主日礼拝

失望しない人生

「失望しない人生」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第28章16節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第9章30-33節
・ 讃美歌:299、157、528

信仰において何を追い求め、得るか  
 私たちは、神を信じる信仰において、何を追い求めているのでしょうか。今日このように教会の礼拝に集った私たちは、何を求めてここに来たのでしょうか。そして私たちは信仰において何を得るのでしょうか。

皮肉な現実  
 本日は、ローマの信徒への手紙第9章30節以下をご一緒に読みますが、その30節と31節にこう語られています。「では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした」。ここには、「異邦人」と「イスラエル」とが対照的に語られています。イスラエルとは、神に選ばれて神の掟である律法を与えられ、それを守ることによって神の民として歩もうとしていたユダヤ人たちのことです。そのユダヤ人以外の人々が異邦人です。彼らは神に選ばれておらず、律法を与えられておらず、神の民ではない人々です。ユダヤ人たちは人間をそのように二つに分けて、自分たちイスラエルは選ばれた神の民であり救いにあずかるべき者、自分たち以外の人々は皆異邦人で、選ばれておらず、救いから落ちている者たちだと思っていたのです。ところがここでパウロが語っているのは、神に選ばれ、律法による義を追い求めていたイスラエルがそれに「達しなかった」のに対して、律法など知らず、義を求めていなかった異邦人がそれを得た、ということです。熱心に求めていた者たちが求めていたものを得ることができず、求めていなかった者がそれを得た、そういう皮肉な現実をパウロは見つめているのです。

神に義とされる  
 異邦人は得たがイスラエルは得ることができなかったもの、それは「義」です。義とは「正しさ」ですが、聖書において義、正しさは、人間の倫理道徳の尺度によって測られるものではありません。それは神のみ前での、神が認めて下さる義、正しさです。何が義であるかは、人間が決めるのではなくて、神がお決めになるのです。ですから義を得るというのは、神が「よし」と言って下さることであって、人間が自分は正しいと思うことではありません。人間の思いにおいては、あるいは人間の倫理的道徳的な感覚においては正しいと思っても、神が「よし」と言って下さらなければ義を得ることはできません。逆に神が「よし」と言って下さるなら、自分では、また人間の感覚においては正しいとは思えない、罪に満ちているように思える状態にあっても、義を得ることができるのです。つまり義は、人間が造り出すものではなくて神が与えて下さるものです。それゆえにこの手紙の1~8章においてパウロはしばしば「神に義とされる」という言い方をしてきました。例えば3章23、24節にはこう語られていました。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。生まれつきの人間は自分の力や努力で義を得ることができない、キリスト・イエスによる贖い、つまり罪の赦しを受けて、神によって義とされるのです。ですから本日の箇所において「義を得ました」と言われているのは、神によって義とされた、神に「よし」と言っていただいた、ということです。その神の義を、つまり救いを、それを追い求めていたイスラエルの人々は得ることができず、求めていなかった異邦人がそれを得たのです。具体的に起っているのは、神の民であったイスラエルの人々、ユダヤ人たちが、神が遣わして下さった救い主であるイエス・キリストを受け入れず敵対しており、むしろ神の民でなかった異邦人たちが信じて洗礼を受け、教会に加えられている、ということです。神の義は、今読んだ3章24節に語られていたように、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」ことによって与えられます。しかしユダヤ人たちはこのことを理解せず、受け入れないのです。彼らは、旧約聖書の時代以来、神が与えて下さった律法を守ることに熱心でした。律法を守って神に「よし」と言っていただける者となることによって義を得ることができると考えているのです。だから彼らは、律法を守ることによってではなく、イエス・キリストの十字架の死によって罪の贖い、赦しの業が既になされており、キリストを信じる信仰によってその赦しにあずかって義とされる、ということを受け入れることができないのです。それに対して異邦人たちは、元々まことの神を知らずに生きてきました。彼らは律法を与えられてもいなかったし、そもそも神に義とされることを求めてもいませんでした。ところがその異邦人たちが今、パウロらの伝道によって、イエス・キリストを神の子、救い主と信じて、主イエスの十字架の死と復活による罪の赦しと新しい命を信じ受け入れて洗礼を受け、教会に加えられ、救いにあずかっているのです。それが、「異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました」ということです。このように、追い求めていたユダヤ人たちは義を得ることができず、求めていなかった異邦人が、思いがけない恵みとして義を得ているのです。

