「希望の重ね着」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:詩編第112編1-10節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二第5章1-5節
・ 讃美歌: 271、11、579
わたしたちが聖書を読む時に一つ大事な心がけがあります。それはその聖書の箇所がわたしたちの生活のどういう問題にかかわりを持っているか、ということを考えながら読むことです。聖書は必ずわたしたちの切実な問題に対する答えを語っていますので、それを心に置いて聖書を読む。それが聖書を理解するための一つの大事な心構えです。さて、このコリントの信徒へ手紙5章の1節から5節のところ、ここは、いったいどういう問題にかかわりを持っているか、どういう問題にについて教えているか、そのことは1節に書かれています。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」
最初に「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びる」そういうことがわたしたちの問題だ、ということがはっきり言われています。この地上の住みかである幕屋、それはいったい何を指し示しているのか。もちろん、これは譬え、つまり比喩です。わたしたちの家が古くなって、雨漏りするようになったとか、カビだらけとか、ゴミ屋敷であるとかそういうようなことではありません。いったいこれは何を意味しているかというと、実はこれはわたしたちの体のことを言っています。若い元気な時、健康な時には、あんまり体がこわれる、破れる、滅びるというようなことは実感しないのですけれども、重い病気を患ったり、あるいはだんだん年を重ねてきて、衰えてきたりしますと、本当に自分の体が段ボールで造った家のような、壊れやすいものである。いつまでも、しっかりと立っている建造物ではなくて、その場しのぎのために張られている天幕、現代的に言えば段ボールで造った簡易の寝床みたいなものだ。ということを少しずつ実感していく。そして、これはわたしたちの生きて行く一つの大きな悩みです。それに対して聖書は心配しなくてよいと、この問題に対する解決をここで語っています。しかし、この地上の住処である幕屋という言葉が、ただわたしたちの肉体のことだけを言っているか、というとどうもそうではないみたいなのです。じゃあ、いったい何を言っているかと言うと、これは、この肉体にあって、わたしたちが営んでいる生活全体のことを指しています。いわばわたしたちの人生、それはまことにうつろいやすい、破れやすいものだということをここでは語っています。それに対して、天にある、人の手によらない、永遠の家が神様の手によって備えられているということが言われています。
この二つの住まいを、比べてみますと、第一に幕屋のほうは地上にあり、もう一方の神様からいただく建物は天にあります。天にあるということは、空の上にあるということではありません。天にあるというのは、わたしたちが、現実に見たり、さわったり、経験したりすることのできない世界であるということをあらわしています。ですから、なにかこう直接にその神様からの建物を目で見よう、経験しようとしても、それはできない。しかし、確かに神様が備えて下さった建物がある。
そして、次にわかることは地上の幕屋は、ほんのしばらくの、その場しのぎのために使うものであるということがわかります。しかし、天にある建物は、これは永遠の住みかであるとあります。わたしたちの平均寿命が延びまして、この頃日本人は世界一番の長寿の国になりました。しかし、そうはいっても、まあ百まで生きる人は、わりといません。せいぜい生きても百二十くらい、それ以上はなかなかいません。それで、考えようによれば百年という年は大変長い年です。人間以外の動物で百年生きるものはあまりおりませんし、しかし、これを地球の歴史から言うならば、これはほんの一瞬。決して人間の生涯というものは長くない。そして誰でも必ず死にます。人間のこの世での体や生活は一時的にしか使わない天幕のようなものだとパウロが言っているのは、まことにそうだと思います。それでいて、健康で生きてもせいぜい百年。しかし、たいていの人は途中で病気をします。もしこの体で生きる人生、病気をしたり、苦しみを負ったりして100年くらい生きる人生が、それがすべてということになれば、それはなんと儚いものでしょうか。しかし、天にあるすみか、つまり、天にある生活、人生は、永遠であると言われています。それがここで約束されています。
イエス様は十字架におかかりになる前の晩に弟子たちにお別れの言葉を言われたのですが、その中で「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」という言葉を言われました。神様のところにはわたしたちの住む所がある。「わたしはそれを用意しに行く」と言われました。そのイエス様が用意して下さった住みか、それをわたしたちは信じ、そして、そこに希望をもっている。だから、このしばらくの幕屋における地上の生活が、もうはかないものではなくて、望みを持って生きることができるわけです。
