「人間をとる漁師」 伝道師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:イザヤ書 第6編1-13節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第5章1-11節
・ 讃美歌:132、519
英雄の話?
イエスが、漁師であったシモン・ペトロと彼の仲間であるゼベダイの子のヤコブとヨハネを弟子にした、という本日の話はよく知られていますし、繰り返し読まれてきた、私たちにとって親しみのある話であるといえます。漁師を弟子にするこの話が、ルカによる福音書だけでなく、マタイとマルコによる福音書でも語られていて、三つの福音書すべてに見られることも、私たちがこの話に親しみを感じる理由の一つだと思います。とはいえ、マタイとマルコがこの出来事をとても簡潔に記しているのに対して、ルカは、彼らが弟子となったいきさつについて詳しく語っていて、10節の後半から11節で、この出来事の顛末を次のように締めくくっています。「すると、イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。』そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」物語の最後にこのように記されているので、この物語の結論は「すべてを捨ててイエスに従うこと」であるようにも思えます。しかしそうであるならば、私たちはこの話にどれほど親しみを感じていたとしても、ここで語られていることを私たち自身のこととして受けとめることは難しいのではないでしょうか。なぜなら私たちは「すべてを捨ててイエスに従うこと」など到底出来ない、と思わずにはいられないからです。家族や友人、仕事や学校、地位や財産、こういったもの「すべてを捨てる」ことは、私たちにとって現実的であるとは言えないでしょう。だから私たちは、シモンたちが「すべてを捨てる」ことができたのは彼らが特別な人物だったからだ、と思いたいのです。つまりこの話は、シモンたちのような「すべてを捨ててイエスに従う」ことができる「信仰の英雄」について語っているのであって、そのような「英雄」になれない私たちにとって、よく親しんでいる話ではあっても、自分自身に語りかけられていることとしてこの話に耳を傾けられないのです。私たちは外からこの話を眺めるだけで、この話の中に自分の身を置くことができないのです。しかし、そうではないのではないか。この話で語られていることは、まさに今を生きる私たち一人ひとりに関わることであり、私たちはこの話に自分の身を置くことへ招かれているのです。
神の言葉を聞くために
この話は5・1節で「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た」と語られることによって始まります。新共同訳ではこのように訳されていますが、しかし原文ではこの出来事の始まりを「群衆が神の言葉を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレト湖のほとりに立っておられた」と描いているのです。つまり新共同訳では原文の描き方と順序が逆になっているのです。ルカ福音書が描いている場面を思い浮かべるならば、まず群衆が「神の言葉」を聞くために押し寄せてくるのです。聖書に親しんでいる人にとって、「神の言葉」と書かれてあっても、そこで立ち止まらず読み進めてしまうことが多いかもしれません。しかしルカ福音書はここで初めて「神の言葉」という表現を用いているのです。4章では、人々はイエスが語った言葉を、「恵み深い言葉」であり「権威ある言葉」であると受けとめていたました。けれども5・1節では、人々がイエスのところに押し寄せて来たのは、イエスの「恵み深い言葉」や「権威ある言葉」を聞くためではなく「神の言葉」を聞くためだ、と語られているのです。「神の言葉」とは、神について語る言葉ではありません。神から来た言葉、神から出た言葉であり、それがイエスの口を通して語られるのです。ルカ福音書は、ここでイエスを通して語られる「神の言葉」を見つめています。4章まで語られていなかったことが5章に入って語られるのです。この変化を橋渡ししているのが、4章の終わり43節の「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」というイエスのお言葉だと言えるでしょう。この言葉によって、イエスは神から遣わされたのであり、それは「神の国の福音」、つまり「神の言葉」を告げるためであることが明らかにされたからです。ですからこれに続く5章の初めでは、神から遣わされたイエスが告げる「神の言葉」を聞くために人々が押し寄せてきたのです。
そのときイエスはゲネサレト湖畔、つまりガリラヤ湖のほとりに立っておられました。おそらくイエスは押し寄せてくる群衆から距離を取ろうとしたのでしょう。そしてイエスは「二そうの舟が岸にあるのを御覧になった」のです。そこでは漁師たちが「舟から上がって網を洗って」いました。イエスが彼らを弟子にする出来事は、イエスが岸にある二そうの舟とその舟から上がって網を洗っている彼らに目を留めてくださったことから始まります。イエスが目を向けてくださることによって神さまの召しは起こるのです。
