主日礼拝

しなければならないこと

「しなければならないこと」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: レビ記 第19章13-18節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第17章1-10節
・ 讃美歌:22、151、543

いくつかの教えが並べられている
 ルカによる福音書を連続して読んでおりまして、本日から第17章に入ります。本日の1~10節は、主イエスがおりおりに語られた教えを集めた所です。どのような教えが集められているのかを先ず見てみたいと思います。1、2節には、小さな者の一人をつまずかせるぐらいなら、首にひき臼を懸けられて海に投げ込まれる方がましだ、という教えが語られています。3、4節は、兄弟が罪を犯したら戒め、そして悔い改めたら赦してやりなさい、という教えです。5、6節は、「信仰を増してください」という願いに対して、からし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木に「抜け出して海に根を下ろせ」と命じてもその通りになる、と教えられています。そして7節以下には、主人と僕というたとえを用いて、信仰者のあり方を教えておられます。これらの教えが並べられているわけですが、同じような教えが他の福音書にもあります。ここには「赦し、信仰、奉仕」という小見出しがつけられていますが、その下の括弧の中にその並行箇所が示されていて、マタイ福音書の18章やマルコ福音書の9章があげられています。これらの他にも、ここと同じような教えが語られている所があります。それぞれ違う文脈の中で、似たような教えが語られているのです。つまりここには、主イエスがいろいろな場面で、いろいろな文脈の中でお語りになった教えが集められているわけですが、この福音書を書いたルカは、これらの教えにあるつながり、一貫性を見ていると思います。それはどういうつながりなのか、つまりルカはこれらの教えをどういう視点で集め、並べているのか、そのことをご一緒に考えていきたいと思います。

誰に対して語られているのか
 先ず確認しておきたいのは、これらの教えが誰に対して語られたのか、ということです。1節に「イエスは弟子たちに言われた」とあります。これらの教えは弟子たち、主イエスに従っている人々、つまり信仰者に対する教えなのです。これまで読んできた16章も、その1節に「イエスは、弟子たちにも次のように言われた」とあり、主に弟子たちを相手とした教えでした。しかしそこにはファリサイ派の人々もいてその話を聞いており、主イエスをあざ笑ったことが途中に語られていました。しかしこの17章の1~10節は、そのような者たちのいない所で、弟子たちのみを相手として語られた教えであると思われます。また5節には「使徒たち」という言葉が出てきます。「使徒」とは「遣わされた者」という意味の言葉で、基本的には、主イエスの復活の後、弟子たちが主イエスによって遣わされて、主イエスによる救いを宣べ伝えていった、その弟子たちに対して用いられる言葉です。この時点での弟子たちは、厳密に言えばまだ「使徒」とは言えないのです。しかしルカ福音書は時々、先取りする形で、弟子たちのことを「使徒」と呼んでいます。9章10節がそうでした。9章は、主イエスが12人の弟子たちを、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために派遣なさったという所ですが、その派遣された弟子たちのことが「使徒」と呼ばれているのです。つまりルカはこの弟子たちの派遣に、後に復活された主イエスによって使徒たちが派遣されたことを重ね合わせて見ているのです。本日の箇所に「使徒たち」と語られているのも同じ思いによってであると言えるでしょう。つまりルカは5節の「わたしどもの信仰を増してください」という弟子たちの願いに、後の教会の使徒たちの願いを、そしてその使徒たちの指導の下に今主イエスを信じ、主イエスによって世へと派遣されている自分たちの願いを重ね合わせ、それに対する主イエスのみ言葉を、自分たちに対して語られたみ言葉として聞いているのです。ルカはそのように現在の自分たちの信仰の歩みを弟子たちの姿に重ね合わせつつここを書いています。そういう意味でもここは、もっぱら弟子たち、主イエスに従う信仰者たちに向けて語られているのです。私たちはここから、主イエスを信じる信仰者として生きるとはどういうことかを教えられるのです。

