主日礼拝

御子が来られるのを待ち望む

「御子が来られるのを待ち望む」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:詩編 第130編1-8節
・ 新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一 第1章2-10節
・ 讃美歌:160、573

福音の発信源
 テサロニケの信徒への手紙一第1章を読む進めてきました。本日で読み終えます。先々月は2節から4節、先月は2節から8節、そして本日は2節から10節までを読みます。繰り返し2節から読んでいるのは、2-10節が一つのまとまりと考えられるからです。その2-10節において語られていることは、一言で言えば、「神様への感謝」です。このことは、元々のギリシャ語の文では、2-5節が「わたしたちは感謝しています」で始まる長い一つの文であり、それに続く6-10節も2-5節と分かちがたく結びついてることから分かります。パウロたちは、3節にあるように、福音を信じ救いに与ったテサロニケの人たちが、「信仰によって働き」、「愛のために労苦し」、「主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐している」ことを神様に感謝しているのです。そして彼らがそのような信仰と愛と希望に生きることができたのは、4節にあるように、そのすべてに先立って神様が彼らを愛し、選んでくださったからです。このように4節は3節とつながっていますが、同時に5節ともつながっていて、5節以下では、テサロニケの人たちが神様に愛され選ばれた理由が語られています。なぜ彼らが選ばれたのかではなく、何によって彼らが選ばれたことを知ることができるのか、その理由、根拠です。前回は、このことを見てきました。福音が「ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによって」伝えられ、その福音をテサロニケの人たちが「ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって」受け入れ、パウロたちと主に倣う者となったことが、彼らが神様に愛され、選ばれている根拠であり、1章を貫いている神様への感謝の確かな理由でもあるのです。そしてテサロニケ教会は、「良い知らせ」、福音の発信源となりました。8節にこのようにありました。「主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。」主の言葉を信じ受け入れたテサロニケ教会から、主の言葉が発信されているのです。

至るところで伝えられている信仰とは
 8節の後半には、「神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられている」とありますが、この至るところで伝えられているテサロニケの人たちの神に対する信仰とは、具体的に何を指すのでしょうか。このことが9節以下で語られています。彼らの信仰の内容が語られているのです。「信仰の内容」という言葉には違和感を持たれるかもしれません。しかし信仰は、漠然としたものではなく非常に具体的なものです。これから見ていくように、9節後半から10節では、その具体的な信仰の内容として、テサロニケの人たちが神に立ち帰ったこと、生けるまことの神に仕えるようになったこと、御子を待ち望んでいること、が語られているのです。

神の言葉として受け入れる
 このことに目を向ける前に、まず9節前半を見ていきます。「彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか」とあります。おやっ?と思います。9-10節は一つの文ですが、その主となる文は、「彼ら自身が言い広めている」、つまり「テサロニケの人たち自身が言い広めている」です。その言い広めていることが、至るところで伝えられている彼らの信仰なのです。ですから言い広めているのは、「自分たちについて」であるのが自然です。ところが9節前半では、「わたしたちについて」、つまりパウロたちについて言い広めている、と言われているのです。具体的には「わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか」とあるように、パウロたちがテサロニケの人たちのところでどのように迎えられたかを言い広めているのです。「どのように迎えられたか」というのは、パウロたちがテサロニケを訪れたとき、どのように歓迎されたか、もてなされたかということではありません。テサロニケの人たちの手厚いもてなしが、至るところに伝えられて評判になっているということではないのです。聖書協会共同訳では、「私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたのか」と訳されているように、ここで見つめられているのはパウロたちがどのように受け入れられたかであり、それは、パウロたちが語った言葉がどのように受け入れられたかということにほかなりません。このことについて、この手紙の2章13節にこのようにあります。「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたがの中に現に働いているものです。」つまりテサロニケの人たちは、パウロたちが語った言葉を「人の言葉」としてではなく「神の言葉」として受け入れたのです。確かにパウロたちの言葉は「人の言葉」であったに違いありません。しかし聖霊の働きによって、その「人の言葉」を通して「神の言葉」が語られたのです。そして聖霊の働きは、語り手だけでなく聞き手にも及びます。語られた言葉を神の言葉として受け入れることができるのは、聞き手が自分自身に「これは神の言葉だ」と言い聞かせることによってではありません。そうではなく、聖霊の働きによって、語られた言葉が「神の言葉」として受け入れられるのです。私たちが主の日毎に守っている礼拝において、まさにこのことが起こっています。聖霊の働きによって、人の言葉を通して神の言葉が語られ、同時に、聖霊の働きによって、語られた言葉が神の言葉として受け入れられているのです。私たちが捧げる礼拝は、聖霊なる神様の働きに満ち満ちているのです。テサロニケの人たちは、このことを言い広めました。パウロたちが語った言葉が、神の言葉として、キリストによる救いの御言葉として、彼らに受け入れられたことが至るところで伝えられたのです。このことによって、神の言葉がテサロニケ教会から響き渡ったのです。神の言葉が語られ聞かれるところでのみ、神の言葉は響き渡るのです。