イエスはこの二そうの舟のうちの「一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すよう」シモンに頼みました。そして舟が岸から少し離れると、イエスは腰を下ろして「神の言葉」を聞くために押し寄せて来た群衆に舟から教えられたのです。このときシモンは舟にいました。彼は群衆とは違って「神の言葉」を聞きたいと積極的には思っていなかったかもしれません。ただイエスが自分の舟に乗り群衆に語られたことによって、思いがけずイエスを通して語られる「神の言葉」を耳にしたのです。もしかするとシモンは、少しはイエスに関心があったかもしれません。なぜなら彼のしゅうとめが高熱で苦しんでいたとき、ほかならぬイエスが癒してくださったからです。またイエスの言葉を聞くために群衆が押し寄せてくるのを目の当たりにして、イエスと彼の言葉に少なからず興味を持ったとしても不思議ではありません。いずれにしてもシモンは、イエスが話し終えるまで一緒に舟にいて、彼が語る言葉を聞いていたのです。
しかしお言葉ですから
イエスが話し終えられたとき、シモンは岸に戻ろうと思っていたでしょう。岸に戻って中断していた網を洗うことを再開しようと考えていたかもしれません。しかしイエスはシモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われるのです。シモンは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と答えます。シモンは漁師が職業であり、スキルを持った魚をとるプロフェッショナルでした。ガリラヤ湖には食べられる魚が豊富に生息していたようですが、魚をとるには昼よりも夜が適していたようです。漁師たちはそのことを経験的に学び知っていたのでしょう。プロの漁師たちが夜通し苦労して、そのスキルによって一匹の魚もとれずに夜が明けて、彼らは岸に戻り網を洗っていたのです。何もとれなくても網は汚れますから翌日の漁に備えてのことだったと思います。彼らは疲れ果て、自分たちの努力が実を結ばなかったことにひどく落胆し、憂鬱な気持ちを抱いていたに違いありません。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」という言葉には、そのようなシモンの気持ちが表れています。シモンはイエスを「先生」と呼んでいます。彼は舟でイエスが群衆に語った「神の言葉」を思いがけず聞きました。イエスが何を語ったかは記されていませんが、「神の国の福音」を告げ知らせたのではないでしょうか。なんとなく聞いていたしても、シモンはイエスが知恵ある方だと分かったでしょうし、彼に尊敬の念を抱いたかもしれません。だからシモンはイエスを先生と呼んだのです。しかしそうであったとしても「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」というイエスの言葉に対して、シモンは「先生、あなたの知恵は尊敬します。でも漁のことは私のほうがよく分かっています。プロですから。おまけに一晩中働いたのに一匹の魚もとれず心身共に疲れているのです。なんでそんな無駄なことをしなくてはいけないのですか」という思いを抱いたのではないでしょうか。それにもかかわらず「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と答えたシモンは続けて言うのです。「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう。」
「しかし、お言葉ですから。」ここにシモンの信仰の芽生えを見ることができます。イエスの口を通して「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と、神の言葉が語られました。シモンはこの言葉に100パーセント信頼できたわけでも納得できたわけでもなかったでしょう。しぶしぶだったかもしれません。それでもシモンは神の言葉に聞き従ったのです。自分の思いに逆らって神の言葉に従うこと。この小さな言葉である「しかし」は、神の言葉によって与えられる信仰の芽生えを示す大いなる「しかし」なのです。
神の恵みの豊かさ
漁師たちがイエスの言葉通りにすると、網が破れそうになるほどおびただしい魚がとれました。シモンの舟だけでは足りず、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼みます。彼らは来ましたが、二そうの舟は魚でいっぱいになり沈みそうになりました。
ここで語られている奇跡はなにを指し示しているのでしょうか。それは、どうしたら魚をいっぱいとれるかということではなく、またどうしたら成功するかということでもありません。イエスが「沖で網を降ろす」という知恵を与えたからおびただしい魚がとれたということではないのです。そのような魚をとる方法、成功するためのハウツーが指し示されているのではありません。「沖で網を降ろす」ことは、スキルあるプロの漁師であれば思いついたに違いありません。さっぱり魚がとれない間、シモンたちは手をこまねいていたわけではないでしょう。どうしたらよいか話し合い、話し合ったことを試してみて、駄目だったらまた相談して別の方法を考えて試してみる。そのようなことを繰り返しながら悪戦苦闘していたのです。そこには人の言葉が飛び交い、どのような方法が良いか人のスキルが問われていたのです。けれどもこの奇跡が指し示しているのは、良い方法とか人のスキルではなく、神の言葉に聞き従ったとき、自分の力では決して得ることが出来ない神の恵みの豊かさに与ることができるということです。神の言葉に聞き従うとき、網が破れそうになるほどの、自分の舟に収まりきれず仲間の舟を呼んで、それでも二つの舟がいっぱいになるほどの豊かな神の恵みに与るのです。
