夕礼拝

ぶどう園と農夫

「ぶどう園と農夫」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 詩編 第118編1-29節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第12章1-12節
・ 讃美歌 ; 55、513

 
たとえで話す
 主イエスの歩みの最後の一週間、エルサレムでの出来事を読み進めています。1節には、「イエスは、たとえで彼らに話し始められた」とあります。主イエスは生涯の中で、度々たとえを用いてお語りになりました。マルコによる福音書は第4章で、主イエスのお語りになったたとえをまとめて記しています。それらはどれも、主イエスが神の国、神様の御支配について、弟子たちやイスラエルの民に向かって語ったものです。本日の箇所で主イエスがお語りになったたとえは、4章におけるたとえとは異なります。第4章で主イエスは、「聞く耳のある者は聞きなさい」と語っています。聞いているすべての人が理解出来るようにたとえを語っているのではないのです。しかし、このたとえは違います。主イエスは、ここで、「彼ら」と言われている人々に向かってお語りになっています。この人々は、主イエス殺害をたくらむ、祭司長、律法学者、長老たちです。主イエスは、そのような人々との議論をする中で、たとえを用いたのです。議論をする相手に、明確にご自身のことを明らかにしようとしているのです。
 この人々は、直前の箇所で、主イエスの権威はどこにあるのかを問題にしました。この議論の発端は、主イエスがエルサレム神殿にやって来て、神殿から商人や両替人を追い出したという出来事にあります。主イエスは、祈りの家であるはずの神殿が、人々の思いが支配する強盗の巣になっていることに対して怒りを表したのです。主イエスの態度は、神殿についての祭儀を司る権威をもっていた彼らにしてみれば我慢が出来ません。いきなり秩序を乱すような行動をした主イエスに、そのようなことをする権威はどこにあるのかと問いただしたのです。主イエスは、彼らの問いにはっきりとはお答えになりませんでした。しかし、語ることをやめてしまったのではありません。むしろ、主イエスは、後に続いて語る、このたとえによって、人々に語り続けているのです。

ぶどう園と農夫のたとえ
ここで主イエスがお語りになったのは「ぶどう園と農夫」のたとえです。大変よく知られた、分かりやすいたとえであると言って良いでしょう。ある人がぶどう園を造り、農夫たちに貸して旅に出ます。収穫の時になり、収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送るのです。しかし、この農夫たちは、僕にぶどう園の実りを差し出すのではなく、僕を捕まえて袋だたきにし何も持たせないで帰しました。次に、他の僕を送りますが、農夫たちは、頭を殴り、侮辱します。そして、更に、もう一度送りますが、「ある者は殴られ、ある者は殺された」というのです。そして、ついに、この人は、自分の愛する一人息子を送るのです。しかし、農夫たちはこの息子も殺してしまうのです。 このたとえにおいてぶどう園を造った主人とは、天におられる父なる神様のことです。そして、「ぶどう園」というのはイスラエルの民であり、ぶどう園を貸し与えられた農夫とは、イスラエルの民の指導者として立てられている祭司長、律法学者、長老たちのことです。主イエスは、たとえを通して、父なる神様と、神様の民として歩むイスラエルの民、更には、祭司長を始めとする、イスラエルの指導者たちとの関係をお示しになりました。

神の民に対する期待と愛
 このたとえで先ず目を引くのは、主人が、ぶどう園を整える様子が丁寧に記されていることです。「垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」たのです。この記述からは、主人がどれだけぶどう園に熱心になっているが伺えます。この熱心さには、神様のご自身の民に対する愛が示されていると言って良いでしょう。神様は、ご自身の民を愛し、その民が実りを実らせることを期待しておられるのです。ここで実りとは、言うまでもなく信仰の歩みにおける実りです。神様の愛に応えて人々が歩むことを求めておられるのです。
 更に、この主人は、ぶどう園の管理を任せた農夫たちを信頼しています。農夫の下に、僕を三度も送るのです。ここで、ぶどう園の主人が送った僕たちというのは、主なる神が、イスラエルの民の下に送った預言者たちのことです。旧約聖書には預言者たちの言葉と業が記されています。預言者とは、神によって立てられて、神から離れて歩んでいる民に、繰り返し神に立ち返るようにと語った人々です。しかし、イスラエルの民は、預言者たちの言葉を受け入れませんでした。預言者たちは、人々から受け入れられず、時に侮辱され、軽蔑されながらも御言葉を語り続けたのです。たとえでは、三度目に送られた僕が殺されたと言われています。これは、洗礼者ヨハネのことであると言って良いでしょう。ヨハネは、旧約聖書の預言者ではありませんが、神から遣わされて、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた人でした。ヨハネは、そのことによって領主ヘロデによって首をはねられ殺害されてしまいます。洗礼者ヨハネの殺害は、ただ権力の座にあったヘロデの自分勝手なふるまいを示しているだけではありません。むしろ、御言葉を受け入れない人々が、神の御言葉の権威に従わずに歩もうとすることの結果を象徴的に現す出来事なのです。この時、イスラエルの指導者たちもヨハネを受け入れていませんでした。この人々も、ヨハネの語る御言葉に対して、自らを悔い改めずに歩んでいたということにおいて、ヨハネを殺害する者の一人だったのです。
 神の民イスラエルの歩みは、神に反抗し続ける歩みでした。一方で、主なる神は、ぶどう園の主人がぶどうの収穫を期待するように、ご自身の民が、何とかして、立ち返り、神の民として信仰の実りを実らせること願っていたのです。

