夕礼拝

人の子は安息日の主

「人の子は安息日の主」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:申命記 第5章12-15節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第6章1-5節
・ 讃美歌:206、521

安息日についての論争
 ルカによる福音書を読み進めてきて第6章に入りました。5章17節に「ファリサイ派の人々と律法の教師たち」が登場しますが、そこから主イエスとファリサイ派の人たちとの対話、いやむしろ論争が続けて語られてきました。17~26節では中風の人が癒やされる話の中で罪を赦す権威について、27~32節では主イエスと弟子たちが、当時、罪人の代表と見なされていた徴税人と一緒に飲んだり食べたりすることについて、そして32~39節では主イエスと弟子たちが断食を行わないことについて、あるいは行ったとしてもファリサイ派の弟子たちに比べて少ししか行わないことについての論争がありました。後者二つにおいて、つまり罪人と一緒に食事をすることと断食をあまり行わないことにおいて、主イエスに従い、主イエスと共に生きる新しい生活とはどのようなものか、ファリサイ派の人たちが従っていた古い生活との対比の中で語られてきたのです。
 第6章に入り、本日の聖書箇所である1~5節と、それに続く6~11節では安息日についての主イエスとファリサイ派の人たちとの二つの論争が語られています。この安息日についての論争は、これまでの罪人との食事や断食についての論争以上に、主イエスに従う生き方とファリサイ派の人たちの生き方との違いを明らかにしました。ファリサイ派の人たちは、十戒を中心とする律法を厳格に守って生活していましたが、安息日を守るのはその十戒の中心といえます。それだけに安息日についての論争は、ファリサイ派の人たちにとって譲れないものでした。二つ目の論争の最後11節で、ファリサイ派の人たちや律法学者たちが「怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」とあります。これまで罪人と一緒に食事をすることにおいても断食をあまり行わないことにおいても、ファリサイ派の人たちの非難に対する主イエスのお言葉で話が終えられていて、そのお言葉に対するファリサイ派の人たちの反応は語られていませんでした。しかし安息日については、主イエスのお言葉とみ業に対して、彼らは怒り狂ったと語られています。そして「イエスを何とかしようと話し合」いました。ファリサイ派の人たちの主イエスに対する激しい怒りとそれによる行動を引き起こしたのが安息日についての論争なのです。

出エジプトの記念としての安息日
 安息日は本来週の七日目であり、私たちが用いている曜日で言えば土曜日です。より正確には、聖書の世界では日没から一日が始まるので、金曜日の夕方の日没から土曜日の日没までが週の七日目であり安息日となります。そして安息日には「いかなる仕事もしてはならない」というのが、十戒の第四の戒めです。十戒は、旧約聖書出エジプト記第20章と申命記第5章にありますが、本日共にお読みした申命記5章12~15節には、第四の戒めについて書いてあります。12~14節で「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と命じられています。そして15節では安息日を守る理由として、「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない」と言われています。つまり安息日を守るのは、出エジプトの出来事を想い起こすためなのです。では出エジプトを想い起こして安息日を守るとはどういうことなのでしょうか。出エジプトの出来事は、イスラエルという民が誰であるのかを定める出来事であったと言えます。つまりイスラエルというのは、主なる神さまに導かれて、エジプトの地から、奴隷の家から脱出してきた人のことなのです。十戒の初めで主なる神さまは「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と名乗られています。神さまはイスラエルをエジプトから導き出した神としてご自身を現してくださったのです。ですから出エジプトの出来事によって神さまは神さまであり、イスラエルはイスラエルであるということを想い起こすのが安息日を守ることにほかなりません。私たちは何者なのか。私たちは今どうしてこのように生きているのか。イスラエルの民はそのことを安息日に覚えたのです。イスラエルは、血の繋がりによってイスラエルなのではないし、カナンの地という国土に住んでいるからイスラエルなのでもありません。ダビデ王朝の滅亡によって、ある人たちは諸外国へと連れ去られ、離散の民、ディアスポラのユダヤ人となりました。イスラエルの地に留まった人たちも他国の支配の下にあり続けました。このようにしてイスラエルの民は紀元前586年の王国の滅亡によって国土を失い、それから長い時間を過ごしましたが、それにもかかわらずイスラエルはイスラエルであり続けたのです。それは週の七日目に「いかなる仕事もしない」ということによって、つまり安息日を守ることによってです。どこの土地に生きていても安息日を守っているからイスラエルはイスラエルなのです。

