主日礼拝

断捨離

「断捨離」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第55章6-7節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第18章18-30節
・ 讃美歌:294、352、513

誠実な問いには誠実に答える
 「ある議員がイエスに、『善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』と尋ねた」。と本日の箇所は始まっています。以前にも同じことを主イエスに尋ねた人がいたことを私たちは読んできました。10章の25節です。そこでは、ある律法の専門家が「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたのです。本日の所と同じ質問ですが、10章の律法の専門家は「イエスを試そうとして」この質問をしたと語られています。イエスが律法に即した正しい答えをするかどうか試してやろう、という悪意をもって問うたのです。しかし本日の箇所に出て来る「ある議員」は、もっと純粋な気持ちからこの問いを発したようです。主イエスに向かって「善い先生」と語りかけていることからもそれが伺えます。また主イエスのお答えからもそのことが感じられます。10章では主イエスは「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と逆に問い返しておられます。律法の専門家を、逆に主イエスが試すような返答になっているのです。しかし本日の所ではそのように問い返すのではなくて、この人の問いに正面から向き合って答えておられます。誠実な、真剣な問いには、誠実に、真剣に応えて下さる主イエスのお姿がここに描かれています。

恵み深い神
 主イエスは先ず、彼が「善い先生」と言ったことに対して、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」とおっしゃいました。このお言葉は、「善い」ということの意味を正しく理解しないと捉え方を間違ってしまいます。例えば、神お一人のみが罪のない正しい方であって、それ以外の、私も含めた全ての者は罪人だ、というふうに捉えてしまうのは間違いです。この「善い」は、罪がない、という意味ではなくて、恵み深い、ということです。その「恵み深い」とは、ここの文脈で言えば、「永遠の命を与えて下さる」ということです。永遠の命を与えて下さる恵み深い方は神お一人だ、と主イエスはおっしゃったのです。
 この議員は、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問うています。「何をすれば永遠の命を獲得することができるでしょうか」ではないことに注目しなければなりません。永遠の命は、獲得するものではなくて受け継ぐものだということを彼は知っているのです。受け継ぐとは、遺産として受け継ぐ、継承する、ということです。そのためには、神様が自分にそれを受け継がせてくれなければなりません。つまり、永遠の命は自分の力で得るものではなくて、神様が、その恵みによって与えて下さるものなのです。それゆえにこれは、17節までの所に語られていた「神の国を受け継ぎ、そこに入る」と同じことを意味しています。神の国も、神様によって入れていただかなければ入ることができません。そこに入れていただけるのは、子供のように神の国を受け入れる人だ、ということが17節までの所に語られていました。またそれは、その前の14節の「義とされる」とも同じことです。義として下さるのも神様お一人なのです。9~14節には、神様が義として下さる、正しい者と見なして下さるのは、自分は正しい人間だと思って他人を見下しているファリサイ派の人ではなくて、「神様、罪人の私をお赦しください」とひたすら祈った徴税人だった、ということが語られていたのです。これらの、「義とされる」も「神の国に入る」も「永遠の命を受け継ぐ」も、皆同じ、神様の恵みによって与えられる救いを意味しているのです。本日の所でこの議員は、その神様の恵みによる救いを得るためには何をしたらよいかと主イエスに問うたのです。主イエスならば、そのための特別の道を教えてくれるのではないかと期待したからです。しかし主イエスはそれに対して、「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」とお答えになりました。永遠の命をあなたに受け継がせることができる恵み深い方は神お一人であって、あなたはこの神の恵みをこそ求めるべきだとおっしゃったのです。

十戒の教えによって
 そして主イエスは、「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」とおっしゃいました。つまり、神様の恵みを得るための道は既に示されている、掟、律法があるではないか、私に新たな道を尋ねるのではなくて、この既に示されている道を歩みなさい、ということです。
 ところで主イエスがここで既に示されている道として語っておられるのは、十戒の後半、第五から第九の戒めです。十戒の本来の順序では、父母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、となります。十戒の中のこれら五つの戒めだけを主イエスがお示しになったのは何故なのでしょうか。それは、21節のこの議員の答えを引き出すためだったと言えるでしょう。彼は「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言ったのです。これらの戒めは、ユダヤ人が物心つく頃から徹底的に叩き込まれているものです。人々に尊敬される社会的地位を築いているこの人は、人一倍これらの戒めを大切にし、きちんと守ってきたのです。しかも主イエスが挙げた五つの戒めは、それを守っていることが目に見える形で現れるものばかりです。ですから彼も自信を持って「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言うことができたのです。その彼の答えを受けて、主イエスは「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」とおっしゃいました。このことこそ、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問うた彼に主イエスが語ろうとしておられた中心的なことなのです。

