「父なる神を知る者」 副牧師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:イザヤ書 第43章8-13節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第10章21-24節
・ 讃美歌:
すでに名が天に記されている
少し間が空きましたがルカによる福音書10章を読み進めています。10章の冒頭で、主イエスは七十二人の弟子を任命し、主イエスご自身がこれから行こうとされている町や村に、「神の国はあなたがたに近づいた」と伝えるために遣わしました。この七十二人の派遣は、主イエスがエルサレムへと進んで行く中で起こったことです。しかし同時に、この出来事において、主イエスの弟子として遣わされるすべてのキリスト者の歩みが見つめられていました。私たち一人ひとりも主イエスを信じ、主イエスの弟子とされて遣わされているのです。
七十二人が主イエスのところに帰ってきたことが、前回お読みした17-20節で語られていました。17節には「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します』」とあります。自分たちが主イエスの名によって悪霊を屈服させることができたという喜びの体験を、彼らは主イエスに報告したのです。しかし主イエスは、悪霊を屈服させたことより喜ぶべきことがあると言われました。20節で主イエスはこのように言われています。「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。彼らが本当に喜ぶべきことは悪霊を屈服させたことではなく、彼らの名前が天に書き記されていることなのです。名前が天に書き記されているとは、終わりの日に復活させられて永遠の命に与るという確かな約束が与えられている、ということです。七十二人だけではありません。私たちの名前も天に記されています。私たちは遣わされたところで頑張って成果を上げることによって、自分の名が天に記されるのではありません。神の一方的な恵みによる救いに与ることによって、私たちの名はすでに天に記されているのです。すでに名が天に記されているからこそ、私たちは遣わされたところで復活と永遠の命の確かな約束に信頼し、恐れることなく神のご支配がすでに始まっていることを宣べ伝えるのです。
父よ
本日の箇所の冒頭に、「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた」とあり、続けて主イエスはこのように言われています。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」。ここで主イエスは神様に「父よ」と呼びかけています。主イエスが神の独り子であると知らされている私たちはこのことにさして驚きませんが、実はルカによる福音書において、主イエスが神様に「父よ」と呼びかけているのは、この箇所が初めてです。しかも21節では、主イエスは二回「父よ」と呼びかけているのです。それだけでなく本日の箇所で主イエスは、神様とご自身との関係が、父と子の関係であることをはっきり示されています。ルカ福音書において、これまで主イエスが神様を「自分の父」と言われた箇所は、少年イエスの物語ぐらいでした(2章49節)。このような物語です。主イエスが十二歳になったとき、両親は主イエスを連れてエルサレムに行きましたが、その帰り道で、彼らは主イエスがいないのに気づき、主イエスを捜し回ってエルサレムに引き返しました。すると神殿の境内で学者たちと話している自分たちの息子を見つけました。そのとき母マリアが「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と言うと、主イエスは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と言われました。「自分の父」とはヨセフのことではなく神様のことです。十二歳の少年イエスは神様のことを「自分の父」と言っているのです。このことから分かるように、本日の箇所に至って、つまりエルサレムへと進んで行く中で、主イエスは聖霊の働きによって初めて神様を「自分の父」と知った、ということではありません。そうではなく本日の箇所では、これまでほとんど語られてこなかった父である神と子であるイエスの親しい関係が前面に押し出されているのです。
天地の主
