「エルサレムへ」 副牧師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:詩編 第55章23節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第9章51-62節
・ 讃美歌:
新しい局面へ
ルカによる福音書はいくつかの大きなまとまりに分けられます。4章(14節)から9章50節までが一つのまとまりで、そこでは主イエスのガリラヤにおける伝道が語られていました。私たちは先週まで、この部分を読み進めてきました。そこで見てきたように、ガリラヤ伝道において主イエスと弟子たちはガリラヤのあちらこちらを巡って、福音を告げ知らせ、病気を癒したのです。また19章(28節)から23章(復活顕現を含めるなら24章)までが一つのまとまりで、そこでは主イエスがエルサレムに入ってから一週間の歩み、つまり「受難週」の歩みが語られています。その間に挟まれた9章51節から19章27節までがもう一つのまとまりで、そこでは主イエスがガリラヤからエルサレムに向かう旅の途上における出来事が語られています。私たちは本日から、この部分を読み始めようとしています。ルカによる福音書は本日の箇所から新しい局面へと進んでいくのです。
天に上げられる日が満ちたので
その冒頭51節に「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあります。「天に上げられる時期が近づくと」と訳されていますが、聖書協会共同訳のように「天に上げられる日が満ちたので」と訳すと原文のニュアンスがよく伝わると思います。コップに水が満たされていくように、天に上げられる時に向かって、一日一日、日が満たされていっているのです。ここで「天に上げられる」とは、単に主イエスの復活と昇天だけを見つめているのではありません。主イエスが苦しみを受け、十字架で死なれ、三日目に復活し、そして天に上げられる、その全体を見つめています。9章22節で主イエスは弟子たちに「人の子は必ず多くの苦しみを受け…殺され、三日目に復活することになっている」と言われました。「必ず…なっている」は、神様のみ心、神様のご計画であることを示しています。神様のご計画の実現に向かって、一日一日、日が満たされていくのです。エルサレムへの旅は、神様のご計画に従って、十字架と復活、その昇天に向けて、日が満たされていく歩みなのです。とはいえ「日が満たされていく」のを感じていたのは主イエスだけであり、弟子たちにそのような意識はありませんでした。ただ主イエスだけが、父なら神がお定めになった時に向けて日が満たされていくのを感じつつ、「エルサレムに向かう決意を固められた」のです。
エルサレムへ
この「エルサレムに向かう決意を固められた」の「決意を固めた」は、原文を直訳すると「(彼の)顔を固定した」となります。とても興味深い表現だと思います。また52節の「先に使いの者を出された」も直訳すると「彼(=イエス)の顔の先に(前に)使いの者を送った」となり、「顔」という言葉が使われています。さらに53節で「イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである」と言われていますが、原文を直訳すると「彼(=イエス)の顔がエルサレムへと進んでいたからである」となり、ここでも「顔」という言葉が使われています。つまりこのように言われていることになります。「主イエスはエルサレムに向けてご自分の顔を固定された。そしてご自分の顔(が進んでいく)前に使者を遣わした。しかし歓迎されなかった。なぜなら主イエスの顔がエルサレムへと進んでいたからである」。「天に上げられる時期が近づいたので(天に上げられる日が満ちたので)」主イエスがご自分の顔をエルサレムに固定され、その主イエスの顔がエルサレムへ進んでいくとは、ほかならぬ主イエスご自身がエルサレムをしっかりと見据えて、エルサレムへと進んで行くということです。「顔」は新約聖書が書かれたギリシャ語でプロソーポンと言いますが、これが英語でパーソンとなりました。パーソン、つまり人格です。主イエスは全人格を賭けて、全身全霊を賭してエルサレムへと進まれます。エルサレムで成し遂げられる神様のご計画を見据え、その実現に向かって、一日一日、日が満たされていく中で、エルサレムへと旅をされたのです。弟子たちにはこの主イエスの決意が分かりませんでした。弟子たちだけではありません。私たちも分からないのです。本日の説教題は「エルサレムへ」としました。ルカによる福音書の物語は大きな転換点を迎え、いよいよ主イエスが「エルサレムへ」と歩み始められる。そのことを見つめた説教題です。しかしそれは、テレビドラマの第○話のタイトルのようなものではありません。私たちは主イエスがエルサレムへ向かわれるのを他人事のように傍観しているわけにはいきません。なぜならこの主イエスの決意は私たちのための決意でもあるからです。主イエスは私たちの救いのためにエルサレムへ進まれます。十字架に架けられ殺されるために進まれるのです。私たちはこの主イエスの決意がなかなか分かりませんが、それでも弟子たちと同じようにエルサレムへ進まれる主イエスについていきたい、従っていきたいのです。本日の箇所から19章までルカ福音書を読み進めていくとは、そういうことなのではないでしょうか。エルサレムへ進まれる主イエスの決意が分からないままに、しかしそれでも私たちはその主イエスに従っていくのです。
