夕礼拝

親しく話し合いたい

「親しく話し合いたい」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編 第119編25-40節
・ 新約聖書:ヨハネの手紙二 第1章7-13節  
・ 讃美歌:464、402

 「親しく話し合いたい」と長老ヨハネは、この手紙の送り先である教会の人々に、そのことを手紙で書き送りました。彼はこの手紙でもっともっと書きたいことがあった、さらに書いていることについても、言葉を尽くしてくわしく伝えたかった。しかし、彼はたくさん言葉を尽くして手紙に書くということを選ばず、教会に直接赴いて、互いに言葉を交わすことを望みました。なぜならば、彼は共に言葉を交わすことにより、共に喜びに満ち溢れることができるからだと確信しているからであります。
 わたしたちは、今日このヨハネの手紙二を、神様から頂いた手紙として聞いております。もっと大きく言えば、この聖書も神様がわたしたちに送って下さった手紙なのです。今、私たちはヨハネが教会の人々と「親しく話し合いたい」ということを、聞きました。実はこの「親しく話し合いたい」と思っているのは、長老ヨハネだけではありません。神様も、今わたしたちと、この手紙に中で、もっと書きたかったこと、言葉を尽くして書きたかったことについて、わたしたちと会って「親しく話し合いたい」と望まれています。

 わたしたちに神様が伝えたいこと
 神様が今日わたしたちに伝えたいこと、それは、私たちに今日与えられた、このヨハネの手紙二の全体に集約して語られています。
 1.冒頭の愛していますという愛の告白。
その1つ目は、この手紙の1節から3節にかかれています。この手紙の最初は、愛の告白から始まっています。1節に書かれている「選ばれた婦人」というのは、教会の事であります。そして、その「子どもたち」というのは、教会に来て養われ育てられている信仰者のことです。その教会と信仰者に対して長老ヨハネは「真に愛しています。」という愛の告白をしています。この手紙は、長老ヨハネとある教会に対しての個人的な手紙であります。しかし、今この手紙は、もはや二〇〇〇年前に個人的なやりとりしていたという歴史的に価値のある手紙としてではなく、全世界で聖書として読まれており、それは神様が聖霊の力によって、わたしたちのために書いた手紙として、信仰者に受け止められています。ですからこの手紙は今、わたしたちに向けられた神様が書いて下さった手紙であります。この手紙で、ヨハネが教会と信仰者たちを愛していますという告白は、神様がわたしたちに向けて言って下さる愛の告白でもあります。これが最初にして、もっとも重要な神様からのメッセージであります。ヨハネによる福音書では、3章16節で「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とあります。神様は、実際にわたしたちをどれだけ愛しているかというと、それは、愛する独り子を手放して、その独り子の生命を犠牲にしてまでも、わたしたちを救いたいとお考えになり、実際にそのようにされるほどでありました。それほど、わたしたちを愛して下さりました。イエス様が、神の子であったのに、「人となった」ということにも、神様の愛があらわれています。イエス様は、神であるということに固執されずに、わたしたちと同じようにやがて滅びてしまうような肉体をもってくださり、痛みや苦しみを感じるわたしたちと同じ心を持って、人となってくださいました。そして、イエス様はこの世を生きて、すべての人に僕のようにして、お仕えになりました。神様は御自分の神という地位に固執されず、この世で一番低くなり、わたしたちに仕えてくださいました。なぜこれほどまでのことをされたのかというと、それは、わたしたちを救いたいからです。またそれは、わたしたちが御子を信じるものとなり、永遠の生命に生きて欲しいと神様がお考えになったからです。わたしたちは、神様のことを信頼出来ず、自分のことしか信頼出来ないという、罪に陥っています。神様よりも、自分のほうが大事であるというような自己中心になってしまう罪をもっています。都合の良い時だけ、神様を持ちだして、神様を自分のもののようにして、自分が神様を所有しているものだと思う罪を持っています。その罪のために、わたしたちは、神様と正しい関係を持つことができなくなり、生きるものでなく、やがて死ぬものとなってしまっています。わたしたちが死ぬものでなく、生きるものとなるためには、わたしたちが犯した罪、またこれから犯すすべての罪、その罰を受けて、その罪の精算をしなければなりません。わたしたちの罪に対する罰は、死と滅びでした。わたしたちは、罪を精算するためには、死ななければなりません。しかし、神様はわたしたちの罪を肩代わりしてくださいました。わたしたちのかわりに、御自分の御子の生命を差し出して、わたしたちの代わりに死んでくださいました。それが、イエス様の十字架の死です。その犠牲によって、わたしたちは赦され、神様と再び正しく関係を持てるようになりました。なぜ、神様そこまでのことをしてくださったのか。それは、わたしたちを、真に、愛しておられるからです。これほどの愛がこの手紙の冒頭で、わたしたちに向けられています。神様はこれほどわたしたちを愛しているということを、わたしたちに知って貰いたい、伝えたいとお考えになっておられます。