一人息子を送る
 主人の期待の大きさは、僕を全員送ってしまった後に、愛する一人息子を送ったということに最も明確に現されています。6節には次のようにあります。「まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」。この箇所を読むと、私たちは驚きを越えて、首をかしげたくなるのではないでしょうか。私たちの常識から見れば考えられないことです。私たちは他人の裏切り行為を赦すことがなかなか出来ません。僕を送っても裏切り続けられ、最後には殺されてしまったというのにも関わらず、尚、そのような農夫の下に自分の息子を送るというのです。お人好しにも程があると言いたくなります。しかし、この主人は、そこまでするのです。この最後に送られた一人息子とは言うまでもなく、主イエスのことです。主イエスが世に遣わされたことの背後にある主なる神の民への愛は、私たちの常識や理解を遙かに超えているのです。
 農夫たちは、この一人息子も殺してしまいます。「これは跡取りだ。さあ殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」。農夫たちは、「相続財産」を自分たちのものにしようとしています。一人息子を殺すことによって、それが可能だと考えたのです。農夫たちの振る舞いも、あまりに常識から外れていると言って良いでしょう。何と安易な考えをするものかと思ってしまいます。
 しかし、このあまりに非常識な姿こそ、この時の祭司長、律法学者、長老たいちの姿に他なりません。彼らは、権威をもって神殿を治めていました。しかし、実際は、神の家であるはずの神殿を自分のものであるかのように占有し、自分の思いを実現する場にしていたのです。祭司長、律法学者、長老たちは、自分たちを非難する主イエスを殺そうとします。それは、彼らが神殿を自分が思いのままに振舞える場所しておきたかったからです。その姿は、本来の家の相続権を持っている一人息子を殺して、相続財産を自分のものにしようとする農夫たちの姿と同じなのです。

立ち返らない私たち
 私たちは、このたとえを、祭司長や律法学者、長老たちに語られたことで、自分たちには無縁なこととして片づけることは出来ません。私たちは、誰しも、神の民として地上を歩む中で、主なる神から実りを実らせることを期待されていると言っても良いでしょう。与えられた人生の中で、神様の権威に服しつつ、真の主人である神様に栄光を帰して行く歩みをすることを期待されているのです。しかし、私たちは、そのような歩みをすることが少ないのではないかと思います。自分を人生の主人にして主なる神を無視してしまう。神の権威をもって語られている主イエスの御言葉の真意に耳を傾けようとしないこともあるでしょう。主が繰り返し御言葉をもってご自身に立ち返ることを促しておられるのに、その御言葉に聞かずに、自分の栄光をのみ求めて歩んでしまうことがあるのではないでしょうか。そのような時、私たちは、神の愛する一人子である、キリストを心の中で殺してしまっているのです。人生が神から貸し与えられているということを真剣に受けとめずに、自分を主として振る舞い続けているのです。ぶどう園の農夫と同じように、ぶどう園の所有者を殺して、その相続をかすめ取ろうとしているのです。主イエスは、そのような者たち一人一人に向かって、このたとえによって、主の御言葉に立ち返らずに歩む者の歩みがいかに神の御心から遠いかを示そうとしておられるのです。

