「すべてに対処する秘訣」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書: 詩編 第23編1-6節
・ 新約聖書: フィリピの信徒への手紙 第4章10-14節
・ 讃美歌 : 357、392
すべてに対処する秘訣
使徒パウロは、自分は、「いついかなる場合にも対処する秘訣」を知っていると語ります。本日朗読された聖書箇所の中の4章12節に次のようにあります。「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」。人生には、様々な状況があります。私たちは、誰しも、自分が置かれた、それぞれの環境や状況に対処しながら歩んでいます。時に、自分では対処仕切れない程の困難な事態に遭遇して苦しむことがあります。又、様々な状況に翻弄されて、人生を、一歩一歩しっかりと歩んでいくことが出来なくなるということも起こります。ですから、どのような状況にあっても対処出来る秘訣を知ることが出来れば、どんなに良いだろうかと思います。
秘訣と聞くと、この世を少しでも良く生きるための処世術のようなものを想像するかもしれません。しかし、注意をしたいことは、パウロが語るすべてに対処する秘訣というのは、苦しみを上手く切り抜ける方法とか、人間が欲望を満たし、自分の生活を少しでも充実させるための方法というようなことではありません。先ず、何よりも、パウロが語るどのような状況でも満ち足りるということは、人間が自分の力で獲得したり、学び取ったりするものではありません。それは12節の終わりで、「授かっています」とあるように、この秘訣は授かるものなのです。又、ここで秘訣と訳されている言葉には、秘密と言うニュアンスもあります。そこから、パウロはここで、この世で、キリスト者が、信仰を与えられるまでは隠されていたもので、信仰を与えられて行くことによって知らされて行くことを見つめているのです。今日は、パウロが語るすべてに対処する秘訣を見つめつつ、信仰者とは、どのように歩むことなのかを示されて行きたいと思います。
感謝なき感謝
まず、このパウロの言葉がどのような状況の中で語られたものであるかに目を向けたいと思います。本日朗読された箇所から、フィリピの信徒への手紙の最後までは、パウロが、フィリピ教会に感謝を記した一つの独立した手紙と考えられています。パウロは、現在、福音を伝えたことによって牢獄に捕らえられています。そのような中で、教会は、パウロを支えるために贈り物を送ったのです。パウロは、そのことの感謝を述べているのです。贈り物と言っても、物がありあまっている日本社会において、物質的な豊かさを享受している私たちが、親しい人にプレゼントをするというようなこととは全く異なります。牢獄に捕らえられ、極度の貧困を経験している中での教会の贈り物は、まさに支援物資であり、少し大袈裟に言えば、命をつなぐために不可欠な援助なのです。ですから、パウロは、そのことに心からの感謝をしているのです。しかし、よくよく考えて見ますと、命をつなぐための必要不可欠な援助をしてもらった人が、その感謝状の中で、自分は豊かでも貧しくとも、それに対処することが出来るということを語るのは、少しおかしなことのようにも思います。物質的な欠乏の中で限界だったところを、あなた達の贈り物によって救われたとは言わないのです。実際に、この手紙は、お礼の手紙としては意表をつくものです。10節には次のようにあります。「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう」。この箇所は「感謝なき感謝」と言われたりしますが、感謝を直接あらわす表現は一つも出て来ません。心遣いを表してくれたことを喜んだと語った後にすぐ、今まではそれを表す機会がなかったと言うのです。自分が、教会の人々に心遣いをしてもらうこと、贈り物をもらうことが当然であるかのような言い方です。もちろん、パウロは教会に感謝をしているに違いないのです。しかし、そのことが、単なる、物をもらったこと、物質的に支えられていることの感謝になってはいないのです。むしろ、そこで、自分は全てに対処する秘訣を授けられていて、貧しさや豊かさにも対応出来るのだと語っているのです。
この世の富
