「驚くべき福音」 牧師 藤掛 順一
・ 旧約聖書; イザヤ書、第19章 16節-25節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第15章 22-35節
・ 讃美歌 ; 16、323、430
エルサレム使徒会議
使徒言行録第15章には、初代の教会の歩みにおいて、大変重要な意味を持つこととなった一つの会議のことが語られています。この会議を「エルサレム使徒会議」と呼びます。先週の礼拝において私たちは、この会議が開かれた理由と、そこで何が語られ、何が決定されたかを、15章の前半を通して読みました。本日は22節以下の後半を読んでいくわけですが、ここを理解するためには前半に語られていたことを知っておく必要がありますので、まず先週のところの話を簡単に振り返っておきたいと思います。
事は、アンティオキアの教会、そこはユダヤ人以外の、異邦人を主たるメンバーとする最初の教会でしたが、そこに、ユダヤから、具体的にはエルサレムのユダヤ人たちの教会からある人々がやって来て、「異邦人は割礼を受けなければ救われない」と語ったことから始まりました。このことをめぐって、彼らと、アンティオキア教会を指導していたパウロやバルナバとの間に激しい対立、論争が起ったのです。割礼を受けるとは、ユダヤ人になる、ということです。そしてユダヤ人たちが守っている律法を守る者になることです。異邦人は、そのようにユダヤ人となり、ユダヤ人と同じ生活をしていかなければ救いにあずかることはできない、と彼らは主張したのです。それに対してパウロやバルナバは、私たちが救われるのは割礼という印を身に負うことによってではないし、律法を守り行うことによってでもない、私たちは、イエス・キリストの十字架と復活によって神様が与えて下さる罪の赦しの恵みによって救われるのだ、だから、異邦人は異邦人のままで、割礼を受けていなくても、主イエスを信じる信仰によって救われるのだ、と主張しました。この両者が激しく対立したのです。この対立は、単に割礼という一つの儀式を行うか否かということではありません。人は何によって救われるのか、という信仰の根本にかかわることをめぐるこれは対立なのです。
主イエスの恵みによって救われる
この重大な問題を解決するために、エルサレムで会議が行われました。そこで誰がどんな発言をしたかは、21節までのところをお読みいただきたいと思います。この会議が到達した結論は、異邦人のキリスト信者は、救われるために割礼を受ける必要はない、ということでした。これは割礼という儀式が必要でないというだけのことではありません。ここで確認されたのは、異邦人は異邦人であるままで、ユダヤ人にならなくても、ユダヤ人としての生活をしていなくても、主イエス・キリストを信じる信仰のみによって救いにあずかることができる、ということです。それをもっと一般化して言うならば、人が救われるのは、ある特定の儀式によるのではないし、またある特定の生活様式を守ることによってでもない、ただ主イエスの恵みによってのみ、それを信じる信仰によってのみ救われるのだ、ということです。このことがエルサレム使徒会議で確認されたがゆえに、私たちは今このように、日本人であるままで、割礼を受けてユダヤ人になり、律法を守り行うユダヤ人としての生活をすることなしに、主イエス・キリストの救いにあずかり、教会の一員として生きることができているのです。エルサレム使徒会議は、そういう意味で、その後の教会の、キリスト教の歩みが、ユダヤ人の民族宗教という枠を超えて、全世界の人々に宣べ伝えられていく世界宗教へと発展していく道を開いたと言えるわけで、教会の歴史において大変重要な意味を持っているということを先週お話ししました。
但し書き
本日の個所は、この会議のことについて語っているところの後半の部分です。内容的には先週読んだ前半と違いはないのであって、この会議において決定されたことが、書面と使者とによってアンティオキア教会の人々に伝えられた、ということが語られているに過ぎません。エルサレム会議の決定は、28、29節にこのようにまとめられています。「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです」。ここにはっきりと、あなたがた異邦人のキリスト信者たちは、割礼を受ける必要はない、ということが示されています。ユダヤからアンティオキアにやって来て教会をかきまわした人々の主張は明確に退けられたのです。しかし私たちはここに、そのこととは別の但し書きがあることに気づきます。「次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせない」とは、割礼を受ける必要はないが、次の事柄は守ることが必要だ、ということです。そこに、避けるべきものが四つあげられています。「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行い」です。割礼を受ける必要はないが、この四つのものは避けなければならない、というのが、エルサレム会議の決定だったというのです。先週読んだところの20節以下で、ヤコブの提案によってこのように決められたことが既に語られていました。しかし先週の説教で私はそのことには全くふれませんでした。それは何故かというと、この但し書きについては、聖書の学者たちの間で様々な議論があり、解釈が大変難しい所だからです。なぜ議論があるかというと、この使徒言行録15章の記述と、パウロ自身が手紙の中でこのエルサレム会議について語っていることとの間にある食い違いが見られるからです。パウロがこの会議について語っている個所というのは、ガラテヤの信徒への手紙の第2章1~10節です。そこを読んでみます。「その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。おもだった人たちからも強制されませんでした。―この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。―実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です」。