主イエスが神様に「父よ」と呼びかけるのは、この箇所が初めてですが、神様はこれまでも主イエスがご自身の子であると告げてきました。主イエスが洗礼を受けたときは、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3章22節)という声が天から聞こえ、また主イエスが三人の弟子と山に登られたときも「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえました。本日の箇所では、神様から「わたしの子」、「わたしの愛する子」と告げられてきた主イエスが、神様に「父よ」と、しかも「天地の主である父よ」と呼びかけているのです。天と地を造られた神様は、今もこの世界を支配しておられます。神様はご自分がお造りになった世界を放ったらかしにはなさらないのです。それはこの世界が、これまでも、今も、これからも神様の導きの下にあるということです。主イエスの父なる神は、漠然としたお方なのではなく、この世界を造り、支配し、導いてくださっている「天地の主」なのです。
神の啓示
「天地の主である父よ」と呼びかけ、父なる神をほめたたえると、主イエスは続けてこのように言われました。「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」。「お示しになる」と訳されている言葉は、もともと「覆いを取り除く」という意味の言葉です。しばしば、神様が覆いを取り除き、示してくださることを「啓示」と言います。啓蒙主義の「啓」に「示す」と書いて「啓示」です。「啓」という字には「ひらく」という意味がありますから、要するに啓示とは、隠されていたものの覆いが取り除かれ、ひらき示されることです。大切なことは、神様だけが啓示する、ということです。神様だけが隠されていたものの覆いを取り除き、ひらき示してくださるのであって、私たちは自分の力でその覆いを取り除くことはできません。神様が覆いを取り除いてくださらない限り、私たちには隠されたままであり、分からないままなのです。
自分の知恵や賢さに頼る者
神様は「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しに」なったと言われています。このように言われると、神様は「知恵ある者や賢い者」には覆いを取り除いてくださらないけれど、「幼子のような者」には覆いを取り除いてくださる、と受けとめてしまいます。なんだか神様が「知恵ある者や賢い者」に意地悪をして、彼らには見えないように隠しているかのようです。しかしそのようなことが言われているのではないでしょう。あるいは、世の人々というのは、「知恵ある者や賢い者」と「幼子のような者」に分けられ、世の中では価値があると思われている「知恵ある者や賢い者」は、神様の眼差しにおいては価値がなく、世の中では価値がないと思われている「幼子のような者」は、神様の眼差しにおいては価値がある。だから「知恵ある者や賢い者」になるのではなく「幼子のような者」になりなさい。そうすれば神様は隠されているものを示してくださる、と言われているのでもありません。ここで主イエスは「知恵ある者や賢い者」を否定されているわけではないのです。
知恵ある者や賢い者に隠されているとは、自分の知恵や賢さに頼っては知ることができない、ということです。私たちの多くは自分が「知恵ある者や賢い者」であるとは思っていません。ですから「知恵ある者や賢い者」には隠されていると言われても、自分には関係がないように思えます。しかし実際は、私たちは誰もがなんらかの知識を持っているし、経験から身につけたなんらかの知恵も持っています。もちろんこのことは悪いことではありません。私たちは自分が持っている知識や知恵を積極的に用いていったら良いのです。しかし自分の知識や知恵を頼みとしても、決して知ることができないことがあります。今、分からなくても、知識や知恵が増せば分かるようになるということではなく、自分の知識や知恵によっては決して分からないことがあるのです。私たちはしばしばこのことを弁えることができません。自分の知識や知恵によって、つまり自分の力でなんでも知ることができると勘違いしてしまうのです。「賢者」と呼ばれるような特別な人だけがそうなのではなく、ほかならぬ私たちが、日々そのような勘違いを繰り返しているのです。
未熟な者
それに対して「幼子のような者にお示しになりました」と言われています。神様は「幼子のような者」に、隠されていたものの覆いを取り除いて、ひらき示してくださるのです。「幼子のような者」とは、幼子のように純真無垢で罪のない者という意味ではありません。そもそも幼子をそのように捉えるのは正しくないでしょう。この「幼子のような者」と訳されている言葉は、別の箇所では「未熟な者」と訳されています。「未熟」とは、弱さがあり欠けがあるということであり、「幼子のような者」とは、自分の未熟さ、弱さや欠けのゆえに神様の助けを必要とし、神様が示してくださるのを必要としている人のことなのです。それは、ほかの人と比べた未熟さではありません。ほかの人と比べて自分は未熟で、弱さや欠けがあると自分を低く見たり、低くしたりするのではないのです。そうではなく神様の前で自分を低くするのです。ただ神様の前で、自分の未熟さ、弱さや欠けのゆえに、「神様どうか助けてください、どうか示してください」と求めるのです。
