「聖霊と悪魔」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; イザヤ書 第49章22-26節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第3章20-30節
・ 讃美歌 ; 7、505
家に集まる人々
本日お読みした箇所の最初の部分には、「イエスが家に帰られると、群集がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。」とあります。この時、主イエスは「家」におられました。そして、その周りには、主イエスを求めて集まってきた群衆が押し寄せて来ていて、食事をする間もないほどだったのです。「家」というのは、大抵の場合、わたし達にとっては安らぎを得ることが出来る空間です。家に帰ると、リラックスして、その日一日の疲れを癒します。一日の仕事を終えて、帰宅して夕食をとる時というのは何よりホッとする時であると思うのです。しかし、この時の主イエスにとっては違いました。「食事をする暇もないほどであった」のです。しかし、主イエスにとって、食事も出来ないほどに忙しいという事態は、これが初めてではありません。主イエスがシモンとアンデレの家で最初に癒しを行われた時、夜中だというのに町中の人々が戸口に集まってきました。又、主イエスは、一度その場を退いて他の町や村に行き、再びその家を訪れることがありました。その時には、家にいることが知れ渡り、大勢の人が集まってきて、戸口の辺りまで隙間もないほどになったのです。そして、中風の人を連れてきた四人の男たちが、家の屋根をはがしてまでして中風の人をイエスのもとに床ごとつり下ろしたのでした。主イエスが家におられる時、いつもそこには病を癒してもらおうとする人々や悪霊を追い出してもらおうとする人々が群衆となって押し寄せてきたのです。本日の箇所の直前には、主イエスに触れようとして集まってきたおびただしい群衆に、主イエスが押しつぶされそうになり、その場を退かれたことが記されていました。おそらくこの日も、家に帰られたら「おびただしい群衆」が押し寄せて気のでしょう。この地上を歩まれた主イエスにとって、家は必ずしも安らぎの空間ではなかったのです。それはむしろ戦いの場所とも言っていいような場所だったのです。
イエスを批判する人々
主イエスを求めて多くの人が集まってきましたが、一方では、この時、主イエスの活動を快く思わない人々がいました。主イエスの働きを止めさせようとしてやってきた人もいたのです。主イエスの「身内の人たち」、母や兄弟達です。「イエスのことを聞いて取り押さえにきた」とあります。この時、主イエスは人々に追い求められる一方で、「あの男は気が変になっている」という風にも言われていたのです。イエスの身内の者達は、自分の身内のものが「気が変になっている」と言われて、いてもたってもいられずに主イエスを取り押さえに来たのです。ここで、「あの男は気が変になっている」と言っていたのがどのような人々なのかは定かではありません。しかし、主イエスに対して、否定的な判断をした人々の筆頭は、ここで、主イエスの身内の者達に続けて登場する、「エルサレムから下って来た律法学者たち」であることは間違いありません。律法学者というのは、ユダヤ教の指導者で、信仰におけるエリートでした。しかも、ここに登場する律法学者は、ただの律法学者ではなく、当時のユダヤの中心地であるエルサレムから下ってきた律法学者達でした。今まで信仰において指導的立場にあり、人々から尊敬され、自分達は信仰のことを何でも知っていると思っていた人々です。この人々は自らを神の子とする主イエスの下に民衆が集まることが赦せなかったのです。この人々は、神殿で主イエスと論争し、ついに主イエスを殺そうとする思いまで抱くことになったのです。この人々は、主イエスに対して、「あの男はベルゼブルに取り付かれている」と言い、又、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言ったのでした。主イエスは、病の人を癒し、悪霊に取り付かれた人から悪霊を去らせ、常に力強く御業を行われました。しかし、それらは、自らの業を誇り、奇跡を行うことで民衆を扇動することが目的であったのではありません。主イエスは、その宣教の初めに、「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と言われています。主イエスのなさる業はすべて、神の支配の到来を告げるためになされたものでした。そして、主イエスがヨハネから洗礼を受けた時、聖霊が降ったように、主イエスは父なる神からの霊を受けておられる方であったのです。しかし、主イエスの業によって、人々が主イエスに群がるのを好まない人々は、主イエスがなされた力強い御業に向かって、それは「悪霊の頭の力」によるものであるとするのです。神の御子として世に来て、聖霊に満たされつつ語られる主イエスの言葉と業を、悪霊呼ばわりするのです。
家の主人
