主日礼拝

人生の土台

「人生の土台」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; イザヤ書 第43章1-7節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第3章10-17節
・ 讃美歌 ; 50、159、455

 
土台を据えたパウロ
 「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」。コリントの信徒への手紙を書いた使徒パウロは、本日の箇所の冒頭でこう言っています。自分は、熟練した建築家として、建物の土台を据えた。その建物とは何でしょうか。すぐ前の9節に「あなたがたは神の畑、神の建物なのです」とありました。あなたがた、つまりコリントの教会の人々が「神の建物」なのです。教会に連なるキリスト信者たち、クリスチャンたちは、神の建物である、その建物が揺るぎなく立つための土台を私は据えたのだ、とパウロは言っているのです。イエス・キリストを信じて生きる信仰者の生活は、神様の建物としての歩みです。建物には土台があるし、なくてはなりません。土台は、見えないところにあります。表面に現れているのは、建物の上の部分だけです。しかし建物がしっかりと立ち続けていくためには、土台がしっかりしていなければなりません。目には見えない土台こそが、表面に現れている建物を支えているのです。その土台をパウロは据えたのです。

教会の土台は人生の土台
 ところで、パウロが「あなたがたは神の建物である」と言った時に、まず考えていたのは、信仰者一人一人のことではなくて、信仰者の群れ、共同体であるコリントの教会のことでした。教会が神の建物であり、その土台を自分は据えたと彼は言っているのです。その場合の教会は勿論建築物としての教会堂のことではありません。教会とは、教会堂のことではなくて、イエス・キリストによる神様の救いの恵みにあずかり、神の民として生きる者の群れのことです。その群れが真に神の民として歩むための土台のことが考えられているのです。けれどもその土台は同時に、私たち一人一人の人生の土台でもあります。教会が神の建物であるということは、そこに連なる信仰者一人一人が、その建物を形作る部分であるということです。その部分である私たち一人一人も、この土台の上にしっかりと立っていなければ、この建物は成り立たないのです。つまり教会の土台は、そこに連なる私たち信仰者の人生の土台でもある。このことを私たちはしっかりと受け止めなければなりません。教会には教会の土台があるが、私たちの人生はそれとは別の土台の上に立っている、というのではないのです。言い換えれば、主の日にこうして教会の礼拝に集っている私たちと、ウイークデーに社会や家庭や学校における生活をしている私たちとが、別の土台の上にいるわけではないということです。洗礼を受けて教会の一員になることによって、パウロが、熟練した建築家のように据えた教会の土台が、私たちの人生の新しい土台となるのです。教会の土台であり、私たちの人生の土台でもある、パウロが据えた土台とは何でしょうか。

土台はイエス・キリスト
 パウロは、自分のことを「熟練した建築家」と読んでいます。「熟練した」というのは、「知恵ある」という言葉です。自分のことを「知恵ある」と言うのは大胆なことだと言わなければなりませんが、しかしパウロは自分の働きを誇ってこう言っているのではありません。パウロが土台を据えたのは「神からいただいた恵みによって」です。自分の知恵や才覚で土台をこしらえたわけではないのです。彼が据えた土台は、人間が考えたり作り出したものではありません。11節に「イエス・キリストという既に据えられている土台」とあります。教会の土台であり、同時に私たちの人生の土台として据えられているのは、イエス・キリストなのです。パウロがそれを据えたというのは、イエス・キリストを宣べ伝えたということに他なりません。それは、彼の知恵や才覚によってなされたことではないし、そもそも、彼の意志や決断によることですらなかったのです。彼は、もともとはイエス・キリストを信じる信仰に敵対し、教会を迫害していた人でした。そのパウロに、生ける主イエス・キリストが出会い、彼を捕え、キリストを宣べ伝える使徒としてお立てになったのです。彼はこのキリストとの出会いによって人生の180度の転換を与えられて、今、伝道者として生きているのです。それは全て、彼に与えられた神の恵みによることでした。彼は、自分に出会って下さった主イエス・キリストをそのままに、何もつけ加えず、何も取り除かずに宣べ伝えることによって、知恵ある、熟練した建築家のように土台を据えることがでたのです。