 2.わたしたちが愛と共に歩んでいるということを、嬉しく思ってくださるということ。
この手紙を通して、神様がわたしたちに伝えたい2つ目のことは、「信仰者たちが、ちゃんと愛と共に歩んでいるということ、そしてそのことを神様ご自身が嬉しくおもっておられる。」ということです。このことは、ヨハネの手紙二の4節から6節であらわされています。
神様は、わたしたちが愛と共に歩んでおられることを、喜んでおられます。ここで言われている愛というのは、イエス様のことです。わたしたちがイエス様と共に歩んでいるということは、言い換えるならば、イエス様のことを信じて、イエス様に全てをゆだねながら、この世の歩みを続けるということです。イエス様を信じて、イエス様に委ねて人生を歩むというのは、わたしたちの人生の歩みにおいて、わたしたちが自分のためだけで、行き先を決定するのではなくて、イエス様と共に、イエス様の守りと導きがあるということを信じて、進む方向を決断し、この世を生きるということです。それが、イエス様ともに歩んでいるということです。そのイエス様と共に歩むことを、神様が望まれ、また共に歩んでいることをごらん下さって、嬉しく思ってくださっています。そして、神様はまた、イエス様と共に歩んでいる兄弟姉妹、言い換えると信仰者たちと、互いに許しあい、愛しあっていること。そのことも神様は喜んでくださっているということを神様はこの手紙でわたしたちに伝えてくださっています。逆を言えば、わたしたちが、イエス様を信じず、イエス様に委ねず、自分勝手にこの世を生きる時、神様はそれを悲しまれ、またわたしたちが兄弟姉妹をゆるさず、互いに愛し合わないとき、神様はそのことも悲しまれるということです。