ここで、律法学者達は、主イエスに向かって「ベルゼブルに取り付かれている」と言っています。ベルゼブルというのは、それに続く「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」という発言からすると、「悪霊の頭」であることがわかります。この悪霊の頭の名となっている「ベルゼブル」という言葉は、「蝿の王」という風に言われていて、映画の題名などにもなっています。しかし、実際は「家の主人」という意味があるようです。マタイによる福音書10章25節には「家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われるだろう」とあります。「ベルゼブル」という悪霊の頭は、わたし達の家を支配する霊であるのです。わたし達が、安心して過ごしているかに見えるところ、他の人との付き合いから解放される場所、そのような場所で、「悪霊の頭」「ベルゼブル」が幅を利かせているというのです。ここで、「家」という言葉において、わたし達が安らぐ場所ということだけが言われているのではありません。「家」というのは「オイコス」という言葉ですが、この言葉の派生語に「オイコノミア」という言葉があります。これは、英語のエコノミー、「経済」という言葉のもとになった言葉で、「支配」、「管理」ということを意味します。この神様が支配される世を管理することが経済であるという発想なのかもしれません。いずれにしても、「家」という言葉の背後には、わたし達が必要を満たすためにやり繰りすること、わたし達の管理、支配という意味合いが含まれているのです。家とは、わたし達が、様々なものから開放されて安らぎを得るところである共に、わたし達自身が、支配、管理を及ぼそうとしているところでもあるのです。わたし達は、そのような家を建てようとするのではないかと思います。実際の家を建てるということではなくても、心の中に、自分自身が支配する一隅を設けようとすることがあるでしょう。そのような心の家を建てて、自ら管理、支配をしようとするのです。しかし、そのような人間が支配しようとする場所こそ、ベルゼベルが働くところでもあるのです。わたし達が意識しているかどうかにかかわり無く、そこを支配するのです。この時、このベルゼベルに支配されているのは、主イエスではなく、主イエスを取り押さえようとしている身内の人々や、主イエスを悪霊呼ばわりしている、律法学者達であったのです。そのように、人間が自ら支配を及ぼそうとするところに悪霊の働きがあるのです。わたし達が、自分の支配を守ろうとして、主イエスによってこられる神の支配をも拒もうとしているのであれば、その主人こそベルゼベルなのです。主イエスが世に来られ、神の支配が来ようとも、その支配を受け入れようとしないのです。「家の主」ベルゼブルが、わたし達を支配し、あたかも、それが、本当の家の主であるかのように思わせるのです。そこでは、神の支配を悪霊として退けてしまうのです。
主イエスの喩え
このようにご自身を悪霊呼ばわりする人々に対して、主イエスはたとえを用いて語ります。これは、マルコによる福音書において主イエスが語った、最初のたとえ話です。この後に続いていく4章には、主イエスのたとえ話が連続して語られます。そこで語られる話は、どれも神の国について語っているものです。「種を蒔く人のたとえ」、「ともし火と秤のたとえ」、「成長する種のたとえ」、「からし種のたとえ」などです。特に神の国が、この世でどのように成長するのかということを示すものです。今日お読みしたたとえは、それらに先立って、神の国、神様の御支配がこの地に到来する時のことについてのたとえであると言っていいでしょう。ここには家、支配を巡る、主イエスと悪霊との争奪戦とも言うべき事態が語られています。
先ず主イエスは、ご自身を悪霊呼ばわりする人々に対して、「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪もめして争えば、その国は成り立たない。家も内輪もめして争えば、その家は成り立たない。」と言われます。律法学者達が、主イエスが悪霊の頭として様々な悪霊を追い出していると判断したのに対して、そんなことはありえないと言うのです。もし主イエスが悪霊の力で悪霊を追い出しているのであれば、一つの支配の中で内輪もめが起こり、合い争うようなことになる。そんなことをすれば、その支配は立ち行かなくなってしまう。そしてサタンと言え、「内輪もめして争えば、立ち行かず滅びてしまう」というのです。そうではなくて、これは、神のご支配と悪霊のご支配の間の全面衝突が起こっているのであって、人間を縛っているベルゼブルの力を主イエスが打ち破ろうとしているのだと語っているのです。
その上で、主イエスは「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」と言われます。神の支配の到来とは、わたしたちが支配しようとする家を巡る、聖霊と悪霊の衝突を引き起こすことです。それは主権を巡る激しい争いです。ここで、主イエスは自らを強盗にたとえています。主イエス自身、強盗のようにしてこの家にやってくるのです。悪霊の頭よりも強い方として、わたしたちの家を強力に支配している家の主を縛り上げるのです。わたし達をとりこにしている「強い人」ベルゼブルを縛りあげ、その支配から解放してくださるのです。それは、悪霊の頭としてでなされるようなことではないのです。
主イエスはこのたとえで、ご自身において、「より強い人」が到来しているのであるということを聞く人々にうったえているのです。そして、このたとえを聞くものに、主イエスが来られたことによる神の支配を受け入れるように促しているのです。神の支配が到来していることを信じるように求めているのです。
主イエスの悪霊との戦い
