「十二人を選ぶ」 伝道師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:詩編 第34編16-23節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第6章12-19節
・ 讃美歌:58、564
十字架の影
ルカによる福音書を読み進めてきました。本日の箇所の前半12節から16節までは4章14節から語られてきた一連の出来事の締めくくりであり、またその後半17節から19節までは20節から始まる主イエスの説教の導入と言えます。この前半と後半はばらばらではなく結びついていて、本日の箇所全体が、これまでとこれからの箇所の橋渡しとなっています。これまで主イエスは人々に教えを語り、病にある人たちを癒されてきました。そして主イエスが語るお言葉とそのみ業は人々に驚きを与え、そのことによって主イエスの噂は広まっていき、ますます多くの人たちがイエスのもとにやって来たのです。重い皮膚病を患っている人が癒されたとき、「イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た」と語られていましたし、中風を患っている人が癒されたとき、「人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、『今日、驚くべきことを見た』と言った」と語られていました。人々の主イエスの教えを聞きたいという思い、自分の病あるいは大切な人の病を癒してほしいという思いの高まりを感じ取ることができます。人里離れた所へ退かれた主イエスを人々が捜し回り、自分たちから離れないで欲しいと主イエスをしきりに引き止めたことも語られていました。主イエスを独り占めするなんて自分勝手だと言うのは簡単ですが、それほどまでに人々は主イエスと共にいたいと願っていたのです。主イエスのお言葉とみ業を求め、主イエスに対して好意を持つ人たちがますます起こされてきたのでした。
その一方で、主イエスに対して敵意を持つ人たちも現れてきました。主イエスの評判はエルサレムまで届いていましたが、評判というのは、それを肯定的に受けとめる人もいれば、半信半疑に受けとめる人もいます。イエスの教えや癒しの評判が聞こえてきたけれど、本当のところどれほどのものなのか確かめてみようとした人たちがいて、その代表格がファリサイ派の人たちや律法の教師たちであり、彼らも主イエスのところへやって来たのです。そして間近で主イエスのお言葉を聞き、そのみ業を見て、主イエスに対する彼らの敵意は高まっていったのでした。ファリサイ派の人たちは、律法を厳格に守っている自分たちこそが神の民であるという強い自負がありました。ですから彼らにとって律法を守ることは決して譲れないこと、譲ってはならないことだったのです。そのために彼らは、主イエスに対する怒りを募らせていくことになりました。なぜイエスは「罪を赦す権威を持っている」などと言うのか、なぜイエスと弟子たちは罪人と一緒に食事をするのか、なぜ彼らは断食をしないのか。そしてなによりなぜ「安息日にしてはならないこと」をするのか。ファリサイ派の人たちの怒りは、安息日に主イエスが病人を癒されたとき爆発しました。本日の箇所の直前11節で、「彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」とあります。「イエスを何とかしよう」とは、イエスを殺そうとするということです。11節にはすでに主イエスの十字架の影が差し込んでいます。このように主イエスの伝道は、一方で彼に対する好意を生み、その一方で殺意を生み出したのです。ファリサイ派の人たちの殺意が明らかになった後で、イエスは祈るために山に登られた、と12節で語られています。
夜を徹して祈る
主イエスは殺意に囲まれているところから退かれて山に登られます。そして祈られたのです。新共同訳は「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」と訳していますが、口語訳では「イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた」とあり、聖書協会共同訳もほぼ同じように訳しています。主イエスは「夜を徹して」祈られたのです。ルカによる福音書は主イエスが祈られているお姿を度々記しています。主イエスが洗礼を受けられたとき、「祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」と語られていました。