正しい求め方をしなかったために  
 ローマの信徒への手紙の第9章から11章は、パウロがこの皮肉な現実に焦点を当てて、このことを信仰においてどのように受け止めたらよいのかを苦闘しつつ語っているところです。先週までに9章29節までを読んできましたが、これまでのところに語られていたのは、神の民であるはずのユダヤ人がイエス・キリストを受け入れずに義を得ることができなくなっているのは、神の自由な選びのみ心によるのだ、ということでした。そのことを旧約聖書の登場人物たちの例をあげて語ってきたのです。つまりパウロは今起っている皮肉な現実が根本的には神ご自身のみ心によることであると語り、それに対して当然起ってくるであろう様々な疑問や批判に答えてきたのです。しかし本日の30節から第10章にかけてのところでは、彼は目を転じて、ユダヤ人、イスラエル自身の中にも、そのようになってしまう理由があったことを見つめていきます。彼らが義を得ることができなかったのは、根本的には、これまで語ってきたように、神ご自身のみ心によることだが、しかしそれは彼らに何の責任もないということではない。彼らは、正しい求め方をしなかったために、追い求めていた義を得ることができなかったのだ、ということをパウロはここから語っていくのです。

律法に達しなかったイスラエル  
 イスラエルは、義を、つまり救いを求めるのに、間違った求め方をしていたためにそれを得ることができなかった。それは、彼らが律法を熱心に守ろうとしていたことが間違いだったということなのでしょうか。そうではありません。パウロはここで、「しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした」と言っています。律法のことを彼は「義の律法」と言っているのです。それは、律法は正しいものであり、神の救いに導くものだ、ということです。パウロは、律法そのものが悪いものであるとか、価値がない、などとは言っていません。そのことは第7章の7節以下にも語られていました。律法そのものは、神がお与えになった良いものなのです。しかしイスラエルはその義の律法に「達しなかった」のです。30節と31節における異邦人とイスラエルの対照においては、異邦人は義を求めていなかったのにそれを得たと30節で語ったのですから、31節はイスラエルは義を追い求めていたのにそれを得なかった、とした方がはっきりします。しかし実際には、イスラエルは「律法に達しなかった」と言われています。そこでパウロが見つめているのは、イスラエルは、義の律法を与えられ、それを追い求めていながら、その律法に達することができなかった、律法の目的に到達できなかった、ということです。律法に達する、律法の目的に到達するとはどういうことなのでしょうか。律法に語られている細かい一つ一つの掟を落ち度なく守ることでしょうか。ユダヤ人たちの中でも特にファリサイ派と呼ばれる人々はまさにそのように、律法を厳格に守り行なっていたのです。しかしそういうことによって「律法に達する」ことはできなかった、律法の目的に到達できませんでした。では、律法に達するとはどういうことなのでしょうか。次の32節にはこのように語られています。「なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです」。イスラエルは、義の律法を追い求め、それに達しようと熱心に努めていました。しかしそれを、「信仰によってではなく、行いによって」追い求め、達しようとしたのです。それが間違いだったのです。

信仰の衣を被った自己主張  
 律法は確かに「義の律法」であり、人を義へと、つまり神の与えて下さる救いへと導くものです。しかし、それを行いによって追い求めていくと、全てがぶちこわしになるのです。行いによってというのは、自分の行いによって、自分の力によって、自分が生み出す業績によって、ということです。つまり自分がどれだけ立派な者、正しい者、強い者となることができるか、そのために律法を追い求めるということです。そのような思いで律法を熱心に行なっている時、私たちは、自分は一生懸命信仰に生きていると感じます。信仰者として生きようと努力していると思うのです。しかしそれは信仰のあり方としては間違っています。なぜなら、神の赦しを求めて神のみ前に跪くということがそこにはないからです。そこで私たちを支配しているのはむしろ、自分はこれだけ努力して業績をあげている、神も、そして人々も、自分の努力や業績を認めるべきだ、という思いです。それは神を信じる信仰ではなくて、私たちの自己主張です。神に対しても人々に対しても、自分を立派な者、正しい者、強い者として認めさせようとしているのです。そしてそのような自己主張に生きている時に私たちは、他者を愛し受け入れることができなくなります。ユダヤ人たちが、律法の行いによるのでなく、ただ神の憐れみによって、イエス・キリストを信じる信仰のみによって与えられる救いを受け入れることができず、異邦人たちがキリストによる罪の赦しを信じて救いにあずかることを認めることができず、教会を迫害していたように、私たちも、人に与えられている救いの恵みを認めることができず、自分と同じように努力しない者たちを受け入れることができずに批判し、攻撃するようになってしまうのです。そういうことの根本にあるのは、「行いによって」義を追い求めようとすることです。そこでは信仰はもはや信仰ではなくなり、信仰の衣を被った自己主張となるのです。それがユダヤ人たちに起ったことです。同じことが私たちにも起り得ます。熱心に義を、救いを追い求めているつもりで、実は少しも神の前に跪いていない、ということが私たちもあるのです。