気づいている人々
 主イエスは、このたとえの中の9節で、農夫の振る舞いに対して、ぶどう園の主人がとるであろう行動について判断を下しています。「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」。農夫たちは裁かれるのは当然であると言うのです。そして、この反応は、私たちの感覚からしてもごく当たり前のことです。このたとえを読む時、私たちは誰しも、ぶどう園を造った主人の愛と期待を理解せずに、自分勝手な思いで、一人息子をも殺してしまう農夫たちの振る舞いに対して憤りを覚えます。もし、この農夫たちが尚生き続けて、主人から相続するようなことがあれば、それこそ、不条理であり、正義は貫かれません。そして、このような思いは、たとえを聞いていた、祭司長たちも又、同じであったのではないかと思います。
 このたとえを聞いた、祭司長らの反応は12節にあります。「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捉えようとしたが、群衆を恐れた」。「自分たちに当てつけて」というのは、「自分たちに向かって」という程度の意味の言葉です。このたとえが自分たちに向かって語られていることに気がついたのです。どれだけ深くこのたとえを理解していたのかは定かではありません。しかし、少なくとも、このたとえで自分たちのことが言われている。愛する一人息子とは、主イエスであり、農夫とは、自分たちのことであると気がついたのです。しかし、彼らは、自分たちの行いがいかに神の御心から離れているかを示されながらも、自らの罪を悔い改めるということはありませんでした。気づいているのであれば、悔い改めれば良いのです。しかし、それが出来ずに、尚、殺してしまえば何とかなると思っているのです。ここには自分の過ちを示されていながら、それを悔い改めることが出来ない人間の姿が現されています。
 祭司長、律法学者、長老たちは、主イエスが何の権威もなく神殿を荒らす手に負えない荒くれ者であるから、仕方なく捕らえようとしたのではありません。主イエスの業が、神の権威によって行われていることを示されつつ、悔い改めることをしたくないがために、主イエスを殺そうとしてしまうのです。
 彼らは、何故悔い改めることが出来ないのでしょうか。その根本的な原因は、彼らが、真の赦しを知らされていないということにあるのではないでしょうか。私たちは誰しも、赦しが与えられているという確かさがある時にしか、真に悔い改めることは出来ません。それが、神との関係においてであればなおさらです。そこで神の裁きに耐えることが出来ないからです。罪の中にある時、人は、悔い改めを迫る御言葉が語られても、自分は神に逆らっていることを示されても、悔い改めることは出来ないのです。赦しの確かさの中でだけ、真の悔い改めがなされるのです。

神の裁きの実現
 このたとえで、主イエスがお語りになった主人の裁きは実現したのでしょうか。当然、この非道な農夫たちに対する裁きは下されました。しかし、その裁きは、農夫たちである、祭司長、律法学者、長老たちに下されたのではありません。そうではなく、愛する一人子の上に下されたのです。ぶどう園の主人は、一人息子の命を犠牲にすることで、罪の贖いとして下さったのです。しかも、農夫たちが、自分の思いを実現しようとして、相続財産を自分のものとしたいがために行った、一人息子の殺害によって、罪の赦しのための贖いが行われたのです。つまり、罪人の手によって行われた主イエスの殺害によって、神は罪人を赦したのです。愛する一人子である主イエスの十字架の死は、人間の罪の極みであると共に、神の恵みが示された出来事でもあるのです。農夫たちは、相続財産を自分たちの者としようとして一人息子を殺しました。それは、主人の思いを無視した、罪の極みとも言える出来事です。しかし、そこで、主人の息子の死によって罪が贖われ、罪の赦しという、主人からの真の救いを受け取ることになったのです。
 ローマの信徒への手紙第5章20節でパウロは次のように語っています。「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(ローマ5:20)。罪が増し加わる所にこそ、救いの恵を増し加わると言われています。私たちは、自分の罪と無関係な所で神の恵みの豊かさを見出すことはありません。又、真の赦しと罪を知らされないところで、私たちは、神に立ち返ることも、神に感謝することもないでしょう。私たちの罪の中で、主イエスが私たちのために死なれ、その死によって罪が赦されていることを示される時に、私たちは真に悔い改めることが出来るのです。
 宗教改革者ルターの言葉に次のようなものがあります。「大胆に罪を犯せ、しかし大胆に悔い改めよ、そして大胆に祈れ」。悪いことを奨励しているのではありません。自らの罪深さの中でこそ真の救いが行われたことを知らされたものは、大胆に悔い改めることが出来るというのです。そして、神に立ち返って歩む者とされるのです。

家を建てる者の捨てた石
主イエスはぶどう園と農夫のたとえに続けて、詩編118編を引用しています。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」。家を建てる人が、不必要だと考えて捨ててしまった石が、新しい家を建てるための基となる隅の親石となったというのです。家というのは、神の家、祈りの家です。家を建てる者とは、神殿で権威をもって祭儀を司り、人々を指導していた祭司長、律法学者、ファリサイ派の人々です。そして、捨てられた石というのは、主イエスご自身です。神の家を建てるよう任されていた、人々は、主イエスを不必要だと思って捨ててしまいました。十字架につけてしまったのです。しかし、その主イエス・キリストが「隅の親石」となったというのです。捨てられ、十字架につけられた主イエスが、基本の石となって、新しく神の家、主イエス・キリストの体である教会が建てられたのです。ここに主の恵の御業が示されています。神の御業は「わたしたちの目には不思議に見える」と記されています。主人の愛は、私たちの常識を越えています。私たちが、主イエス・キリストを信じる者とされる。主の体なる教会に加えられるということには、私たちが主イエスを不必要な者として捨てたということによって実現したのです。私たちは、誰しも、一度、主イエスを捨てるのです。そして、そのことの故に教会は建っているのです。この教会に加えられる中で、私たちは自らを悔い改め神に立ち返りつつ、真の主人に収穫の実りを捧げて行くのです。詩編118編は、主に対する讃美によって歌い始められています。「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」。主の体なる教会に連なる時、私たちも主の御業の不思議さに驚きつつ、主なる神の慈しみを感謝の内に讃えずにはいられないのです。

関連記事

TOP