「神は見捨て給わず」 副牧師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; 申命記 22章 1節ー4節
・ 新約聖書; ルカによる福音書 第14章 1節ー6節
1 (安息日を取り戻す戦い)
長い間にわたり、この「ルカによる福音書」を読み続けてまいりまして、私が思わされますことは、主イエスは本当の安息日を取り戻すためにその生涯をかけて戦われたということです。主イエスの公の活動の初めに出てまいりますのは、主イエスが安息日に会堂で礼拝を守られた場面です。預言者イザヤの巻物から朗読され、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4:21)と宣言されました。しかし預言者は自分の故郷では歓迎されないとお語りになり、異邦人の救いを告げたために、人々の怒りをかい、山の崖ふちまで追い立てられたのです。 またある安息日には弟子たちが安息日に麦の穂を摘んでいたことをファリサイ派の人に咎められています。さらに別の安息日には律法学者やファリサイ派の見ている前で、手の萎えた人をお癒しになっておられます。いずれもファリサイ派、律法学者たちの反感を買いました。激しい対立、憎しみを引き起こしていったのです。 しかし主イエスはそれを重々ご承知でありながら、なお安息日の癒しの業をおやめになりません。今日のすぐ前、13章においても、主イエスは安息日に、腰の曲がった婦人を癒されました。この時にも、会堂長が腹を立てて、直に主イエスに抗議する勇気もなかったからか、群衆を戒めています。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」。これに対して主は「偽善者よ」と語気を強めておっしゃり、安息日を真実に回復するための戦いを戦われているのです。 主イエスは決してあいまいさを含んではおられない。人々に見捨てられ、侮られているこの人を、癒すべきかどうか、ファリサイ派の人々の手前、やめておいた方がよいだろうか、そういう躊躇はまったく感じられません。これが父なる神の御心なのだ、そういう確信をもって働いておられるのです。
2 (悪意のある招き)
この日もまた、安息日でありました。主イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったとあります。主イエスは招きがあれば、たとえファリサイ派や律法学者の家であっても、喜んでお出かけになったのです。主イエスご自身の方で、招きを拒んだり、「あんな人たちの家へ行くものか」などとおっしゃったりはしなかった。このファリサイ派の議員との食事の席を喜ばれたのであります。 しかもここの元の文章には、ファリサイ派の中でも指導者的な立場の人であることを表す言葉が使われております。口語訳の聖書ではここを「パリサイ派のかしらの家」と訳しております。ファリサイ派の中でも有力な人の家に、安息日に招かれた。この人は福音書の他の書き方でいえば、会堂司と呼ばれるような、礼拝を司る立場にあった人だと推測できます。そこで想像できますことは、この日も主イエスは会堂で礼拝をお捧げになった。そこであの公の活動を開始された時のように、聖書を朗読したり、あるいは説教奉仕をしたりしたということです。そこで礼拝後に、この礼拝を司っていたファリサイ派のある議員が、「ご奉仕をありがとうございました。どうぞ我が家で食事を共にしてください」と招いたのです。礼拝を共にした者どうしが、食事も一緒にする、それはごく自然なことです。私もまた、神学生の時代には毎週礼拝後に、青年たちと一緒に食事をしました。私たちの教会にもティールームがあり、礼拝後に食事を共にする機会があります。そこで今与かった御言葉の恵みを味わい、かみしめる思いで、食事を共にする。主に結ばれた者同士の交わりを深める。
そういう食卓に主イエスも招かれたと思われていたことでしょう。ところが、中に入ってみるとどうも雰囲気がおかしい。人々が主イエスのことをじっと見つめている。主イエスの一挙手一投足を目で追っているのが感じられるのです。「人々は主イエスの様子をうかがっていた」のです。つまりそこには悪意を持ったまなざしがあったのです。何かつけ入る隙はないか、と詮索するように見つめているまなざしがあった。隙があったら主イエスを落としいれよう。引きずりおろして責め立てよう。そのためのきっかけ、口実を探そうとするまなざしがあったのです。
3 (正しさは外から来る)