もう一つのことは、地上の幕屋は人間が作るものだ、しかし、天の住みかは神様が造った。そういうことがここで言われています。地上の幕屋は人間が作るということは別に、言葉の上では出ておりませんけれども、永遠の天の住みかは神が備えた建物であるということを、ここでは、ことさらに強調しています。そのことは地上の幕屋は神が備えたのではない。人間が作るものだ。神からいただく天の住みかは人の手によらないで造られた。この言葉を読みますと、ここから、地上の幕屋はただ体のことだけじゃないなあということに気がつきます。なぜならば体のことだけでしたら、わたしたちの肉体もまた人間の手で作ったものではありません。人の手によらない神からいただく天の住みかと、ことさらに言われていることに対して、この地上の幕屋は人間が一生懸命計画をし、苦労をして作ったものだということ、それは単にこの肉体ではなくて、肉体にあって生きているこの地上のわたしたちの生活全体を指しているのです。
わたしたちは、非常に高い理想を持って、一生懸命頑張りたいと願い、それを実現しようとします。そして高い望みを達することができる人もいます。たとえば、豊臣秀吉という人は貧しい農家の子に生まれて、大変貧しい生活をしていたけれども、最後に天下を取りました。いいか悪いかを別にして、これほどまでに貧しい所から一生懸命力を尽くして、自分の望みを達成した人はあまり他にいないと思います。しかし、彼は死ぬ時に「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」と言ったそうです。一生懸命やって自分の目的を達したと思った時に人生を振り返ってみると、それは露のようであり、成し遂げるべきことも夢のまた夢であった。それが地上の幕屋におけるわたしたちの人生です。もしそうであれば、一生懸命生きていくということは非常にむなしいことです。しかし、わたしたちはそうはでありません。この地上の生活がすべてであるのではなくて、この地上での生活は、神の建てて下さる永遠の家に行くまでの、一時的に宿る場所で、わたしたちはこの地上での生活が、幕屋のようなものであるということを知っています。これがクリスチャンの人生観と言いますか、わたしたちの人生観の土台になっています。
この1節の真ん中のところに「わたしたちは知っている」という言葉があります。この「知っている」という言葉は、聖書のなかにいくつかの種類がありますが、ここで用いられている「知っている」という言葉は、ただ人から聞いて「ああ、そういうことは知っている」というような、そういう見聞きした知識のことではなくて、いわば自分の生活を通して、実感をしている。生活全体で、それを実感をするような、そういう知り方を表す言葉です。クリスチャンはいろいろ困難なことに出会っても苦しい目に会っても、ああこれは一時的な幕屋の生活である。やがて、天において神様が備えて下さった永遠の家、そこに住むことができるということを、生活の中で、しっかりと信じて生きる経験をします。それを実感していきます。
「じゃあ、この地上での生活はどうでもよいのか?」と思われる方がおられるかもしれませんが、そうではありません。2節3節でこう言われています。「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。」ここで「苦しみもだえている」という言葉がありますがこれは、2節と4節に出てきます。「苦しみもだえる」これは「うめく」という言葉です。苦しくてうめいているという言葉ですが、この地上の生活というものが、苦しみうめくような生活だ。なにか分かるような気がします。もう、毎日毎日いろんなことがあって苦しい。うめくような思いをすることがあります。しかし、ここでパウロが幕屋のなかで、苦しみうめいているということのうめきは、どういううめきであるかというと「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願っている」そういううめきだといっています。ある願いを持って、もうそれは切なる願いですが、それがなかなか実現をしないときに、うめき苦しみもだえるわけです。これは絶望してうめいているのではなくて、希望があった上でうめいているのです。これは日々の生活に疲れてあえいでいるのではなくて、出産の時の母のうめきのようなものです。
この2節を読んでいると、なにか違和感を受けます。それは何かといいますと、1節のところでは「地上の住みかである幕屋」とか「天の住みか」という、そのような住まいの比喩で話してきたのに、2節になると着る物になっています。「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って」とあります。住みか、つまり家を着るなんてへんだなあと思うのですけれども、これは比喩ですから、家の比喩から、着る物の比喩に変化したということです。その変り目がこの2節です。それで、上に着るという言葉は、着ている上にまた、その上に着る。つまり重ね着をするという言葉です。それで「幕屋にあって苦しみもだえ」ながら切望している。その望みは何かと言いますと、天の建物を今の幕屋の上に重ね着をしたい。そういう願いだとパウロは語っているのです。
3節のところで「それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。」とあります。これは、地上の幕屋という服を脱いでも、裸にはならないということを語っています。この地上の幕屋と言われているものが、初めに申しましたように、ただわたしたちのこの肉体だけじゃなくて、この肉体にあって、これをもとにして生きている毎日の生活です。それは、言わば裸の自分を隠すための生活です。