また重い皮膚病を患っている人を癒されたとき、主イエスのうわさが広がって、「大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって」来ましたが、「イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた」と語られていました。後に山の上で主イエスのお姿が栄光に輝く出来事が語られますが、それは主イエスが祈っておられたときに起こったのです。このようにルカ福音書は、主イエスが祈られたことを語っていますが、「夜を徹して神に祈られた」と語られているのは本日の箇所だけです。主イエスはいつも祈っておられましたが、とりわけこのときの祈りは特別であったのです。私たちは主イエスのご生涯における特別な祈りとして、十字架を目前にしたあのゲッセマネの祈りを思い起こすのではないでしょうか。正確に言うならば、ゲッセマネで祈ったと記しているのは、マルコとマタイによる福音書であり、ルカによる福音書は「オリーブ山」で祈ったと記しています。ここでも主イエスは十字架を目前にして山に登って祈られたのです。ルカ福音書において山は神と出会う場所です。旧約聖書であのモーセがシナイ山に登って主なる神と語り合ったように、ルカ福音書においても主イエスは山で祈り、父なる神と語り合われたのです。オリーブ山で主イエスは「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。「この杯」とは十字架の死を指しています。十字架の死を取り除いてください、という主イエスの神に対する願いは、しかし「御心なら」そのようにしてくださいと祈られています。そして主イエスは「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。十字架を前にして主イエスは、なによりも神さまの御心を求めて祈られたのです。同じように本日の箇所で主イエスが夜を徹して祈られたのも神さまの御心を求めて祈られていたのです。主イエスが夜を徹して祈られたということは、夜通し祈るという主イエスの禁欲的なお姿を私たちに伝えようとしているのではありません。この主イエスのお姿から私たちも夜通し祈るという祈りの形がなくてはならないと受けとめるのは、主イエスが夜を徹して神に祈られたことにおいて、本当に見つめられていることを見逃してしまうことになります。主イエスは、今日は徹夜して祈ろうと決めて祈り始めたのではなく、神さまの御心を求めて必死に祈っている内に夜が明けてしまったのです。それほどまでに神さまの御心を求められたことこそ、主イエスが夜を徹して祈られたことにおいて見つめられていることです。形だけ徹夜で祈ることが大切なのではありません。そうではなく、祈りとはなによりもまず神さまの御心を求めることであることを、私たちはこの主イエスのお姿から知らされるのです。オリーブ山の祈りを通して十字架の出来事が神さまの御心であることが明らかにされたように、主イエスが夜を徹して祈られたことを通して、13節以下で語られている十二人を選ぶ出来事が、神さまの御心であることが明らかにされているのです。
教会の祈り
十二人を選ぶときに主イエスが夜を徹して祈り神さまの御心を求められたことを通して、ルカ福音書は信仰者の祈り、また教会の祈りとはどういうものか、私たちに告げています。ルカ福音書の続きである使徒言行録は、主イエス・キリストが十字架で死なれ、復活して、天に昇られた後の出来事を語っていますが、そこでは、大切な役目を担う人を選ぶときに、弟子たちがあるいは教会が祈ったことが語られています。主イエスを裏切ったユダが欠けて十一人になってしまったので、新たに使徒を一人選ぶことになったとき、人々は次のように祈ったとあります。「すべての人の心をご存知である主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」そして「くじを引くと、マティアに当たったので」彼が十一人の使徒の仲間に加えられることになりました。
マティアが選ばれるときにくじが引かれました。くじを引くというのは、人間的なやり方です。私たちも教会の営みの中で、いろいろな人間的なやり方でものごとを決めています。たとえば、使徒の務めを担うマティアを選んだように、教会では特別な務めを担う方たちを選挙で選びます。選挙というのは、人間的なやり方ですし、またどのような選挙を行うか、たとえば過半数の票を集めると選ばれるのか、それとも票の多い上位何名かが選ばれるのか、そのようなことも人間的なやり方です。それは、人間が決めたルールに則って行うという点で国政選挙や地方選挙となんら違いはありません。しかしこの国政選挙や地方選挙が終わるとしばしば言われる言葉があります。