信仰によって追い求めるとは  
 義の律法に達するためには、行いによってではなく信仰によって追い求めなければならないのです。信仰によって律法を追い求めるとはどういうことなのでしょうか。それは、律法を、単なる掟や戒めとしてではなく、生ける神のみ前で、神との交わりの中で受け止め、追い求めることだと言えるでしょう。単なる掟や戒めであれば、神のみ前に出ることがなくても、自分一人でそれを実行しようと努力することができます。それがまさに行いによって追い求めることです。そこでは私たちの目は、律法を守っている自分に向けられており、人と自分とを見比べようとする思いが生じるのです。しかし律法は、神のみ前で、神との交わりの中で、つまり神を礼拝しつつ受け止め、追い求めるべきものです。そのように生ける神のみ前で、神からの求めとして律法を受け止める時、私たちは、自分がその律法に達することができていないことを示されるのです。神のみ前に本当に立つ時、私たちは、自分が立派な者、正しい者、強い者ではとうていなくて、むしろ弱い者、罪深い者でしかないことを思い知らされます。私たちの強がりや自己主張は人の前でしか通用しないのであって、神の前ではそれは打ち砕かれずにはおれないのです。ですから生ける神のみ前では私たちは、「罪人である私を憐れんでお赦しください」と赦しを求めて跪く他はないのです。そのように律法は、神の前で私たちに自らの罪を悟らせます。罪を示された私たちは、神のみ前にひれ伏して赦しを願い求めるしかありません。そのように神のみ前にひれ伏して赦しを求める者に、神は独り子イエス・キリストの十字架の死による赦しと救いを与えて下さり、その恵みによって「よし」と言って下さるのです。それこそが律法の目的です。神がイスラエルの民に律法をお与えになったのは、このキリストによる赦しの恵みへと彼らを導くためでした。与えられた律法を行いによってではなく信仰によって追い求めたならば、イスラエルの人々はこのようにしてキリストによる赦しの恵みへと導かれ、律法の目的が彼らにおいて実現したはずなのです。つまり義の律法に達することができたはずなのです。

ユダヤ人と異邦人の違い  
 しかしユダヤ人たちは、信仰によってではなく、行いによって律法を追い求めました。そのために彼らは自分の努力を誇り、人と見比べて自分の正しさを主張する自己主張に陥り、神に「よし」と言っていただけなくなっています。それに対して異邦人たちは、信仰による義を得たのです。彼らは、神に選ばれた民ではなく、律法を与えられてもいませんでした。つまり自分の行いや努力によって義を得る可能性が彼らには元々なかったのです。自分の努力によって立派な、正しい、強い者となって義を得ようとするような信仰における自己主張から彼らは解放されていました。彼らはユダヤ人より優れていたわけでは全くないし、ユダヤ人とは違って正しく義を求めたのでもありません。彼らは、イエス・キリストの十字架による神の赦しの恵みを信じて受け入れただけです。それだけのために神に義とされたのです。ですからユダヤ人と異邦人を見比べた時に、なるほど異邦人の方が神に「よし」と言っていただいて然るべきだ、ということは何もありません。違いがあるとしたら、異邦人は、神に対して自分の努力や業績を並べ立てるような自己主張をしなかった、というだけです。彼らは、自分が神に赦していただかなければならない罪人であることを認めました。そして神が、自分たちの努力や正しさによってでは全くなく、独り子イエス・キリストの十字架の死によって、ただ憐れみのみ心から罪を赦して下さったことを信じて受け入れ、その神の恵みに身を委ねたのです。そのことによって彼らは義とされました。彼らが信仰による義を得たというのはそういうことです。それに対してユダヤ人たちは、自分たちが罪人であることを認めず、神による赦しを受け入れず、恵みに身を委ねることをしなかったのです。