ユダヤ人とサマリア人の確執
さて52-53節で語られているのは、エルサレムへの旅を始めた主イエスたちが、あるサマリア人の村に入ろうとしたけれど、その村の人たちから歓迎されなかった、拒まれたということです。しかしそれは、主イエスだから拒まれたということではなく、主イエスたちがユダヤ人だから拒まれたのです。この出来事の背景には、ユダヤ人とサマリア人の深い確執があります。簡単にその歴史的背景を見ておきます。旧約の時代まで遡りますが、ソロモン王の死後、イスラエル王国は北王国イスラエルと南王国ユダに分裂しました。エルサレムが南王国の首都であったのに対し、サマリアは北王国の首都でした。ところが紀元前8世紀に、北王国イスラエルは大国アッシリアによって滅ぼされます。アッシリア王がサマリアに攻め上り、三年間サマリアを包囲し、ついに占領した、と列王記下17章には記されています。アッシリア王は、北王国イスラエルの人たちを捕らえてアッシリアに連れていきました。それだけでなく、アッシリアの各地から色々な国の人たちをサマリアに強制移住させたのです。サマリアに残った人たちと強制移住させられた外国人との間に生まれた人たちが、後の「サマリア人」と考えられています。彼ら自身は自分たちが北王国イスラエルの生き残りの子孫であり、ユダヤ人であると考えていました。しかしバビロン捕囚から帰還した南王国ユダの子孫は、彼らをユダヤ人とは見なさず外国人の子孫と見なしました。このようにしてユダヤ人とサマリア人は決裂し、また対立していくことになります。ユダヤ人にとって、サマリア人はユダヤとガリラヤの間に暮らす、自分たちとは民族的にも宗教的にも異なる人たちだったのです。ユダヤ人がエルサレム神殿で礼拝をしていたのに対して、サマリア人はゲリジム山に神殿を建てて、そこで礼拝をしていました。このような歴史的背景を踏まえるならば、ユダヤ人と敵対していたサマリア人が主イエスたちを歓迎せず、拒んだのも当然のことでした。「イエスがエルサレムを目指して進んでおられたから」「歓迎しなかった」というのは、自分たちの認めていないエルサレム神殿に向かっている主イエスとその一行を拒んだということなのです。
主イエスを拒む人に対して
ルカによる福音書では、この後にもサマリア人が登場する箇所があります。そこではサマリア人の振る舞いに目が向けられていますが、本日の箇所ではサマリア人が主イエスを歓迎しなかったことよりも、むしろ主イエスを拒んだサマリア人に対する弟子たちの反応に注目しています。54節で、サマリア人の態度を見た弟子のヤコブとヨハネがこのように言っています。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」。ヤコブとヨハネはゼベダイの子であり、シモン・ペトロの漁師仲間でしたが、ペトロと一緒に主イエスの弟子となりました。ルカによる福音書にはありませんが、マルコ福音書には、「ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち『雷の子ら』という名」(3章17節)を主イエスが付けられた、と語られています。「雷の子ら」という名から思い浮かぶように、彼らは、ピカッ、ドッカーンというような性格、短気で怒りっぽい性格であったのかもしれません。このときの二人の言葉からもそのような性格が窺えますが、それ以上に彼らは旧約聖書列王記に登場する預言者エリヤを意識してこのように言ったのだと思います。実際、いくつかの写本では、「エリヤも行ったように、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」となっています。列王記下1章9節以下には、王によってエリヤのもとに遣わされた五十人隊の長とその部下五十人が、天から降った火で焼き滅ぼされたことが語られています。10節にこのようにあります。「エリヤは五十人隊の長に答えて、『わたしが神の人であれば、天から火が降って来て、あなたと五十人の部下を焼き尽くすだろう』と言った。すると、天から火が降って来て、隊長と五十人の部下を焼き尽くした」。列王記下1章はこのような出来事が二回繰り返されたことを語っています。主なる神ではなく異教の神に頼ろうとした王に、エリヤは主から託された裁きの言葉を告げようとしました。