夕礼拝

権威なき時代に

「権威なき時代に」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; エゼキエル書、第21章 23節-32節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第4章 31節-37節
・ 讃美歌 ; 403、355

 
序 新しい年が始まりました。みなさんもそれぞれの抱負を心の中に抱いて、新たな年を歩み始めていることと思います。命を支えられて、新たな年を迎えることができることは幸せなことだと思います。生きて新たな年を迎え、思いを新たに歩み出すことができるのは実に幸いなことです。けれどもその一方で、わたしたちはいつも心のどこかに不安を抱いているようにも思えます。これからのわたしたちの歩み、日本の行く末、世界の進む方向はどうなっていくのだろう。誰もはっきりと教えてくれる人はありません。力強くこちらに進んでいけばよいと指し示してくれる人もありません。小さなコミュニティーから政治の世界に至るまで、リーダーの不在、指導者の不足が問題となっています。本当の知恵と力をもって民を導く人がいないのです。そこでは本当の「権威」が問われているのです。まことの「権威」が求められているのです。

1 現代は「権威」というものを失った時代だといわれています。ひと昔前は「地震・雷・火事・親父」と言われ、父親が恐いもの、権威ある者の象徴のように思われていましたが、今はそういうことも言われなくなりました。この人の言うことにはとにかく従わなくてはならない、と誰もが思うような人がいなくなったのです。ある教会の青年は、牧師のところに「自分を叱って欲しい」と言ってやってきたそうです。誰も自分のために叱り、立ち返るべき場所を示してくれないのです。父親でさえ、そうすることが難しくなってきているのです。父親も自信を失っているのです。何に基づいて子どもを導いたらよいのか分からずに悩んでいるのではないでしょうか。両親による子どもの虐待が驚くほど増えているのも、親がどういう人間観を持って子どもを育てたらよいのか分からず苦しんでいることの表れではないでしょうか。この社会には、子どもの叫びだけでなく、虐待をしてしまうまでに追い詰められている親の叫びもこだましているのではないでしょうか。学校の先生も権威を失っています。なぜ援助交際や不倫がいけないことなのか、なぜ人を殺してはいけないのか、突き詰めていったところでは、はっきりと答えることができないのです。答える時の拠り所、権威が見失われているのです。新興宗教の教祖が絶対的な権威を持ち、そこに多くの優秀な若者たちが集まるのも、本当の権威を示すことができない社会の問題と深く関わっているようにも思えるのです。歴史の中に現れてきた多くの独裁者たちも、このような本当の権威を求める人々の願いや待望を、しっかりと受け止めてくれるようなそぶりをして現れてきたことを、わたしたちは忘れてはなりません。その意味で現代は、間違った指導者が権力を握りかねない危険な時代だとも言えるかもしれません。
 預言者エゼキエルが活躍した時代も、まことの権威が失われた時代でした。イスラエルの人々は主なる神が、選び出し、ご自分の宝の民としてくださった民です。彼らはエジプトで過酷な奴隷生活を強いられ、苦しめられていたところを神の導きによって救い出され、そこで主なる神と出会います。この方をまことの神として歩む幸いを知らされたのです。本当の「権威」というものを教えられたのです。ところが豊かな土地に導き入れられた後は、その大いなる恵みを忘れて、異教の神々を拝みだします。他の権威を求め出したのです。本当の権威のもとに留まり続けることができなかったのです。それゆえにエゼキエルはイスラエルに向かって神のさばきを預言しました。21章の31節で次のように言われています、「主なる神はこう言われる。頭巾をはずし、冠を取れ。これはこのままであるはずがない。高い者は低くされ、低い者は高くされる。荒廃、荒廃、荒廃をわたしは都にもたらす。かつてこのようなことが起こったことはない。それは権威を身に帯びた者が到来するまでである。わたしは権威を彼に与える」。本当の「権威を身に帯びた者」が到来すること、そのことをわたしたちもまた求めているのではないでしょうか。
 先ほどの「汚れた悪霊に取りつかれた男」も、このようなまことの権威がやってくることを求めていたはずです。彼はユダヤ教の会堂の中にいながら、汚れた霊に取りつかれていたために、ひどい苦しみに悩まされ、正気を失っていたのです。今の時代に「悪霊」などというのは迷信だ、とてもまともに受けとめることができるようなものではない、そう思われる方もあるかもしれません。けれども、もしこの悪霊とは、わたしたちの心をとりこにし、わたしたちの心を悩ませる力のことだとしたらどうでしょうか。もしわたしたちの思いが何かによって陣取られ、気になること、不安なこと、悩ましいことによって平安に生きることが妨げられているとしたら、それは悪霊に取りつかれていることになるのではないでしょうか。もしわたしたちがいつも自分を他の人と比べて、自分の方がまだましだと思ったり、逆に自分はなんてふがいなくて、つまらない人間なんだと思って、自分で自分をいじめたりするなら、その時わたしたちは悪霊に取りつかれているのではないでしょうか。人を憎んだり、見下げたり、軽蔑したりする時、そこに悪霊がいるのではないでしょうか。お金や名誉を追い求め、自分が楽しく生きることさえできればよいと願う時、悪霊が働いているのではないでしょうか。まさしく聖書が語る悪霊とは、病気であれ、体の障害であれ、平安な心を失うことであれ、どのような形で現れるにせよ、わたしたちの心を支配してわたしたちを不自由な状態に閉じ込める、まちがった権威の力にほかならないのです。
この「汚れた悪霊に取りつかれた男」はユダヤ教の会堂にいながら、これまでについぞ癒されることがなかったのです。苦しみから解放されることがなかったのです。彼の周囲に、人々を畏れさせ、従わせるような力を持った人がいなかったわけではありません。「祭司」と呼ばれる、神殿での宗教儀式を司る人がいましたし、「律法学者」と呼ばれる、神の掟を専門に研究し、解釈して民衆に伝える先生方がいました。彼らは社会的にも尊敬され、今の国会議員に近いような役職に就く者もありました。彼らも権威を持ち、神様の掟を熱心に守る人として人々の尊敬を受けていたのです。この男がいた会堂にも、こうした人々が毎日のように出入りしていたに違いありません。けれども、その中の誰一人としてこの男と深く関わりあうことはなかったのです。その苦しみを深く受けとめてくれることはなかったのです。汚れた悪霊を追い出してくれることはなかったのです。彼は悪霊に支配されたままであり、この世の「権威」というものがどんなにまやかしに過ぎないものであるか、力を持たないものであるかを一番よく知っていたのではないでしょうか。この世の権威を持つと言われている人々が、いかに頼りにならない、信頼のおけない人々であるかを思い知らされていたのではないでしょうか。悪霊の支配のもとで、彼は自由を奪われ、人格を奪われ、人間としていきいきと、喜んで生きる人生を奪われていたのです。
2 ところが、男を圧倒的な力で支配していた悪霊が、大声で叫び、激しくひきつけを起こしてしまうほどの「権威」がやってきたのです。悪霊にはその方がどなたであるのかが分かっていました。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(34節)。今までこの男の中になりを潜めて隠れていた悪魔が、ついにここで正体を現して、声を張り上げたのです。主イエスがどなたであるのかを一番よく知っている者、それは神に反逆する悪魔です。主イエスが悪魔を打ち滅ぼすために来られたこと、そのことを悪魔自身が一番よく知っているのです。主イエスがどなたであるかを言い当てることによって、実は悪魔自身もここで正体を暴かれ、主の御前に引きずり出されているのです。
 主イエスはこの悪霊に取りつかれた男を救い出すために、男と取っ組み合いをすることもなければ、映画に出てくる悪霊払いのような魔術やまじないを使うこともありませんでした。武器や弾薬を用いることもありませんでした。ただ一喝、悪霊を叱りつける言葉を発したのです、「黙れ。この人から出て行け」(35節)と。それはまことの「権威と力をもった命令」でした。悪霊に有無を言わせぬ強力な言葉でした。この言葉によって、悪魔の霊はそれまで不法占拠していたこの男から追い出され、逃げ出していったのです。しかも男に何の傷も負わせることができずほうほうの体で出て行かざるを得なかったのです。男を傷つけていくという、負け惜しみのための最後のあがき一つすらなし得ぬままに追い出されていったのです。何の条件もない、完全な無条件降伏です。主イエスの言葉は、それまでこの男に対して何もなし得なかったうわべだけの虚しい言葉とは違ったのです。それまでこの男を救い出せなかったみせかけの権威ではなかったのです。まことの「救いの言葉」、まことの「権威」が、このお方と共にあったのです。いや、このお方ご自身が神の「救いの言葉」そのものであり、まことの「権威」そのものであったのです。今この男の中には、悪魔の支配を押しのけて、神のご支配が実現したのです。それゆえに、人々は皆それまでに出会ったことのない「権威」を目の当たりにして驚いたのです、「この言葉はいったい何だろう」(36節)。それまでに聞いたことのない新しい言葉、出会ったことのない新しい権威を目の当たりにしたのです。