神に立ち帰る
 9節後半から、至るところで伝えられているテサロニケの人たちの信仰の内容が語られています。まず彼らの回心について9節後半に「あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか」とあります。「回心」と申しましたが、この「回心」は、「改める心」と書くのではなく、「回る心」と書きます。今までの生き方を反省して、一念発起、今日から心を改めて、心を入れ替えて生きようとすることではありません。そうではなく心が向いている方向を回す、その向きを変えるということです。偶像に向いていた心を神様の方に向ける。それが「偶像から離れて神に立ち帰る」ということであり、回心するということなのです。テサロニケは、この時代、ローマ帝国マケドニア州の州都であり、ローマと東方を結ぶ街道沿いの港町で交通の要所であり通商が盛んでした。人口が多く、人々の往来も頻繁であり、様々な民族の人たちがいる当時の国際都市であったのです。そこでは様々な神々が拝まれていました。テサロニケ教会には、元々はそのような神々を拝んでいた者たちがいました。しかし彼らは、パウロたちが宣べ伝えた福音を信じ受け入れ、それらの神々から離れて主イエス・キリストの父なる神様に立ち帰ったのです。神様を知らなかった異邦人が神様に立ち帰ると言われているのはそぐわないように思うかもしれません。しかし神様はすべての人に命を与え、すべての人が、主イエス・キリストを信じ救いに与り神の子として生きることを望まれています。すべての人が、神様のもとに立ち帰ることを望んでおられるのです。

空しいもの-良い評判
 「偶像」は、人の手によって造られたものを意味しますが、「空しいもの」という意味の言葉でもあります。テサロニケで拝まれていた神々は、人の手によって造られたものであり、「空しいもの」だと言われているのです。私たちは、「偶像」をそれほど意識することがないかもしれません。今日の日本において、特に都市部において、人の手によって造られた神々の像を拝むことは少なくなっているように思います。しかしそれは、都市部の人たちは、もはや偶像とは関係なく生きている、ということではありません。いやむしろ私たちの社会には「空しいもの」が溢れているのです。人々は「空しいもの」を信じ、それを頼りとして生きているのではないでしょうか。私たちは、そのことを嘆かわしいことだと、上から目線で語ることなどできません。ほかならぬ私たちが、かつてその「空しいもの」を信じ、それを頼りとして生きていたのであり、今でも、神様を信じているにもかかわらず、油断すると「空しいもの」を頼りとしてしまうからです。世に溢れている「空しいもの」は、実は私たちにとって、満足感を与えるとても魅力的なものです。例えば、地位や名誉や名声があります。そのようなものを得ても人生は虚しい、幸せになれるわけではない、などと言われるにもかかわらず、それらを得ることはとても魅力的なのです。自分が良い評判を得ることによって、満足することができるからです。もちろん地位や名誉や名声を得ることが、あるいは良い評判を得ることが意味のないことだ、と言いたいのではありません。人々から評価されることは良いことです。しかしそこには落とし穴があります。地位や名誉や名声、良い評判を得ることによる満足感、充実感が生きる頼りになってしまうならば、それは「空しいもの」、偶像を頼りとして生きることになるのです。