救いに関すること
さらに私たちが目を向けるべき大切なことがあります。それは、「知恵ある者や賢い者」には隠されていて、「幼子のような者」には示されている、と言われているのは、「あらゆること」についてではないということです。「あらゆること」ではなく「これらのこと」と言われています。「これらのこと」とは、すぐ直前で語られていたことに目を向けるならば、「あなたがたの名が天に書き記されていること」です。つまり神の一方的な恵みによって私たちが救われ、私たちの名がすでに天に書き記され、終わりの日の復活と永遠の命の確かな約束が与えられていることです。もう少し大きな文脈に目を向けるならば、すでに神の国が私たちのところに到来し、神のご支配が始まっていることです。いずれにしても「これらのこと」とは救いに関することであり、言い換えるならば、私たちを救おうという神の御心と、その救いのみ業のことにほかならないのです。ですからたとえば科学について、「知恵ある者や賢い者」には隠されていて「幼子のような者」に示されている、と言われているのではありません。科学について知ろうとするなら、自分で勉強して知識を増やしていくしかないと思います。しかし救いについては、救いに関わる神の御心とみ業については、そのように勉強して得た知識や、蓄えた経験による知恵によって知ることはできないのです。私たちは自分の力によって救いについて知ることができるのではなく、神様が一方的に示してくださることによって知ることができるのです。
救いについて、自分の知識や知恵、経験により頼んで知ろうとする人は、神様の前に自分を低くすることがありません。自分の力でなんとかできると思っている人は、神様の助けを、神様が示してくださるのを求めることはないのです。そのような人には、救いは隠されたままです。しかし救いについて、自分の知識や知恵、経験を頼みとせず、むしろ自分の未熟さ、弱さや欠けのゆえに神様の前にへりくだり、神様の助けを求め、神様が示してくださるのを求める人には、神様は隠れていた救いについて、その覆いを取り除いてくださり、ひらき示してくださるのです。「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」とは、このことを見つめているのです。主イエスが「そうです、父よ、これは御心に適うことでした」と言われているように、自分の力によって知ろうとする人には救いのみ心とみ業が隠され、神様が示してくださることを求める人には示されるのは、神様のみ心に適うことなのです。
父と子の親しい交わり
22節で主イエスはこのように言われています。「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」。ここでは父なる神と子なる主イエスの親しい交わりが見つめられています。先ほど、父なる神が主イエスに「あなたはわたしの愛する子」と呼びかけ、主イエスが父なる神に「父よ」と呼びかけている、と申しました。しかしただ「子よ」、「父よ」と呼びかけ合っているだけではありません。父なる神から子なるイエスに、すべてのことは任されているのであり、父なる神のほかに子なるイエスがどういう者であるかを知る者はなく、子なるイエスのほかに父なる神がどういう者であるかを知る者はいないのです。「父なる神がどういう者であるかを知る」とは、父なる神のみ心を知るということでしょう。主イエスは、「父よ」、「子よ」と呼びかけ合う父なる神との親しく豊かな交わりの中で、父なる神のみ心を示されながら歩まれたのです。
子が示そうと思う者
しかし父なる神とその独り子であるイエスの親しい交わりは、父なる神と主イエスの間だけで完結してしまっているのではありません。父なる神と子なるイエスの交わりは閉じられてしまっているわけではないのです。主イエスは「父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」と言われます。本来、父なる神を知る者は、神の独り子であるイエスだけです。しかし主イエスは、ご自分が示そうと思う者は、父なる神を知ることができる、と言われているのです。「示そうと思う」というのは、主イエスが漠然と「思った」ということではありません。この「思う」という言葉は、「計画する」とか「意図する」という意味の言葉であり、主イエスが示そうと計画する者は、あるいは主イエスが示そうと意図する者は、父なる神を知ることができるということなのです。