家を建てる私たち
 この土台の上に、教会が、そしてそこに連なる私たちの人生が建て上げられていきます。10節の後半でパウロは、自分の据えた土台の上に他の人が家を建てていると言っています。それはコリント教会について言えば、パウロが最初にこの町で伝道してイエス・キリストを伝え、教会の土台を据えた。そして彼が去った後、他の人、その一人がアポロという人でしたが、それらの人々が来て教会を指導し、その土台の上に教会を築いていったということです。6節の「わたしは植え、アポロは水を注いだ」という言葉がそのことを語っているのです。私たち信仰者一人一人の人生にも同じような面があります。私たちは洗礼を受けて、イエス・キリストという人生の土台を据えられますが、その土台の上に、それぞれの人生の、それぞれに異なった家を建てていくのは私たち一人一人なのです。据えられた土台の上にどんな家を建てるかは私たちに委ねられているのです。同じことが教会についても言えます。神の建物である教会を建てているのは、パウロとかアポロという指導者たちだけではありません。そこに連なる信仰者一人一人が、教会の部分としてのそれぞれの働きによって教会という建物を建てているのです。つまり私たちは、一人一人の人生においても、また教会においても、どのような家を建てるかを委ねられている建築家なのです。10節の終わりでパウロが、「ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです」と語っているのは、コリント教会の人々にそのことを意識させるためなのです。あなたがたは皆、家を建てている建築家だ、建築家たるもの、自分がどのように家を建てているかによくよく注意しなさい、と言っているのです。「注意すべきです」と言われているのは、私たちが、この建築の業においてしばしば、建て方を間違ってしまうことがあるからです。教会を建て上げていくことにおいても、それぞれの人生を建て上げていくことにおいても、建て方を間違えてしまうことがある。そうすると、きちんとした建物は建たないし、途中でくずれてしまったりするのです。

どの土台の上に建てるか
 パウロがここで、建て方を間違えないように注意を促していることは二つあります。第一の、最も大事なことは、どの土台の上に建てるかということです。11節に「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」と言われているのはそのことです。イエス・キリストという土台が既に据えられているのに、それを無視して別の土台の上に建てるようなことがあってはならないのです。しかし、イエス・キリスト以外の土台を据えるとは、具体的にはどういうことなのでしょうか。先程も申しましたように、パウロがここで考えているのは、第一には、教会という神の家をどう建てるかということです。教会は、キリストを信じる者の群れなのですから、それを例えばお釈迦様の上に建ててしまうなどということはいくらなんでもないわけです。そうするとこの、ほかの土台を据えるというのは、パウロが宣べ伝えて据えたイエス・キリストとは違うイエス・キリストを土台にしてしまうということだと考えられます。同じようにイエス・キリストを信じると言っていても、そこで見つめられているキリストが、パウロが宣べ伝えているキリストとは全く違ったものになってしまう、ということがあったのです。