主の僕として生きる
 主イエスを信じる信仰者として生きるとはどういうことか、その根本的なことが7節以下に語られています。7節以下を先に読みたいと思います。「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合」とあります。この「僕」というのは、雇い人ではなくて奴隷のことです。奴隷を使って畑仕事や家畜の世話をさせることは当時珍しいことではありませんでした。奴隷を使っている人は、「その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか」と主イエスは言っておられます。これは別に奴隷を虐待しているということではありません。奴隷というのはそういうものなのです。日中は畑仕事や家畜の世話をして、帰って来たら今度は主人の食事の用意をし、給仕をする、そういうことを全て終えてからようやく自分の食事をすることができるのです。そういう僕と主人の関係が9節で「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか」と言い表されています。奴隷はその労働に対して主人に感謝されることを期待すべきものではないし、主人は奴隷の労働に対して給料を払う必要もない、それが主人と奴隷の関係なのです。これは奴隷制度が良いとか悪いとかいう話ではありません。当時の人々にとっては、こういうことが当たり前だったのです。この当たり前のことを確認した上で主イエスは、「あなたがたも同じことだ」とおっしゃいました。何が同じなのでしょうか。「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合」と語り始められたところでは、「あなたがた」は奴隷を使う主人の立場にいることが前提とされていました。弟子たちの中にはそういう人もいたのでしょう。しかし「あなたがたも同じことだ」と言われているのは、僕、奴隷としての立場が同じだということです。あなたがたはこの僕と同じなのだ、それゆえに、「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」と主イエスはおっしゃったのです。ここに、主イエスを信じる信仰者として生きるとはどういうことかの根本が示されています。信仰者とは、主イエスの僕として生きる者なのです。僕は、先ほども申しましたように雇い人とは違います。雇い人は、雇い主に労働を提供し、その対価、見返りを受けるのです。しかし僕は、給料や見返りを求めて働くのではありません。主人の感謝すら期待すべきではないのです。僕は命じられたことは何でもしなければなりません。そしてそれを全て果たしたとしても、それは何ら立派なこと、褒められるべきことではなくて、「しなければならないことをしただけ」なのです。信仰者として生きるとは、主イエスの、そして主イエスの父であられる神様の、このような僕として、主人に仕えて生きることなのです。

主に仕えて生きる
 本日の午後、教会全体研修会を行ないます。その主題は、「主に仕えて生きる」です。ルカによる福音書を連続して読んで来て、本日、この主題による研修会を行うに先立って守られる礼拝においてこの第17章1~10節を読むことになったのは不思議な導きであると感じています。主に仕えて生きるとは、主の僕として生きることです。主イエス・キリストを信じて生きる信仰者は、主イエスの、そして神様の僕です。私たちは、主人であられる主イエスに命じられたことをするのです。そしてそれに対する見返りを求めたり、褒められることを願うのではなくて、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言うのです。それが信仰者として生きるということです。「主に仕えて生きる」ことの根本は、このことをしっかりわきまえることであり、またこのことをしっかりわきまえることによってこそ、「主に仕えて生きる」ことができるのです。
 さてそれでは、主人である主イエスが、僕である私たちにお命じになること、私たちが「しなければならないこと」とは何でしょうか。それが1~4節に語られていると言えると思います。つまりルカはここに、主イエスの僕として生きる私たち信仰者がしなければならないこと、私たちの主人である主イエスが私たちに命じておられることを語っているみ言葉を集め、並べているのです。

つまずかせる者の不幸
 1、2節には、「これらの小さい者の一人をつまずかせる」者は不幸だ、ということが語られています。「不幸だ」というのは、幸福か不幸か、運がいいか悪いか、ということではありません。このようにならないように気をつけなさい、ということです。「小さい者の一人をつまずかせる」者になるな、と主イエスは命じておられるのです。つまずかせるとは、人がつまずいて転んでしまう原因となる、障害物を置いて邪魔をする、ということです。そこで見つめられているのは勿論信仰の歩みにおいて、ということです。人の信仰の歩みの邪魔をし、その人が神様を信じ信頼して喜んで神様に仕えて生きることができなくしてしまうこと、それがつまずかせることです。信仰者として生きるための元気や勇気を失わせることと言ってもよいでしょう。1節には「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である」とあります。信仰者として生きていく中で、つまずきは避けられない、つまりその歩みが妨げられ、元気や勇気を奪われてしまうようなことは必ず起ってくるのです。いつも順風満帆で、元気に喜んで神様に仕えていくことができる、などという信仰者はいないのです。信仰の歩みには、様々なつまずき、障害が生じます。しかしそれをもたらす者は不幸である、と主イエスは言っておられます。ただでさえつまずきに満ちた中を歩んでいる仲間の歩みを、自分がつまずかせ、その人が神様を信じ、喜んで神様に仕えて生きることができなくしてしまう、信仰の元気や勇気を失わせてしまうようなことをしてはならないのです。

