主日礼拝

信仰によって生きる

「信仰によって生きる」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第100編1-5節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第14章13-23節
・ 讃美歌:327、128、394

信仰に生きるとは
 本日の説教題は「信仰に生きる」です。信仰に生きる、信仰を持って生きる、信仰者として生きる、それはどのようなことなのでしょうか。既に信仰者として生きている人でも、よく分からない、と思うことが多いと思います。果たして自分は本当に信仰に生きていると言えるのだろうか、という問いを持たない信仰者はいないでしょう。そして、まだ信仰の決断をしていない、いわゆる求道中の方々は、まさにそのことが知りたい、信仰に生きるとはどういうことなのか、それを知ることができれば、自分もその決断ができるのではないか、と思うでしょう。信仰に生きるとはどのようなことか、本日はこのことを、聖書から教えられたいのです。

良いことをして生きることが信仰ではない
 ところで私たちは多くの場合、信仰に生きるとは、一生懸命良いことをして生きることだと思っているのではないでしょうか。日本の多くの宗教はそのように教えていると思います。つまり、日本においては道徳と宗教の区別が曖昧であり、宗教が道徳化しているのです。それゆえに多くの人々が、神とか仏というのは、人間の良心、良いことをしようとする心が投影されたものだと思っています。良心に従って生きることを励まし力づけるために神仏がある。「教養がある」と言われている多くの人々がそう考えています。そういう人々は、神や仏を信じるのは幼稚で単純な人々のすることで、神など信じなくても良心に従って生きればよい、と思っているのです。
 しかし聖書の教える信仰は、「良いことをしよう」という道徳の教えではありません。勿論聖書にも、良いことに励むことを勧めているところはあります。しかし私たちが良いことをして生きるために神がいるのではありません。それは逆であって、神を信じるから良いことをするのです。良いことをすることは信仰の目的ではなくて結果、実りです。だからいかに道徳が説かれ、いわゆる道徳的な生活がなされていても、それが信仰に生きることなのではありません。信仰に生きるとは、良い行いをして生きることではなくて、神を信じて生きることなのです。そこに聖書の信仰の特徴があります。信仰に生きるとはどういうことかを正しく捉えるために私たちは、「良いことをして生きることが信仰だ」という世の中の常識から抜け出さなければならないのです。しかしこの常識はとても深く私たちの心を捕えてしまっています。日本では宗教が道徳化していると先程申しましたが、それは日本に限ったことではありません。主イエス・キリストを信じる信仰においても、同じことが起こるのです。本日の聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第14章13節以下でパウロが問題にしているのも実はそういうことなのです。

律法を守ることによってではなく
 この13-23節について既に二回説教をしてきました。それを聞いて来られた方はお分かりのように、ここには信仰者の食べ物について、当時の教会の中で起こっていた意見の対立のことが語られています。キリストを信じる信仰者の間に、肉を食べずに野菜だけを食べるべきだという人々と、何を食べてもよいのだという人々がいて、両者がお互いに相手を軽蔑したり裁いたりしていたのです。そういう現実を嘆きつつパウロはここを語っているわけですが、彼が言っているのは、そんな些細なことで対立せずお互い認め合って仲良くしなさい、ということではありません。パウロ自身は、「何を食べてもよい」という信仰にはっきりと立っています。14節に「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています」とあります。また20節には「すべては清いのですが」とあります。主イエス・キリストを信じる信仰においては、汚れているから食べてはならないものなどは何もない、ということです。このように語ることによってパウロは、主イエス・キリストを信じる信仰に生きることは、これは食べてもよいとかこれはいけないという掟を守って生きることではない、ということを明確にしているのです。ユダヤ人たちは、律法という厳しい掟を守って生きていました。そのユダヤ人でキリスト信者になった人たちの中には、キリスト信者も、昔からの律法を守って生きることが必要だ、と考える人がいたのです。パウロ自身も、以前はユダヤ教ファリサイ派の一員であり、律法を厳格に守ることが信仰だと思っていました。しかし彼は復活した主イエスとの出会いによって、救いは律法を守ることによってではなくて、ただ主イエス・キリストの十字架による罪の赦しの恵みを信じることによって与えられるのだということを示されました。それゆえに彼は、キリストによる救いにあずかっている者にとって、これを食べたら汚れるというものは何一つない、という確信を与えられているのです。