その時ちょうど主イエスの前に、水腫を患っている人がいました。水腫という病がどのようなものであるのか、私はあまり知りませんけれども、文字通り体の中に過剰に水分が蓄積されて、体が腫れ上がったような症状を引き起こす病のようです。律法学者に言わせれば、この病は不道徳な生活をしている報いとして与えられるものだ、ということになっていたようなのです。そうなるとこの人に向けられる人々のまなざしは、軽蔑、さげすみのまなざしです。人々は嫌悪感すら抱いて関わりを持たないようにしていたことでしょう。そういう人がファリサイ派の議員の家にいるということ自体、不自然なことでしょう。このことについてなされる一つの推測は、人々が主イエスを陥れるために、この人をわざと主イエスのまん前に連れてきておいたということです。主イエスを招いて座らせようとしていた席のすぐまん前に、この水腫の人を連れてきておいた。わざとそこに座らせておいたというのです。もしそうだとすれば、人々はこの水腫の人自身については、何の関心もなかったのです。ただ、主イエスを陥れるための手段としてしか、この人を見ていなかった。この人がどんな苦しい思いをして今まで歩んできたのか、腫れ上がった自分の体を、気味悪がるようにして眺める人々の冷たい視線にどれだけ耐えてきたのか、そんなことにはお構いなしなのです。ただなんとか主イエスの律法違反の現場を押さえて、裁きの場に引き出そうと狙っていた。自分たちの宗教的な権威を台無しにし、群衆の上に振るっている支配を横取りするかに見える主イエスは、彼らにとって脅威でしかなかったからです。そこで今に癒すかどうか見ていよう。もし癒したら、その現場を押さえて、律法違反のかどで訴え出よう。その場で問い詰めてやろう。そういって主イエスがどう出るか、見つめていたのです。
主イエスはそのような悪意ある人々のまなざしを鋭く感じ取っておられました。そこで人々の悪意ある攻撃を待つことなく、主ご自身から人々に問いかけられたのです。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」。この「許されている」という言葉は、「自由である」とか、「可能である」、「正しいことである」といった訳もできる言葉です。文字通りの意味は「外にある」という意味です。もし律法というものが掟として、あれはしてはいけない、これもしてはいけないと言って枠組みを作り、そこに収まることを無理強いするようなものだとするならば、安息日に病気を癒すということは、そういう枠組みの外にあること、そういう枠組みを超え出ていること、そういう枠組みの中に収まりきらない事柄なのではないか、それが主イエスの問いかけではないでしょうか。
主イエスが目指しておられるのは、律法が本当の意味で目指していることです。それは人が神のまん前で、神によって癒されて、神との交わりの中を生き始めることにほかなりません。律法から見て本当に自由なこと、可能であること、正しいことというのは、実は律法という枠組みの中にあるのではなくて、その外にある。律法の外におられ、律法を定め、その律法を通して、人が神の前に真実に生きるようになることを意志しておられる方、主なる神がそこにおられるのです。 それなのに私たちはこの主なる神をさしおいて、律法の枠組みの中に人を押し込み、その枠の中にきちんと収まることができるかどうかをもって人を判断し、裁いている。自分が律法を用いる主人になりあがっています。神の律法を、人間が人を裁く時の道具に貶めてしまっている。もしそうだとするなら、「今しがたの安息日の礼拝であなたがたは何を聴いたのか」、そう主イエスは問うておられるのではないでしょうか。「先ほどの礼拝は何だったのか。わたしの語った神の言葉はあなたがたの中に届かなかったのか。礼拝の命に与かったその直後に、自分をこの家に連れてきて、そこで水腫を患う人を食べ物にして、自分を陥れ、神の律法によって裁こうとしている。そのようにしてあなたがたは自分たちが神の御前に真実に立ってはいないことを暴露しているのだ」。これが主の語り掛けです。主はこうして私たちの仮面をはぐ問いを差し向けられるのです。
4 (申命記―わたしは見ない振りをできない)
主イエスはこの水腫を患う人の腫れ上がった手をお取りになり、病気をいやしてお帰しになりました。人々が主イエスを陥れようと企んで連れてこられたのかもしれない人です。しかしこの人は神の独り子である方の前に立たされ、そこで今までの苦しみと悩みを主イエスに引き取っていただき、新しい命に生き始めたのです。神との交わりに生かされ始めたのです。神との失われていた交わりが取り戻され、それゆえに、失われていた人との関係も回復していったのです。神との交わり、人との交わりに生きる世界へと帰っていくことができたのです。 主の問いに答えることができずにいる人々に向かって主はおっしゃいます、「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(5節)。先ほど読まれた旧約聖書の申命記は、同胞を助けるべき時に、見ない振りをしてはならないことを教えています。「同胞の牛または羊が迷っているのを見て、見ない振りをしてはならない。必ず同胞のもとに連れ帰さねばならない」(1節)。「ろばであれ、外套であれ、その他すべて同胞がなくしたものを、あなたが見つけたときは、同じようにしなさい。見ない振りをすることは許されない。同胞のろばまたは牛が道に倒れているのを見て、見ない振りをしてはならない。その人に力を貸して、必ず助け起こさねばならない」(3-4節)。
