。そのパンは十字架にかかって裂かれた主イエスの体を、盃はそこで流れた主イエスの血を意味しています。主イエスが十字架にかかって肉を裂き、血を流して死んで下さったことによって私たちの罪が赦されたこと、また主イエスがその血によって新しい契約を私たちとの間に打ち立て、私たちを新しい神の民として下さった、その恵みを味わい、かみしめる聖餐を教会は始めから行っていたのです。洗礼を受け、教会に加えられた者は、聖餐にあずかり、キリストによる救いの恵みによって養われつつ、キリストと共に生きていくのです。洗礼において私たちを教会に加えて下さるのも聖霊ですし、聖餐において私たちをキリストの体と血とにあずからせ、キリストとの交わりを与えて下さるのも聖霊です。これらのことを通して聖霊が教会を築き、保ち、導いて下さるのです。

祈ること  
 第四が「祈ること」です。祈るとは、神と語り合うことです。神の方に向きを変え、神と共に生きるようになった者は、神と語り合いつつ生きるのです。神の言葉を聞き、また自分からも神に語りかけ、神との交わりに生きるのです。そこに信仰の根本があります。信仰と思想とを分けるのもこの「祈ること」です。思想ならば、祈りなしにも、神との語り合いなしにも、自分一人で持つことができます。自分でいろいろ学んだり考えたりしていればよいのです。でもそれは信仰ではありません。信仰は相手があります。信じる神と共に生きることが信仰です。それは対話なしには成り立ちません。だから祈ることは信仰の不可欠な要素であり、祈ることのない信仰はないのです。しかしその祈ることも、聖霊なる神の導きの中で起ることです。聖霊が私たちに祈りの言葉を与えて下さるのです。だから私たちは先ず、聖霊を注いで下さい、聖霊によって私を新しくし、神様と共に生きる者として下さい、私たちに祈りを与えて下さい、と祈るのです。この祈りに生きる共同体である教会に私たちは洗礼によって加えられるのです。

聖霊を信じて祈り求めよう  
 「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること」これらは、聖霊によって誕生し、聖霊のお働きによって生きている教会において、時代によってその形は様々に変化してきましたが、根本的には変わることなくその最初の日から今日までなされてきたことです。聖霊が注がれ、働いて下さる時、教会においてこれらのことが熱心に、喜びをもって、生き生きとなされていくのです。そのような教会の営みによって、キリストの福音が力強く宣べ伝えられていきます。つまり伝道がなされていきます。そこでも聖霊なる神が働いて下さるのです。先程読んだように、47節後半に「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」とあります。救われる人々を日々教会に加えて下さり、一つなる群れを築いていって下さるのは主なる神です。主なる神が聖霊によって働いて下さり、救われる人々を日々新たにこの群れに招き、加えて下さっている、そのことを信じ、聖霊のお働きを祈り求めていこうではありませんか。

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