主日礼拝

聖餐に与る

「聖餐に与る」 副牧師 岩住賢

・ 旧約聖書:イザヤ書第53章1-12節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙一第11章23-26節
・ 讃美歌:301、145、81、78

 主の晩餐、つまり聖餐は、とても簡素な祝宴であります。それは裂かれたパン食べること、また、注がれた葡萄酒を飲むこと、ただその二つのことです。この聖餐という簡素な祝宴には、御言葉から見て取れる2つの目的があります。一つは、キリストを記念するためのものであるということ。また、もう一つは、キリストを信じる私たちの信仰と、キリストの死とを他の人々に対して示す、あるいは、現わすためのものであるということです。これが、その2つの目的であります。24節25節には、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と主が言われていたことが書かれてあり、そして26節には、「このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」とパウロが言っています。これが、御言葉が語る聖餐の二つの目的であります。  

 第一に、私たちは、私たちの聖餐を、主の記念とみなします。そして、そのようなものとして、これは簡素で、また、非常に意義深いものであります。この裂かれたパンは、あることをわたしたちに示します。この裂かれたパンは、もともとひとつであったパンであった。パンが裂かれていたということ、これが、実は、苦悶によって引き裂かれた《救い主》のからだの象徴となるのです。昔の聖餐式では、実際にその場でパンを裂いて、配っていました。実は、主イエスが釘打たれたこと、鞭打たれたこと、十字架につけられたこと、実際に一つの体が傷つけ肉が裂かれたということが、みなこのパンを裂くという単純な行為と、また裂かれたパンによって示されているのです。古い聖餐式の形では、ぶどう酒もパンと同様に、その場で、盃に注がれていました。葡萄酒が注ぎ出される、そこに、1つの神秘が明らかにされていたのです。それは、私たちと、1つの血族となるために、ある方が血を流されたということを表わしています。このお方は、「人間の姿で現れ、」、「へりくだって、十字架の死に至るために誰よりも低くなられ、すべての人の足の下に引かれ、潰されました」。それは、葡萄酒がそのぶどうの房からされ、杯に注ぎ出されるのと全く同じように、主の血は、わたしたちが主を足蹴にしたその圧力と、また、わたしたちが本来負うべき主の怒り、その裁きという圧力によって、酒ぶねで葡萄がされるように、その主の血は、注ぎ出されたのです。それは主が人々の罪をその命で買い取り、わたしたちをご自分のもの、ご自分の子とするために行われたのです。もし教会学校の子どもが聖餐卓のそばに立って、わたしたちに向かって、「この儀式はどういう意味ですか」と尋ねるならば、わたしたちは、こう答えることができる。「〇〇ちゃん。私たちが裂かれたパンを食べるのは、イエス様のからだがいかに苦しんだかを思い起すためだよ。また、この注ぎだされた葡萄液は、イエス様がご自分の心も体もその全部も、実際の血も、わたしたちすべての人の罪のため注ぎ出された印なんだよ」、と、答えることができる。愛する兄弟姉妹、わたしたちも、今日、この2つの印のもとに近づき、この裂かれたパンと注がれた葡萄液を見つめ、そこで、私たちの罪のために裂かれたキリストのからだを見つめ、私たちの贖いのため流された主の血潮を、見てとりたい。  