小さい者の一人を
 「これらの小さい者の一人を」とあることにも注目しなければなりません。つまずきに陥るのは多くの場合小さい者、弱い者です。それは社会的地位がどうとか、経済的に豊かであるか貧しいかということではありません。信仰が小さく弱い人がつまずくのです。それらの人々をつまずかせるのは、信仰が大きく強い人です。強い信仰を持っている人が、その信仰を言わばふりかざして、信仰者たるものこうでなければならない、と言って、そのような強い信仰に生きることのできないでいる小さく弱い人を批判し、傷つけ、それによって勇気や元気を奪い、つまずかせるのです。主イエスは、ご自分に従い仕える信仰者たちに、つまり私たちに、そのように小さく弱い人をつまずかせることのない者となることを求めておられます。主の僕として生き、主に仕えることにおいて第一に考えなければならないのはこのことなのです。そしてこれは、先ほどの、信仰者は雇い人ではなく僕である、ということと結びついています。今、強い信仰を持っている人が小さく弱い人をつまずかせるのだと申しました。自分の信仰をふりかざし、信仰者たるものこうでなければならないと言う人は、雇い人としての感覚で生きているのです。つまり雇い人は、仕事をできるだけ立派にこなし、成果をあげ、それによって雇い主に褒めてもらい、給料をあげてもらおうとします。仕事がどれだけできるかによって、雇い人の価値が決まるのです。信仰者も時として、神様に対してそのような思いを持ってしまいます。信仰者として少しでも立派になり、よい成果をあげ、神様に褒めてもらおうとする、価値の高い者になろうとする、そういう思いによって、自分の信仰と実践を誇り、自分に比べて信仰が小さくて弱い人を批判したり蔑んだりするようになるのです。しかし私たちは、神様の雇い人ではありません。僕です。僕は、自分の仕事を誇ることも、それによって主人に褒められることも、ましてや何かの酬いを期待することもできない者なのです。僕はどんなに働いたとしても、「しなければならないことをしただけ」なのです。そのことを忘れ、自分が神様に労働を提供し、その見返りを求めることができる者であるかのように思ってしまう時に、私たちは信仰者としてのあるべき姿を失うのです。つまり主の僕ではなくなってしまうのです。そしてそれによって、小さく弱い者をつまずかせる者となってしまうのです。ですから先ほど申しました「強い信仰を持っている人」というのは、実は、信仰者のあるべき姿を失い、「しなければならないこと」を忘れた者です。「強い信仰」というものがもしあるとしたらそれは、自分が僕であることをしっかりわきまえており、また信仰の兄弟姉妹の一人一人が自分と同じ主の僕であることを認め、その人をも僕として用いておられる主のみ心に従い、自分に与えられている務めを果たすと共に、主がその人にもその人に相応しい務めを与えておられることを認めて、その人と共に歩む、ということなのです。つまずきをもたらすことのない者となるためには、主の僕であることに徹することが必要なのです。

戒めと赦し
 3、4節には、「もし兄弟が罪を犯したら」ということが語られています。その時には、「戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」とあります。信仰の兄弟姉妹の間で起る罪にどう対処するか、ということです。これは私たちにとってもまことに身近な、現実的な、そして大変難しい問題です。主イエスはそこで先ず、「戒めなさい」と言っておられます。罪をそのままにしたり、見て見ぬふりをしてしまってはいけない、ということです。きちんとそれを指摘し、戒め、悔い改めを求めることを主はお命じになっています。罪をスルーして表面的に仲良しに見える交わりを築くことは主の求めておられることではないし、主の僕として生きることにはならないのです。しかし兄弟の罪を戒めることにおいて忘れてならないのは、「悔い改めれば、赦してやりなさい」ということです。戒めるのは、赦すためです。赦すことによって良い交わりを回復することこそが目的なのです。この目的を見失って、ただ罪を責め、断罪することだけになってしまってはならないのです。主イエスはここでさらに、「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」と言っておられます。これは、兄弟が自分に対して犯した罪をどうするか、ということです。罪とか赦しということは、そこにおいて初めて具体的現実的な事柄となるのです。主イエスは、その兄弟が、「悔い改めます。ごめんなさい」と言ってくるなら赦してやれ、そしてそれを一日に七回繰り返しても赦してやれ、とおっしゃいます。一日に七回「悔い改めます」と言う、そんなのは本当に悔い改めていることにはならない、と私たちは思います。ですからこれは実は、マタイ福音書の18章において「七の七十倍までも赦しなさい」とおっしゃったのと同じことで、兄弟の罪を無条件に赦しなさい、ということです。兄弟姉妹に対して、そのような無条件の赦しの心を持つことを主イエスは私たちに求めておられるのです。そのような赦しの思いの中でこそ、本当に相手の罪を戒めることができる、ということでしょう。赦すことは、戒めないことではありません。戒めることと赦すことの両方がしっかりとなされるような関係、交わりを、信仰に生きる兄弟姉妹の間で築くことを主イエスは求めておられるのです。それがどちらかだけになってしまうならば、つまり赦すことなしに戒めるだけになったり、戒めることなしに赦すだけになるならば、兄弟姉妹をつまずかせることになります。赦しを欠いた戒めは、主イエスによる赦しに生きる信仰を妨げ、元気や勇気を奪います。また戒めることを欠いた赦しは、その人が罪を悔い改め、主の赦しにあずかって生きることを妨げ、信仰の歩みを滞らせるのです。1、2節の「小さな者の一人をつまずかせるな」という教えと、3、4節の「兄弟の罪を戒め、赦しなさい」という教えはそのように深く結び合っているのです。

