主日礼拝

解放を祝う日

「解放を祝う日」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 申命記 第5章12-15節
・ 新約聖書: ルカによる福音書第13章10-21節
・ 讃美歌:12、205、397

二つの話のつながり
 本日はご一緒に、ルカによる福音書第13章10~21節を読みます。ここには二つの話が語られています。第一は、主イエスが安息日にある会堂で病気の女性を癒したという奇跡の話、もう一つは18節以下の、主イエスが語られた「からし種」と「パン種」を題材として用いたたとえ話です。この二つの話の間には段落が設けられており、新たな小見出しもつけられているために、ともすると私たちはここを、あまりつながりのない別の話が並んでいるかのように読んでしまいがちです。先週読んだ1~9節にも同じような構造がありました。5節までに主イエスと人々との会話があり、6節以下にはやはり一つのたとえ話が語られていますが、段落と小見出しによってここのつながりが見えにくくなっていたのです。しかし先週申しましたように、6節以下のたとえ話は、5節までのところでの主イエスの教えをよりはっきりとさせるために語られたものでした。本日の箇所においても、18節以下のたとえ話は、17節までのところにおける主イエスと人々との会話を受けて語られているのです。聖書の段落や小見出しはもともとあったものではなく、後で便宜的につけられたものですから、私たちは聖書を読む時に段落や小見出しに囚われることなく、内容的なつながりを見出していくことが大切です。

神の国のたとえ
 さて、本日は先ず18節以下のたとえ話から見ていきたいと思います。主イエスはここで、「神の国」を「からし種」と「パン種」にたとえておられます。神の国という言葉は、文字通りには神の王としてのご支配という意味です。この神の国、神様の王としてのご支配こそが人間の救いである、と聖書は語っているのです。ですから「神の国」は「神様による救い」と言い換えることができます。主イエスは神の国のたとえを多く語られましたが、それは要するに、神様による救いとはこういうものだ、ということをいろいろな仕方で言い表した、ということなのです。ここではそれが「からし種」と「パン種」にたとえられているのです。

からし種
 からし種は、粉のように小さな種です。ですからこれは「小さいもの」を表すたとえとして用いられます。主イエスは他の所で、「からし種一粒ほどの信仰があれば、山をも動かすことができる」とおっしゃいました。それは、ほんの小さな信仰でも、それが本物の信仰ならば大きな力を発揮するのだ、ということを言うためです。ここでも同じように、小さなからし種でも、それが蒔かれ、芽を出し、成長していくと、やがて空の鳥が巣を作るような大きな木になる、ということが語られています。神の国、神様のご支配、私たちの救いも、最初はちっぽけな、あるのかないのか分からないようなものでも、やがて大きな、誰の目にも明らかな現実となる、ということがこのたとえによって語られているのです。これは分かりやすいたとえだと言えるでしょう。けれども、ここで「からし種」にたとえられているちっぽけな、あるのかないのか分からないものとは何を指しているのでしょうか。この問いに答えることはそう簡単ではないと思います。

パン種
 神の国がたとえられているもう一つのものは「パン種」です。パン種とはパン生地を発酵させる酵母、いわゆるイースト菌です。それが三サトンの粉に混ぜられるとあります。聖書の後ろの付録にある「度量衡および通貨の表」を見ると、一サトンは12.8リットルだそうです。ですから三サトンは40リットル近くの粉です。一つの家庭で一度に用いられる量をはるかに超えたかなりの量だと言えます。そのくらいの量の粉を発酵させるためにどれくらいのパン種が必要なのか、パン焼きの知識のない私には分かりませんが、いずれにせよ粉全体の量に比べればずっと少ないものでしょう。しかしこのパン種は、からし種のように小さいもののたとえというだけではなくて、ほんの僅かな、何の影響もないように思われるものが混ぜられることによって全体が影響を受け、変わっていく、ということのたとえとして用いられます。良い意味でも悪い意味でもです。例えば、12章1節で「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」と語られていたのは、明らかに悪い意味です。本日の所は神の国をたとえているのですから、良い意味で用いられています。神の国、神様のご支配の完成、実現に至る歩みにおいて、目立たない小さなこと、あってもなくても大して影響はないように思われることが実は大きな意味を持ち、用いられていく、ということがこのたとえの意味でしょう。ですからこれらのたとえ話は、からし種のようにちっぽけな、あるのかないのか分からないようなものが、粉全体を変えていくパン種のように、神の国の実現に大きな意味を持つ、ということです。そのからし種やパン種にたとえられているものは何なのか、本日はそれをご一緒に考えていきたいのです。そしてそのためには、10節以下を読むことが必要なのです。