空しいもの-自分の頑張り
 地位や名誉や名声とは自分はあまり関係ないと思うかもしれません。しかし「空しいもの」、偶像は、実に様々な形で私たちを脅かし誘惑します。「自分の頑張り」も、その一つではないでしょうか。頑張ることには、苦労も伴いますが、それによって得られる達成感は、やはり魅力的なものです。また自分が頑張っていることをほかの人に認められることも、満足感を得られる魅力的なことに違いありません。このことにおいても「頑張ること」に意味がない、ということではありません。今、コロナ禍にあって、多くの人たちが知恵と力を出し尽くして頑張ることによって、この苦難をなんとか乗り越えようとしています。その頑張りに意味がないはずがありません。しかし「自分の頑張り」にも落とし穴があるのです。自分が頑張っていることを頼りとして生きるならば、あるいはそのことを認められることを頼りとして生きるならば、それはやはり「空しいもの」、偶像を頼りとして生きることになるのです。

神に立ち帰ったことを言い広める
 私たちを脅かし誘惑する「空しいもの」、偶像をいくつか見てきました。それらの「空しいもの」に共通するのは何でしょうか。それは、それらは私たちを救い、生かすことはできないということです。どれほど魅力的であっても、自分の良い評判や頑張りは私たちを救うことはできません。私たちを救い生かすのは、主イエス・キリストの十字架です。そのことを信じ、「空しいもの」から離れて生きることが、神様に立ち帰ることなのです。テサロニケの人たちは、キリストの十字架と復活による救い、「良い知らせ」を聞き、信じ受け入れいました。そして彼らは、もはや自分たちはかつて信じ、頼りとしていたものから離れ、その救いの「良い知らせ」を信じ生きる者となった、神様に立ち帰った、と言い広めたのです。自分たちを救い生かすのは、「空しいもの」ではなく、ただお一人の神様だと言い広めたのです。テサロニケ教会が、自分たちの回心について言い広めていたことを見過ごしてはなりません。教会から響き渡るべきなのは、私たちが、世の中で尊ばれている「空しいもの」から離れ、神様に立ち帰ったということなのです。私たちの回心が、神様に立ち帰ることへの招きとして世に告げられるのです。

生けるまことの神に仕える
 9節の後半には、「あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか」とありました。偶像とは異なり、「空しいもの」とは異なり、私たちを本当に救い生かしてくださる神様が、「生けるまことの神」です。「仕える」とは、「奴隷となる」という言葉です。かつてテサロニケの人たちは、そして私たちは「空しいもの」の奴隷でしたが、神様に立ち帰ることによって神様の奴隷となったのです。それは私たちの主(あるじ)、主人の交代を意味します。私たちキリスト者の主人は、数多ある「空しいもの」などではなく、ただお一人の神様なのです。主イエスはこのように言われました。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)。富も私たちを本当に救い生かすことはできない「空しいもの」の一つです。私たちは、「空しいもの」と神様との両方に仕えることはできません。「空しいもの」に信頼し生きることと、「生けるまことの神」に仕えることとは両立しないのです。ですから「空しいもの」から離れて神に立ち帰ることと、私たちに救いと命を与えてくださる、生けるまことの神に仕えることは一つのことなのです。
 「生けるまことの神」に仕えること、つまり神様を主人として生きる信仰は、活き活きとしたものであるに違いありません。私たちの信仰は、漠然としたものではないだけでなく、冷え切ったものでもありません。2000年前に、キリストの十字架において神様が決定的な救いのみ業を実現された、と知っているのが信仰ではありません。過去に起こったことの知識が信仰ではないのです。生けるまことの神は、今、この時代、この時に、私たち一人ひとりに働かれる神です。復活したキリストは天に昇り神の右に座しておられますが、神様は聖霊を送ってくださり、私たち一人ひとりと共にいてくださり、働きかけ、み業を行ってくださり、導き支え守っていてくださるのです。この生けるまことの神にお応えするのが信仰です。ですから信仰は、生きて働かれる神様への人格的な応答であり、冷え切ったものなどではなく、私たちが「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」(申命記6:5)神様を愛し、神様に仕えることなのです。だからこそテサロニケの人たちは「信仰によって働き」、「愛のために労苦」しました。その彼らの信仰がテサロニケ教会から発信されたのです。同じように私たちの教会がこの世に発信するのは、生けるまことの神が、今、私たちに働きかけてくださり、愛のみ業を行ってくださり、その神様の愛に、私たちがお応えしているということです。まだ神様に出会っていない多くの方々に、神様は働きかけ、「あなたを愛している」、と語りかけていてくださいます。その愛にお応えして生きる信仰への招きを、教会はこの世に発信し続けるのです。