地上の幕屋を着ていない「裸」の自分というのは、妬んだり、恨んだり、嫌味や悪口を言ってしまうような罪の自分です。パウロが脱いでも「裸」のままではないといっているのは、この脱いでも罪の着物が下にあってそれに自分が覆われているから、言い換えれば体と密着している罪の下着があるから、地上の生活を脱いでも裸にならないと言っているのです。
その罪の下着を着ている罪と密着している恥ずべきありのままのわたしたちは、地上の生活という服を着て、そこで見栄を張ったり、いい子になろうとしたりして、その下の自分を覆い隠そうとします。それが地上の幕屋という服です。地上の生活を慎ましくしたり、良いことをしようと努力したり、また生活をきらびやかなものにしたりして、その生活を上から着て、他者から自分を隠そうとします。しかし、中の裸の自分は罪のために腐っている。だったら罪の下着を脱げばいいと思う人がいるかもしれません。しかしいくら自分で一生懸命努力をしても、自分では罪の下着は脱げないのです。それは罪の下着が体と密着しているからです。地上の幕屋ができることそれは、罪を一時的に隣人に見せないということだけです。
この4節のところに「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいております」という言葉が言われています。この重荷というのは、罪の下着を着ているわたしたちの恥ずべき行いのこと、それは人を妬み、傷つけ、恨んだりしてしまう心であったり、また神様を見失い絶望してしまう現実です。その重荷に呻いている現実がある。その後に「地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。・・・天から与えられる住みかを上に着たいからです」という言葉があります。「地上の住みかを脱ぎ捨てる」とありますが、原文には、「地上の住みか」と断定している言葉はでてきていません。わたしは、これは、「地上の住みか」を脱ぎ捨てるということではなくて、なんの着物かは断定されていないので、ここは地上の住みかという服の下にある「罪の下着」ことをいっていると思います。「罪の下着を脱ぎ捨てる」それはつまり自分で一生懸命清い良い人間になろうとすることです。パウロは、そのような努力することで自分が呻いているのではないと言っています。上から着ることを望む故にうめいていているのです。ここでパウロは、脱ぐのではダメだと言いたいのでしょう。そうではなくて上に着るということが大事だと、パウロは言いたいのです。脱ぐのではなくて、この上に着たい。それを切望しながら、うめいているのが、パウロの姿なのです。
じゃあ、この上に着るとはなんでしょう。新共同訳は「天から与えられる住みか」とありますが、ここも原文にはこのような言葉はでてこないので、なになのかは断定されていません。しかし、ここが肝心なところです。結論から申し上げますと、このわたしたちが着るべき着物というのはイエス・キリストです。突然イエス・キリストを着るなんて言葉が出て来たので、変に思われるかもしれませんが、ローマの信徒への手紙の13章を見ますと「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」という言葉が出て来ます。あるいはガラテヤの信徒への手紙に「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」とあります。イエス様を着る物に譬えた言葉が何回か出て来ます。「イエス・キリストを着る」。いったいその「キリストを着る」とはどういうことでしょうか。
重ね着した時のことを考えてみましょう。下着が破れたり、よごれたりしていても、綺麗な服を上から着れば中は隠れます。わたしたちはいくら服を脱いでも脱いでも、自分の内にあるきたない心や思いはなくなりません。しかし、その上にイエス様を着る。イエス様に覆っていただくことで罪は完全に隠されます。隠される以上にのみ込まれるとまで、ここでは書かれています。ここで「自分たちの地上の生活という服で隠すのじゃだめなの?」と思った人がいると思います。自分たちの生活ではだめなんです。わたしたちの生活は破れが多いものです。完璧に律法守れる律法学者がいないように、また完璧に十戒を守れる信仰者がいないように、わたしたちの生活力、またわたしたちの信じる力は、完璧なものではありません。それは継ぎ接ぎだらけの服のようです。わたしたちは自分たちの努力という糸と針で、バラバラな信念という布を、仕立てて罪の心や体を隠す服を作ります。しかし、それは、もろく、また縫い目も荒いため、服の下の罪の自分が時折出てしまいます。破れやすいので、自分の体調や、心の安定がなくなれば、すぐに汚い裸の自分が表にでるようなことになってしまいます。だから、わたしたちはイエス様という一枚布で、縫い目のない、新しい服を着なければならないのです。そうすることによって完全に罪が覆われます。それは隠すというだけでなく、死ぬべきものが命に飲まれる。つまり、罪による死ぬべき存在がイエス様の命を着ることで、罪もろとも滅ぼされ、死ぬものから生きるものになるということです。イエス・キリストを着る。イエス・キリストによって生きていく、という信仰を持った時に、そのやがて朽ちゆくわたしたちの人生が朽ちないものになる。永遠の命を与えられるのです。
