夕礼拝

もう裁かない

「もう裁かない」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:エレミヤ書 第17章9-13節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第6章37-42節
・ 讃美歌:313、542

憐れみ深い者となりなさい  
 本日の聖書箇所はルカによる福音書第6章37~42節です。新共同訳聖書には「人を裁くな」という小見出しが記されています。この小見出しは一方ではとても便利で、本日の箇所であれば「人を裁くな」ということについて書かれていることがすぐ分かりますし、ただ文章がずらずらと続くよりまとまりごとに小見出しが付いていたほうが読みやすいということもあります。しかし他方では聖書を読むときにこの小見出しが妨げになることがあります。ギリシャ語で書かれた元々の聖書には小見出しはありません。それこそずらずらと文章が続いています。つまりこの小見出しは翻訳者があるまとまりを定めて、そこに説明として付け加えたものなのです。この小見出しがあることによって本日の箇所の直前の36節と37節の間には区切りがあるように読めてしまいます。36節の終わりにカギ括弧があり、37節の初めに改めてカギ括弧があるため、主イエスは36節まで語られた後、一呼吸置いて、改めて37節から語り始めたように読めるのです。そのように読むと36節と37節のつながりが見えにくくなりますが、むしろ36節と37節は続いていると考えたほうが自然かもしれません。口語訳聖書はそもそも小見出しがありませんが、それだけでなく36節と37節の間に改行を入れずに続けて記しています。小見出しがあることによって私たちは区切りがあるという先入観を持ってしまいがちですが、ここでは小見出しに妨げられずに読むほうが、主イエスがお語りくださっていることがより分かるのです。  
 36節にはこのようにありました。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」この主イエスのお言葉は、27節から35節で語られていた教えの結びの言葉でした。「敵を愛する」ということは、また31節にある「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」ということは、父なる神さまが憐れみ深いように私たちも憐れみ深い者となることなのです。それと同時に、この言葉は本日の箇所の37、38節を導く言葉でもあるのです。ですから「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」という主イエスのお言葉は、35節までと37節以下を橋渡しする言葉であり、その結びつきの中で、本日与えられたみ言葉を読み進めて行きたいのです。

人を裁くな  
 37、38節の前半には「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」とあります。ここで語られているのが「憐れみ深い者」です。父なる神さまが憐れみ深いように、私たちも憐れみ深い者となるとは、人を裁かず、罪人だと決めることなく、赦し、与える者となることなのです。ここでイエスさまは第一に「してはならい」と、二つの消極的な命令を命じています。「裁く」は元々の言葉ではクリノーであり、それが英語のcriticize「批評する、批判する」となりました。この言葉は正しい判断についても使われ、7・41節以下では、あるとき主イエスがシモンに「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」と話されました。するとシモンは「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答え、それに対してイエスは「そのとおりだ」とお答えになったとあります。この「そのとおりだ」が「裁く」という言葉であり「正しく判断した」という意味なのです。しかし主イエスが「人を裁くな」と言われるとき、それは「人を正しく判断しなさい」ということではありません。それは「人を裁くな」に続けて「人を罪人だと決めるな」と言われていることからも分かります。「人を罪人だと決める」という言葉は、新約聖書ではほとんど使われていませんが、「人を裁くな」に続けて「人を罪人だと決めるな」と語ることで、人を裁くとは人を罪人だと決めることだと告げているのです。平たく言えば、人を裁くとは、あの人は罪人だけど、あの人は罪人でないというようなことです。「裁く」という言葉は「批判する」「批評する」という英語の言葉になりましたが、健全な批判や批評は社会のチェック機能を果たすためにも大切なことでしょう。しかしそれが、誰かを一方的に悪者にしたり、罪に定めたり、さらには裁いたりするのであれば、「人を裁くな」という主イエスのお言葉はそのことを戒めているのです。