十字架につけられたキリスト
 パウロが宣べ伝えているキリストとはどういうキリストでしょうか。それは、2章2節に語られていたように「十字架につけられたキリスト」です。パウロは、コリントにおいて、この十字架につけられたキリスト以外は何も知るまいと決意して伝道したのです。彼が据えた土台とは、十字架につけられたキリストでした。ところが、パウロが去った後、別のキリスト理解が入り込んできたのです。それは、十字架抜きのキリスト、人間が模範とし、理想として追い求め、その教えを実践していくことで自らを高め、より良い者となり、栄光を獲得しようとする、そんなキリストです。そういうキリストは私たちの周囲にも沢山あります。キリストという名ではなくても、要するに、私たちが自分で自分を向上させていく、自分で自分のことを反省して改善していく、そういう道徳的な努力を助け導きその目標となるような教えです。そういう道徳的な教えは大変分かりやすいし受け入れやすいのです。そういうキリストは私たちの周囲にいるだけでなく、私たち自身がしばしば、主イエス・キリストをそのような方として受けとめ、そのキリストを土台にして自分の人生を、また教会を建てようとしているのではないでしょうか。しかしそれは、「パウロが熟練した建築家のように据えた土台」ではありません。パウロが据えた土台は、十字架につけられたキリストです。キリストが十字架につけられたのは、私たちの罪の赦しのためでした。私たちの罪がもしも、道徳的な教えによって自分で反省し改善、向上していくことで解決するようなものだったなら、キリストの十字架など必要なかったのです。しかし私たちの罪は、神様の独り子が身代わりになって死刑になって下さらなければ赦されない程深刻なものでした。だから神様は独り子主イエスを遣わして、その十字架の死による救いを与えて下さったのです。これが、十字架につけられたキリスト、パウロが据えた土台です。私たちが自分で解決することのできない罪を、神様の独り子である主イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さったことによって、神様が赦して下さったのです。私たちはそのことを信じて、その神様の恵みに身を委ねるのです。十字架につけられたキリストが土台であるというのはそういうことです。そして、この土台の上に立つ時に私たちは、主イエス・キリストの復活の恵みをも知ることができるのです。十字架につけられたキリストは、復活されたキリストでもあります。私たちの罪を背負って、身代わりとなって十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストが、父なる神様によって三日目に復活させられた、そこに、私たちの罪と死とに対する神様の恵みの勝利があるのです。十字架につけられたキリストによる罪の赦しを人生の土台として与えられる者は、復活されたキリストにおける新しい命をも、人生の土台とすることができるのです。それが、洗礼における恵みです。洗礼において私たちは、主イエスの十字架の死にあずかって罪を赦されると共に、主イエスの復活にあずかって新しい命に生きる者とされるのです。

どんな素材を用いて建てるか
 さてパウロが、「どのように建てるか」において注意を促していることがもう一つあります。それは、どのような素材を用いて建てるか、ということです。12節に「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合」とあるのがそれです。十字架につけられたキリストという正しい土台の上に建てるとしても、何によって建てるかで、建物の姿は変わって来ます。私たちが、自分の人生を、また教会を建て上げていく時に、何によって、何を素材として建てるかが問われているのです。ここには、六つの素材が並べられていますが、それらは前半の三つと後半の三つに区別されていると言えるでしょう。つまり「金、銀、宝石」と「木、草、わら」です。そのように二つに分けるのは、その後のところに、おのおのが建てた建物が「かの日」に火によって吟味される、そして、それが残るものか、燃え尽きてしまうものか、その二つのどちらであるかが明らかになるということが語られているからです。「かの日」というのは、神様がこの世の全ての者をお審きになる終わりの日のことです。ですから「吟味する火」というのも、神様による審きの火です。神様の審きにおいて、私たちの建てる建物は、「残る」ものと「燃え尽きてしまう」ものとに分けられるのです。つまり、神様の審きに耐えられるものと、そうでないものとがあるのです。そのことが、何を素材として建てるかによって決まるのです。ですから私たちは、教会を、また自分の人生の家を建てていくに際して、神様の審きに耐えられるような素材を捜し出し、吟味しなければなりません。人間の目から見て、これは立派だ、すばらしいと思われ、評価される人生が、神様の審きに耐えられるとは限りません。いわゆる、功成り名遂げた人生が、神様の目に値高いわけではないのです。むしろ社会のかたすみで貧しく目立たない人生を送った人が、しかし主を信じ、み言葉によって導かれ支えられて生きた、その人生の方が、神様の審きにおいて残るものとなるのです。教会を建て上げていく上でも、お金持ちが沢山献金をしたり、優れた能力を持った人がすばらしい働きをすることは、教会の目に見える部分を立派にするかもしれませんが、神様の目から見て、本当に教会を建て上げていく素材は、病気や老いで寝たきりの人が、日々教会のことを覚えて人知れず祈るとりなしの祈りだったりするのです。私たちは、自分の人生を、そして教会を建て上げていくことにおいて、何を用いて建てるかをよく吟味したいと思います。そこにおいて、人間の感覚や常識に捕われるのでなく、終わりの日の神様の吟味に本当に耐える素材を見出していきたいのです。そういう素材を見分けるためのこつは、神様が既に据えて下さったあの土台、十字架につけられた主イエス・キリストという土台と、その素材がしっかりかみ合うかどうか、です。土台とその上に建てられていく建物とがしっかりかみ合い、マッチしていることが大切です。十字架につけられたキリスト、つまり神様がその独り子を与えて下さるほどに私たちを愛して下さった、その自己犠牲の愛という土台としっかりかみ合い、結び合う素材によって、自分の人生を、また教会を建て上げていきたいのです。

