週日聖餐礼拝

生き生きとした希望

「生き生きとした希望」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第16編1-11節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第1章3-9節 

神の選びと召しによる群れとして
 教会は、人間が集まって作っている結社や団体とは違うものです。人間の結社や団体であれば、人間が何らかの趣旨によって集まり、何かの活動をしていくところに成立し、その活動のためにメンバーが会費を払うことによって維持されていきます。だから活動に参加できなくなったり、会費を払えなくなるなら、その団体に連なっている意味がなくなるわけで、「退会する」ということになるのです。しかし教会はそれとは全く違うところです。そもそも教会は、私たちが集まって作っているものではありません。神様が私たちを選んで下さり、呼び集めて下さって、信仰を与え、主イエス・キリストという頭に結びつけ、その恵みによって生かして下さっている群れです。教会が存在しているのは、また私たちがそこに連なる教会員となっているのは、神様の選びと召しによるのであって、私たちの側の意志や決断によることではないのです。それゆえに教会というものは、根本的には、私たちが目に見える仕方でその活動に参加することによって存在しているのではないし、私たちが献金をすることによって維持されているのでもありません。キリストの体である教会を存在させ、維持しておられるのは神様なのであって、私たちではないのです。私たちはその神様の選びと召しによって教会に連なることを許されているのです。  このことを忘れてしまうと、教会とこの世の団体との区別がつかなくなり、この世の団体に加わっているのと同じ感覚で教会のことを考えるようになってしまいます。そうなると、例えば病気や老いによってなかなか日曜日の礼拝に集うことができなくなると、つまり教会の活動に参加できなくなると、自分が教会に連なっていることの意味がなくなってしまったと思ったり、経済的な事情によって献金がなかなか出来なくなると、会費を払っていないのにメンバーでいるのは心苦しいと思ったりするようになるのです。しかしこれらの思いは、神様の選びと召しによって成立している教会と、自分が活動に参加し、会費を払うことで成り立っているこの世の団体とをごっちゃにしている間違いです。いろいろな事情によって礼拝に集えなくなっても、献金が出来なくなっても、そんなことで神様の選びと召しが取り消されたり、無効になってしまうことはありません。神様が私たちをキリストの体である教会の枝として下さっているのは、私たちが何かの活動をしているから、具体的には日曜日の礼拝に出席しているからではないし、献金をしているからでもなくて、私たちを主イエス・キリストの救いにあずからせ、その復活の命、永遠の命にあずからせて下さろうという神様ご自身の恵みのみ心によってなのです。礼拝に集えないからもう教会に連なっている意味がないと思ったり、献金が払えないから心苦しいと思ったりすることは、この神様の恵みのみ心を無にしてしまうことになるのです。

新たに生まれさせ
 私たちは皆、神様の恵みのみ心によって選ばれ、召されて、教会に連なる者とされています。そこに与えられているすばらしい恵みが、先程朗読したペトロの手紙一の第1章3節以下に語られているのです。3節冒頭には、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」という賛美があり、それに続いて後半にはこのように語られています。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」。ここに、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」て下さったとある、それは私たちが洗礼を受けたということです。洗礼において私たちは、主イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪に支配された古い自分が死に、それと共に死者の中からの主イエスの復活にもあずかって、新たに生まれさせていただいたのです。洗礼を受けたクリスチャンは、神様によって新しく生まれさせていただいた者です。私たちはもはや生まれつきの自分のままで生きているのではなくて、主イエス・キリストの十字架と復活によって新しくされているのです。それは私たちの清さや正しさや信心深さによってではなくて、ただ神様の憐れみのみ心によって与えられている恵みなのです。

終わりの時に現されるように準備されている救い
 新たに生まれさせていただいた私たちには、「生き生きとした希望」が与えられています。希望とは将来への希望です。現在はまだ自分のものとなっていないけれども、将来必ず与えられることが約束されているものがあるのです。そのことがここでは、財産を相続する約束というたとえによって語られています。4節です。「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」。新たに生まれさせていただいた私たちは、ある財産を受け継ぐ者とされているのです。それは地上にある財産ではなくて、天に蓄えられている財産です。地上の財産は、朽ちたり、汚れたり、目減りしてしまうことがありますが、私たちに約束されている財産は天に蓄えられているので、そのようなことはありません。この世の情勢の変化に左右されない確かな財産です。ではその財産を受け継ぐことができるのは何時なのでしょうか。5節に「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」とあります。この財産は「終わりの時」に与えられます。主イエス・キリストが天からもう一度来て下さり、この世界が終わり、神の国が完成するその時です。実はその時には、「財産」は役に立たなくなります。私たちが何を持っていたとしても、その全てが失われ、終わるのが世の終わりの時です。そこで意味を持つのは、私たちの財産ではなくて神様による救いの恵みです。私たちのために天に蓄えられており、終わりの時に現されるように準備されているのはこの「神様による救い」なのです。