 3.  三番目
3つ目のことは、今日のヨハネの手紙二の7節から、11節の所に書かれています。それは、惑わすものが大勢この世にでてきているから、その者たちと交わらないようにと、忠告し、実際に神様がそのようなものからわたしたちを守って下さっているということです。
この手紙が書かれた当時の教会に、反キリストと呼ばれる、教会や教会の人々を惑わすものが教会に訪れて来ていました。長老ヨハネは、その者たちに気をつけなさいとこの手紙を通して警告をしました。この当時は、巡回説教者という人がいて、教会を巡って説教をしている人がいたそうです。この巡回説教者の中に、反キリストと呼ばれる人もいたようです。その反キリストの特徴は、一つはイエス様が肉体をとって人となられたことを認めない者であったこと、そして2つ目は、9節にあるように「キリストの教えを超えた」ことを語っていた者であったということです。「キリストの教えを超える」というのは、キリストの教えを通りすぎて語るということです。当時は、イエス様が創造の始めから、神の子であり、その神の子が、この世に肉体をとって人となられたという正統な教えがありました。しかし、同時にその当時、その教えを超えている、イエス様は洗礼を受けた時にただの人であって、神様から「霊」をうけて、イエス様は神の子になったという独自の考えを支持する人たちがいました。その人達は、その論理をさらに発展させて、その洗礼の時に「霊」を受けて、神様と繋がって、神様の知恵を知ったものだけが、救われると考えました。ですから、神様の知恵というのを、認識している人でなければ救われないとまでも言っていました。そして、神様の知恵を知っている人だけ集まり、そのことを理解できない人たちは救われないものとしていました。反キリストと呼ばれる人たちは、聖書が語っている以上のことを、真理として、信じていました。それが、ヨハネの言う、キリストの教えを超えるということです。わたしたちは、キリストの教えを超えるようなことを考えたりすることは、ありませんが、キリストの教えを時に、自分たちだけが頂いた特別な知識として受け取り、それをまだ知らない人のことを、この人はイエス様を知らない人とだと決めつけ、関わろうとしないことがあります。わたしたちが、教会の外に出た時に、そこで出会う人達がイエスを知っている人あることは多くはありません。その時、わたしたちは、この人達とは価値観や世界観が違うからと、どっかで線を引いてしてしまうことがあります。そして、その人達と関わらなくなってしまえば、それは、この手紙が書かれた当時の、反キリストと呼ばれる者たちのしていることと実は一緒です。わたしたちが、この人には知識が与えられているとか、この人は知らないとかを選ぶのではないのです。神様が、その恵みや愛、知識を与えたい人にあたえるのです。ですから、わたしたちには、だれがその知識をもっているかということや、この人は神様から恵みを頂いていない、などとはいうことはできないのです。わたしたちにわかるのは、神様を信じていて、教会と共に生き、イエス様と共に生きているものが誰であるかということだけです。神様はそのように、信じてイエス様と繋がって共に生きているものに、救いと永遠の生命を与えると聖書でおっしゃっています。特別な神様から頂いた知識がないと救われないというのは、神様のおっしゃっていることを超えて、考えています。神様はわたしたちがそのように考えることがないように、「わたしの教えにとどまりなさいと」とおっしゃっています。それはこの手紙の9節にあります。「その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます」と書かれています。神様はそのようにして、神様の教えの範囲から、わたしたちが飛び出ないように、そして、その範囲の外から誘ってくるものたちの誘惑に気をつけなさいと、言葉をもって、わたしたちに教えて、守り、導いてくださっています。これが、神様は今日わたしたちに伝えたい3つ目のことです。

 4.親しく話し合いたいと思ってくださっていること
4つ目はこの手紙の最後の部分の12節、13節の部分に書かれています。神様が、今日最後にわたしたちに伝えたいことは、神様がわたしたちと「親しく話し合いたい」と思われているということです。長老ヨハネは、この手紙に書いたことに関して、もっともっと書きたいことがあるが、紙とインクでは書こうとは思いませんでした。そうではなくて会って話したいと12節の前半で書いています。そして、12節の後半に、「喜びが満ち溢れるように、あなたがたの所にいって、親しく話し合いたいものです」と言っています。長老ヨハネは、この手紙をもっと長くして、伝えたいこと、注意して欲しいことなどをたくさん書くことができたと思います。しかし、そのようにはしなくて、会って話すことを望みました。手紙というのは、一方向のみのコミュニケーションです。そのコミュニケーションではできない、「親しく話し合う」という、双方向で且つリアルタイムのコミュニケーションを選択しました。この「親しく話し合う」という言葉は、顔と顔とを合わせるというニュアンスとは少し違い、口と口で話し合うというニュアンスが強い言葉で書かれています。それは、口から発せられる言葉と言葉を交わし合うようなコミュニケーションです。長老ヨハネは、教会の人たちに、紙に書いた言葉ではなくて、肉体の一部である口を使って発する言葉と言葉とを合わせることをしたいと考えていました。それはなぜでしょうか。その理由は、12節の後半にあるように、「喜びが満ち溢れるため」です。手紙というのは、送られた側読み手側にとっては、その手紙を読むとき喜んだり、悲しんだりという感情を与えられます。しかし、送り手側どうでしょうか。相手がその手紙を受け取り、喜んでいるのかも、悲しんだりするのかもわかりません。愛しているという手紙を書いたとしても、返事がなければ、送り手側にはなんの喜びもありません。ヨハネは、言葉で愛しているというその思いを伝え、その言葉を受けた人が喜んでいる様を見たいと思っていましたし、またその愛の告白に対する応答をも聞ければ、送り手であるヨハネも共に喜ぶことが出来る。共に喜びに満ち溢れことができるから、会って話し合いたいと考えていました。 ヨハネは、その教会に行く事で、その人たちと話し合うことができます。 しかし、神様の場合はどうでしょうか。わたしたちとどこで親しく話し合うということができるでしょうか。