信仰が「ある」か「ない」か
 5節には、後の使徒たちである弟子たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と主イエスに願ったことが語られています。小さく弱い者をつまずかせるなという教えも、無条件に赦すという思いをもって兄弟を戒めよという教えも、どちらもとても難しいことだと私たちは感じます。信仰がよほど増し加えられなければ、とてもそのような生き方はできないと思うのです。ですから、4節までのみ言葉を聞いた弟子たちがこのように願った気持ちはよく分かります。しかし主イエスはそれに対して、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」とおっしゃいました。「からし種」は粉のように小さな粒です。その一粒ほどの信仰があれば、驚くような奇跡を行うことができる、というのです。このことによって主イエスが言おうとしておられるのは、信仰はその量がどれだけ増し加えられるかではない、ということです。それでは、信仰は量より質だということかというと、そうでもありません。「からし種一粒」は「小さいけれど質が高い」という意味ではないのです。信仰は量でも質でもなくて、「ある」か「ない」かのどちらかだ、と主イエスは言っておられるのです。私たちが自らに問い、吟味すべきことは、自分にはどれくらい信仰があるか、以前に比べて信仰がどのくらい増したか、ではなくて、自分には信仰が「ある」のか「ない」のか、なのです。そして信仰が「ある」とは、主の僕として生きているということです。主がお命じになることを行い、命じられたことをみな果たした上で、「わたしは取るに足りないも僕です。しなければならないことをしただけです」と言うことです。それは謙遜でも何でもありません。僕としてはそれが当然のことです。それを謙遜などと思ってしまうということは、自分が僕であるとは思っておらず、神様に労働を提供する雇い人のような気分でいる、ということです。つまりそれは信仰が「ない」ということなのです。信仰が「ある」とは、自分は主の僕である、主に仕える者である、とはっきりわきまえていることです。そのことをわきまえているなら、私たちは、同じ僕である小さい者をつまずかせることのない者となることができます。また、主イエスが罪人である私のために十字架にかかって死んで下さることによって、本当に悔い改めているとは言えない私を無条件に赦して下さり、主の僕として下さった、その無条件の赦しに共にあずかっている兄弟姉妹を、自分も無条件で赦すという思いをもって、兄弟の罪を戒める者となることができるのです。それは、桑の木が海に根を下ろすことに匹敵するような驚くべき奇跡です。しかし私たちの力によってではなく、主イエスの十字架と復活における神様の恵みの力によって、そのことが実現するのです。

主が喜んで下さる
 僕は主人に感謝されることも、褒められることも、酬いを与えられることも期待すべきものではありません。しかし主イエスは12章35節以下で、僕が「しなければならないこと」をわきまえ、それを行うならば、主人がして下さることをこのように語っておられます。12章37節「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」。またその先の43節以下にもこうあります。「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない」。私たちが、主の僕であることをわきまえ、主のみ心に従って主に仕えて生きようとすることを、主は心から喜んで下さり、僕であるはずの私たちに仕えて下さり、十字架の死と復活によって打ち立てて下さった永遠の命にあずからせて下さるのです。

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