主日礼拝

正しい熱心さ

「正しい熱心さ」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第71編14-24節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第10章1-4節
・ 讃美歌:295、459、506

パウロの願い、祈り  
 主日礼拝においてローマの信徒への手紙を読み進めておりますが、本日から第10章に入ります。その最初の1節にパウロの心からの願いと祈りが記されています。「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」。この手紙の9~11章がひとつながりの部分であることを繰り返し申していますが、今のこの祈り願いは9章の冒頭に語られていたことの繰り返しです。9章2、3節にはこうありました。「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」。10章1節で「彼ら」と言っているのはこの「肉による同胞」、つまりユダヤ人たちのことです。パウロは、彼ら同胞たちが救われることを心から願い、祈っているのです。そのことが10章の冒頭でもう一度語られているのです。  
 彼のこの願いと祈りは、同胞であるユダヤ人たちの多くが、神が遣わして下さった救い主であるイエス・キリストを受け入れていないことによって生じています。ユダヤ人は元々は神に選ばれた、神の民だったはずなのに、神による救いから落ちてしまっているのです。パウロはそのような同胞たちに、それこそ必死に主イエス・キリストによる救いを宣べ伝えてきました。イエスこそ神の独り子であり、約束されていたメシア、救い主はこのイエスだ、主イエスの十字架の死による罪の赦しの恵みを信じてそれにあずかることによって私たちは神によって義とされるのだ、と語ってきたのです。しかし多くのユダヤ人たちはパウロの語るキリストの福音を受け入れようとしません。それが彼の深い悲しみであり、絶え間ない痛みでした。その悲しみの中で神に祈りつつ、み心はどこにあるのかを問うているのがこの9~11章なのです。

神の選び、予定  
 この問いの中で彼が示されたのは、神の救いのみ業においてある人が選ばれており、ある人は選ばれていないという事実、つまり神の「選び」とか「予定」ということでした。9~11章に語られているのはこの「選び、予定」についての教えなのです。この教えはとても難しくて分かりにくい、また納得しにくいものです。それは人間が理解して説明できるようなことではなくて、神の自由なみ心に首を突っ込むことだからです。パウロがそういうことを語っているのは好奇心のためではありません。彼の心にあるのは、同胞の救いへの願いと祈りです。私たちはこの部分の背後に、勿論彼の手紙の全ての箇所がそうですが、パウロの伝道の苦闘とそこにおける悲しみ、痛みがあることを忘れてはならないのです。9~11章に語られていることは確かに分かりにくいことです。私たちがそれを理解することができるようになるための鍵は、パウロの同胞への伝道の苦闘と、そこにおける挫折の悲しみや痛みを私たちも自分自身のこととして体験することです。私たちの大先輩である熊野義孝牧師は、神の選びや予定ということがよく分からないと言った人に、「君、一生懸命伝道してみたまえ、そうすれば自然に分かるようになる」とおっしゃったそうです。選びや予定の信仰というのは、机の上で神のことを学び考えていく中から生まれたのではありません。このパウロのように、愛する者たちの救いを願って力を尽くして伝道する中で、しかしなかなか主イエス・キリストによる救いを信じる者が生まれない、この人ならと期待して熱心に語りかけてもうまくいかない、ところがこちらが予想していない時に、思いがけない人が、どういうわけかキリストを信じ受け入れて信仰を持つようになる、そういう伝道の体験の中から、神が自由な選びによって人を信仰へと召して下さることが実感されていくのです。9~11章はそのような体験の中で書かれたのですから、その体験を共有しつつ読むことによってこそ、本当に理解することができるのです。