神の恵みは罪の告白へと導く
この神の豊かな恵みに直面して、シモンは「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言いました。この奇跡が、どうしたら魚をいっぱいとれるのか、どうしたら成功するのか、その方法をイエスがシモンに教えたことを指し示しているのであれば、シモンは魚がたくさんとれたことに喜んで、イエスに感謝こそすれ「わたしから離れてください」とは言わなかったはずです。このシモンの言葉は、ここに神がおられ、その神の御前に自分が立っていることへの畏れを語っています。そしてこの神への畏れは、神に対して自分は罪人だと告白することへとシモンを導くのです。神がここにおられる。そのことへの畏れは預言者イザヤにおいても起こったことです。本日の旧約箇所の冒頭イザヤ書6・1節で「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た」と語られていますが、イザヤは幻において自分が天上の会議にいることに気づかされます。そこでは天使が「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と呼び交わしていました。このときイザヤは自分が神の御前にあることを畏れ「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は 王なる万軍の主を仰ぎ見た」と言ったのです。「わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の民の中に住む者」とは、自分は神の御前で罪人であり滅ぼされるしかない者だ、と語っているのです。シモンはイエスを「先生」ではなく「主よ」と呼びかけています。イエスを通して神の言葉が語られ、その言葉に聞き従ったとき、神のみ業による豊かな恵みに与ることによって、シモンは「イエスは主である」と告白したのです。
私たちは、自分自身を振り返り自分の様々な失敗や弱さや欠けに気づかされて、神の憐れみ求めるということもあります。しかし自分で自分を振り返ることによっては、本当に自分が罪人だと分からないのです。自分自身を吟味して、あれは駄目だったこれは駄目だったとあれこれ反省しても、それは罪の告白へといたることはありません。シモンも魚が一匹もとれず、なにが駄目だったのか色々と反省していたでしょう。しかしだからといってシモンは、自分が神の御前に罪深い者だとは思っていなかったのです。私たちは神の恵みの豊かさに与るとき、本当に自分は罪深い者だと気づかされ神を畏れるのです。
恐れるな
神を畏れ自分は罪深い者だと告白したシモンに、イエスは「恐れることはない」と言われました。ルカは繰り返し、神への畏れを抱く人たちに「恐れることはない」と語ってきました。ザカリアに、マリアに、羊飼いたちにそのように語ってきたのです。ここでも「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言うシモンに、イエスは「恐れるな」と言われます。恐れて私から離れる必要はない、恐れないで私と共にいなさい、と言われるのです。このことは、自分の罪を告白したシモンに、イエスが罪の赦しを告げられたということです。
私たちは神の恵みに与ることによって、本当に自分が罪人であることに気づかされます。そして神を畏れ、とても神さまのそばにいることなどできない。神さまから離れるしかないと思うのです。それは、神との関わりを断とうとすることです。イザヤが「わたしは滅ぼされる」と言ったように、私たちも神さまから離れなければ、神さまとの関わりを断たなければ自分は滅ぼされてしまうと思うのです。しかし神さまはそのような私たちを捕らえて離さず、関わり続けてくださいます。「恐れるな」と語りかけてくださり、「私から離れるな」と語りかけてくださるのです。神さまは自分の独り子を死に渡すほどまで徹底的に私たちに関わってくださいます。そしてイエスの十字架と復活によって滅ぼされるしかなかった罪人である私たちを赦してくださり、神のものとしてくださり、神から離れるのではなく神と共に生きる者としてくださったのです。
人間をとる漁師になる
さらにイエスはシモンに「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われました。「あなたは人間をとる漁師になる」は、原文を直訳すれば「あなたは人間を生かして捕らえるようになる」となります。マタイやマルコ福音書と違って、ルカ福音書は「漁師」という言葉を使っていません。ルカ福音書が使っている言葉は、魚を「生け捕りにする」という意味で使われる言葉です。ですからここでシモンに「あなたは人間を生け捕りにするようになる」と語られていて、「生きたままで」ということが強調されているのです。魚を「生きたままで」捕らえるのは新鮮に食べるためでしょう。しかし人間を「生きたまま」とらえるのは、その人を本当に生かすためです。そして人を本当に生かすのは主イエスによる救いに与るほかにありません。つまりルカ福音書が語る「人間をとる漁師」とは人間をとらえ本当に生かす者のことなのです。ここでは伝道が見つめられていると言えるでしょう。シモン・ペトロは多くの人をとらえ主イエスの救いに与らせました。使徒言行録はペトロの説教によって三千人が洗礼を受けたと語っています。しかし「人間をとる漁師」であれ「人間をとらえ生かす者」であれ、この言葉だけに注目するとき、伝道についての誤解を生む可能性があります。