それは「民意が示された」という言葉です。つまり国民の意志が示されたということです。国政選挙であれ地方選挙であれ、この社会における選挙は国民の意志が示されるために行われるのです。けれども教会における選挙は、この点で社会における選挙とまったく異なります。教会の選挙で示されるのは、票を投じた教会の方たちの意志ではなくて、「神さまの意志」です。マティアを選ぶときくじを引く前に祈られた「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください」という祈りこそ、人間的なやり方を通して神さまの御心こそが示されることを祈り求めているのです。選挙の仕方だけ見れば、社会における選挙と私たちの教会における選挙に大きな違いはないかもしれません。それにもかかわらず、そこで行われていることはまったくの別物なのです。社会における選挙では、人間の思いが明らかになるのに対して、教会における選挙では、神さまの御心が示されるのです。このことは選挙に限ったことではありません。教会の営みの中には色々な集まりがあり、そこで話し合いが行われものごとが決められていきます。その物事を決める手続きだけを見るならば、ここでも教会の営みと社会の営みに大きな違いはありません。けれども教会の集まりにおいて人間的な手続きを踏んで物事が決められるとき、そこには単にその会に参加したメンバーの意志が表れているのではなくて、なによりも神さまの御心が示されているのです。私たちはこのことをしばしば忘れがちです。教会の話し合いにおいても、私たちは人間の思いに捕らわれてしまうことがあるからです。自分の考えや意見を押し通したいとか、自分の意見にそぐわないことが決まってしまって納得できないとか、そういうことがあります。そこには人間の思いが溢れていて、神さまの御心が示されていることが見えなくなっているのです。その一方で、教会において話し合われ、決められたことならどんなことでも神さまの御心が示されていると言うこともできません。私たちの話し合いや決定はどこまでも人間的なものに過ぎません。しかしそこに神さまの御心が示されることを私たちは祈り求めなくてはならないのです。私たちの営みに、教会の営みに聖霊が働いてくださり、御心を示してくださることを祈り求めるのです。教会が誕生するより前に、主イエスは十二人を選ぶために夜を徹して神に祈ってくださいました。神さまの御心を求め続けてくださったのです。私たちは、あらゆる教会の営みの中でこの主イエスのように祈ることによって、神さまの御心を求め続けていくのです。
主イエスの祈りに支えられて
それと同時に、主イエスの祈りによって私たちの祈りと信仰は支えられています。主イエスが夜を徹して祈られたとは、単に長く祈ったということではありません。神の御心を求めて深く祈ったということです。私たちの祈りは、御心を求めて祈っているときですら、色々な思いに妨げられています。しかし自分は主イエスのように御心を求めて深く祈れないと落ち込むことだけがすべてではありません。こんな祈りしか祈れない自分は駄目だ、などと思う必要はないのです。そのような祈りしか祈れない私たちのことを主イエスは知っていてくださり、父なる神と独り子キリストとの関係の中で祈られる主イエスの祈りによって私たちの祈りは支えられているからです。弟子たちは主イエスに「わたしたちにも祈りを教えてください」と言いました。そのとき主イエスが弟子たちに教えたのが主の祈りです。私たちが毎週の礼拝で、日々の生活の中で祈る主の祈りは、主イエスご自身の祈りであり、主イエスが私たちに教えてくださった祈りなのです。この主イエスご自身の祈りが私たちの祈りを支え続けているのです。私たちの信仰もまた主イエスの祈りによって支えられています。十字架を前にして、主イエスはペトロに「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」と言われましたが、そのとき主イエスはペトロに「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と言われています。「あなたのために、信仰が無くならないように」と主イエスは私たちのために祈り続けてくださっています。私たちの信仰はいつも危機に瀕しています。私たちはどんなことがあっても揺るがない信仰を願いますが、実際は、私たちの信仰はまことに些細なことで大きく揺さぶられてしまうのです。そのような私たちの信仰を主イエスの祈りが支え続けてくださっています。主イエスが夜を徹して、私たち一人ひとりのために、神さまに祈っていてくださるのです。この私のために主イエスが執り成し祈っていてくださる。このことこそ、崩れ落ちそうになるとき、倒れ込みそうになるとき、諦めてしまいそうになるとき、私たちを支え続けるのです。