 どこで神様と親しく話し合うことができるのか どこで神様と親しく話し合うことができるのか。それは、教会の「礼拝」においてです。「礼拝」が一番確かな時であり、一番確かな場所です。神様がこの礼拝に臨んでくださり、この礼拝の場に共にいてくださり、神様がこの場所で、わたしたちと「親しく話し合いたいこと」を語ってくださいます。神様はこの場にいてくださって、この説教を用いてわたしたちに話されたいことを語っておられます。その語りたいことは、手紙に書いてあったように、まず一番に「ここにいるすべてのものを愛しています」ということです。そして、重要なのが、「話し合いたい」ということは、手紙のような一方通行のコミュニケーションではなく、双方向のコミュニケーションを神様は望まれているということです。わたしたちはどうやって神様に語りかけ、また親しく自分の言葉をもって神様とコミュニケーションを取るのでしょうか。結論から言えばそれは、祈りです。わたしたちは、礼拝の中で祈ります。しかし、わたしたちは礼拝の中での祈りは、自分の言葉でなくて牧師や伝道師の祈りで、自分の祈りではないのではないかと考えてしまいます。でも実は、そうではないのです。お祈りの最後に、アーメンと「その通りです」とわたしたちは、同意します。その時、そのお祈りは誰か他人の祈り、もしくは牧師の祈りでなく、わたしたちの祈りとなり、もっと言えば「わたしの祈り」となっているのです。 そして礼拝以外の、日常生活の中でも、わたしたちは個人的に神様と祈ります。その時わたしたちは、祈りにおいて神様に話しかけます。その神様からの応えは、親しく話し合うことができるこの、祈りの家である教会の礼拝で頂きます。

 「親しく話し合う」の「親しく」が見出すことができるのは
ではわたしたちと神様の「親しさ」というのは、この礼拝のどこにあらわれているのでしょうか。それは、聖餐式において、明確に表されています。礼拝において、神様は食卓の席を用意してくだっている、それが、聖餐です。その食卓にわたしたちは招かれて、神様と親しく食事をさせていただきます。パンを食べ、わたしたちは神様に常に体と魂とを養われていることを知らされます。また、イエス様がわたしたちの救いのために、十字架上で自らの肉を神様との和解の献げ物としてくださった、その尊き御業を思い出しながら、パンを頂きます。また、わたしたちはその聖餐の食卓の席で、ぶどう酒、ぶどう液にあずかりながら、今もなお渇いている自分の魂を潤してくだっていることを感謝することができます。またわたしたちはぶどう酒、ぶどう液にあずかりながら、イエス様がわたしたちのために十字架上で血を流され、神様とわたしたちの間に新しい契約を打ち立ててくださり、わたしたちが死で終わることなく、復活し永遠の生命にあずかるものとしてくださった喜びを噛みしめることができます。
この食卓には、喜びが満ち溢れています。神様がこの食卓の席で、わたしたちのことをどれほど愛してくださっているかを言葉で語ってくださり、またパンとぶどう酒を通しても教えて下さる。わたしたちはそのことに感謝して、目の前におられる神様に祈り、讃美の歌を歌います。このような親しい交わり、親しい語り合いが行われているのがこの礼拝です。そして神様はわたしたちとこのように親しく交わり、親しい語り合うことを望まれておられます。わたしたちは今日のここに神様に招かれて来ています。そして、今、神様は「あなたをゆるしている、そしていつも愛している」と語ってくださいます。そして、イエス様と共に、兄弟姉妹ともに時に、ぶつかることもあるが、ゆるしあいながら、愛しあいながら歩んでいることを喜んでくださっていることを伝えてくださいました。そして、たくさんの誘惑があるから気をつけなさいと教えて下さり、わたしたちを常に守り導いてくださっていることを、今日このヨハネの手紙二を通して、語ってくださいました。そして神様はわたしたちと会って「親しく話し合いたい」と思ってくださっており、この礼拝を用意してくださいました。
わたしたちも今、そしていつまでも、神様と「親しく話し合いたい」。ですから、神様の語りかけに応えていつも祈りましょう

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