熱心であるがゆえに  
 さてパウロはこのように、同胞ユダヤ人の救いを祈り願いつつ、彼らが今キリストに敵対し、福音に躓いている事実を見つめているわけですが、そこにおいてやっかいなことは、その躓きが、神への信仰をないがしろにし、神以外のものに目を向けているから生じているのではなくて、むしろ彼らの意識としては神に熱心に仕えているつもりであり、そのことによってかえってイエス・キリストを受け入れていない、ということです。そのことをパウロは10章2節でこのように語っています。「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません」。同胞ユダヤ人たちは熱心に神に仕えている、そのことは私が証しする、それはまさにパウロ自身の体験によることです。パウロ自身も以前はまさにこういう者だったのです。彼はユダヤ人の中でも特に厳格に律法を守るファリサイ派の教育を受け、そのホープとして育った人でした。神の掟である律法を守ることが神の民であるユダヤ人の義務でもあり、特権でもある。それによって神の前で義なる者となることができる。かつての彼はそのように考え、熱心に律法を学び、それに基づいて生きることによって熱心に神に仕えていたのです。その熱心さのゆえに彼は、律法を守ることによってではなくイエス・キリストを信じることによって義とされると教えているキリスト教会を激しく憎み、これは神に熱心に仕えることを否定するとんでもない教えだとしてその撲滅のために迫害の先頭に立っていたのです。そういう自分のかつての熱心さについて彼はガラテヤの信徒への手紙の第1章13節以下でこのように語っています。「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」。かつてのパウロはこのように他の誰よりも熱心に神に仕え、その熱心さのゆえにキリストの教会を徹底的に迫害していたのです。だからパウロは同胞たちがイエス・キリストを受け入れない気持ちがよく分かるのです。それは決して信仰心が足りないとか、神のことを考えていないということではなくて、むしろ彼らは熱心に神に仕えようとしているのです。しかしその熱心さは「正しい認識に基づくものではない」のです。パウロ自身、生きておられるキリストとの出会いによって初めてそのことに気づかされました。自分が熱心に神に仕えているつもりだったそのことが、実は神の救いのみ業を妨げ、敵対することだった、自分の熱心は正しい認識を欠いた、全く見当違いの熱心だったということを示されたのです。つまりパウロは、神に対する熱心は、正しい認識を伴わないとかえって神に敵対し、救いの恵みを無にするようなことになることを、自分の体験を通して知らされたのです。

正しい認識を欠いた熱心  
 信仰は熱心でさえあればよいのではありません。正しい認識を欠いた熱心さはとんでもない結果を生むのです。そのことを私たちは今日の世界において体験しています。イスラム教の過激派によるテロ事件が先週も起り、それが今世界を脅かしています。イスラム教徒がみんなそういうことをしているのではありません。イスラム教の中の、正しい認識を欠いた熱心さがそういうことを生んでいるのです。キリスト教の中にも正しい認識を欠いた熱心さに生きている原理主義者がいて、自分たちと違う教えを悪魔呼ばわりしています。これはもうイスラム過激派とどっちもどっちの世界です。また日本においてもこのところ、歴史を冷静に振り返ることができない過激な国粋主義が頭をもたげて来ており、それがいわゆるヘイト・スピーチなどを生んでいます。今日の世界は、正しい認識を欠いた熱心さどうしが対立することによる危機にさらされていると言えるでしょう。熱心に信じていることがその教えの正しさを保証することは全くありません。信仰における熱心さにはある警戒を持たなければならないのです。しかしそのことは、熱心になるから間違いが起る、信仰はほどほどにしておいて、あまり熱心にならない方がいい、ということではありません。パウロはユダヤ人たちが熱心であること自体を批判しているのではなくて、その熱心さが正しい認識によるものでないと言っているのです。つまり私たちは、自分が信仰においてどのような認識に基づいて熱心であろうとしているのかをきちんと振り返って見なければならないのです。