食い違い
ここでパウロが語っていることは、エルサレム使徒会議において、異邦人がキリスト信者となるに際して割礼を受ける必要はない、というパウロの主張が、エルサレム教会の「おもだった人たち」によって認められ、彼らは異邦人の信者たちに何も強制しなかったし、どのような義務も負わせなかった、ということです。「潜り込んで来た偽の兄弟たち」と言われているのが、「ユダヤから来たある人々」のことでしょう。彼らの主張にもかかわらず、異邦人キリスト者は割礼を受けることを強制されなかったのです。ここには、あの四つの「但し書き」のことは全く語られていません。これが、使徒言行録15章とガラテヤ書2章との食い違いです。この食い違いをどのくらい重要なこととして見るか、という点で学者たちの意見は分かれています。これを大した問題ではない、とする人もいます。それは、この但し書きはそう大きな意味を持つものではない、ただ、異邦人の信者たちに、周囲にいるユダヤ人の信者たちのことを配慮して、あまり彼らの気持ちを逆なでするようなことはせず、ユダヤ人たちの大事にしている習慣を尊重しなさい、ということに過ぎない、だからパウロは、手紙においてそのことにふれる必要を感じなかったのだ、という考え方です。そう考えれば、ガラテヤ書との間に矛盾はなくなるし、また私たちもこの「但し書き」をあまり真剣に受け止めなくてもよいことになるのです。
ユダヤ人と異邦人の食事の交わり
けれどもそのような読み方は果して正しいでしょうか。この但し書きの語っていることは、どうでもよい軽い問題でしょうか。ここに四つのことを避けるようにと言われていますが、これらは実は当時、異邦人が、ユダヤ人との交わり、特に食事を共にする交わりに加わるための条件とされていたことなのです。避けるべき第一のものは、「偶像に献げられたもの」です。20節の言い方によれば「偶像に供えて汚れた肉」です。これはユダヤ人が異邦人たちの異教の社会の中で生きるようになったことによって生じた問題でした。ギリシャ、ローマの多神教の世界では、町の中に様々な神々の神殿、祭壇があり、そこに動物の肉が一旦捧げものとして供えられ、それからその肉が市場で食用に売られる、ということがなされていたのです。しかしユダヤ人たちにとってそれは、異教の神々に供えられることによって汚れた肉であり、それを食べると自分も汚れてしまう、というものでした。それゆえにユダヤ人は、この肉は偶像の神々に献げられたものではない、ということを確認して肉を食べていたのです。異邦人と食事を共にする時にも、そのような肉が食卓に出されたら食べることができません。異邦人がユダヤ人との交わりに入るためには、そのような肉を避けることが求められたのです。29節の順序における二つ目は「血」です。これは三つ目の「絞め殺した動物の肉」と基本的に同じことを意味しています。ユダヤ人たちは、動物の肉を食べる時に、血は絶対に食べませんでした。そのことは律法において禁じられていたのです。そのことを語っているのはレビ記の17章10節以下です。何故血を食べてはならないかがその11節に語られています。「生き物の命は血の中にあるからである」とあります。古代のユダヤ人は、命は血に宿っていると考えたのです。血が流れていれば生きており、死ぬと血が流れなくなる、ということから体験的にそう考えたのでしょう。そしてイスラエルの信仰において大事なことは、人間にせよ動物にせよ、命は神様が与え、神様が取り去られる、神様のものだ、ということです。それゆえに動物の肉を食物とする時には、血は土に注ぎ出すことが13節に命じられています。神様が人間に食物として与えて下さっているのは動物の肉であって、命の宿る血は土に注いで神様にお返ししなければならないのです。それゆえに、ユダヤ人たちは、動物を屠殺して食肉とする場合に、必ずその血管を切って血を注ぎ出す、という屠殺方法をしたのです。三つ目の、「絞め殺した動物の肉」というのは、そういう屠殺方法をしていない、従って血が肉の中に残ってしまっているものです。それを避けるのは、やはり血を食べることを避けるためなのです。29節では避けるべき第四のものとして「みだらな行い」があげられています。20節ではこれが第二になっています。これは性行為における罪のことですが、今、血を食べてはならない、ということが命じられていたレビ記17章の次の18章に、そのことが語られています。この戒めは、イスラエルの人々に、彼らが出てきたエジプトや、これから入っていこうとしているカナンの地の他の民族、異教の民の間で行われているようなみだらな行為を避けることを命じています。つまり「みだらな行い」があるかないかが、神様の民イスラエルと異教の民、異邦人との区別の一つの印とされていたのです。内容的にはそれは近親相姦や、不倫、同性愛、獣姦といったことです。新約聖書の時代のギリシャ、ローマの社会はこれらのことに対して比較的大らかでしたので、異邦人との交わりにおいてこのことが改めて強調されたのでしょう。
半分はユダヤ人になれ?