安息日にしてはならないこと
 そうであるならばファリサイ派の人たちがこの戒めを忠実に厳格に守ろうとしたのも当然といえば当然かもしれません。そしてこの戒めを忠実に厳格に守ろうとすると、「いかなる仕事もしてはならない」と言われている「仕事」とは何かということが当然問われることになります。ですからファリサイ派の人たちは、安息日にして良いこととしてはいけないことを厳格に定めていました。本日の聖書箇所の冒頭6章1節には「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた」とあります。それを見ていたファリサイ派のある人たちが「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と問うたのです。弟子たちは麦の穂を摘みました。これはファリサイ派によれば刈り入れの労働です。また弟子たちは摘んだ麦の穂を手でもみました。これはファリサイ派によれば脱穀作業です。これらは仕事であり、安息日にしてはならないことでした。ですからファリサイ派の人たちは「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と問うたのです。この場面で麦の穂を摘んだのも、それを手でもんで食べたのも弟子たちです。しかしファリサイ派の人たちは「なぜ、彼らは」と問うたのではなく、「なぜ、あなたたちは」と問うたのです。この「あなたたち」には弟子たちだけでなくイエスも含まれています。このことは、弟子たちが麦の穂を摘み、手でもんで食べることをイエスが認めていたことを示しています。それは、イエスが弟子たちの行いに責任を持っていたということでもあり、さらに言えば、弟子たちの意志はイエスの意志と一致していたということでもあります。弟子たちは主イエスに従って生き始めていたのです。

ダビデと「供えのパン」
 ファリサイ派の問いにイエスはお答えになりました。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」これは旧約聖書サムエル記上21章1~7節に語られている物語です。そのころ、ダビデはまだ王になっていませんでした。当時の王サウルはダビデにとって妻の父、つまり義理の父でしたが、目覚ましい手柄を立てるダビデを妬み、彼に対して敵意を抱き、ついには殺そうとしたので、ダビデはサウルのもとから逃げました。その逃亡の途中で、ノブというところにあった聖所、神の家を訪れたのです。その聖所の祭司とダビデとのやり取りが語られています。おそらくダビデとその家来は逃亡生活のために食べる物がなかったのでしょう。ダビデは、飢えをしのぐためにパンを五つもらいたいと祭司に頼みました。普通のパンはありませんでしたが、すでに聖別されて神さまに献げられたパン、「供えのパン」ならありました。そのような供えのパンを祭司はダビデに与えたのです。「供えのパン」については旧約聖書レビ記24章8~9節に「アロンはイスラエルの人々による供え物として、安息日ごとに主の御前に絶えることなく供える。これは永遠の契約である。このパンはアロンとその子らのものであり、彼らは聖域で食べねばならない。それは神聖なものだからである」とあります。つまり安息日に「供えのパン」を主の御前に供え、次の安息日が来ると、その「供えのパン」を主の御前から取り下げ、焼きたての「供えのパン」を主の御前に供えたのです。そして主の御前から取り下げた「供えのパン」は、祭司だけが聖所で食べることができました。その供えのパンを祭司はダビデに与えたのです。
 このサムエル記の物語を読んでみると、ダビデの行いが安息日にしてはならないことだと語られているわけではないと気づかされます。確かに主の御前から取り下げた「供えのパン」がちょうどあったのですから、ダビデが聖所を訪れたのは安息日であったでしょう。しかし安息日であるかないかに関わらず、律法によれば祭司しか食べることが許されていない、聖別されて神さまに献げられた「供えのパン」をダビデが食べたこと、つまり律法でしてはならないことをダビデが行ったことが語られているのです。イエスはこのサムエル記の物語をそのまま引用しているのではなく語り直しています。しかしそうであったとしても、イエスが語り直した物語のポイントは、「祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパン」をダビデは取って食べ、供の者たちにも与えたということであり、律法でしてはならないことをダビデは行ったし、それを神さまは許されたではないか、ということなのです。このダビデの物語は、安息日にしてはならないことを行ったイエスと弟子たちの前例として語られているのです。