なぜ裁くのか  
 「人を裁くな」「人を罪人だと決めるな」と主イエスは言われます。しかし裁くことが裁判で判決をくだすことであり、罪人だと決めることが有罪の判決をくだすことであるならば、多くの人にとってこの主イエスのお言葉は関わりがないことになります。けれども「裁く」ということは私たちにとってもっと身近で、日常的なことなのではないでしょうか。それは、言葉を換えるならば、「レッテルを貼る」ことであったり「優劣を決める」ことであったりするのです。私たちはなぜレッテルを貼ろうとするのでしょうか。多くの人は相手のことを知りたいと思います。親しくなればなるほどもっと相手のことを知りたいと思うのです。しかしたとえどんなに親しかったとしても相手のことを完全に知ることはできません。それでもそのようなお互いの関係に喜びを感じられるなら幸いです。これからの関係においても相手の新たな一面に気づいてくことができるからです。しかし親しいのだから相手を知り尽くしたいと思うならば、相手にレッテルを貼るしかありません。レッテルを貼るというのは、人のタイプが幾つかあって、この人はこのタイプ、あの人はあのタイプにあてはまると判断することです。時には私たちは専門家でもないのに、世間で言われていることを鵜呑みにして、まるで専門家のように判断してみせたりするのです。その判断こそ、人を裁くことにほかなりません。  
 少し話が逸れるように思えるかもしれませんが、旧約聖書に詩編という書物があります。その詩編の研究において、少し前まで主流であったのは、それぞれの詩編がどのタイプの詩編にあてはまるかということでした。確かに詩編は「嘆きの詩編」や「信頼の詩編」や「賛美の詩編」などと呼ばれるタイプに分けることができ、それぞれの詩編がどのタイプであるかを見分けることによって、その詩編を理解することができました。しかしすべての詩編が必ずしもどれかのタイプにあてはまるとは限らないのです。どのタイプにも当てはまらない詩編もあれば、二つ、あるいはそれ以上のタイプに当てはまる詩編もあります。つまり、150ある詩編をタイプで分類するのは限界があるし、それで一つ一つの詩編のことが本当によく分かるわけではないのです。どのタイプに当てはまるかは、その詩編を理解する材料の一つに過ぎません。  
 一つ一つの詩編がそうであるならば、一人ひとりの人間はもっと分類などできないはずです。私たちの周りでは、タイプに分けて人を理解した気になる、ということが溢れています。血液型や星座や干支など取るに足らないことから、時には病名ですらレッテルとなってしまうことがあります。新型ウイルスの感染が拡大している現在、検査の必要が強く訴えられています。検査とそれに基づく病名の診断は、現代の医療において欠かすことの出来ないことであり、そのような医療が行われているからこそ私たちは安心して治療を受けることができます。しかし勘違いしてはならないのは、私たちは医者と患者として教会で出会うわけではないということです。医療において、診断名は非常に大きなウエイトを占めるでしょう。しかし人と人との関係において、相手の病名は、相手を理解することを助けるかもしれませんが、そのことによって相手にレッテルを貼って、理解した気になったり、判断したりすることは裁くことなのです。たとえ同じ病名であったとしても、一人ひとりは同じなのではなりません。そしてそれは相手と関わりを持ってみなければ分からないのです。  
 「レッテルを貼る」だけでなく、私たちはしばしば「優劣を決める」ことによって「人を裁く」ことがあります。ここで、私たちには優劣などないと、一人ひとりかけがえのない存在だと、言うのは綺麗ごとに過ぎるでしょう。神さまにとって、一人ひとりがかけがえのない存在であることは間違いありません。しかしそれでも「私たちには優劣などない」というのは慰めに満ちた言葉でしょうか。日々の歩みの中で望んでいなくても優劣を競わされ、その優劣によって評価されている私たちにとって、それは慰めの言葉どころか現実を知らない言葉だと思わざるをえないのではないでしょうか。確かにある科目について、あるいはある能力について優劣を決めることはあるし、それは必ずしも悪いことはではありません。そのことによって向上心が生まれ、ある分野に関してより優れた能力が用いられるということがあって良いからです。しかし、そのことによってだけ相手を理解した気でいるとすれば、優劣によって人を判断し、裁いていることにほかなりません。個々のことについて優劣を判断することはできます。けれども勘違いしてはいけないのは、一人ひとりの人間の優劣を決めることはできないし、判断することもできないのです。

赦しなさい  
 イエスさまは第二に「しなくてはならない」ことを命じておられます。「人を裁くな」「人を罪人だと決めるな」が消極的な二つの命令であるとすれば、「赦しなさい」「与えなさい」は積極的な二つの命令であるといえます。ここで誰を「赦しなさい」とかどんな人を「赦しなさい」とか、あるいは誰に「与えなさい」とかどんな人に「与えなさい」とか記されているわけではありません。あらゆる人を赦し、あらゆる人に与えなさいと教えられているのです。それは、そうすることによって、終わりの日に自分の救いを確実に手に入れられるからでも、あるいは終わりの日に多くのものを与えられるからでもありません。ここでも、本日の箇所の前、35節のみ言葉に目を向けたいと思います。このようにあります。「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」つまり、あらゆる人を赦し、あらゆる人に与えるのは、そうすることによって見返りがあるからではなく、いと高き方、つまり主なる神さまが情け深いからであり、父なる神さまのように憐れみ深い者となるとは、そのように情け深くなることでもあるからです。