そのために王によって五十人隊を送られましたが、天からの火によってその五十人隊を焼き滅ぼしたのです。ヤコブとヨハネは、このエリヤの出来事を意識していました。すでにお話ししたように、この二人はペトロと共に、山の上で栄光に輝く主イエスがモーセとエリヤと語り合っているのを目撃しました。二人は自分たちが特別な出来事に立ち会ったという思いが強かったと思います。この特別な経験が、彼らを高ぶらせていた、高慢にしていたのではないでしょうか。前回お読みした箇所でも、ヨハネは「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました」と言っていました。主イエスと共に旅をしている自分たちだけが特別だ、という思いからこのように言ったのです。この言葉にも彼の高ぶり、高慢が表れています。ヤコブとヨハネは、まるで自分たちがエリヤであるかのように思っていたのです。エリヤが天から火を降らせて主なる神に敵対する者たちを焼き滅ぼしたように、自分たちも主イエスを拒んだサマリア人を天から火を降らせて焼き滅ぼしてやろう、と思ったのです。
主イエスを拒む人たちを救うために
しかし主イエスはヤコブとヨハネの方に振り向くと、二人を戒められました。ヤコブとヨハネは、主イエスがエルサレムに向かう決意を固められ、エルサレムへ向かって歩み始められたことの意味がまったく分かっていなかったのです。ある写本では55節に、ヤコブとヨハネに対する主イエスのこのような言葉が加えられています。「あなたがたは、自分たちがどんな精神でいるのかが分かっていない。人の子は、人々の命を滅ぼすためではなく、救うために来たのである」。主イエスがエルサレムへ向かって進んで行かれるのは、主イエスを拒む人たちの命を滅ぼすためではなく救うためです。サマリア人だけが主イエスを拒んだのではありません。自分たちは特別だと思い、威勢のいいことを言っていたヤコブとヨハネも、十字架を前にして主イエスを拒み、見捨てて逃げ出しました。彼らだけでなくほかならぬ私たちも主イエスを迎え入れ、主イエスに従うより、しばしば主イエスを拒んで、自己中心的に歩んでしまいます。私たちこそ神様の怒りによって天からの火で滅ぼされても仕方がない者なのです。しかし主イエスは神様に背いて生きている私たちの代わりに、神様の怒りをすべて負って十字架に架かって死んでくださり、私たちを救ってくださいました。今、主イエスは、私たちの救いのためにエルサレムへ進んで行かれます。十字架に架けられ殺されるために進んで行かれるのです。「振り向いて二人を戒められた」と言われています。おそらく主イエスが先頭を歩まれ、その後ろから弟子たちがついて来ているのです。主イエスは先頭に立って決然とエルサレムへ、十字架に向かって進んで行かれるのです。
この地上に枕する所がない歩み
主イエスと一行がエルサレムに向かって進んで行く中で、57-62節では、名前の記されていない三人の人物が登場します。第一の人物は、自分から主イエスにこのように言いました。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」。それに対して主イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われました。狐にとっての穴、空の鳥にとっての巣は、住まいです。帰る場所であり、休める場所、安らげる場所です。しかし人の子には、つまり主イエスには「枕する所」もない、と言われます。それは、単に住む家がないということではなく、安心できる場所、安らげる場所がないということです。別の言い方をすれば、この地上に居場所がないということなのです。この地上に来てくださり、私たちと同じ人となってくださった神の独り子である主イエスは、この地上に居場所がありません。確かに十二人の弟子たちを中心に多くの弟子たちが主イエスと一緒にいます。大勢の群衆が主イエスのところに来ることもあります。傍から見たら、主イエスは弟子たちを引き連れ、大勢の群衆に囲まれながらエルサレムへ進んで行っています。しかし弟子たちも群衆も、主イエスが十字架で死なれるためにエルサレムへ向かっていることを理解できなかったし、受け入れられませんでした。だからエルサレムへ向かう主イエスの歩みは孤独な歩みであり、そこには安心できる場所、安らげる場所はないのです。第一の人物は、エルサレムへ向かって進んで行かれる主イエスに、主イエスが行く所ならどこでも従う、と言いました。それは、主イエスの受難の歩みに従うということです。どれほど多くの人に囲まれていようとも、誰にも理解されず、受け入れられず、十字架へと追いやられていく歩みに、この地上に「枕する所」がない歩みに従うということなのです。
最も大切なこと