ダビデの物語が示すこと
 しかしなぜ神さまは、律法でしてはならないことを行ったダビデを許されたのでしょうか。そしてダビデの物語が、イエスと弟子たちの前例として語られているとはどういうことなのでしょうか。ダビデはいずれ王となるから、そして王は律法の掟を超えることができる自由を持っているから許されたのだ、というのであれば、神さまから遣わされているまことの王であるイエスが安息日の戒めを乗り越えることが許されないはずがない、ということなのかもしれません。しかし王なら誰でも許されるということではないのです。ほかならぬダビデだから許されたのです。このダビデとイエスとの関係を見つめることで、ダビデの物語がイエスの前例として示していることが明らかになるのです。この福音書を書いたルカは、ダビデをどのような人物として語っているのでしょうか。ルカ福音書の続きである使徒言行録の13章16節以下で、パウロは伝道のために訪れたピシディア州のアンティオキアで説教を語っています。その説教の中でパウロはダビデについて次のように語っています。22、23節です。「それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。」つまりダビデは、神さまの「心に適う者」、神さまの「思うところをすべて行う」者として選ばれ王とされたのです。そうであるならば、聖別され神さまに献げられた「供えのパン」をダビデが取って食べ供の者たちにも与えたことは、一見律法でしてはならないことですが、実は神さまの御心に適うことであり、神さまの御心を行うことであったのです。このダビデの子孫から神さまは救い主イエス・キリストを送ってくださいました。ルカ福音書2章21、22節では、イエスが洗礼を受けて祈っていると、天が開け聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来て、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたと語られていました。ですからダビデと同じように、いえそれ以上に、ほかでもない人の子イエス・キリストが、一見安息日にしてはならないことをし、また弟子たちにさせたのも、実は神さまの御心に適ったことであり、神さまの御心を行ったのです。このことをダビデの物語によって、イエスはファリサイ派の人たちに示されたのです。

神さまのものとされている日
 安息日に主イエスは、神さまの御心を行いました。それは実に安息日にふさわしいことです。ファリサイ派の人たちは、安息日には「いかなる仕事もしてはならない」という十戒の第四の戒めを、安息日にしてはいけないことのリストを細かく定めることで、また同時にその例外を細かく定めることで守ろうとしました。そのことによってこそ、自分たちはイスラエルの民であると考えていたし、それを守らない人はイスラエルの民ではないと考えていたのです。けれども安息日を守るようにという戒めが求めていることは、安息日にして良いこととしてはいけないことを区別し定めることではありません。安息日には「いかなる仕事もしてはならない」という戒めによって、神さまが求めておられることは別にあるのです。安息日とは本来どのような日なのでしょうか。安息日は旧約聖書の元々の言葉ではシャッバートであり、それを訳したのが安息日です。しかし日本語で安息日と言われると、お休みする日と受けとめられがちです。実際、日本語で「安息」という言葉は「やすらかに休むこと」を意味するので、安息日はやすらかに休む日だと思っても不思議ではありません。しかし安息日は、六日間働いて疲れたから七日目にはゆっくり休んで疲れを取って元気を回復する日ではないのです。申命記4章12節以下の十戒の第四の戒めをもう一度見てみます。この戒めを直訳すると次のようになります。「シャッバートを守りなさい それを聖別するように。主、あなたの神があなたに命じたように。六日間あなたは働いてしなければならない いずれの仕事も。しかし七日目はシャッバート 主、あなたの神の。あなたはしてはならない いずれの仕事も。」シャッバートを聖別するようにと言われていますし、主、あなたの神のシャッバートと言われています。つまり安息日とは、神さまのために区別された日なのです。それが聖別するということです。言い換えるならば、安息日は神さまのものとされている日であり、神さまに属している日なのです。だから安息日には自分の仕事をやめて、神さまものとされている日を過ごすのです。日々の歩みを止めて、神さまのものとされている時間の中を歩むのです。そしてそのように過ごすことで、そのような時間の中で主なる神さまと出会うのです。しかしそう言われると、神さまは安息日にしか私たちと出会ってくださらないのだろうかと思います。六日間は神さまなしで過ごして、七日目に神さまに会いに行くということなのでしょうか。もちろんそんなことはないのです。日々の生活において、神さまがそばにいてくださるということが分からない時間をどれだけ過ごしていたとしても、神さまは毎日私たちのそばにいてくださり、私たちが神さまを呼び求めるならば、何曜日であったとしても、神さまは私たちに出会ってくださいます。けれども、それにもかかわらず神さまが特別な日、安息日を定めてくださったのは、私たちが共に神さまのものとされている日を過ごし、神さまのものとされている時間の中を歩むことによって、一人ひとりばらばらではなく一緒に神さまに出会うためです。個人的に神さまに出会うのであれば何曜日でもあり得るでしょう。しかし一緒に神さまの御前に進み出るためには、特別な日を定めなくてはなりません。特別な日を定めて、みんなで集まるのです。そのような日を神さまは定めてくださり、ご自分のものとしてくださったのです。安息日は、私たち人間の誰かのものではありませんし誰かのためにあるのでもありません。神さまのものであり、神さまのための日なのです。
 ですから神さまのものであり神さまのための日である安息日は、なによりも神さまの御心を求める日であり、神さまの御心が行われる日です。そのために安息日に私たちは「いかなる仕事もしてはならない」と命じられているのです。しかしファリサイ派の人たちは、御心を求めるよりも、御心が行われるよりも、自分たちがあるいはほかの人たちが、安息日にしてはいけないことをしていないかどうかばかりに心を奪われ、また自分たちはルールを守っているのだから正しいのだと誇り、守れていない人がいれば裁いていたのです。これでは本末転倒なのです。御心を求め御心が行われるための安息日が、自分の正しさを誇り、隣人を裁く日になってしまっているからです。それは、神さまのものとされた日を過ごすことでも、神さまの時間の中を歩むのでもなく、自分のために自己中心的に過ごすことなのです。
 このようなファリサイ派の人たちが陥ってしまっている罪は、私たちと無関係ではありません。聖書は、あれはして良い、これはしてはいけないというルールの本ではありません。そうではなく聖書には、その初めから終わりまで神さまの御心が記されているのです。しかし私たちは、聖書に神さまの御心を求めるのではなく、聖書によって自分を正当化したり隣人を批判したりしてしまうのです。そのとき私たちはファリサイ派の人たちと同じ罪に陥っているのです。