何故、贈り物への感謝状の中で、パウロはこのようなことを語ったのでしょうか。人間は、生きていく時、物質的な豊かさを得ることを強く求めています。そのような中で、富に縛られることを、警戒していると言うことが出来るかもしれません。人間は、この世にあって、基本的に不確かさの中に置かれています。そのような中で、自分の人生、命が脅かされることを恐れながら歩んでいます。そのような者にとって豊かさは、目に見える形で自らを支える一つの徴となるものです。そして、貧困は事実、私たちを不安に陥れ、脅かすものなのです。ですから、自分の命が脅かされていると考えられる、貧しさは、避けるべきことになります。そして、一方で、自分の歩みの支えとなる豊かさは、何よりも求められることになります。そのような意味で、富は、一般的には、私たちの生活を左右する最も大きなものであると言うことが出来ます。そして、人間が、自分を支えているものとして、富に執着し縛られているからこそ、贈り物や援助と言うものを受け取るという時に、ある特別な意味が生じるのです。私たちは、人から何かしてもらうと、それに見合うお返しをしないとどこか落ち着かなかったりします。物を受け取ることで、その相手に借りを作ってしまうような気になったりするのです。それは、人から物によって援助してもらうことは、それによって自分がその人に依存していることを意味するからです。援助は、自らが人の力に依存しなくては生きていけないことを示されることでもあるのです。そのような中で、ある依存関係や上下関係が生まれるのです。そのような中で、パウロは、自らが、そのような富に対する執着から自由であるということを語っていると言えます。私たちの置かれる状況は、ただ物質的に満たされているかどうか、富があるか無いかだけでとらえられるものではありません。貧しいか豊かかの差にかかわらず、苦しい状況や楽しい状況があります。しかし、ここでパウロ贈り物への感謝を述べる中で、得に、物質的な貧しさと豊かさを見つめつつ、そのような状況に縛られることがないと語ろうとしているのです。
贈り物の意味
パウロは、感謝状とも言える手紙の中で、感謝を明確に言い表さず、ある意味では失礼にさえ思える書き方をしつつ、教会からの贈り物に、私たちが贈り物ということにおいて一般的に考えることよりも深い意味を見つめているのです。教会における贈り物の本質を見つめていると言っても良いかもしれません。パウロは、ここで、物を贈ってくれたということ、即ち物質的により豊かになったことそれ自体を喜んでいるのではありません。「心遣い」と言われている言葉は「思い」とも訳される言葉で、フィリピの信徒への手紙において、繰り返し出てきたキーワードとも言える言葉です。2章2節には、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たして下さい」とあります。この言葉は、目標のはっきりした意図を表しているのですが、ここで、教会が、パウロが戦っている福音のための戦いに向かって思いを一つにしていることが見つめられているのです。パウロは、贈り物によって物質的に満たされたことよりも、フィリピ教会の信徒が、パウロと同じ思いを抱いて福音のための戦いを共にしていることを表してくれたことを喜んでいるのです。だからこそ、パウロは、14節で、「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」と語るのです。フィリピ教会の人々の贈り物の背後にある、同じ思いとなりつつ苦しみを共有してくれていることに感謝しているのです。パウロと教会の関係は根本的には「贈り物」を送ったということにある物質的な援助の上に築かれているのではなく、キリストのために苦しみ。福音のための戦い一つの目標に向けた戦いを共に戦っているということの上に築かれているのです。つまり、ここでの贈り物は、福音の宣教という大きな目的の中に位置づけられたものなのです。実際問題、パウロは、教会からの援助によって支えられ、それを喜んでいます。しかし、それは、ただ単純にパウロが自らの物欲を満たすために役に立ったことによる喜びではないのです。ですから、当然、この贈り物によって、人間的に見て、贈り物や援助につきまとう、人間関係のしがらみも生まれるようなことではないのです。
真の満足
パウロは、11節で次のように語ります。「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」。ただ物が欲しいということを言っているのではないと記した後、自分は満足することを覚えていると記します。ここから分かることは、ここでパウロが語る秘訣とは、どのような時にも満足することなのです。この満足は物質的な豊かさによって満ち足りることではありません。さらに、貧しさという苦しい状況の中にあっても、耐え抜く精神力を養って、やせ我慢して満足するということでもありません。「満足すること」とあるのは、他に依存せずに自立するという意味があります。満たされているというのは、自立していることなのです。しかし、この自立しているというのは、自分の力でしっかりと立つ力を得ているということではありません。本当に人生の支えとなるものによって根本的に支えられているということです。それは神様の救いにあずかり、その救いを得るために福音に生かされているということによって与えられる満足です。パウロは、フィリピ教会からの物質的な援助があろうとなかろうと、変わらずに満たされているのです。そして、このような満足を得ているからこそ、貧しさにも豊かさにも縛られずに、そこに深い意味を見出すことが出来るのです。 