あなたに欠けているもの
 主イエスは「あなたに欠けているものがまだ一つある」とおっしゃいました。つまり、十戒をきちんと守って生きているあなたにもう一つ欠けているのが、持ち物を売り払って貧しい人々に施すことだ、とおっしゃったのです。それは、あなたがしている善い行いにはまだ欠けがあるから、もう一つこの善い行いを加えなさい、そうすれば神様の恵みを得るための条件が満たされて、永遠の命を受け継ぐことができる、ということなのでしょうか。そうではないと思います。主イエスがここで語っておられるのは、もうちょっと足りない所を補えということではなくて、神様の救いにあずかり、永遠の命を受け継ぐためには、根本的な発想の転換が必要だ、ということなのではないでしょうか。
 ここと同じようなみ言葉を既に私たちは読んできました。12章33節です。そこにはこうありました。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」。この12章のみ言葉は、「何を食べようか、何を着ようかと思い悩むな」という教えの中に位置づけられています。天の父である神様があなたがたを養い、必要なものを与えて下さるのだから、その神様の恵みに信頼して、思い悩むことなく歩みなさい、と教えられているのです。「自分の持ち物を売り払って施しなさい」という教えはその中に置かれています。それは、持ち物を売り払って施すという善い行いによって救いを獲得しなさいと教えるためではありません。そうではなくて、神様が天の父として養い、守って下さるのだから、あなたがたはもはや自分の持ち物に頼る必要はない、むしろ自分のものを売り払って施すことによって、何も頼るもののない無一物となって、ただ神様の恵みにのみ依り頼んで生きる者となりなさい、ということです。「富を天に積む」というのもそういうことです。つまりそれは善い行いをすることによって神様のもとに自分の財産を積み、天国銀行の預金額を増やすことができる、そうすれば後で救いという利息付きでそれを返してもらえる、ということではありません。そうではなくて、天の神様にこそ依り頼み、心を神様にのみ向けて生きることこそ、「富を天に積む」ことです。12章34節には、「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」と語られています。富をどこに積むかは、心をどこに置くか、何を一番大切なこととして生きるか、ということです。地上の富、つまり自分がどれだけの財産を持っているか、あるいはどれだけ善い行いをすることができるか、奉仕に生きることができるか、そういうことに依り頼み、それを一番大切とするのではなくて、神様とその恵みにこそ依り頼み、神様との関係を一番大切なこととして生きることが、富を天に積むことなのです。本日の所で主イエスがこの議員にお語りになった、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」というみ言葉もそういう意味です。つまり主イエスが「あなたに欠けているものがまだ一つある」と言っておられるのは、財産を売り払って施しをするというもう一つの善い行いではなくて、自分の持っているもの、あるいは出来ることによって神様の救いを手に入れようという思いを捨てて、ただ神様の恵み深さに依り頼み、信頼して生きることなのです。そしてそのようにただ神様にのみ信頼して生きる者となるために、持っているものを全て売り払い、捨て去って、貧しい人々に分けてやりなさい、と主イエスは言っておられるのです。それらを持ったままでは、神様にのみ依り頼んで生きることはできないからです。つまり主イエスがここで彼に求めているのは、もう一つの善い行いを得ることではなくて、今持っているものを手放し、捨てることなのです。