それはイエス様という服につぎはぎされるのではなくて、そのイエス様という命の服にわたしたちは飲み込まれてしまうということです。この「命に飲まれてしまう」という言葉は、動物が餌を食べてしまう。すっかり食べる。あるいは水の中へ人間が落ち込んで溺れてしまう。そういうような意味を持った言葉です。非常に激しい言葉です。命がわたしたちの死ぬはずのものを、ごぉーと飲み込んでしまうということです。
しかし、ここで信仰生活のうちで、度々直面する問題のことが頭をよぎります。それは、「そうなるためには何をしたらいいでしょう。」という問題です。何かこのままでは駄目じゃないか。なんかしなきゃいけないじゃないか。頑張らないといけないのではないか、という思いがすぐ、わたしたちにはでてきます。わたしのこのままの信仰生活では、とてもその命に飲み込まれるなんてことは起こらない。なんか特別なことをしなければいけないのではないかという不安が、いつもわたしたちの信仰生活に起こってきます。しかし、ここでパウロは大事なことを言っています。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。」この死ぬはずのものが命に飲み込まれる。そういう人生に誰がどのようにして変えるか。わたしたちの熱心や努力や頑張りではなくて、まさに神様がそのことをして下さる。神の業である。あなたたちがこの地上の幕屋にあって、何かこう惨めな破れだらけの生活をしているようだけれども、それはそのまま永遠の命を持ったものに変えられる。変えて下さるのは神様だ。あなたが努力をしたから、熱心に頑張ったから変わるんじゃなくて、神様がそれを変えようとして御業をなさって下さるということをパウロは言いたいのです。
しかし、信仰者になっても現実のわたしたちの生活は破れだらけです。いったい本当に神様はそうしてくださるのだろうかと、そういう疑いといいますか、不安が起こってくるかもしれません。自分は駄目じゃないだろうか。それに対して「大丈夫だ」「あなたは大丈夫だ」という、保証を神様が与えて下さったということが、5節で言われています。わたしたちが罪から清められ新しい命にいきるものにして下さっただけでなくて、それをわたしたちに保証して下さっているということです。その保証は何かというと聖霊であるとパウロは言います。5節「神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。」わたしたちが聖霊を受けているということがわたしたちにとって、この破れた朽ちゆく生活が命に飲まれたということ、また永遠の命を与えられるということの保証であるとパウロは言っています。この保証という言葉は手付金という意味の言葉です。全額は払わないけれども、前金としてこれだけ渡しておく。そういう手付金という意味です。わたしたちはここで言われているような、天にある永遠の家に住まう祝福というものを、全体的にすべて受け取っているわけではありません。それはキリストが再び来たりたまう時に初めて与えられるものです。わたしたちの肉体も完全な新しい体に変えられる。わたしたちの卑しい思いやいろいろな思いというものもすっかり清められる。それはキリストが再び来たりたまう時に完全に現れてくる。
しかし、「それなら今はなんにもないのか」と言うとそうではありません。手付金がある。その最後の永遠の救いも、この破れた地上の生活の中に、すでに与えられている。それが聖霊です。聖霊というとなんかこう特別な異常な経験でもしていないといけないのか、というようにまた不安が起こってくるかもしれませんが、聖霊を与えられているということは言葉を換えて言えば、イエス・キリストを信じる信仰を与えられているということです。聖霊と信仰とは一つです。あの十字架につけられたイエス様が復活したとわたしたちは信じています。見たことはない。イエス様の復活した姿を見たことはない。けれども信じている。イエス様はわたしたちの救い主であるということを信じている。誰が信じさせたのでしょうか。なにかの理屈でわたしたちは信じたわけではありません。目で見て信じたわけではない。しかし、信じている。誰が信じさせたのか。それが聖霊です。パウロは「人は聖霊に導かれなければ、イエスを主ということはできない」と言っています。イエス様がわたしのために十字架にかかって、わたしに救いを与えて下さったということを、信じている人は聖霊をいただいているわけです。
そしてその信仰と聖霊を頂いているわたしたちは、日々罪の姿から正しい姿へとかえられるのです。そのために、イエス様を着ているのです。日々わたしたちを新たにするために、イエス様が服のようにわたしたちと密着してくださり、わたしたちの罪をあの十字架の血によって清めてくださっています。それはまた、言葉を変えれば聖霊なる神様がわたしたちの内に宿り日々新たに刷新してくださっているということです。このイエス様の死という大きな恵みと、そして聖霊なる神様の内なる刷新の働きを、今わたしたちは身に帯びています。その身に帯びているものこそが、わたしたちに対する神様の手付金です。その手付金だけではなく、完全に支払われる時、つまり終わりの時、わたしたちは死を超えての復活の体と永遠の命が与えられます。その手付金が保証しているものがわたしたちの希望です。日々新たにされていくことと、終わりの日の復活の体と永遠の命に対する希望、これがわたしたちに与えられた、主からの大いなる恵みです。
それらが与えられていることを喜び、感謝して祈りましょう。