ステファノの熱心  
 ある牧師のこの箇所についての説教に、ここでパウロはステファノの殉教のことを思い起こしているのではないだろうかと語られていました。これは大変示唆に富んだ指摘です。ステファノのことは使徒言行録の第6、7章に語られていますが、この人は初代教会における最初の殉教者となりました。主イエス・キリストを信じる信仰のゆえに、ユダヤ人たちに石で打ち殺されたのです。そのステファノの殉教の時、当時はサウロと言っていたパウロはその場におり、ステファノを打ち殺す人々の仲間として、彼らの着物の番をしていたのです。つまりパウロはステファノの殉教の一部始終を見ていました。その時パウロは、自分たちの熱心さとは全く質の違う、しかし神への熱心さをステファノに見たのではないだろうか、とこの牧師は語っています。ステファノは主イエス・キリストこそ神が遣わされた救い主であると力強く証しし、伝道しました。その堂々たる説教が使徒言行録第7章に記されています。彼はまさに神に熱心に仕えて生きた人だったのです。しかしステファノの熱心は、パウロたちユダヤ人の熱心とは違っていました。ユダヤ人たちの熱心は、ステファノに向かって激しく怒り、彼を石で打ち殺すという方向へと向かうものでした。しかしステファノの熱心は、それとは全く違う方向へと向けられていたのです。ステファノの最後の場面を読んでみたいと思います。使徒言行録第7章54節以下です。
「使徒言行録第7章54~60節」  
 ユダヤ人たちの熱心は、怒り、歯ぎしりをし、耳を塞いでステファノを石で打ち殺す熱心です。しかしステファノの熱心は、石で打ち殺されながらも、天を見つめ、喜びに溢れ、神の、イエス・キリストの恵みを確信し、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と、自分を打ち殺す者たちの罪の赦しのために執り成し祈る熱心です。ここには、全く性格を異にする二つの熱心が示されています。その違いは、両者の、信仰における認識の違いから生じているのです。パウロはこのステファノの殉教の時に体験した、全く違う二種類の熱心を思い出しながら、神への熱心は正しい認識に基づくものでなければならない、と語っているのでしょう。いったいどちらが、本当に正しい認識に基づく熱心なのでしょうか。

神の義に従う  
 パウロは、ユダヤ人たちの熱心さが正しい認識に基づくものでないことを3節でこのように語っています。「なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」。ユダヤ人たちの熱心の土台である認識はここに問題があったのです。ここでは「神の義」と「自分の義」が対比されています。「神の義」という言葉はこのローマの信徒への手紙の中心とも言える大事な言葉です。パウロが宣べ伝えている福音、救いの知らせを一言で言えばこの「神の義」なのです。この手紙の第1章17節にこうありました。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」。福音つまり神の救いの知らせにおいて啓示されているのは「神の義」です。それは、信仰によって実現されていくものです。そのことがこの手紙の第3章21節以下にこのように語られていました。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」。ここに語られているように神の義とは、イエス・キリストを信じることによって神から与えられるものです。キリストが、私たちの罪を償う供え物として十字架にかかって死んで下さったことによって贖いの業を行って下さった。それを信じることによって罪人である私たちが、神の恵みにより、無償で義とされるのです。私たちの側に、義とされるに値する何かがあるわけではありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている、それが全ての人間の現実です。つまり自分の力で義となることが全くできない私たちが、ただ神の恵みによって義とされるのです。それゆえに神の義は、私たちが良い行いをすることによって獲得するものではなくて、神から与えられるものであり、私たちはそれを感謝していただくことしかできないのです。ですから「神の義」は「神の救いのみ業」と言い換えることもできます。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第71編14節以下には「恵みの御業」という言葉が繰り返し出てきます。15、16、19、24節です。この「恵みの御業」という言葉は本来は「義」という言葉です。以前の口語訳聖書では「あなたの義」と訳されていました。「あなたの義」は「恵みの御業」とも訳せるのです。そのように、神の義は神の恵みのみ業です。神が恵みによって私たちの罪を赦して下さり、義として下さるのです。その神の義をいただくために必要なことは、自分が神に赦していただかなければならない罪人であることを認めて、神の前に膝まずき、主イエス・キリストの十字架による贖いを信じ受け入れることです。パウロが本日の箇所の3節の終わりで「神の義に従う」と言っているのはそのことです。神の恵みによって与えられる義を信じて受け入れることが「神の義に従う」ことなのです。

神の義に従う熱心さ  
 この「神の義」を信じて受け入れることこそが「正しい認識」です。ステファノの熱心はまさにこの正しい認識に基づく熱心でした。彼は主イエス・キリストによって与えられた神の義を信じて受け入れ、それに従うことにおいて熱心だったのです。それによって彼の熱心は、感謝と喜びへと向かうものとなりました。罪人である自分を神が、主イエス・キリストの十字架による恵みと憐れみによって赦して下さり、義として下さっている、その感謝と喜びの中で彼は、その救いを与えて下さっている神に熱心に仕えて生きたのです。その熱心は、自分を打ち殺す者の罪の赦しを祈り求めることをも生むほどに喜びと平安に満ちたものだったのです。