それ自体は正しいことがみ業を破壊してしまう
 しかし事はそこで終りではありません。パウロがここで語っていることの中心はそのことではないのです。彼はむしろ、自分と同じように、何を食べてもよいという確信を持って生きている人々に対して警告を語っているのです。15節にこのようにあります。「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」。これは今申しましたように、何を食べてもよいと思っている人たちへの警告です。何を食べてもよいという信仰に生きている人が、そのことによって兄弟の心を痛める、つまりまだその確信を得ていない、食べてはいけないものがあると思っている人の前でことさらにそれを食べてみせることによってその人の心を傷つけるのは、愛によって歩んでいるとは言えないのです。食べてはいけないものがあると思っている人は、確かに信仰の確信に至っていない、「信仰の弱い人」です。しかし主イエス・キリストは、その信仰の弱い兄弟のために死んで下さったのです。主イエスはその人をも、あなたと同じように愛して下さっており、救いを与えて下さっているのだから、そういう人を傷つけることは、キリストのみ心を無にすることだ、とパウロは言っているのです。そのことを彼は20節でこのように語っています。「食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります」。先程の15節では「食べ物のことで兄弟を滅ぼす」という言い方がなされていました。この「滅ぼす」は口語訳聖書では「苦しめる」と訳されていました。食べる、食べないということによって兄弟を傷つけ、苦しめる、そのことが20節では「食べ物のために神の働きを無にする」と言い替えられているのです。「無にする」とは「破壊する」ということです。神のみ業を破壊してしまう、その神のみ業とは、信仰の弱い人をも救って下さる神の愛のみ業です。主イエス・キリストがその兄弟のために死なれた、そのみ業です。「何を食べてもよい」という、それ自体は正しい、良いことが、神の愛のみ業を破壊してしまうことが起こる、そのことをパウロは警告しているのです。それ自体は正しいことも、用い方を間違うと、神の救いのみ業を破壊し、妨げることになるのです。「すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります」というのはそういうことです。それ自体が汚れているものなど何一つないのであって、全ては清いのです。しかしそのことが間違って用いられると、兄弟を傷つけ、苦しめ、罪に陥れる悪いものになってしまうのです。

自分の良い行いを誇り合っている
 このことと、最初に申しました、信仰に生きるとは良いことをして生きることではない、ということとの結びつきを捉えることがとても大事です。先ず言えることは、信仰者は肉を食べるべきではないと考えている人々は、信仰に生きることを、食物に関する掟を守るという良いことをして生きることだと思っている、ということです。しかしキリストによる救いの福音は、良いことをすることによって救われるのではなくて、キリストの十字架による罪の赦しによってこそ救われることを教えています。私たちは、掟を守って良いことをすることによって救われるのではない。だから何を食べてもよいのです。信仰に生きることは良いことをして生きることではない、ということがその土台なのです。
 けれども、パウロはさらにその先のことを見つめ、語っています。掟を守って良い行いをして生きることが信仰に生きることなのではない、だから何を食べてもよい、というのは正しいことです。しかし、この本来は正しいことが、それによって自分が人よりも優れた者、立派な者、偉い者になったかのように受け止められて、他の人を軽蔑したり、批判したり、裁いたりすることが起るならば、それは結局、自分の立派さ、良い行いを誇り、それによって救いが得られると思っているのと同じことになってしまうのです。つまり、「信仰者は肉を食べるべきでない」と言っている人たちは、「自分たちは信仰者として肉を食べずに生きている」という自分の良い行いを誇っているわけですが、逆に「何を食べてもよい」と言っている人たちは、「自分たちは信仰者として何を食べてもよいという自由に生きている」ということを自分の良い行いとして誇っている、ということになるのです。だからこの対立においては、それぞれが自分の良い行いを誇り合っているのです。