 しかしながら、この象徴は、それだけの意味ではありません、もっと豊かなものであります。なぜなら、これらは単にキリストの苦しみを示すだけでなく、その苦しみの結果をも示しているからです。すなわち、私がこのパンを受け、それを食べるとき、また、この杯を受け、そこから飲むとき、私は――自分の記憶に、また、私たちの回りにいる人々の記憶に――単にキリストが苦しまれたという事実のみならず、主が私のために苦しまれ、私がその恩恵にあずかったという事実を思い出させるのです。この真理は、よく知られていることであるのですが、これ以上に忘れやすい、これ以上に忘れ去られやすい真理はありません。主がわたしのために死んでくださった。この真理を、わたしたちはいとも簡単に忘れてしまう。私が常に、主が私を愛されたこと、私のためにご自分をお捨てになったことを感じていられればどんなに良いことかと思います。わたしは、昔、主の愛を知らず、その主の愛が自分に向けられているなどは思いもしなかった。しかし、主と出会い、主の愛を知った。主がわたしを愛してくださっていること、そのために死んでくださったことを、わたしは知っている。しかし、私は必ずしも常にそのことを覚えていることができない。世間に出て行くとき、いかに私たちは《救い主》の愛を記憶から去らせてしまいがちなことか! 夫婦の愛は、共に立つ相手を前にして見ることができる。愛しいわが子の愛は、子を前にした時に、そこにあることがわかる。しかし、イエス・キリストは目にみえる形で地上におられない。それゆえ、主を思い起こすには、わたしたちの心と魂が、御霊によって動かされなければなりません。私たちは肉的であり、目に見えなければ、本当に愛があるのかも、簡単に忘れ、疑ってしまう。わたしたちはその点では、とても幼児であります。それで私たちは主の苦しみを忘れてしまい、なおも悪いことに、自分がその主のお苦しみの恩恵にあずかっていることをも忘れてしまう。私は、自分の目玉に、十字架を書き込み、その十字架を常に見れるとしたらどんなに良いことかと思う時があります。そうすれば、いかなるものも、いかなるひとの顔を見る時も、私の《救い主》の受難を通して見ることができるであろうにと思います。私は、そのようなしるしを、私の魂の目にはっきり見える所に永遠に帯びたいと願います。わたしたちは、そのようなしるしが、ないと、主の愛をいとも簡単に忘れてしまうのです。だから、主はわたしたちに、このパンと盃を与えてくださった。私たちは、このパンと杯によって、主イエスの死を思い出させられる必要があるのではないかと思う。また、これらを食べて飲むことによって、主イエスの死が私たちのためのものであったことを思い出させられる必要があるのではないかと思います。
「栄光の主は私を愛して、私のためにご自分をおささげになったのだ。今は栄光を戴いているあのみ頭は、かつては茨の冠を戴いていたのだ。そして、その茨の冠は私のためのものだったのだ。私のために、天の全体があがめ、天で最も高い御座に着いておられるお方は、かつては、極度の苦悶とともに十字架にかかっておられたのだ。私のために」、それを、このパンと杯は、思い起こさせる。  

 わたしたちは、主があまりにも多くの人々のために死なれたので、「わたし一人のため」であったとか、そのひとりの「わたし」を贖うという特別な目的などそこにはなかったのではないかと考えてしまいがちであります。しかし、次のことを共に聴きたい。キリストの愛が無限であるからには、たといあなたがその無限のものを、いかなる数で分割しようと(その約数が何であろうと構わない。10であっても、250であっても二千万であっても良い)、その商は、その答えは無限となります。そのように、たとえイエス・キリストの無限の愛を、私たちの間で分割することがありえたとしても、私たちひとりひとりは無限の愛を受けることになる。私たちの小学校でならった算数はそう教えている。もし私たちがその経験や体験によって、私たちひとりひとりに対する主イエスの愛という、この無限の深み、この素晴らしい深淵を知っていさえしたら、いつも、私たちの魂は慰められ、言葉に尽くすことのできない喜びに踊るでありましょう。この二つのしるしは、この深み、愛の深みを指し示している。これも今日わたしたちは覚えておきたい。

  さらに、次のこととして覚えたいのは、私たちが今朝祝おうとしているこの記念の式は、合同の式であるということです。聖餐は、合同で行う式である。私が主の死を記念したくとも、自分の部屋に入って一欠片のパンとワインを取っても、ひとりきりでは、聖餐はできない。ともにいなくては、聖餐は成り立たない。わたしたちは、いかに霊的な心をした人であれ、修道士のようになって清貧を保っても、ひとりであれば、この儀式を守ることはできない。わたしたちは、他の信仰者たちと交わりを持たなくてはならない。《私たちの救い主》が私たちにお与えになったこの記念式は、合同しなくては、私たち全員が一緒にならなくては、祝えないものだからです。わたしたち、キリスト者たちは相集ってこのパンを裂き、この杯を飲まなくてはならりません。主イエスは、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。」といっておられます。わたしたちの主は、私たちが数多くの派閥に非常に分裂しがちであることを予見された。私たちが個人主義的になるあまり、互いの重荷を負い合うのを忘れるほどになりがちであることを知っておられた。主は、この聖餐式を、合同の記念式とすることによって、私たちがいやでも一緒に集わざるをえないようにされたのでしょうか。この主の甘やかな強制によって、心を1つにして同じ場所に集まらない限り、主の死を記念することができないようにされたのでしょうか。そう、主はそうなさったのです。  

 主がそのようにしてまで、わたしたちを一つの場所、一つの式に、集わせるのは、わたしたちの間で、和解が起きることを望んでおられるからです。聖餐、これは主が定めてくださった合同の記念式です。だから、私たちは心をともに結び合わせるようにしたい。今朝、私たちの兄弟姉妹の間には何かいさかいがあるでしょうか。もしわたしたちが今朝、これから聖餐をともにあずかろうとしている兄弟姉妹の誰かといさかいが起きているという意識があるなら、どうか今、この聖餐の式の前に、それを一切水に流してほしい。わたしたちは、今、腹を立てている当人、その家族と合同して食べ、かつ飲むのだということを思い出したい。本当は、そのいさかいの仲直りをしてから共に食卓に着くことがいいに決まっています。喧嘩したまま同じ食卓でご飯を食べるほど、悲しいものはないことを、わたしたちは知っているでしょう。神様はわたしたちの多くの咎を赦してくださいました。だから、仮に自分の兄弟姉妹が自分を怒らせているとしても、その小さなことについて彼を彼女を赦して良いはずです。神様はわたしたちの多くの咎を赦してくださった。主は怒った顔のまま、この食卓にはついておられない。赦しをもって、穏やかな御顔でわたしたちを待っておられる。だから、わたしたちも主に倣って、彼を、彼女を赦し、この食卓を囲みたい。本当に主の恵みを味わいたい。  