神の恵みの行為  
 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない」と主イエスは言われます。これは、「あなたがたは人を裁くな。そうすれば、あなたがたもほかの人から裁かれることがない」ということなのでしょうか。つまり、人と人との関係の話で、ほかの人に裁かれたくないなら人を裁くな、という教えなのでしょうか。罪人だと決めないのも、自分が罪人だと決められたくないためだし、赦すのも与えるのも、自分が赦され与えられためなのでしょうか。この箇所の導入36節に「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とありました。この「憐れみ深い」という言葉は、ギリシャ語の旧約聖書で神さまのご性質を表す言葉です。出エジプト記第34章6、7節で、主なる神さまがご自身のお名前をこのように宣言されました。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及び慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」あるいはこのことを詩編第103編8節は簡潔に「主は憐れみ深く、恵みに富み 忍耐強く、慈しみは大きい」と述べています。このようにこの言葉は、ほとんどの場合神さまの「憐れみ深さ」に対して用いられるのであって、人に対して用いられることはほとんどありません。そうであるならば、私たちが憐れみ深い者となるために、人を裁かず、罪人だと決めることなく、赦し、与えるなど不可能なことではないでしょうか。それは神さまのご性質であり私たちのあり方とはかけ離れているからです。まさにその通りです。私たちは人を裁いてしまう者であり、罪人だと決めつけてしまう者であり、赦せない者であり、与えられない者なのです。裁きも赦しも私たちにできることなどではなく、主なる神さまのみがお出来になることです。主イエスは「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない」と言われました。それは、「あなたがたは人を裁くな。そうすれば、ほかの人からあなたがたも裁かれることがない」という意味ではありません。そうではなく「あなたがたは人を裁くな。そうすれば、主なる神さまはあなたがたを裁かれることがない」という意味なのです。人を裁くことができるのは神さまただお一人です。私たちはしばしばそのことを忘れてしまいます。批評したり批判したりしてほかの人を裁くならば、私たちは自分を神とすることになるのです。  
 同じように私たちはすべての人どころかたった一人すら赦すことができません。すべての人に与えるどころかたった一人にすら与えることができないのです。主なる神さまが独り子である主イエス・キリストを十字架に架けて死に渡されたことによってすべての人が救われ赦されました。罪の奴隷となり死に捕らわれていたすべての人に豊かな恵みと新しい命を与えられたのです。そのことが「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる」と語られているのです。主なる神さまが主イエス・キリストの十字架によって私たちのふところに入れてくださった恵みはそれほどのものなのです。

垂直と水平  
 39節冒頭に「イエスはまた、たとえを話された」とあります。口語訳聖書では、新共同訳聖書とは異なり38節と39節の間に改行があり、この言葉によって38節と39節の間に区切りがあると見なしているのでしよう。確かに38節までは主イエスの教えが語られ、39節からはたとえが語られていて、そこには区切りがあると見なすこともできるかもしれません。しかし主イエスの教えであれたとえであれ、聞き手が誰かということが大切です。それは、少し遡りますが27節に「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」という主イエスのお言葉があり、主イエスはこの教えとたとえを彼の言葉を真剣に聞き、その言葉に従い歩んでいこうとする人たちに向けて語られたのです。そこには十二人の弟子以外にも、ほかの一部の弟子たちや、民衆たちも含まれていたのではないでしょうか。なにより主イエスを信じ、主イエスに従って歩もうと、この主イエスのみ言葉に真剣に耳を傾けている私たちに語りかけているのです。そのように主イエスのお言葉に耳を傾けるならば、38節と39節の結びつきも見えてくるのです。38節までに語られていたのは、主なる神さまと私たちの関係、つまり垂直の関係です。私たちが人を裁いてはいけないのは、それが倫理的や道徳的であるというよりも、裁きは神さまのみ業だからです。人を罪人だと決めることも同じです。また私たちが人を赦すのも、それが倫理的であるからでも道徳的であるからでもありません。赦しは神さまのみ業です。神さまが裁かれるのだから、私たちは裁いてはならないのだし、神さまが赦されるのだから、私たちが赦さないことはあり得ないのです。裁きと赦しは神さまのみ業である、という土台の上に、39節からは人と人との関係、つまり水平の関係が語られているのです。神と人との垂直の関係なしに人と人との水平の関係はありません。それと同時に神と人との垂直の関係が人と人との水平の関係を生み出さないこともありえないのです。