断捨離
 本日の説教の題を「断捨離」としました。これは、ある主婦が提唱して評判になり、今大変流行っている言葉です。もともとはヨガの世界からの言葉だそうですが、まつわりついてくるいろいろなものとの関わりを断ち、溢れかえって仕舞う所に困る多くのものを捨て、自分を縛り付けているしがらみから離れることによって、生活をすっきりとさせ、シンプルにしようというものです。この言葉を本日の題にしたのは、主イエスがここで教えておられること、この議員に、そして私たちに求めておられることこそ「断捨離」だと思うからです。持っているものを全て売り払う、それは究極の断捨離です。私たちはいろいろなものを持っています。大してお金持ちではなくても、いろいろな物が周りに溢れています。そしてそれらが私たちの生活にまとわりつき、身動きがとれなくなっていたりします。そういう持ち物を全て売り払ってしまうことによって、生活をすっきりとさせることができます。また私たちはいろいろな人間関係の中で、そのしがらみの中で、いろいろな立場や役割を負って生きています。「持っているものをすべて売り払う」というのは、そういうしがらみから離れ、自由になることをも意味していると言えるでしょう。そういう断捨離を主イエスは勧めておられるのです。そしてそれは何のためかというと、「それから、わたしに従いなさい」ということのためです。主イエスに従っていくこと、それがこの断捨離の目的です。いろいろなもの、財産、人間関係のしがらみを持ったままでは、私たちは主イエスに従っていくことができない、自分が持っている財産や人間関係、地位や立場が邪魔をするために、また同時に私たちの方もそれらのものに依り頼み、固執してしまうために、神様のみに依り頼み、主イエスの弟子として従っていくことができないのです。それらのものを断ち、捨て、離れることによって、身軽になって主イエスに従っていく、そういう断捨離を主イエスはこの議員に、そして私たちに勧めておられるのです。

誰にもできない断捨離
 「しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである」。彼は主イエスのこの断捨離の勧めを受け入れることができませんでした。それは大変な金持ちだったからだと語られています。大金持ちである彼は、自分の全財産を捨てることができなかったのです。彼がそのことを非常に悲しんだという所に、主イエスの教えを真剣に受け止めようとしたこの人の誠実さが示されています。「そんな教えは受け入れられない」と怒って立ち去ったのではないのです。主イエスは彼が非常に悲しんでいるその姿を見て「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とおっしゃいました。ここに、「永遠の命を受け継ぐ」ことと「神の国に入る」ことが同じことを意味していることが示されています。財産のある者が断捨離をして主イエスに従っていく者となり、神の国に入ることは、らくだが針の穴を通るよりも難しいことなのです。それを聞いた人々は、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言いました。「永遠の命を受け継ぐ」は「神の国に入る」と言い換えることができ、さらにそれは「救われる」と言い換えることができるのです。この人々の反応から分かることは、この断捨離が難しいのは大金持ちだけではないということです。この人々が皆大金持ちだったわけではないでしょう。しかし彼らは「それでは、だれが救われるのだろうか。だれも救われないのではないか」と思ったのです。「自分はあの議員ほど金持ちではないから、自分ならいろいろなものを捨てて、断捨離をして、救いにあずかることができる」と思った人はいなかったのです。つまり、主イエスが勧めておられる断捨離は、金持ちだろうと貧乏人だろうと、誰にも出来ないようなことなのです。なぜならそれは、自分が主人となって、自分のために生きることをやめること、自分中心の思いを断ち、それを捨て、そこから離れることだからです。
 「断捨離」を提唱した人の本をパラパラと立ち読み程度に読みましたが、その人が考えているのは、断捨離によって、モノが主人であるような生活から、自分が主人である生活を取り戻すということです。あるいは、それまで他人の思いや価値観によって流されたり振り回されたりしてきたのをやめて、自分の思いと価値観をはっきり主張していく、ということです。その本の中には、そのようにしてみたところ、自分を最も束縛していたのは夫であったことに気付き、夫を断捨離した、つまり離婚した、という話も載っていました。確かに、粗大ゴミ、などと呼ばれることもあるわけで、世の奥様方にとって断捨離の第一の対象は夫なのかも知れません。世間で言われている断捨離とはこのようなものです。つまりそれは自分が主人となり、自分の思いや主張を貫いて生きるために生活を整理して、邪魔になるしがらみを断ち、不要なものを捨て、束縛となるものから離れることなのです。そういう断捨離を求めているなら、主イエスのこのみ言葉を受け入れることはできません。主イエスの前から、悲しんでか、あるいは怒ってか、立ち去るしかありません。主イエスが言っておられるのは、まさにそのような、自分が主人になろう、自分の思いを通そうという思いを捨てて、主イエスに従ってきなさい、ということなのです。それこそが、本当に意味ある断捨離です。しかしこの本当に意味ある断捨離に生きることができる人はいません。「それでは、だれが救われるのだろうか」という人々の感想がそれを語っています。私たちも同じように思います。財産を全て売り払って貧しい人々に分けてやる、そして無一物になって主イエスに従っていく、などということは自分にはできない、そうしなければ救われないというなら、いったい誰が救われることができるのか、と思うのです。私たちは、自分を捨てることができない、自分への固執を断ち切ることができないのです。