人の子は安息日の主
 人の子主イエス・キリストが、一見安息日にしてはならないことをし、また弟子たちにさせたのも、実は神さまの御心に適うことであり、神さまの御心を行ったのでした。神さまの独り子である主イエス・キリストこそ御心をご存知であり、御心を行われるのです。5節でイエスはファリサイ派の人たちに「人の子は安息日の主である」と言われています。これは、主イエスが「安息日の主」であるから、十戒の第四の戒めを無効にすることができるということではありません。主イエスは安息日を決してないがしろにしていたわけではないからです。4章16節では「イエスはいつものとおり安息日に会堂に入り」とあります。安息日に会堂で礼拝を守ることは主イエスの習慣だったのです。ですから「人の子は安息日の主である」とは、主イエスは安息日をなくすことができるお方だということではなく、なによりも神さまの御心を求め、神さまの御心が行われる日である安息日に、主イエスはなすべき神さまの御心を行ってくださるということなのです。

安息日に告げられる御心
 私たちにとって安息日は土曜日ではなく、主イエス・キリストが復活された日、日曜日です。イスラエルの民にとって安息日が出エジプトの出来事を想い起こす日であったように、私たちは新しい安息日に主イエス・キリストの十字架と復活を想い起こします。その十字架の死と復活によって、私たちが罪の奴隷から解放されたことを覚えるのです。出エジプトの出来事がイスラエルをイスラエルたらしめたように、主イエス・キリストの十字架と復活こそ、私たちキリスト者をキリスト者たらしめるのです。そして私たちはこの新しい安息日である日曜日にみんなで集まり礼拝を守り、その礼拝において私たちは共に主イエス・キリストと出会います。なによりも神さまの御心を求め、神さまの御心が行われる日である安息日に、安息日の主であるキリストと出会うのです。そのためにこそ私たちは日々の歩みをとめて、神さまのものとされた日、神さまの時間を過ごすのです。そのように過ごす時間の中で、私たちは主イエス・キリストに出会い、神さまの御心、ご意志、ご計画を告げられます。御心をご存知であり、御心を行われる主イエス・キリストによって、神さまの御心が、神さまの愛が私たちに告げられているのです。安息日に礼拝で告げられた神さまの御心と愛によって、平日の歩みの中でぼろぼろにすり減ってしまった私たちの心に、本当の慰めと安らぎが与えられ、再び歩み出す力が与えられ、私たちは新しい週へと歩み始めていくことができるのです。

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