火の中をくぐり抜けて来た者のように
 さて然し、私たちはそのように素材を吟味して家を建てていくわけですが、それでも、終わりの日の審きにおいて本当に残る家を建てることができるかというと、それはまことにおぼつかないことだと言わなければなりません。自分の人生を、また自分の連なる教会を、本当に残る、確かな素材で建て上げることができているだろうか。むしろ私たちはそこでいつも間違えてばかりいる、神様の審きにおいて燃え尽きてしまうしかないようなものしか建てることができていない、いやむしろ建てるどころか破壊するようなことばかりしているとも思えるのです。そのような私たちが、よく聞いておくべきみ言葉が、14、15節です。「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」。私たちの建てる建物が、終わりの日の審きにおいて残れば、報いを受ける。神様が私たちの働きを喜び、豊かに報いて下さるのです。それが燃え尽きてしまえば、損害を受ける。しかしその人自身は、火の中をくぐり抜けて来た者のようにではあるが、救われるのです。つまり、私たちの建てる建物は、建て方が悪ければ、素材が悪ければ、審きの火によって燃え尽きてしまう、跡形も無くなってしまう、しかし私たち自身は、その火の中から、火事場から救い出された人のようにではあるが、救われるのです。ということは、この審きの火は、私たちを焼き滅ぼす地獄の火ではないということです。私たちが自分の人生において、また教会を建て上げることにおいて、建て方を間違ってしまう、神の審きに耐えないようなものしか建てることができない、そうであっても、私たち自身は、焼き滅ぼされてしまうのではなくて、救いにあずかることができるのです。それは何故かというと、土台がしっかりしているからです。十字架につけられたキリストという土台の上にいるからです。主イエス・キリストが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さった、その恵みの中にいるからです。十字架につけられたキリストという土台の上にある限り、私たちは、終わりの日の審きの火をくぐりぬけて、復活されたキリストの新しい命、永遠の命にあずかることができるのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書43章には、主に贖われ、主のものとされたイスラエルの民に与えられた約束が記されています。その2節に、「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」とあります。主イエス・キリストの十字架による罪の赦し、贖いの恵みを土台として与えられた者は、この約束の内に生きることができるのです。そしてこの約束は、終わりの日の審きにおいても、私たちを支え続けるのです。私たちが建てる人生の建物が、また教会が、どんなに欠けの多い、問題に満ちた、燃え尽きるしかないものであっても、十字架につけられたキリストという土台の上に建てられている限り、主の救いは揺るがないのです。

揺るぎない土台の上に
 神様は私たちの人生に、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエス・キリストという確固たる土台を据えて下さいました。私たちはこの土台の上にしっかりと立って、自分の人生を、またこの教会を築き上げて行きたいのです。そのために相応しい素材を見分け、また私たち自身がこの土台としっかり結び合うことによって、神様の建物である教会のよい素材となっていきたいのです。そのことを目指す私たちの歩みは、失敗したら滅ぼされてしまうとビクビクしながら生きるようなものではありません。私たちは、神様によって、十字架につけられ、復活した主イエス・キリストという揺るぎない土台を与えられていることを感謝しつつ、この土台の上に、み心にかなう家を建てるために、喜びと希望をもって励むことができるのです。

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