私たちの信仰においても
 これと同じようなことは、私たちが信仰者として生きる中でも起ります。教会の営みは、信仰者たちの様々な奉仕によって成り立っています。目立つところでも目立たないところでも、いろいろな人がいろいろな奉仕をして下さっていることによって、教会は維持されているのです。献金をすることもその奉仕の一つです。教会は一人いくらという会費を取っている団体ではありません。それぞれの、全く自発的な献金によって教会の全ての営みはなされ、牧師の生活も支えられ、この教会堂も維持されているのです。これらの奉仕や献金は、主イエス・キリストによる救いの恵みへの感謝の応答としてなされ、献げられているものです。感謝と喜びをもって自発的になされている限り、それは良いもの、清いものであり、教会を生かすものです。ところが私たちはしばしば、奉仕や献金を自分の良い行いとして受け止めてしまって、それを自分の手柄として誇るようになってしまいます。また人がそれを評価して、褒めてくれることを求めるようになることがあります。また自分の奉仕を人の奉仕と比べて人を批判したり裁いたりすることも起ります。あるいは自分がしている奉仕を自分の権利、縄張りのようにしてしまって、他の人をそこに入れようとしない、ということも起ります。要するに奉仕が自己主張や誇りの手段になってしまうことがあるのです。そうなってしまうと、なされている奉仕そのものは良いことであっても、それが教会を生かし築き上げるのではなくて、かえって兄弟姉妹を傷つけ、教会の交わりを破壊するようなものにもなってしまいます。それ自体は良いことが、神の救いのみ業を破壊するものになってしまうということが、私たちの奉仕においても起こるのです。
 どうしてそうなってしまうのでしょうか。それは私たちが、信仰に生きることにおいて、自分が良いこと、正しいことをして、正しい者として生きることを求め、その自分の正しさに依り頼み、それを誇りとして生きようとしてしまうからです。その「良いこと、正しいこと」は、必ずしも世間の道徳における良いこと、正しいことではないかもしれません。聖書に記されている神のみ心に従う、という信仰的な正しさを求めているのかもしれません。しかしその「神のみ心に従う」ことが、「自分は神のみ心に従っている」という自分の正しさ、自分の誇りの拠り所になってしまうならば、それは自己主張になってしまうのです。そこでは「神のみ心に従う」という本来良いこと、正しいことが、人を傷つけ、神のみ業を破壊する悪いものになってしまうのです。

み心に従って正しく生きることが信仰ではない
 ですから私たちは、信仰に生きるとはどのようなことか、を考えるに当って、それは良い行いをして生きることではない、という先程述べたことと並んでもう一つのことを確認する必要があります。それは、信仰に生きるとは、神のみ心に従って正しい者として生きることでもない、ということです。そんなバカな、と思うかもしれません。しかし、ここに語られている「食べる人」も「食べない人」も、どちらも、神のみ心に従って正しい者として生きようとしていたのです。その「神のみ心に従って正しい者として生きる」ことの理解の違いから対立が起り、裁き合いが生じていたのです。

神のみ前で信仰を持つ
 神のみ心に従って正しい者として生きることすらも、信仰に生きることではないとしたら、信仰に生きるとはいったいどういうことなのでしょうか。パウロは22節でこのように言っています。「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです」。この22節と次の23節に、「確信」という言葉が三度出てきます。この言葉は口語訳聖書では「信仰」と訳されていました。どちらとも訳せる言葉ですから、どちらの訳が相応しいかは内容から判断することになります。「確信」と訳すならばそれは人間の確信、私たちがあることをはっきりと認識し、信じている、ということになります。ここでは、肉を食べるのか食べないのか、その信仰的な根拠をはっきりと持って、その自分の確信にしっかり立ち、ふらふらせずに歩むことが求められているということです。しかしパウロがここで語っていることは果して、自分の確信をしっかり持って行動することが大事だ、ということなのでしょうか。そういう確信なら、食べる人も食べない人もどちらも持っていたでしょう。お互いの確信がぶつかり合っていたのです。パウロがここで語り、求めているのは、確信を持って生きることではありません。ここはやはり「信仰」と訳すべきだと思うのです。問われているのは私たちの確信ではなくて、信仰、つまり神を信じることです。そうすると22節は口語訳のように「あなたの持っている信仰を、神のみまえに、自分自身に持っていなさい」となります。重要なのは、「神のみまえに」という言葉です。信仰を、神のみ前に持つことこそがここで求められているのです。しかし神のみ前に持つのではない信仰などあるのでしょうか。あるのです。私たちが、信仰において自分の正しさを追い求め、それを主張し、誇り、それによって人を裁いていく時、その信仰は、神のみ前での信仰ではなくて、人の前での、人に対して自分を主張する信仰となっているのです。22節は、そのような人の前での信仰ではなくて、本当に神のみ前で信仰を持つことを求めているのです。本当に神のみ前に立つならば、そこで私たちは自分の正しさを主張したり、自分の手柄を誇ったり、自分の権利を主張したりすることはできないはずです。神のみ前に本当に立つ時に示されるのは、自分は本来ここに立つことなどできない罪人だということです。その自分がみ前に立って礼拝することができるのは、ひとえに、独り子主イエス・キリストが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったからなのです。その神の恵みのみによって私たちは、罪を赦されて神のみ前に立つことができるし、神を信じ、神と共に生きることができるのです。ですから私たちが信仰に生きることができるのは、主イエス・キリストによる神の救いの恵みのみを見つめ、それのみに依り頼むことによってなのです。信仰を神のみ前に持つとはそういうことだし、それのみが真実の信仰です。ですから信仰に生きるとは、神のみ心に従っていない罪人である自分が、主イエス・キリストによって罪を赦され、救われているという神の恵みを信じて、それに依り頼んで、神の恵みのまなざしの中で、神との交わりに生きることなのです。だからそれは、良い行いをして生きることでもなければ、神のみ心に従って正しい者として生きることですらないのです。