神にはできる
 しかし主イエスはこれに対して、「人間にはできないことも、神にはできる」とおっしゃいました。このお言葉は二つのことを語っています。一つは、「人間にはできない」ということです。主イエスが言っておられるような断捨離に生きることは、人間にはできない。そのことを主イエスご自身も認めておられるのです。しかしこのお言葉はもう一つのこと「神にはできる」ということをも語っています。このことは人間にはできないが、神にはできる、神のお力が働く時に、このことが可能となるのだ、と主イエスはおっしゃるのです。財産のある者、つまりいろいろな意味で自分の持っているものに依り頼み、それに固執し、それを手放すことができずにしっかり握りしめている者が、その手を離し、神様に自分の身を委ね、神様にのみ依り頼んで生きる者となる、そしてそれまで自分が握りしめていたものを、隣人のために、貧しい人々のために、苦しんでいる人々のためにささげ、用いていく、そういうことが、神様の力によって可能となるのです。そのために、主イエス・キリストはこの世に来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架の苦しみと死とを引き受け、私たちの罪の赦しを成し遂げて下さったのです。私たちは今、その主イエスの御苦しみと死とを覚える受難節、レントの時を歩んでいます。独り子主イエスを私たちのために十字架の死にまで至らせて下さった父なる神様の恵み深さと、主イエスを死者の中から復活させ、罪と死とに勝利して新しい命、永遠の命を与えて下さった救いの力とを私たちは示されているのです。人間の力によってはできなくても、この神様の救いの力によって私たちは、自分の物を捨てて主イエスに従い、神様の恵みにこそ依り頼み、信頼して生きる者、天に富を積む者となることができます。今、東北関東大震災とそれによる津波の被害、そして原発の事故の三重の苦しみによって、不安と絶望が私たちを取り巻いています。その中で私たちが、神様の恵みに信頼し、依り頼んでいるがゆえに、自分のものを捨てて困難の中にある人と分かち合い、そのようにして主イエスに従っていくことによって、希望のともし火を掲げることができるように、神様の力を祈り求めたいと思います。

主イエスのみ言葉に励まされて
 弟子のペトロは「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言いました。マタイによる福音書の同じ箇所を見ますと、ペトロのこの言葉は、「では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と続いています。私たちは自分の物を捨てて従ってきました。その私たちには何がいただけるのですかと、主イエスにご褒美をねだっているような言葉です。そんな願いはよろしくない、永遠の命は、救いは、ただ神様の恵み深いみ心によって与えられるのであって、従ってきたことのご褒美として求めることができるようなものではない、というのが、これに対する正しい答えです。しかし主イエスはペトロのこの不適切な言葉に対して、「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」とおっしゃいました。神の国のために自分のものを、自分が大事にしているものを捨てて、主イエスに従っていくなら、この世においてその捨てたものの何倍もの報いを受けるし、後の世、この世の終わりに実現する神の国において、永遠の命にあずかることができる、と約束して下さったのです。私たちは、この主イエスの約束のみ言葉に励まされて、主イエスに従っていくための断捨離を実践していきたいと思います。それによって、今私たちが全力を尽してなすべき、大震災の被災者への支援をしていきたいと思います。あの地震や津波によって直接の被害を受けなかった私たちは、これからかなり長期にわたって、想像を絶する被害の中に置かれている人々のことを思い、私たちの生活をきりつめ、節約をし、できるだけのものをささげて、苦しみを分かち合っていくことが必要です。そのために、自分の生活を見直しなさい、あなたの持っているものを、その全てでなくてもよいから、苦しみの中にある人々に分けてあげなさい、そのようにして、十字架への道を歩んだ私に従って来なさい、そのように歩むならば、あなたがたは手放しささげたものの何倍もの恵みと喜び、祝福を受けることができるし、恵み深い天の父である神が、永遠の命をあなたがたに受け継がせて下さる、主イエスは今このみ言葉によって私たちにそのように語りかけておられるのではないでしょうか。

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