 さらにわたしたちは、忘れるわけにはいかないことがあります。それは、合同の記念式である一方で、これは最も明確に個人的なものであるということです。たとえ私たちが全員ともに集まるとしても、各人がこのパンを自分の口に入れ、各人が自分でこの葡萄酒を飲まない限りは、それが聖餐になることはありえません。このパンが配られ、それをこの場にいる各人がそれぞれ受け取らなくてはならない。ここで強く覚えておきたいのは、私たちは群衆の中で自分を埋没させないようにしようということです。私たちは、確かに非常に大きな海の中の一粒の水滴のようなものであるけれども、それでも自分が水滴であることを忘れてはならない。そして、海水のいかなる一滴も、塩分を含んでいないものがないように、私たちの間のいかなる者も、主イエスとの真の交わりという塩気のある影響力があるということを忘れないでおきたい。私は誰かに代わって聖餐を受けることはできない、また誰かが私に代わって聖餐を受けることもできない。わたしたちは、それぞれ本当に固有性を持ち、特別である。だから、わたしたちは、今こう主に、それぞれが願いたい。いま、わたしに対するその愛を、わたしに代わりとなったその死を、わたしのためのそのよみがえりを、わたしが個人的に覚えることができるように主に、わたしたちは叫び求めたい。「主は私を愛し私のためにご自身をお捨てになった」。聖餐を受ける前に、わたしたちは、そのことも覚えておきたい。  

 しかしそれをも越えて、私たちは次のことを思い起こしたい。キリストを記念する式として、聖餐は非常に厳粛なものでありつつも、真に幸いな式であるということです。主イエスは、ご自身の死を記念するこの式を、祝宴となさった。この記念の式は、葬儀ではないのです。この式は、主のずたずたに切り裂かれたからだの上で悲しい歌を歌い合う集会ではありません。墓場に行って泣くことでもない。わたしたちに与えられた記念式は、悲しみに変わる喜びがある。幸いがある。最後の晩餐の後で、主イエスと弟子たちは賛美の歌を歌っていました。これは非常に意義深いことです。主の死を覚える時に、賛美の歌を歌っていた。主を讃える喜びの歌を歌っていた。主の死を目の当たりにして、喜ぶ。だから、私たちが主イエスの苦痛を想い起すときに、後悔の念で泣くのではなく、その死が私に向けられた無限の愛であったことを感謝し、喜びの涙をもって祝いたい。今朝、あるいは、いついかなる折にも、この聖餐に集うあらゆる者の顔には喜びがふさわしいのです。  

 もし主イエスを記念することが聖餐の目的であるとしたら、わたしたちは主を思い起こす以外の、他のいかなる目的のためにもここに集うことはありません。だからわたしたちは、この聖餐式に臨む前に、他の一切の考えを捨てたい。自分はいま病気だ、自分には病気の子どもがいる。愛するあの人ことが心配だ。仕事が順調ではない。明日のことが気になる。そのような思いがあったとしても、この聖餐の時にそれを考えたからとって、その思い煩いから解放されるわけではありません。むしろ、この聖餐式の時に、そのような重荷を、わたしたちのことを一番に心配してくださるお方にお渡ししておくのがいい。聖餐式のとき、わたしたちが関わらなくてはならない唯一のこと、それは十字架につけられたイエス・キリスト、わたしのために十字架につけられ、わたしによって受け取られたキリストです。いまは、他の星々は消滅させ、ただ1つの星、ベツレヘムの星だけをわたしたちの頭上で輝かせるのがいい。今だけは主イエスへの愛を除く一切の愛に別れを告げるのがいい。この聖餐の時だけは、わたしたちは、ただ自分が、救い主の御胸に横たわるようにするのがいい。  

 長くなっていますが、聖餐の第二の目的を伝えます。それはキリストが来られるまで、その死を示すことであります。「主が来られるまで」というのは主が来られる終わりの日までということです。私はこのことについて、ただ、主はやがて来られる、としか云えません。主イエスが再び来られるときというのは、父なる神様だけがしっていることで、その日を、推測することも、計算することもわたしたちにできません。キリストの来臨がきょうであろうと、明日であろうと、1000年さきであろう、わたしたちにとって大事なのは、ただ待ち受けることです。わたしたちは、いざ主が来られたときに、忠実なしもべとして、主とともに婚宴へ行く用意ができているところを見いだされるように待つだけです。その日が来るまで、わたしたちがなすこと、この聖餐式を通してなすこと、それは、その死を示すことです。そこで私たちがいかにして明らかに示すべきかを考えていきたいと思います。  