主イエスによらなければ神を知ることはできない
幼子のような者、つまり救いについて自分の知識や知恵、経験を頼みとせず、むしろ自分の未熟さ、弱さや欠けのゆえに神様の前にへりくだり、神様の助けを求め、神様が示してくださるのを求める者に、神様は救いについて示してくださる、と言われていました。しかしどのようにして神様は救いについて示してくださるのでしょうか。それは、主イエスによってです。主イエスによって救いは示されるのです。私たちは主イエスのほかに、いかなるものによっても救いを知ることができません。それは裏返せば、主イエスが示そうと思う者に、父なる神が知らされ、その救いのみ心とみ業が示されるということです。「子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」とは、主イエスによらなければ、主イエスが示そうと計画する者でなければ、だれも父なる神を知ることはできないということであり、父なる神の救いのみ心とみ業を知ることはできないということなのです。
父なる神を知る者
このように言われると、自分は父なる神を知る者にはなれないのではないかと不安に思うかもしれません。主イエスが示そうと計画する者に、自分は含まれていないかもしれないと不安になるのです。しかし私たちはすでにそのような不安から解放されています。なぜなら神の独り子イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちはすでに救われ、神の子とされているからです。父なる神と独り子キリストの親しい交わりの中に、私たちもすでに入れられているのです。救いに与り、主イエスに結ばれることによって、私たちも神様から「わたしの愛する子」と呼びかけられ、私たちも神様に「父よ」と呼びかけることができます。「子よ」と呼びかけられ「父よ」と呼びかける親しい交わりの中で、私たちは父なる神のみ心を知らされつつ歩んでいるのです。私たちは神の独り子キリストに結ばれ、神の子とされることによって「父なる神を知る者」とされたのです。
そのように父なる神との親しい交わりに入れられても、なお私たちは神様よりも自分の知識や知恵、賢さにより頼もうとしてしまいます。自分の力で救いのみ心とみ業を知ることができるかのように、救いを手に入れられるかのように勘違いしてしまうのです。そのようなとき私たちは、主イエス・キリストに目を向けなくてはなりません。私たちのために十字架で死んでくださったキリストに目を向けることによって、私たちは自分の罪を示され、自分の欠けや弱さに気づかされるからです。神様の前にへりくだり、「神様どうか助けてください、どうかみ心を示してください」と願い求めることへと導かれるのです。父なる神は、その救いのみ心とみ業を、独り子キリストにおいてこそ、独り子キリストにおいてのみ示してくださいます。だからこそ私たちは主イエス・キリストを見つめ続けるのです。
救いを見て、聞いて
主イエスは弟子たちに「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ」と言われました。「あなたがたの目(つまり、弟子たちの目)は見ているから幸いだ」と言われたのではありません。そうであるなら、当時の主イエスの弟子たちは見ているから幸いだ、ということになります。しかし「弟子たちの見ているものを見る目」を持っている人は「幸い」である、と言われているのです。時代や場所を超えて、父なる神の救いのみ心やみ業を見る目を持っている人が「幸い」なのです。それは、主イエス・キリストの十字架と復活において示された、神の救いのみ心とみ業を見る者が「幸い」である、ということにほかなりません。旧約の時代の「多くの預言者や王たち」が願っても見ることも聞くこともできなかったこの救いを、今、私たちは見て、聞いて、味わい体験しています。救いにまったくふさわしくないにもかかわらず、父なる神は、独り子イエスによって私たち一人ひとりを、救いを見聞きする者としてくださったのです。私たちは主イエスによる救いを見て、聞いて、味わい体験する中で、父なる神との豊かで親しい交わりを与えられ、父なる神が私たち一人ひとりをどこまでも大切にしてくださり、愛してくださっていることをより広く、より深く知っていくのです。私たちは神の独り子イエスの十字架と復活によって救われ、主イエスに結ばれて神の子とされ、父なる神を知る者とされて歩んでいるのです。