信仰とは、信頼、喜び、平安に生きること
 この真実な信仰を神のみ前に持って生きているならば、そこには、自分の正しさを誇り、それによって兄弟を裁いたり、兄弟の奉仕にケチをつけたり批判したりすることは起りません。そのように人の粗捜しをするのではなくて、自分に与えられた賜物を精一杯用いて神に感謝し、奉仕していくのです。「自分の決心にやましさを感じない人は幸いです」というのはそういうことです。自分の決心とはこの場合、どのように神を信じ、神に奉仕して生きるかにおける決心です。その決心にやましさを感じないというのは、自分の信仰や奉仕はこれで十分だ、自分は立派にやっていると思うことではなくて、自分は罪人であり、み心に叶うような働きはとうてい出来ない者だけれども、その自分が主イエスによる神の赦しの恵みを与えられており、主が自分を招いて下さって、み前で生きる者として下さっている、そのことに感謝して、欠けの多いものだけれども、自分にできる限りのことをして主に仕えていこうとすることだし、そのことを主が喜んで下さり、自分を神の民の一人として受け入れて下さる恵みに信頼して、喜びと平安の内に生きることです。信仰に生きるとは、主のみ前で、この信頼と喜びと平安に生きることなのです。
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第100編は、まことの信仰に生きている人の喜びの歌です。信仰に生きるとは、この詩に歌われているように、主に向かって喜びの叫びをあげ、喜び祝い、主に仕えて生きることです。自分たちが主によって造られ、命を与えられ、主に養われる羊の群れとされていることを覚え、感謝と賛美の歌を歌いつつ主のみ前に出て礼拝をして生きることです。そしてそのように生きることができるのは、「主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は代々に及ぶ」ことを示されているからです。私たちはこの主の深い恵み、とこしえの慈しみ、代々に及ぶ真実を、独り子主イエス・キリストによって、その十字架と復活による救いのみ業によって示され、与えられています。この主イエスによる救いの恵みに信頼して、主のみ前で喜びと平安に生きることが信仰に生きることなのです。

信仰に生きるとは
 それに対して23節には「疑いながら食べる人は罪に定められる」とあります。それは、主イエスによる救いの恵みへの信頼なしに、喜びと平安に生きることなしになされるならば、「食べる」という本来は正しい、良いことが、むしろ罪をもたらし、悪影響を与えてしまうということです。最後のところも、「確信」ではなく、「信仰に基づいていないことは、すべて罪なのです」と読まれるべきです。主イエス・キリストによる神の救いの恵みへの信頼と感謝によらずになされることは、それ自体が正しい立派なことであっても、そこには人間の自己主張、自分の正しさを誇る思いが入り込んで、人を裁き、傷つけ、教会を破壊するものとなっていくのです。私たちが、独り子主イエスによって救いを与えて下さっている主なる神のみ前で、その恵みのまなざしの中で生きていないとそういうことになるのです。だから、どんな良いことをすることよりも、神のみ心に従って正しく生きようとすることよりも、神のみ前で、キリストによって与えられた救いの恵みに信頼して、喜びと平安を与えられて生きることが大事なのです。それこそが信仰に生きることであり、そのように生きる時にこそ私たちは、喜んで、進んで、良いことをしていくことができるのです。神と隣人とへの奉仕に喜んで生きると共に、他の人の働き、奉仕、愛の業を喜んで受け入れ、感謝し、その人とその奉仕がさらに豊かに用いられ、実を結ぶために励まし支えていくことができるのです。

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