第二の人物は、主イエスの方から「わたしに従いなさい」と招かれました。するとその人は「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言いました。この時、おそらくこの人の父親は亡くなったばかりか、あるいは今まさに亡くなろうとしていたのだと思います。私たちはこの人の気持ちに共感を覚えますが、しかしこの人にとって父親を葬るというのは、そのような感情的な問題だけではありませんでした。なぜならユダヤ教において、父親を葬ることは子どもにとって最も大切な義務であったからです。ユダヤ教にはほかにも色々な義務がありますが、父親を葬るためには、それらの義務を守らなくても良かったのです。それほど父親を葬ることは最も優先しなくてはならない義務だったのです。ですからこの人は、「まず、父を葬るという自分の義務を果たさせてください」と言っているのです。それに対して主イエスは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われました。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」という主イエスの言葉が何を意味しているのかよく分かりません。「死者の葬りのことまで心配することはない」という意味かもしれません。色々な解釈があるようですが、いずれにしろ大切なことは、主イエスがユダヤ教において最も大切な義務を果たすことよりも、主イエスに従うことを求められたということです。主イエスは「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われます。「ほかならぬあなたは行って、神の国を言い広めなさい」と訳せるお言葉です。ユダヤ教で最も大切な義務を果たすことより、「行って、神の国を言い広める」ことこそ、ほかならぬあなたにとって最も大切なことであり、第一に考えるべきことである、と言われているのです。
第三の人物はこのように言いました。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」。この人は、主イエスに従うけれど、その前に「家族に別れを告げに行きたい」と言ったのです。それに対して主イエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われました。「鋤に手をかけてから」、つまり主イエスに従い、その働きを担い始めてから、家族のことを振り返ってはならない、ということです。それは、神の国のために仕えていくのにふさわしくないのです。
私たちは、第二、第三の人物に対する主イエスのお言葉から、主イエスに従うためには家や家族を捨てなくてはならないと思いがちです。しかし主イエスは、「主イエスに従って一緒に行きたい」と言った人に、「自分の家に帰りなさい」と言われる方でもあります。自分の家に帰って、神様が自分にしてくださったことを証しする。そういう形で主イエスに従い、主イエスの働きを共に担いなさいと言われる方でもあるのです。ですからここでは、家や家族を捨てて主イエスに従うことの大切さが見つめられているのではありません。もちろん主イエスに従う中でそのようなことがないとは限りません。しかしそれよりも、エルサレムへと、十字架へと進まれる主イエスに従うことを第一にすることが見つめられているのです。最も大切なことは、「行って、神の国を言い広め」、「鋤に手をかけたら」、後ろを振り返らずにまっすぐに進むことなのです。
主イエスが共にいてくださる歩み
この三人の人物が、この後、どのように歩んだのかは何も語られていません。どう歩むのかは、この箇所を読む読み手に、つまり私たちに委ねられているのです。そう言われても、私たちは主イエスが言われるようにはとてもできないと思います。私たちは、この地上に「枕する所」がない主イエスの歩みに自分の力で従えるわけではありません。努力や頑張りによって、家や家族のことよりも主イエスに仕えることを第一にすることができるわけでもありません。しかしそのような私たちに、共に読まれた旧約聖書詩編55編23節のみ言葉が与えられています。「あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる」。主イエスに従う歩みは、私たちが頑張って主イエスについていく歩みではありません。むしろ主イエスに従う歩みは、主イエスが共にいてくださり、私たちの重荷を担ってくださり、支えてくださる歩みなのです。主イエスに従う歩みにこそ、主イエスが共にいてくださる歩みにこそ、揺るがない支えがあり、本当の安心と安らぎがあります。家や家族との関係も、主イエスに従うことを第一にする中でこそ整えられていくのです。だから私たちはエルサレムへ進まれる主イエスについていきます。主イエスの決意が分からなくても、私たちは十字架へと進まれる主イエスに従っていくのです。