十二人を選ぶ
夜を徹して神さまに祈られた主イエスは「朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられ」ました。「弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選ん」だとありますから、主イエスは呼び集めた多くの弟子たちの中から特に十二人を選んだということになります。その名前が14~16節にあります。主イエスが夜を徹して神さまに祈り、示された神さまの御心がこの十二人を選ぶということです。「十二」という数は、神の民イスラエルの十二部族の「十二」という数に由来します。それは、ルカによる福音書22章30節の最後の晩餐の場面で、主イエスが弟子たちに「あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」と言っていることからも分かります。つまり十二人は、イスラエル十二部族の指導者なのです。しかしここで言われていることは、十二人が文字通り十二部族から成るイスラエル国家を再興することではありません。そうではなく、この十二人は新しい神の民を築いていくために選ばれたのです。言葉を変えるならば、キリストがお建てになった教会に仕えるために選ばれたのです。私たちも主イエスの祈りに支えられ、神さまの御心によって選ばれ主イエスの弟子として歩んでいます。十二人と同じように、私たちも新しい神の民、キリストの教会を建て上げていくことに仕えるために選ばれ、主イエスの弟子とされているのです。主イエスは多くの弟子たちから十二人を選びました。きっと一人ひとりの名前を呼んで選んだのではないでしょうか。主イエスが一人ひとりの名前を呼ぶとき、夜を徹した祈りにおいて示された神さまの意志が告げられているのです。それは、ただ名前を読み上げているのとは違います。同じように主イエスは、私たち一人ひとりの名前を呼んでくださいます。私たちは名もなき信仰者ではありません。神さまから名前を呼ばれる一人ひとりです。私たちが名を呼ばれるとき、そこには神さまの意志があります。あなたを招きたい。あなたを救いたい。ほかならぬあなたに、一人ひとりに神さまは名を呼んで語りかけてくださっているのです。
先ほど申したように、14~16節に十二人の名前があります。最初の「ペトロと名付けられたシモン」と最後の「後に裏切り者となったイスカリオテのユダ」は名前だけでなく、その人物について多少なりとも語られていますが、ほかの十人は名前が挙げられているだけです。十二人のリストは、新約聖書の中にいくつかあり、どれ一つとして同じではないのでそれらを比べてみるのも意味があることかもしれません。あるいはここに挙げられている一人ひとりの人物の人となりについて語ることもできるでしょう。これらのことはなかなか興味深いことですが、ルカ福音書はここでそのような一人ひとりの人物像に目を向けているわけではありません。むしろ私たちが注目すべきなのは、主イエスが多くの弟子たちからここに名前を挙げられている十二人を選んだ理由が記されていないということです。彼らが選ばれるにふさわしい教育を受けていたとか、実績や能力があったとは、一切言われていないのです。この十二人が選ばれたのは、主イエスが夜を徹して祈られたことにおいて示された神の御心だけによるのです。私たちはこのことからも慰めを与えられます。私たちが主イエスの弟子となるのに何か資格がいるのであるならば、自分はふさわしくないのではないかと私たちはためらいを覚えるに違いありあせん。けれども私たちが主イエスの弟子とされたのは、私たちがなにか持っていたからではなく、ただ神さまの御心によって選ばれたからにほかなりません。十二人の名前の中には、主イエスを裏切ったイスカリオテのユダが含まれています。また最初に名前が挙げられ、ペトロという新しい名前を与えられたシモンは、この十二人の中で特別な位置を与えられているように思えますが、そのようなペトロですら、十字架を前にして三度イエスを知らないと言ったのです。主イエスを裏切る者、主イエスを否む者を選ぶことが神さまの御心でした。主イエスを裏切ったのはユダだけではありません。主イエスを否定したのはペトロだけではありません。ほかならぬ私たちこそ主イエスを十字架に架け、主イエスを否定したのです。それにもかかわらず主イエスは私たち一人ひとりの名を呼んでくださいます。主イエスを裏切る者、否定する者を選んでくださり、新しい神の民、キリストの教会を建て上げていくことに用いてくださるのです。
教会の始まり
