「信仰は旅立つこと」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 創世記 第12章1-4節
・ 新約聖書: ヘブライ人への手紙 第11章8節
この週日聖餐礼拝において、創世記第12章の始めのところの、アブラハムの旅立ちの箇所をご一緒に読みたいと思います。ここを選びましたのは、今日お集まりの方々の中に、旅立ちを経験されたばかりの方々が何人かおられ、教会としても、その旅立ちを見送り、あるいは旅立って来られた方々をお迎えしたところだからです。
私たちの群れから旅立たれたのは、Sさんです。5月8日付で、日本基督教団S教会に転出をなさいました。S教会は、お住まいである施設に隣接している教会であり、普段はそこで礼拝を守っておられます。Sさんは今年89歳になられますが、だんだん足が弱って来られて、指路教会の礼拝に集うことが困難になってきた中で、いつも出席しているS教会に籍を移す決心をなさったのです。そういう意味で、この教会からS教会への旅立ちを送りしたわけですが、しかしこれからも、この週日聖餐礼拝には引き続きお招きをして、交わりを持っていきたいと思っています。ですから別にお別れをするわけではありません。主にある交わりはこれからも変わりませんが、教会員としての籍を移す、という意味での旅立ちを経験なさったわけです。
一方、他の教会から旅立ち、この4月から私どもの群れに新たにお迎えした方々もおられます。4月に転入なさった方々は多くおられるのですが、そのお一人であるHさんは、今日、この礼拝堂での礼拝に初めてお迎えしました。介護施設でお暮らしで、日曜日の礼拝に出席することはなかなか困難な状況にあられます。本日は、息子さんが送り迎えの労を取って下さり、ここにお迎えすることができました。心から感謝です。また本日は出席することができませんでしたが、もうお一人のHさんもご一緒に転入なさいました。このお二人のHさんはお二人共96歳であられます。日本基督教団T教会から転入なさいました。お二人共長年T教会において信仰生活を送って来られましたが、様々な事情の中で、Mさん、本日ご出席のTさんと共に4名が指路教会に転入なさったのです。
長年連なってきた教会から他の教会へと転籍することは、人生における一つの大きな旅立ちです。旅立ちには別れのつらさ、寂しさが伴うし、前途への不安も覚えます。それらを乗り越えて旅立つことには勇気と力が必要です。今ご紹介した方々は、かなりのご高齢であられる中で、このような旅立ちを決意され、新しい一歩を歩み出されたのです。そのことに心から敬意を表したいと思います。なぜなら、そこにこそ、私たちの信仰の根本があるからです。聖書の教える信仰とは、旅立つことです。しかもそれは年若い者が青雲の志を抱いて故郷から旅立つような旅立ちではありません。既に一人前の人間になり、世の中のことも自分自身のこともある見極めを持ち、つまり自分の人生を確立して歩んでいる、そういう者が、未知の世界へと新しく旅立っていくのです。信仰とはそのように旅立つことだ、ということを、「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの姿が私たちに教えています。そのことを語っているのが、創世記12章の冒頭の所なのです。
ここには、当時アブラムという名だった後のアブラハムの旅立ちが語られています。彼は主なる神様の語りかけによって旅立ちました。主は「あなたは生れ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」とおっしゃいました。アブラムはこの時75歳だった、とあります。とは言っても、この後を読んでいくと、アブラハムはこの後百年生きて175歳で死んだと語られていますから、この75歳を今日の私たちの感覚の75歳と同じに捉えてしまうのは間違いだと思いますが、しかし先ほど申しましたように、既に一人前の人間になり、世の中のことも自分自身のこともある見極めを持ち、つまり自分の人生を確立して歩んでいる年であることは確かです。もはや決して若者ではない、分別のついた立派な大人であったアブラハムが、主なる神様のみ言葉によって、住み慣れた故郷を離れて、神様が示す地へと旅立ったのです。神様が示す地へと、というのは、共に読んだヘブライ人への手紙11章8節が語っているように、「行き先を知らずに」ということです。