ここで注意をしたいことは、富に捕らわれるということは、ただ貧しさを通してのみ起こるのではありません。むしろ豊かな時にこそ、私たちは、富に支配され自らを見失うことがあるのです。物質的な豊かさというのは相対的なものですし、私たち人間の欲望は際限がありません。ですから、どれだけ経済的に満ち足りていても、満ち足りていないという状況があります。物質的に豊かになっても、根本的な満足がない限り、どれだけ物質的な富を獲得しても、満ち足りていないということがあるのです。ですから、物質的な豊かさの追求に奔走することは、実は、本当に満たされていないことの現れでもあるのです。私たちの置かれているこの世には、本当に満たされていない人間のむさぼりが、様々な混乱を生み出している現実があります。そのことは、富に縛られ、真の秘訣を知らされていないからであると言っても良いでしょう。貧しさにおいても、豊かさにおいても、この世の富に支配されずに歩むためには、本当の満足を与えられることが大切なのです。
強めて下さる方の力によって
この神様の救いにあずかることによる満足は、キリストによって授けられることです。そのことについて、13節で、パウロは「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と記します。ここで「強めてくださる方」とは、キリストのことです。3章10節で、パウロは、「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」とあります。ここで、キリストを、「わたしを強めて下さる方」と言う時、そこでは復活の力が見つめられています。信仰者には、キリストが十字架で死に、神様によって復活させられることによって、罪の赦しと永遠の命への希望が与えられているのです。キリストの救いにあずかることによって罪赦され、神様との関係が回復されているのです。この罪の赦しと永遠の命の希望こそ、私たちを脅かしている力から、私たちを救い、本当に、私たちの命を支えているものです。そして、この救いにあずかって行くことの中でこそ、どのような状況の中でも、力を得るのです。それは、私たちが、本当の意味で自分の命を支えているものを知らされるということでもありますその本当の支えを知らされているからこそ、パウロは、キリストのお陰ですべてが可能だとまで語るのです。何か、今経験している苦しみ、貧困から抜け出すことが出来ると言うようなことではありません。置かれた状況に支配されずにしっかりと歩む者とされるということです。キリストにあって、復活の力を知らされ、この世の富に縛られることなく歩むことこそが、信仰者が、あらゆる状況に対処して行くことが出来る秘密と言っても良いでしょう。それは、人間の訓練によって体得するものではなく、キリストによって与えられる神様との関係に生きることの結果なのです。
真の目的を与えられる
そのような満足を与えられて歩むことは、人生における、真の目的を示されて歩むことを意味します。その時、この世で経験する、豊かさも貧困も、神様の救いにあずかって行くという目的に向かう歩みの中に位置づけられ、意味を持つものとなるのです。貧しさや人生の中での苦しみは、主イエス・キリストの苦しみにあずかっているということになります。そこで、その苦しみが、福音を証しするためのものであり、自らも救いにあずかって行くために与えられたものとして受けとめることが出来るようになるのです。又、一方において、豊かさも又、主イエスに従い、本当に仕え合って行くために用いられるものとなります。本当に命を支えているものを示され、真の満足を経験する中で、自分に与えられている富を、ただ自分の欲望を満たすことのためではなく、心からの喜びをもって他人のために用いる者とされるのです。そのようにして、地上での富を主の業のために用いて行くことが出来るのです。キリストによる救いにあずかって、真の命に至るための道のりを歩んでいる者にとっては、地上のどんな苦しみや貧しさも、又、喜びや豊かさも、全てが、キリストを証ししつつ救いにあずかって行くためのものとして意味をもつのです。
私たちの信仰とは、本当にキリストによって満たされている、自分の命が支えられているということを知らされて行くことです。その秘密、秘訣を知らされていない時、貧しさも豊かさも、自分自身を確かな歩みから引き離して行きます。富に支配されて、人間の罪が作り出す状況に翻弄され、あくせくと生きるようになります。しかし、もし、パウロが語る人生の秘訣、キリストの救いにあずかり、キリストによって与えられる復活の命に至る道を確かに歩んで行くのであれば、あらゆる困難な状況は、耐えうるものとなります。本当に私たちを脅かす罪と死の力からの救われると言う救いの恵みに満たされ、あらゆる状況の中でも、福音のための戦いを戦いながら共に歩む者とされていくのです。