「十二人を選んで使徒と名付けられた」とあります。私たちはイエスさまが生きているときは「十二人」と呼ばれていて、ペンテコステ以後、つまり教会が誕生してから「使徒」と呼ばれたと思いがちです。しかしそうではありません。ここで示されているのは、イエスが十二人を選んだとき、その十二人を使徒と名付けられたということです。ペトロは、マティアを使徒に加えるときに「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです」と語っていますが、使徒とは主イエスと共に生活し、主イエスの十字架の死と復活の目撃者なのです。その意味で、主イエスが十二人を選んだとき、彼らは「使徒」であったわけではありません。これから主イエスと共に生き、エルサレムへの道を共に歩み、主イエスの十字架の死と復活を目撃することによって「使徒」となるのです。しかし主イエスが「十二人を選んで使徒と名付けられた」ということは、十二人がすでに使徒として選ばれていたということです。そのことによって「十二人を選んで使徒と名付けられた」ことは、主イエスが地上を歩まれた時代と教会の時代の架け橋となり、さらに言えば、ルカ福音書と使徒言行録の架け橋となっているのです。十二人を選ぶことは、新しい神の民、キリストの教会を建て上げていくためでした。ペンテコステは教会の誕生日と呼ばれますが、主イエスが十二人を選んだとき、まだ教会は芽生えてはいないけれど、すでにその種は蒔かれていたのです。使徒という種が、その使徒が担っていく教会の種が蒔かれていたのです。それは、主イエスの十字架と復活の後、ペンテコステの日に聖霊が降ることによって芽生えるのです。
人々の現実のただ中へ
「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」と17節にあります。主イエスは夜を徹して祈り選んだ十二人と一緒に山から降りてきます。そこには、大勢の弟子とおびただしい民衆が、「ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から」集まって来ていました。そして「イエスの教えを聞くために」また「病気をいやしていただくために」待ち構えていたのです。主イエスは殺意に囲まれているところから退かれて山に登られました。その殺意は主イエスの教えや癒しのみ業によって引き起こされたものでした。主イエスが山に留まっていればこれ以上事態を悪化させずに済んだかもしれません。しかし主イエスが山に登られたのは、そこに留まるためではなく山から降りてくるためです。ユダヤ全土と異邦人の地からやって来て、主イエスの教えを待ち望んでいる大勢の人たちのただ中に、「何とかしてイエスに触れよう」とするほどに主イエスを求め、病の癒しを願っている人たちの現実のただ中に、主イエスは山を降りて再び向かわれるのです。そのことによって主イエスの十字架の影がより一層濃くなるとしても、主イエスは神の国の福音を告げ知らせ、病の中にあって希望を失っている一人ひとりを憐れみ、癒しのみ業を行ってくださるのです。その主イエスのそばに、主イエスが夜を徹して神に祈り、神さまの御心によって選ばれた十二人がいます。彼らは主イエスを殺意から守るためにいるのではありません。主イエスが彼らを選んだのは、自分お一人では危険だからでも、手が足りないからでもありません。十二人は主イエスと一緒に山を降りるために選ばれたのです。一緒に山を降りて、み言葉に飢え渇いている多くの人たちのところへ、病にあって苦しみの現実を生きている人たちのところへと向かうのです。
私たちも山の上に留まっているわけにはいきません。主イエスと共にこの世の現実へと向かっていきます。そこでは、多くの人が傷つき、苦しみ、嘆き、希望を持てずにいます。だからこそその現実のただ中に福音を告げ知らせなければなりません。私たちは礼拝からこの世の現実へと遣わされます。遣わされた先で、苦しんでいる人、悲しんでいる人、虚しさの中にある人、本当の慰めと平安を見いだせずにいる人と共に過ごします。私たちはそのような人たちを一人でも多く礼拝へと招くのです。一人として罪に滅ぶことを神さまは望まれていないからです。礼拝に招かれることによって、み言葉を与えられ、主イエス・キリストの十字架と復活にこそ救いがあると告げ知らされるのです。この世の現実がどれほど悲惨であったとしても恐れることはありません。私たちは一人で山を降りるのではないからです。夜を徹して私たち一人ひとりのために祈ってくださり私たちを選んでくださった主イエスと一緒に山を降りて、この世の現実へと向かうのです。この礼拝から遣わされて、それぞれの現実へと主イエスと一緒に向かっていくのです。