このように見てきますと、これらの四つの「避けるべき事柄」は、異邦人が、異邦人であるがゆえに持っている汚れを、ユダヤ人の中に持ち込むことを防ぐための事柄であることが分かります。異邦人がこれらのことを避けて汚れから遠ざかっているなら、ユダヤ人と食事を共にしてよい、ということです。ということは、この但し書きによって言われていることは、異邦人は信仰者となる時に割礼を受けなくてもよいが、しかし少なくともユダヤ人と食事を共にできるぐらいにはなれ、ということであり、言ってみれば半分はユダヤ人になれ、ということなのです。これは、どうでもよい軽い問題でしょうか。パウロは先程のガラテヤの信徒への手紙で、エルサレムのおもだった人々から何も強制されなかった、どんな義務も負わされなかったと言っていますが、このような取り決めがなされていながらそのようなことが言えるのでしょうか。そもそもパウロはこのような取り決めを受け入れることができるのでしょうか。パウロが信じ、宣べ伝えているイエス・キリストの福音は、11節のペトロの言葉にあったように、「主イエスの恵みによって救われる」ということです。それ以外の、人間のどのような儀式も、よい行いも、人を救うものではないのです。パウロはその福音を徹底的につきつめて捉えていました。その福音に立つならば、割礼は受けなくてもよいが、半分はユダヤ人になり、律法に基づく生活をせよ、などというのはもっての他なのではないでしょうか。それゆえに、この但し書きの部分は、パウロが参加したエルサレム使徒会議で決定されたことではないのではないか、という推測が生まれるのです。
パウロとペトロの対立
この推測を裏付けるもう一つのことは、先程のガラテヤの信徒への手紙の続きのところ、2章11節以下です。そこには、このエルサレム使徒会議の後、ケファ、それはペトロのことですが、彼がアンティオキアに来た時に起ったパウロとのいさかいのことが語られています。ペトロは、最初は異邦人の信者たちと食事を共にする交わりをしていたのですが、エルサレムの、ヤコブのもとからある人々が来ると、次第に異邦人たちとの食事から身を引いてしまったのです。そのことについてパウロがペトロを厳しく批判したことがここに語られています。もしもエルサレムの使徒会議において、この15章が語っているような但し書きが決定され、伝えられて、アンティオキア教会の異邦人信徒たちがそれを喜んで受け入れ、ユダヤ人と支障なく食事の交わりができるような生活をしていたのなら、ペトロが彼らとの食事から身を引くようなことは起こらなかったはずです。このことからも、あの但し書きはエルサレム使徒会議において決定されたものではなかったと考えられるのです。この但し書きはむしろ、その後の、今述べた、ガラテヤ書2章に語られているパウロとペトロとの衝突をきっかけにして、ユダヤ人の信者と異邦人の信者との交わりに関する新たな議論が起こり、その中で、ヤコブを中心とするエルサレム教会が主導権を握って、パウロを抜きにして決められたものではないかと思われるのです。つまりこの15章には、時も構成員も違う二つの別の会議の決定が、一つに結び合わされて語られていると考えられるのです。
聖書の間違い?