主は問いかけられます、「それと同じように、今、あなたの息子、あるいは牛が井戸に落ち込んでしまったのなら、あなたがたは当然のようにその息子や牛をすぐに救い上げるだろう。その時、今日は安息日だから助けられないと言って、あなたがたは自分にとっての宝物に違いない、自分の息子あるいは牛を、みすみす見殺しにすることができるのか。それが本当に律法の教えていることなのか。今わたしは、この水腫の人を決して見過ごしにはできない。この人もまた、誰からも理解されず、助けられないままで、もう長い間、絶望の井戸に落ち込んでしまっているのだ。今日が安息日だからといってこの人を見ない振りをすることは、わたしにはできない。それはあなたがたが重んじるこの律法によっても許されていないことではないか。この人はわたしにとってかけがえのない息子なのだ。見過ごしにはできない大事な子供なのだ。全力を挙げてすぐに引き上げるに決まっているではないか」。
5 (私たちへの招き)
今、私たちもまた、この主の問いかけの前に立たされているのです。この話には「ある人」と呼ばれる二人の人が出てまいりました。「ファリサイ派のある議員」と「ある水腫を患っている人」です。どちらの登場人物にも、元の文にはその人が誰であるかを特定しない、「ある人」という言葉が使われています。どちらも特定の名前を持っていない、その意味で誰でもあり得るということです。私たちはこのファリサイ派のある議員や、その家に集まり主イエスを陥れようとした人のようにもなり得ます。しかしまた、主イエスの御前に立たせられ、癒され、神と人との交わりを回復され、安息日の本当の喜びに生かされる者ともなり得るのです。私たちはどちらの「ある人」にもなり得るのです。 それは主イエスからの問いかけ、さらには招きをどのように聴くかにかかっているのです。そこで水腫の人がこの家にいた理由を、次のように想像する方もあるのです。実はこの病人をこの家に連れてきたのは主イエスご自身に他ならないのだ、と読むのです。ファリサイ派の人が汚れた、不道徳な歩みの報いを受けていると見なされている人を、自分の家に連れてくるはずはない。そうだとすれば、ここにこの人を招いてくださったのは主イエスかもしれないのです。主イエスが食事に招かれた時、礼拝堂の隅にいたこの水腫の人にも声をかけ、食卓に招いてくださった。「あなたもいらっしゃい。一緒に食事をしよう」と呼んでくださったのです。その食卓の交わりを通して、主はご自分がこの水腫の人が味わってきた苦しみと同じところに立ってくださる方であることを示されたのです。「あなたの悩みと苦しみを背負って、わたしはこれから十字架に赴く。わたしが与える復活の命の中に今立ちなさい。そして御国で用意されている喜びの食卓への希望を、ここで新たにするのだ」。そう招いてくださっている。
そしてこのことはとりもなおさず、ファリサイ派のように聖書を読んで、神の言葉を守るべき人生の指針、教訓のように受け止め、またその枠に収まることのできない人を裁き、見下してしまう私たちに対する、神からの招きでもあるのではないでしょうか。自分は主のまん前に立とうとせず、むしろ主の様子をうかがい、あわよくば人生の支配権を主から取り戻そうと狙っていたかもしれない私たち。その私たちを今日も招き、あの水腫の人と同じように、主のまん前に立たせ、癒してくださり、十字架と復活の命に生かしてくださる。「ここに御国の食卓がある。ここにあなたの救いの完成がある。そこに向かって今日もわたしの道を歩むのだ」。この呼びかけ、この招きが、今日も私たちに聞えてくるのです。 今主の食卓が備えられています。この食卓に与かる時、私たちは安息日を真実に神を喜ぶ日として取り戻してくださった主の勝利に与かるのです。主の御国を待ち望みつつ、その御国の喜びを映し出す、本当の安息日の喜びを味わうのです。
祈り
主イエス・キリストの父なる御神、なにひとつ持たないで、あなたの御前に立たせていただき、無償で罪を赦され、神の子としていただいた私どもでありましたのに、いつしかあなたのことを煙たがり、人生に自分の主導権を取り戻そうとし、主イエスを罠に陥れようと悪意を持ってあなたの言葉とわざを見ようとしてしまう誘惑に駆られてしまいます。どうかそんな私たちにも向けられているあなたの招きを今聞かせてください。あなたが水腫の人を招き、そしてそのことを通して頑ななファリサイ派の人たちをも招いてくださいましたように、今私どももまた、あなたの招きに従い、あなたのまん前に立たせていただき、恵みの命に生かしてください。御国の食卓に与かる希望をここに新たにさせてください。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。