どこへ行くのか、どんな旅路になるのかは神様のみがご存知である、その神様に全てを委ねて、未知の世界へと新たに歩み出して行った、それがアブラハムの旅立ちであり、このアブラハムの旅立ちから、神様の民イスラエルの歴史が始まったのです。それは言い換えれば、神様による救いの歴史が始まったということであり、その救いを信じ、それを求め、待ち望みつつ生きる信仰の歴史が始まったということです。私たちの信仰の本質は、このアブラハムに倣って、神様のみ言葉によって旅立つことです。そして神様がみ言葉を語りかけ、旅立ちへと促すのは、若くて元気のある、あるいは無鉄砲なこともできるような年齢の者のみではないのです。私たちはいくつになっても、神様のみ言葉を聞き、それによって新たな旅立ちをしていくのです。神様を信じて生きるとはそういうことなのです。
主はアブラハムに「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」と語りかけられました。これは祝福の約束です。そしてさらに、彼が「祝福の源」となること、地上の氏族はすべて彼によって祝福に入ることを告げて下さったのです。この祝福の約束を受けて、彼は旅立ちました。信仰者を新たなる旅立ちへと促すのは、この神様の祝福、恵みの約束を告げるみ言葉です。行く手に神様の恵み、祝福が約束されているからこそ、私たちは勇気をもって旅立つことができるのです。神様の祝福を告げるみ言葉が語られ、それを聞くことこそが、私たちの旅立ちの、つまり信仰の土台です。神様の祝福の約束が告げられることなしに、自分の力で志を果さなければならないような所では、勇気をもって旅立つことなどできないのです。
けれども同時に知っておかなければならないのは、この祝福の約束を告げるみ言葉は、いつどこでどうなる、という具体的なことを語っているものではない、ということです。つまり旅立ちにおいて、先が見えてはいないのです。それが「行き先を知らずに」ということです。どのような祝福がいつ与えられるのかは全く分からない中で、それらのことは神様にお任せして旅立つのです。そういう意味では、信仰とは冒険です。未知の世界に踏み出していくことです。前もって知っている予定されたコースを歩もうとしていたら、信仰に生きることはできないのです。どのような歩みになり、何が起るかは全く分からないけれども、しかしこの旅路の先に神様の恵み、祝福が必ず与えられることを信じて一歩を踏み出していく、それが私たちの信仰であり、信仰者として生きる生活とはそういう旅立ちの繰り返しであると言うことができるでしょう。
神様は今も私たちに祝福の約束を告げ、私たちを旅立ちへと招いておられます。その祝福の約束は、神様の独り子イエス・キリストによって与えられています。主イエス・キリストは、私たちの罪を全てご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さいました。この主イエスの十字架の死によって、神様は私たちの罪を赦して下さったのです。そして父なる神様は、私たちのために死んで下さった主イエスを復活させ、新しい命、永遠の命に生きる者として下さいました。それによって、私たちにも、主イエスの復活にあずかる新しい命、永遠の命の約束を与えて下さったのです。主イエス・キリストの十字架と復活によって、罪の赦しと、復活と永遠の命の約束が私たちに告げられているのです。私たちはこの祝福の約束を告げるみ言葉をこの礼拝において聞いています。そして、この祝福と救いとが完成する世の終わりに、主なる神様のみ前であずかることが約束されている喜びの食事を前もってほんの少し味わわせていただく聖餐にあずかります。この礼拝において、み言葉と聖餐によって、主イエス・キリストによる救いの恵みを味わい、そしてここから、未知の世界へと新しく旅立っていくのです。その私たちの旅路がどのようになっていくのか、そこで何が起るのか、私たちには分かりません。けれどもどのようなことが起ろうとも、私たちの旅路の先には、神様の祝福が備えられているのです。私たちは誰でも、遅かれ早かれ、この地上から主イエスのみ元へと旅立っていきます。肉体の死は、私たちがこの世の歩みにおいて体験する最後の旅立ちです。その最後の旅立ちも、私たちのために十字架の死を引き受けて下さった主イエス・キリストの恵みの中に置かれています。そしてその旅は、主イエス・キリストの復活によって私たちにも約束されている復活の命、永遠の命へと至る旅なのです。地上における信仰による旅立ちを繰り返しながら、私たちはこの最後の旅立ちのための備えをしていくのです。