神の力により、信仰によって守られている
 洗礼を受け、新たに生まれさせていただいた私たちは、世の終わりに現される救いを受け継ぐという希望を与えられています。でも世の終わりって、何だか随分遠いことのように感じられます。ですからこの希望は、今日の自分の生活に特に何か力を与えたり、支えたりするものではないようにも感じられるのではないでしょうか。しかしこの5節には、終わりの時に与えられる救いを受けるために、「神の力により、信仰によって守られています」と語られています。これは今現在のことです。世の終わりの救いの約束を与えられている私たちは、今、神様の力によって守られているのです。神様は、世の終わりまで私たちを放っておいて、その時になって初めて救いを与えて下さるのではありません。この約束を与えられて生きている私たちを、今現在、この世において、守っていて下さるのです。その神様の力は、信仰によって私たちに働いています。私たちが、主イエスの父である神様を信じて、洗礼を受けて教会に連なる信仰者として生きている、そこに、今現在、神様の守りの力が働いているのです。教会に連なる者として、信仰者として、神様の力による守りの中で生きることによって、私たちに与えられている希望は「生き生きとした希望」、つまり今の生活を力づけ、支える本当の希望となるのです。

試練の中でも喜んで
 この生き生きとした希望を与えられて生きる信仰者の歩みを語っているのが6節以下です。6節には「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」とあります。生き生きとした希望を与えられて、あなたがたは心から喜んでいる、しかしあなたがたの歩みには同時にいろいろな試練に悩まされることがある、というのです。洗礼によって新たに生まれさせていただいた私たちの信仰の歩みには様々な試練があり、苦しみ悲しみがあります。終わりの時以前のこの世を生きるとはそういうことです。そして私たちは心も体も弱い者ですから、自分の力で試練に打ち勝つことはなかなか出来ません。体の弱りという試練によって礼拝に集うこともままならなくなることがあります。そして体と心とは切り離せませんから、体が弱ることによって心も弱り、神様を見上げる信仰も弱ってしまうこともあります。この世を生きる信仰者の生活は日々そういう試練の連続です。しかしその試練の中でも私たちは、神の力により、信仰によって守られているのです。自分の力で試練に打ち勝つのではなくて、神様が私たちを守り、支え、導いて下さっているのです。この週日聖餐礼拝も、その神様の守り、支え、導きをいただくためになされています。主の日の礼拝にはなかなか集えなくても、ここでみ言葉を聞き、聖餐にあずかり、主イエス・キリストの恵みをいただくことによって、神様ご自身が試練の中にある私たちを力強く支えて下さるのです。この神様の守りと支えによって、7節にあるように、「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」。試練、苦しみが、信仰が本物となっていくための機会となるのです。それは繰り返しますが、私たちの力や努力で試練を乗り越えるならば、ということではなくて、神様の守りと支えによってそうなることを私たちは信じてよいのです。それが「生き生きとした希望」であり、そこに試練の中でも「心から喜んでいる」という歩みが与えられるのです。

聖餐の恵み
 8節には「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」とあります。救い主イエス・キリストを私たちはこの目で見ることができません。キリストが見えるようになるのは、世の終わりの再臨の時です。それ以前のこの世においては、私たちはキリストを見たことがない中で生きるのです。しかし私たちはその見たことのないキリストを心から愛し、キリストと共に生きる喜びに満たされています。天に昇り、今は目に見えないキリストと、地上を生きる私たちとを結びつけ、私たちがキリストの恵みに養われ、キリストの体の部分として生きることを確認させてくれるのが、これから共にあずかる聖餐です。み言葉を聞き、見えるしるしである聖餐に共にあずかるところに、私たちのすばらしい喜びが満たされるのです。最後の9節には「それは、あなたがたが信仰の実りとして、魂の救いを受けているからです」とあります。教会に連なり、聖餐にあずかる私たちは、信仰の実りとしての魂の救いをいただいています。信仰の実りとは、私たちの力や努力の結果ではなく、神様の恵みによって与えられた実りということです。神様が私たちを選んで下さり、召して下さって、信仰を与え、洗礼を授け、聖餐にあずかって生きる教会の一員として下さった、そのことによって私たちは、魂の救いを既にいただいています。その救いは、礼拝に集えなくなっても、あるいは献金が十分にできなくなっても、失われることはありません。私たちの肉体は次第に弱り衰えていきますが、神様が既に与えて下さっている魂の救いが、世の終わりの時には、肉体をも含めた私たちの全体に及び、完成する。その救いの完成が私たちのために天に備えられています。この救いの完成を待ち望みつつ生きるところに、試練の中にいる私たちにも、生き生きとした希望が与えられ、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びが満たされていくのです。

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