信仰におけるつまずき  
 「彼らはつまずきの石につまずいたのです」とパウロは言っています。ユダヤ人たちは信仰におけるつまずきに陥ったのです。私たちも、信仰においてつまずくことがあります。教会における人間関係や、人の言葉や態度につまずきを覚え、そのために教会を去ってしまう人もいます。そのような信仰におけるつまずきを覚える時に私たちはたいてい、「つまずかせた人が悪い、つまずきとなったあのことが悪い、自分はつまずかされた被害者だ」と思います。しかし、ユダヤ人たちのつまずきにおいてもそうだったように、私たちが信仰においてつまずく、その根本的な原因は、私たちが神の憐れみと恵みに身を委ねるのではなくて、自分の努力や業績によって、言い換えれば自分のプライドを満たすことによって生きようとしていることなのです。ユダヤ人たちにとってイエス・キリストによる罪の赦しの福音は、自分が立派な、正しい、強い者となってそれによって義を得ようとしている自分のプライドを傷つけられ、否定されるような教えでした。だから彼らは主イエス・キリストにつまずき、信仰による義を受け入れないのです。私たちも、誰かに何らかのことで自分のプライドを傷つけられた時につまずくのです。勿論人のプライドをことさらに傷つけるようなことはしないように私たちは気をつけなければなりません。しかし、私たちがここではっきりと弁えておかなければならないのは、主イエス・キリストによる神の義、救いの福音は、私たちのプライドを徹底的に打ち砕くものだ、ということです。主イエスによる救い、神の義は、私たちが自分の行い、自分の力、業績にこだわっている所には与えられないのです。神に対するそういう自己主張を一切棄てて、自分の正しさや強さによって義を得ることのできない罪人であることを認めて、神のみ前にひれ伏し、ただ神の憐れみによる赦しを求めるところでこそ、神は主イエス・キリストによる贖いの恵みによって私たちに「よし」と言って下さるのです。それが、信仰によって義とされることです。そういう意味で、私たちの救い主であられるイエス・キリストは、私たちをつまずかせるもの、つまずきの石なのです。主イエスの前では、自分の行い、力、業績、正しさ、強さは何の意味もありません。それらに依り頼もうとするなら、私たちはつまずかざるを得ないのです。

神が置いたつまずきの石  
 このつまずきの石は、パウロが33節で、イザヤ書8章14節と、本日共に読まれた28章16節を結び合わせて引用している言葉、「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」が語っているように、神ご自身が置かれたものです。神ご自身が置かれたので、このつまずきの石は取り除くことも、それを避けて通ることもできないのです。このつまずきの石を取り除いてしまったら、そこに残るのはもう神による救いではなくて、信仰という名を借りた人間の自己主張です。しかし神ご自身が置かれたこのつまずきの石である主イエス・キリストは、これを信じる者は失望することのない、確かな救いの岩、拠り所なのです。自分の行い、力、正しさ、強さ、つまり自分のプライドを満たすことにこだわって生きている限り、私たちの人生は失望の多いものとなります。あるいは、失望することを恐れていつも何らかの予防線を張っていなければならないような、思い切って生きることのできない不自由なものとなります。しかし、自分が神に赦していただかなければならない罪人であることを認め、主イエス・キリストの十字架と復活による神の憐れみと赦しの恵みを信じ受け入れて、その神に身を委ねるなら、私たちは、失望することのない、いやむしろ失望することを恐れる必要のない、人生の確かな土台を与えられるのです。

信仰において何を追い求め、得るか  
 私たちは信仰において何を追い求めているのでしょうか。またそこで何を得ているのでしょうか。行いによってではなく生ける神を信じる信仰によって与えられる神の義、自分の正しさではなくて、神が罪人である自分に「よし」と言って下さるその恵みをこそ追い求めたいと思います。そしてそこに与えられる失望しない人生を得ていきたいのです。

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