話が随分聖書研究的になってしまいました。今申しましたことは、使徒言行録の記述に事実と違うところがある、ということです。これはある意味で、聖書にも間違いがある、ということですから、聖書を神様のみ言葉、信仰と生活との誤りなき規範と信じている私たちの信仰において、かなりきわどいことを言っていることになります。皆さんの中には、聖書はもっと素直に、書いてある通りに受け止めるべきなのではないか、と思われる方もおられるでしょう。私も基本的にその通りだと思いますし、そのように聖書を受け止めようとしているつもりです。しかしそこにこういう問題もあることを考えていただきたいのです。つまり、この個所を書いてある通りに受け止め、それを私たちの生活の規範としていくならば、私たちもこの但し書きに従って、これらの四つの事柄を避ける生活をしなければならない、ということです。偶像に供えられた肉を食べることは私たちの生活にはないかもしれません。けれども、私の元いた富山では、仏教のお葬式において、祭壇にいろいろな供物、お菓子とか果物とかが供えられます。そしてそれが後で参列者へのお土産として配られるのです。そういうお菓子や果物は汚れたものとして食べてはいけないのでしょうか。もっと深刻なのは、血と、絞め殺した動物の肉です。この教えに従うなら、私たちは、そこらのスーパーに売っている肉を食べることはできないのであって、特別な仕方で屠殺された肉しか食べられなくなるのです。しかしそのようなことが、主イエス・キリストによる救いを信じる私たちの生活なのでしょうか。むしろ、主イエス・キリストの十字架と復活による福音は、私たちを、このような一切の但し書きから解放したのではないでしょうか。私たちの救いは、神様の独り子イエス・キリストが、人間となって下さり、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して新しい命の先駈けとなって下さった、その主イエスによる救いを信じることによって与えられるのであって、割礼を受けてユダヤ人になることによってでも、あるいは半分ユダヤ人のような生活をすることによってでもありません。私たちは、他の何によってでもなく、ただ主イエスの恵みによって救われるのです。その福音から見れば、この但し書きはやはり余計なもの、蛇足と言わなければならないのです。聖書は私たちに、この主イエス・キリストによる救いの福音を語っています。この福音に照らして読む時に、聖書の中に、これはある意味で間違っている、というところがあることが見えて来るのです。
驚くべき福音
しかしだからと言って、使徒言行録第15章のエルサレム使徒会議についての記述に、本来その結論ではなかったであろうこのような但し書きが加えられていることに意味がないわけではありません。この部分は間違いだから削除した方がよい、ということではないのです。むしろ私たちは、この但し書きから大切なことを学び取ることができます。この但し書きが生まれたのは、先程申しましように、使徒会議の後、異邦人との食事をめぐるパウロとペトロとの対立をきっかけにして、ユダヤ人信徒と異邦人信徒との交わりについての議論があり、ヤコブを中心とするエルサレムのユダヤ人たちの教会の影響の下で、異邦人信徒にも、ユダヤ人と食事を共にできるような生活をすることを求めるべきだ、という決定がどこかでなされたということでしょう。主イエス・キリストの福音に、このような蛇足を加えてしまう現実が教会の中にあったのです。そのことは、主イエス・キリストの福音が、人々にとっていかに驚くべきものであったかを私たちに教えています。主イエスの恵みのみによって救われる、そこには何の但し書きもない、少なくともこのような生活をし、これらのことは避けなければならない、という決まりも制限も何もない、このことは、誰にとっても、つまずきに満ちた、にわかには受け入れ難いことだったのです。その証拠に、ガラテヤの信徒への手紙の2章13節には、ペトロのみならず、バルナバさえも、ヤコブのもとから来た人々を恐れて、異邦人との食事から身を引いてしまったことが語られています。使徒会議においてパウロと共に、異邦人が救いにあずかるために割礼を受ける必要はないことを主張したあのバルナバでさえ、主イエス・キリストの福音が私たちを律法の一切の掟から解放したこと、救いにあずかるためにはこういう生活をしなければならない、ということがもはや全くない、どのような生活をしていても、ユダヤ人とは全く異なる生活をしていても、そのままで主イエス・キリストの救いにあずかることができる、ということを受け入れるのはなかなか難しかったのです。この但し書きはそのことを私たちに教えています。そして私たちはそれにつけても、パウロの福音理解の徹底性、その深さに驚かされるのです。神様の民であるユダヤ人とそうでない異邦人の区別がむしろ当然であり、異邦人が神の民に加えられ救いにあずかるにはある程度ユダヤ人的生活をしなければならない、ということがむしろ常識である中で、それらの一切の「但し書き」から解き放たれているパウロの姿はまさに驚くべき福音です。そして実は、こういう驚くべき福音は旧約聖書にも語られていたのです。本日共に読まれたイザヤ書19章の終わりのところに、主なる神様の救いが実現する時に何が起るかが語られています。その24節以下をもう一度読んでおきます。「その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリアと共に、世界を祝福する第三のものとなるであろう。万軍の主は彼らを祝福して言われる。『祝福されよ、わが民エジプト、わが手の業なるアッシリア、わが嗣業なるイスラエル』と」。エジプトもアッシリアも、異邦人であり、イスラエルを苦しめていた敵です。その敵すらも主なる神様の民となり、祝福を受け、世界を祝福するものとなる、しかもイスラエルはその第三のものとなると言うのです。主なる神様による救いのみ業は、このように実に驚くべきものであり、人間の常識や理解をはるかに超えた恵みなのです。
人間はこの驚くべき福音に、あの但し書きのような蛇足をつけたがるものです。しかしあの蛇足の但し書きは、教会の歴史の中で消え去りました。二千年の歴史を貫いて生き残り、今日私たちに伝えられ、私たちが信じている福音は、パウロの語った、ただ主イエスの恵みによって救われるという驚くべき福音なのです。歴史の流れの中で、社会が変わり、人々の生活も変わり、考え方も大きく変化していく中で、本当に生命を保ち、生き残って人を救うのは、主イエス・キリストの十字架と復活の恵みによってのみ救われる、というあの驚くべき福音なのです。何の但し書きもつかない、この驚くべき福音に、私たちはしっかりと立ち続けたいのです。