自分の義を求める熱心さ  
 それに対して、かつてのパウロもその一人であったユダヤ人たちの熱心さは、自分の義を求めようとする熱心さです。自分の義を求めることは、神の義に従うこととは対立します。自分の義とは、神の憐れみによって赦されて義とされるという神の恵みの御業としての義ではなくて、自分が、自分の力、努力、良い行い、立派さによって獲得する義です。彼らはそういう自分の義を得ようとしているのです。自分が正しい立派な者になって神の前に堂々と立とうとしているのです。自分の義を求めている人は、神の前に罪人として膝まずき、赦しを求めようとはしません。それは自分の義を否定することになるからです。自分の義を求める熱心さはそのように、神の前に謙遜になることができないのです。そして神の前に謙遜になれない者は、人の前でも謙遜になることはできません。人の正しさを認め、喜ぶことができないのです。人の正しさを認めることは、自分が正しくないことを認めることだからです。自分の義、自分の正しさを熱心に追い求めていく中で、私たちは必ず、自分の正しさを守ろうとするのです。そこでは、自分の正しさを少しでも脅かす者の声には耳を塞ぎ、その人を敵として攻撃していくようになるのです。ステファノを石で打ち殺したユダヤ人たちが、耳を塞いで彼に襲いかかり、石を投げたようにです。神の義を知らず、自分の義を求めようとすると人はどのようになるかがここに描かれているのです。

正しい認識による熱心さに生きる  
 自分の義を求める熱心さと、神の義を求める熱心さはこのように違うのです。私たちはどちらの熱心さを追い求めているのでしょうか。私たちの熱心はしばしば間違った方向に向いてしまいます。自分が正しい者となろうと努力することの中で、神の前に膝まずくことを失い、傲慢になり、人を裁き攻撃するようなことに陥っていくのです。それは正しい認識に基づく熱心ではないことを私たちは知らなければなりません。  
 それではどうすればよいのか。先程も申しましたように、熱心であろうとすることがいけないのではありません。熱心さには正しい認識が伴わなければならないのです。その正しい認識とは、神の義を知り、それに従うことです。神の義を知りそれに従うとはどういうことか。それを具体的に語っているのが4節です。「キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義をもたらすために」。ユダヤ人たちが自分の義を求めて熱心に守り行っていたのが律法です。彼らの熱心は律法への熱心でした。しかしパウロは、キリストこそ律法の目標、目指すところ、行き着く先なのだと言っています。かつての彼自身もそうでしたが、ユダヤ人たちは、律法を守ることによって自分の義を獲得しようとしています。自分が正しい者となろうと熱心に励んでいるのです。しかし律法はそのために与えられたのではなかったのです。律法はキリストへと、つまりイエス・キリストによる罪の赦しの恵みへと導くためのもの、キリストを信じる者すべてに義をもたらすためのものだったのです。律法に熱心であるのは良いことです。しかしそれは、自分の義、自分が正しい者となるためではなくて、イエス・キリストによる罪の赦しにあずかり、神の恵みによって与えられる義をいただいて、感謝と喜びに生きるための熱心でなければならないのです。それが、正しい認識による熱心さです。私たちの信仰における熱心も、正しい認識に基づくものでなければなりません。そのために私たちの目は常に主イエス・キリストを見つめていなければならないし、主イエスによる罪の赦しの恵みに向けられていなければなりません。ステファノの目は、あの最後の時にも天に向けられ、父なる神の右に立っておられる主イエス・キリストを見つめていました。それによって彼は、あのような喜びと平安の内に、自分を打ち殺す者の罪の赦しを祈りつつ殉教の死を遂げることができたのです。常に主イエス・キリストを見つめ、主イエスの十字架の死による罪の赦しの恵みから目を離さない熱心さこそが、正しい認識に基づく、神の義を求める熱心です。自分の義を求める熱心においては、私たちの目はキリストではなくて自分自身を見つめています。この二つの熱心の違いは、見つめているものの違いだと言うこともできます。私たちは、律法の目標である主イエス・キリストをこそ見つめて、信じる者すべてに神が与えて下さる義をいただくための熱心に生きていきたいのです。

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