盲人のたとえと弟子と師のたとえ  
 39節から42節の主イエスの三つのたとえは、必ずしも結びつきがはっきりしないところがあります。しかし38節までに語られてきた神と人との垂直の関係を土台として、人と人との関係について、特に弟子を代表とする教会の指導的立場にある人たちとそうではない人たちとの関係として捉えることができるのです。第一に主イエスは「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか」と言っています。ここで「盲人」とは、文字通り目の不自由な方を意味しているのではありません。そうではなく、裁きと赦しは神さまのみ業であるということが分かっていない人が「盲人」なのです。新共同訳聖書は「道案内」と訳していますが、素朴に訳せば「導く」という言葉です。裁きと赦しが神さまのみ業であることが分かっていないにもかかわらず、ほかの兄弟姉妹を導くのであれば、二人とも穴に落ち込むと言われているのです。ここで「穴」は、イザヤ書24章17、18節やエレミヤ書48章43、44節にあるように避けられない神さまの裁きをほのめかしています。自分を神とし、人を裁き、人を赦すことができると思っている人に導かれるならば、導く人も導かれる人も避けられない神の裁きを招くのです。さらに「盲人」とは、神さまの御心を実現するために必要な目標と道筋が見えていない人のことでもあります。神さまの御心を求めることなしに、聖霊の導きを求めることなしに、それを実現するために必要な目標が分かることはないし、ましてや道筋を立てられることもないのです。そのような人に導かれるのであれば、その共同体の結末は避けられない神の裁きを招くのではないでしょうか。  
 40節の「弟子は師にまさるものではない」という主イエスのお言葉は、弟子たちがほかの兄弟姉妹を導くための教えです。彼らは兄弟姉妹の上に立つのではなく、主イエスが裁かなかったように、弟子たちも兄弟姉妹を裁くことによって導くのではありません。それはなにより、彼ら自身が裁く者でも赦す者でもなく裁かれ赦された者だからにほかならないのです。「しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」とあります。これは「十分に修行を積めば」主イエスのようになれるというよりも、弟子たちに裁くことによってではなく導かれた兄弟姉妹は、その導いてくれた弟子たちのようになれるということです。そしてそれは主イエスに従い、倣う者となることにほかなりません。主イエスが裁かなかったから、弟子たちも兄弟姉妹を裁くことによってではなく導き、その兄弟姉妹も、次の世代を裁くことによってではなく導くのです。神と人との垂直の関係は、人と人との水平の関係へと広がっていくのです。

おが屑と丸太のたとえ  
 41、42節とおが屑と丸太のたとえが語られています。主イエスがお語りになっていることで大切なことは、最後の「そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」ということです。主イエスは兄弟の目にあるおが屑など気にする必要や取り除く必要はない、と言っているのではありません。「兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」とはっきり言っているのです。けれどもそれは、自分の目に丸太があると気づいているときだけです。自分の目にある丸太に気づこうとしないで、兄弟の目にあるおが屑に気づき、兄弟に向かって「さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください」と言うのは偽善にほかなりません。自分には間違いなどなく正しくて、裁くことも赦すこともできるという思いこそ偽善にほかなりません。「さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください」という言葉は、このことを表しています。主イエスが「兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」と言われるとき、それは自分の目の中にある丸太に気づくときです。自分が丸太によって、主イエスの教えやたとえを分からない者であり、神さまだけが人を裁き赦すことができるお方であることを忘れ、自分を神とし、人を裁き赦そうとする者であることに気づき、そのことを深く悔い改めるときだけです。しかし私たちは、しばしば自分の目の中にある丸太を見ようとはせずに、兄弟の目にあるおが屑ばかりに注目するのです。「さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください」という言葉は、自分が善いことをしているという思いに溢れた言葉です。けれども裁かれるしかなかったほかならぬ自分が神さまによって赦されたことに本当に気づくとき、つまり自分の目の中にある丸太を自覚するとき、兄弟の目にあるおが屑を裁くのではなく、神さまに赦された者として兄弟へと語りかけることができるのです。

もう裁かない  
 確かに、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができます。でもそれは、導く者がはっきり見えるようになったときだけです。はっきり見えるとは、自分の目から丸太を取り除くことであり、自分を神さまとし、自分が裁き赦そうとするのではなく、神さまを神さまとし、ただ神さまだけが裁くことも赦すこともできると信じることなのです。そのとき、兄弟の目にあるおが屑を取り除くのは裁きではありません。主イエスが裁くのではなく赦したように、弟子たちも、そして私たちも兄弟姉妹を裁くのではなく赦すことによって導くのです。裁かれるしかなかった私たちが赦された者として、兄弟姉妹を赦すのです。神と人との垂直の関係は、人と人との水平の関係へと広がっていきます。私たちはこの関係の中で「もう裁かない」とはっきりと宣言することができるのです。

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