御子が来られるのを待ち望む
 生けるまことの神に仕える信仰は、同時に、来るべき御子を待ち望む信仰でもあります。10節にこのようにあります。「更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。」テサロニケの人たちの信仰は、つまりテサロニケ教会から言い広められた信仰は、彼らが神に立ち帰り、生けるまことの神に仕え、御子を待ち望んでいるという信仰です。その御子とは、「神が死者の中から復活させた方」であり、「来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエス」なのです。ここにテサロニケの人たちの、そして私たちの信仰の内容が具体的に言い表されています。私たちが待ち望んでいるのは漠然とした方ではありません。地上を歩まれたイエスであり、十字架で死に、死者の中から復活され、天に昇り、終わりの日に再び天から来られ、救いと裁きを完成し、私たちを神の怒りから救い、復活と永遠の命に与らせてくださる方なのです。これが私たちの信仰であり、教会から言い広められ、発信され、響き渡る信仰にほかなりません。

揺らがない希望
 この手紙を書いた時点では、パウロは10節で語られている、いわゆる「主の再臨」は自分たちが生きている間に起こると考えていましたが、実際には彼らが生きている間には起こらなかったし、いまだ起こっていません。しかしいつ「主の再臨」が起こるかは、神様がお決めになることであり私たちに分かることではありません。ただ私たちは、御子が再び来てくださるのを待ち望み、またそのことに備えつつ歩んでいくのです。3節で「わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐している」とありましたが、この「主イエス・キリストに対する希望」とは、主が再び来てくださり救いを完成してくださることに対する希望にほかなりません。私たちは「主の再臨」が起こる前に、この地上の歩みを終えるかもしれません。私たちの信仰の先達は、そのようにして天に召されたのです。しかしそのことによって、私たちの「主イエス・キリストに対する希望」は少しも揺らぎません。なぜなら御子が再び来てくださり救いを完成するとき、すでに死んだ者たちが復活させられ、永遠の命に与ることが約束されているからです。

教会から響き渡る希望
 新型コロナウイルスに対して教会ができることは、ほとんどありません。もちろん感染予防を徹底することはしていますし、一人ひとりが感染しないため感染させないためにできることは行う必要がありますが、それ以上のことはほとんどできません。けれどもコロナ禍にあって、教会が発信すべきことは確かにあるのです。テサロニケ教会がそうであったように、私たちが神に立ち帰り、生けるまことの神に仕え、御子が来られるのを待ち望んでいることを、この世に言い広めるのです。希望が失われている世に向かって、苦難の中にあって御子が来られるのを待ち望むことにこそ、希望があると、教会は発信し続けます。キリストが再び来てくださり、救いを完成し、復活と永遠の命の約束を成就してくださることにこそ希望があるからです。私たちの教会からこの希望が響き渡ります。それは教会からしか響き渡ることのない希望であり、教会だけが発信し続けることができる希望なのです。

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