結 主イエスは今、わたしたちの中に住み着いている悪霊に対してもおっしゃってくださいます、「黙れ。この人から出て行け」と。主イエスが十字架におかかりになり、死の中から甦られたのは、悪の支配からわたしたちを解放し、神のご支配をわたしたちの中にも、この世界の中にも実現するためであったのです。あの男のように長い間、悪霊に悩まされ、自分を傷つけ、まわりの人も傷つけながら生きているのがわたしたちの偽らざる姿です。けれどもその悪霊を追い出し、まことの神のご支配がやってきたことを主イエスご自身が現してくださっているのです。礼拝において神の言葉を聴く時、わたしたちはこの悪霊を滅ぼし、わたしたちを無傷の状態で神のものとして取り返してくださった恵みの大事件を知らされるのです。「神の大いなる人質救出作戦」の中にわたしたちが巻き込まれていることを知らされるのです。誰もが深いところで求めている本当の権威を知らされ、この権威の下に歩む喜びと幸いを味わうのです。この権威に基づいて、人間の生き方も、子どもの導き方も、社会の進むべき方向も、新しく示され、照らし出されるのではないでしょうか。本当の権威を知らないゆえに悪霊に悩まされているこの世界に向かって、わたしたちは主イエスにおいて実現しているまことの権威を証するように招かれているのです。
今日の夕礼拝は、神奈川連合長老会の青年修養会開会礼拝をも兼ねて守られています。この修養会においてわたしたちがまことに主イエスと「出合」うことができるように、「権威と力を持った言葉」を聴く幸いに与かることができるように、共に祈りを合わせたいと思います。

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