主イエスの歩みは、悪霊の支配と戦い続ける歩みでした。神の支配がこの地になる時、世の人々を支配する悪霊の反発に合うのです。洗礼によって、聖霊がご自身に降ってすぐにサタンの誘惑にあわれました。そして、主イエスに群がる群衆の中にいる悪霊を追い出し、黙らせました。又、主イエスを「気が変になった」「ベルゼブル」だと判断して外に追い出そうとする悪霊の力とも向かい合われました。悪霊に支配されたものたちと主イエスは向かいあい続けられるのです。結局、主イエスを求めていた群衆は、主イエスを「十字架につけろ」と叫ぶ群衆へとなっていきます。そして主イエスについて「気が変になっている」とし、主イエスの方こそ、「悪霊の頭」であり、「ベルゼベルに取り付かれている」としていた人々は、主イエスを陥れるために策を弄し、ついには、主イエスを縛り上げ、十字架へと追いやることになるのです。人々は、自分の願望を主イエスによって叶えようとしていた群衆にしても、主イエスを捕らえることによって、自らの宗教的権威を守ろうとした人々にしても、自分の支配を及ぶ家を建てようとしているのです。
しかし、このようにしてなされた十字架の業こそ、わたし達を本当の意味でベルゼベルから開放するものなのです。主イエスは悪霊、サタンに支配された人々の救いのために、十字架に赴かれたのです。そこで、自らを殺そうとする思いが起こることが分かっていながら、自らの身をもって強引に、わたし達の家に入ってこられるのです。ベルゼブルの働きによって、わたし達は、いつも心の内で、何とか、自分の家、自分の支配が及ぶところを建てようとします。しかし、主イエスは、わたし達が自分自身で支配しようとしている家の中の家に押入って下さり、戦って下さるのです。主イエスの十字架の死は、人間の支配の下で、人間の手によって、主イエスが縛り上げられているかに見えます。しかし、そこでこの方が、十字架の死を経験して下さり、その十字架の死からの復活によって、死の力に完全に勝利してくださっているのです。この主イエスの業において、本当に縛り上げられているのは、わたし達の罪、わたし達の家の主として君臨しているベルゼブルなのです。
赦されない罪
主イエスは、律法学者達に向かって語ります。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負うことになる」。ここで、人の子と言われているのは、私たち人間のことです。主イエスは先ず、わたし達の犯す罪、冒涜の言葉が全て赦されるということを述べています。しかし、それに続いて、わたし達が、永遠に赦されないで、罪の責めを負い続けなくてはならないということがあり得ることを指摘しています。ここで、主イエスは人間の罪を二種類に分けて、一方に類する罪を犯してしまったら赦されるが、もう一方に類する罪を犯した場合は赦されないということを言っているのではありません。赦される罪と赦されない罪を区別しているのではないのです。ですから、何が普通の冒涜で、何が聖霊に対する冒涜かと考えることは意味のないことです。又、自分の犯している罪は、果たして、聖霊を冒涜しているものなのかどうかと心配になることはありません。他人のなした行動を見て、あの人のなした行為は聖霊に対する冒涜に当たるなどと言うようなこともないのです。ここで言われているのは、罪や冒涜の言葉は全て赦されるということ。しかし、その赦しが与えられているのにも関わらず、それを受け入れないのであれば、その人は永遠に赦されないというのです。聖霊に対する冒涜というのは、与えられている赦しを受け取らないことです。強盗のように惜しいっている主イエスの十字架と復活によって示された神の支配を知らされながら、それを自分の外に置き続けることです。
わたし達は、時に主イエスによる罪の赦しが受け入れられない時があります。かつて犯してしまった自分の罪、自分自身で見出した、日常生活での悪事や悪意に縛られて、いつまでも罪悪感に苛まれて、そこから自由になることが出来ないということがあるのではないでしょうか。主イエスが来て下さり、多くの人が、その方によって癒されているという主の権威を知らされても、「気が変になっている」くらいにしか思えないのです。しかし、そのような中では、永遠に赦されるということを経験することはあり得ないのです。それは、自分の支配だけで、家を建てようとしているからに他なりません。自分だけで自己完結し、そこに神の支配が到来していることを無視し続けるのであれば、罪赦されることなく、永遠に罪に支配されることになるのです。時に、世の中は、そんなものだと開き直ってみることが出来るかもしれません、しかし、それは本当の命に生きていることにはなりません。
主イエスの家を建てる
私たちの下に主イエスが強引に私たちの家に押し入って下さっていることを、本当に受け入れるならば、その人は、本当の意味で全ての罪から赦されることになります。それは、主イエスによって世に来ている神の支配を受け入れることです。神の下から世に来られた、主イエスによってもたらされる、赦しを受け入れることです。
そして、神の支配を受け入れるというのは、主イエスが建てて下さる家を建てるものとされるということです。この地上における、主イエスの支配は、主イエスの十字架と復活によって終わってしまったのではありません。その支配は、主イエスによって到来した神の支配を受け入れるものたちによって続けられるのです。主なる神は、主イエスによって罪赦されたものたちに聖霊を注ぎ、そのものたちを通して、神の支配、主の家を建てておられるのです。この聖霊の働きの中で、ベルゼブルに支配されているものの罪が主イエスによって赦されていることを受け入れることによって、自分の家、自分の支配を建てることから解放されるのです。そして、主なる神が建ててくださる家に住まい、それを建てるものとされるのです。このような、神の支配を受け入れ、主イエスによる赦しを経験しつつ歩む歩みは、神様によって与えられる命に生きる歩みです。そのような主の立ててくださる家において、わたし達は本当の安らぎを得ることが出来るのです。