 まず私たちはその死を自分自身に対して示します。これはいままで語ってきたように、私たちが裂かれたパンを見、注ぎ出された葡萄酒を見、自らここに、このしるしにおいて、十字架につけられたキリストを見ている。そして、私たちは、食べ、かつ飲むときに、私たちの目の前に、カルバリの上でささげられたいけにえの恩恵に自分があずかっていることを見ている。わたしたちは、まずその死が自分に示されていることを覚えましょう。  

 しかし、実は、聖餐は、キリストの死を私たち自身に対して明らかに示すことに加えて、私たちはそれを世に対しても示してもいます。私たちは聖餐式を受けている時に、実質的に世に対してこう云っていることになります。「ここで私が示しているのは、あなたがたが十字架につけたお方を私たちは信じているということです。ナザレの人、さげすまれ、人々からのけ者にされたお方、この方が私たちの《主人》です。あなたがたは、どこかの思想家や、哲学者たちに頼るかもしれません。しかし私たちはこの方に頼ります。あなたがたは、あなたがた自身の功績や、犠牲や、業績に頼るかもしれません。ですが、私たちは、この方の肉とこの方の血が私たちの頼りなのです。」と、私たちの霊的いのちを支えるパン、また、私たちに喜びと歓喜と楽しみを与える葡萄酒を頂く時に、わたしたちは、それを隣人に示している。それを頂いた後も、主にのみ救われ、主にのみ頼り、主にのみ養われていきる、それを頼りにして生きる時に、また特にそれを知らされる聖餐をまち望む時、わたしたちは、世に主の死の力強さを、間接的に証ししているのです。  

 このことを世に対して云うことに加えて、私たちはそれを求道者の方々に対してもそれを伝えていることになります。求道者の方々は、聖餐式のその場にいる。これは、求道者の方々にとってこのことは祝福の招きとなるかもしれません。あるわたしの友人は、中学生の時に、あのパンとぶどう酒が、特にぶどう酒が飲みたかったから、信仰告白をしたと、冗談を言う者がいます。他の友人も、あのパンとぶどう酒がいつもうらやましかったという人もいました。わたしは、こう思うのです。ああ、それは主が、それを欲するように、うらやむように、この人を導いてくださったんだ。ああ、それは主が、その人にご自分の愛を受けて貰いたかったから、信じて洗礼を受けてもらいたかったから、そのようになさったんだと。そう思うのです。もし、求道者の方で、このパンとぶどう酒を見て、自分の口の中で、つばが溢れるのを覚えたのなら、それは、お腹が空いていたから、喉が渇いたからと簡単に結論付けないで、ただパンと葡萄液を欲したのではなく、キリストを渇望したのだと、自分の魂がそれを欲したのだと、そのようであると思って頂きたい。キリストを欲したと思って欲しい。求道者の方々は、寒い冬空の下にいる小さい鳥のようなのです。最初いわば、教会の窓枠を非常に優しくコツコツと叩いた。しかし、中に入るのは、不安だったため、一度後ずさりした。しかし、世界中は寒さに包まれており、他のどこにも、自分のためにはパンくず1つなかった。そのとき、もう一度、1つの恵み深い約束という開かれた窓を見た。その中におられる輝くお方が「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われていた、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない?」とも言われていた。その言葉を信じて、あなたはイエスのみもとにやって来た。そして、今イエス・キリストの家族の輪の中にやって来た。もう寒くない、ここにパンがあると主がいっておられます。その主を信じて、主に全てを委ねて洗礼を受ける時、そして共に聖餐に与る時は、もう目の前です。わたしたちは、みな、もともと、同じ外を飛び回り傷つき、寒さに震えていた鳥でした。その者たちが今家族とされ、食卓についているのです。  

 そのわたしたちの食卓は、最高の恵みと喜びがあるところなのです。わたしたちがそれを喜んで受ける時、それが主の道を求める方々への最高の愛の招きとなるのです。これを忘れないでいたい。自分が恵みを受ける場だけれども、最高に恵みを示す場であることを、わたしたちはこころに刻みたい。  

 願わくは私たちがこの2つの目的。この後行われる聖餐においてを果たすことができるように。キリストを覚えることと、その死を示すことであります。私たちは主の御霊、つまり聖霊なる神様にたよらない限りそうすることはできません。だから、今から、頭を垂れて、その御霊、聖霊なる神様の助けを乞い求めましょう。

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