この言葉によって、自分の力で一人でも多くの人をクリスチャンにすることが、人間をとらえ生かすことであり伝道だと考えるならば、それは誤っていると言わなければなりません。この物語は決してそのようなことを語っていないのです。イエスはシモンに「人間をとる漁師になれ」と命じたのではありません。「人間をとる漁師になる」と告げられたのです。自分のスキル、自分の力に依り頼んでいたシモンが、神の言葉に聞き従ったとき、自分のスキルや力では決して手に入らない神の溢れるほどの恵みが与えられたのです。そのような神の恵みに与ったシモンが「人間をとる漁師になる」ということは、自分の力に頼るのではなくて、神の言葉に信頼することで与えられた恵みをほかの人にも分け与えていくことです。使徒言行録で三千人が洗礼を受けたのもペトロの力ではなくて、聖霊が注がれたからにほかなりません。ペトロの力ではなく聖霊の働きによってあの出来事は起こったのです。ですからこの物語は、どうしたら魚がいっぱいとれるか語っていないだけでなく、どうやったら一人でも多くの人に伝道できるか、そのノウハウを語っているのでもないのです。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われ、彼らは「すべてを捨ててイエスに従った」と語られています。「すべてを捨ててイエスに従う」とは自分の力に信頼することを捨てて、神の言葉のみに信頼して歩むということです。それは、自分のスキルは役に立たないとか、努力して身につけたスキルを捨ててしまうということではなく、自分のスキルや力に信頼することによって、神の救いの恵みに与ることはできないということです。神の言葉のみに信頼するとき、神の救いの恵みに与ることができると信じて歩むことが「すべてを捨ててイエスに従う」ことにほかなりません。
神の言葉に信頼する
そうであるならば、ペトロたちが「すべてを捨ててイエスに従った」のは彼らが特別な人であったからでも、信仰の英雄であったからでもありません。彼らはただ神の言葉に信頼したのです。私たちは、シモン・ペトロと同じように日々の営みの中で幻滅を覚えることがあります。できる限りのことを行い、心を配り時間を割いたとしても、なんの実りも得られなかった、と感じることがあるのです。そのようなとき、私たちは疲れ果てやる気を失ってしまいます。けれども私たちがやる気を失ってしまうのは、あれこれ理由をつけたとしても、根本的には私たちが神の言葉を信頼していないことにあるのです。シモンは「しかし、お言葉ですから」と言って、イエスを通して語られた神の言葉に従いました。彼は魚がいっぱいとれてからこの言葉を言ったのではありません。奇跡を見たから神の言葉を信頼したのではないのです。彼の日常にはまだなにも起こっていませんでした。彼はなお疲れを感じていたでしょうし、翌日の漁の見通しが立っていたわけでもないでしょう。それにもかかわらず、彼は「しかし、お言葉ですから」と言ったのです。この言葉に迷いや疑いがまったくなかったとは言えません。けれども彼は迷い疑いつつも神の言葉に賭けたのです。自分のプロとしての知識やスキルや経験ではなくて、神の言葉にこそ信頼したのです。自分たちの世界に閉じこもるのをやめて、神の言葉を語られているイエスに目を向けたのです。私たちは獲り損なった「魚」や獲れた「魚」にばかり目を奪われて、それに先立ってみ言葉を語られた方、しかもみ言葉しか語られなかった方に目を向けることが少なすぎるのです。イエスは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と語っただけで、ほかになにか行ったわけではありません。私たちは自分が得られたものや得られなかったものではなく、このみ言葉に、み言葉を語ったイエスに集中するのです。私たちが日々の生活の中で、幻滅し疲れ果てやる気を失っているとき「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と、このみ言葉が語りかけられるのです。
さあ、イエスと共に冒険へ
この物語は、後に使徒と呼ばれるイエスの弟子たちの物語です。使徒とは、地上を歩まれたイエスに直接会った人たちです。ですから私たちは使徒ではありません。それにもかかわらず、この物語は私たち一人ひとりの物語に違いないのです。なぜなら十字架で死に三日目に復活して天に昇られたキリストが、ペンテコステの日に聖霊を注いてくださり、その聖霊の働きによって、私たちはいつでもどこでもキリストと共にいることができるからです。そのキリストが私たちに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われるのです。神の言葉に信頼することで、私たちが思い描いていた通りのことが起こるわけではありません。私たちの思いもよらなかった驚くことが起こるのです。ですから信仰に冒険が伴わないことはありえません。私たちはキリストが語る神の言葉に信頼してキリストと共に冒険に出かけるのです。疲れ果てやる気を失いうずくまっている私たちに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とキリストは語りかけてくださっています。このみ言葉に賭けて、私たちは沖へと舟を漕ぎ出していくのです。沖へと漕ぎ出した先で、神さまの豊かな恵みが約束されていることに、勇気づけられ励まされ支えられて、私たちはなお歩み続けていくのです。この物語は、疲れ果てやる気を失っている今を生きる私たちにも、いやそのような今を生きる私たちにこそ、勇気と励ましと支えを与えているのです。