礼拝における癒し
 10節以下には、主イエスが安息日にある会堂で教えておられた時のことが語られています。ルカによる福音書は9章51節において、主イエスがそれまで活動しておられたガリラヤからエルサレムに向けて出発したことを語っています。それ以降のところは、エルサレムへの旅の途中での出来事となるわけです。その旅において、主イエスは安息日ごとにユダヤ人たちの会堂に入り、そこで行われている礼拝、つまり聖書(勿論旧約聖書)が読まれお話がなされる集会において教えてこられたのです。
 さてこの日主イエスがおられた会堂に、「十八年間も病の霊に取りつかれている女」がいました。「病の霊」という言葉からは、この人はいわゆる悪霊に取り付かれていたのだと思われるわけですが、この話は、例えば9章37節以下にあった、主イエスが悪霊に取り付かれていた子供を癒した話とはかなり違っていて、主イエスが病の霊を叱ったとか、その霊がこの人から出て行ったということは語られておりません。むしろ「腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができない」という症状が解消し、治ったことのみが語られています。ですからこの話はむしろ単純な癒しの奇跡として語られていると言えるでしょう。またこの奇跡は、この女性が主イエスに「わたしを憐れんで下さい、病気を癒して下さい」と願ったことによって行われたのでもありません。12節に「イエスはその女を見て呼び寄せ」とあるように、主イエスの方からこの人に目をとめて癒しを行われたのです。主イエスは10節にあるように、会堂で教えておられた、つまり説教を語っておられたのです。その主イエスがこの女性をご自分のもとに呼び寄せ、癒しのみ業を行われたのです。主イエスの教え、説教とこの癒しのみ業の連続性に注目すべきです。つまり主イエスは、今お語りになったみ言葉を、具体的なみ業によって目に見える仕方でお示しになったのだと言えるでしょう。要するに、説教の続きとしてこの癒しのみ業が行われたのです。

解放の宣言
 その癒しを行うに際して主イエスは、「婦人よ、病気は治った」とおっしゃいました。すると、彼女はたちどころに、ずっと曲がったままだった腰がまっすぐになったのです。主イエスがお語りになったこの言葉は直訳すると、「婦人よ、あなたはあなたの病気から解放された」となります。主イエスは、病の霊に「この人から出て行け」と命じたのでもなければ、「あなたの病気が治るように」と父なる神様に祈ったのでもなく、「あなたは病気から解放された」と宣言することによって癒しをなさったのです。これは癒しを行うための言葉としては変ですが、しかしこの癒しが先ほど見たように主イエスの教え、説教の続きであることを考えれば少しも変ではありません。主イエスが人々に語っておられた説教は、このような解放の実現を告げる言葉だったのです。そのことは、この福音書の第4章を読むことによって分かります。4章16節以下に、主イエスがその宣教活動の始めに、お育ちになったナザレの町の会堂で、ある安息日にお語りになった説教が記されています。主イエスはそこで聖書の言葉を朗読なさいました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。これはイザヤ書61章の言葉です。そして「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とお語りになったのです。つまり、捕われている人の解放という救いが今日実現した、あなたがたは捕われから、圧迫から、解放されたのだ、という宣言です。主イエスが安息日に会堂で語っておられたのはこのことでした。本日の箇所のこの日、この会堂においても、主イエスはこれと同じ解放の実現を告げる説教をお語りになり、そしてその説教と共に、その解放を一人の女性に具体的に告げて、「あなたはあなたを捕えている病気から解放された」とおっしゃったのです。この主イエスの宣言によってこの女性の病気は癒されたのです。そして実はこの「病気」という言葉は、「弱さ、無力さ」という意味でもあります。ですからあの主イエスのお言葉は、「あなたは、あなたを捕えている弱さ、無力さから、それによる悩み苦しみから解放された」という意味でもあるのです。それは、私たちもまた、主の日の礼拝において聞くみ言葉なのではないでしょうか。
 私たちは毎週の主の日の礼拝において、主イエスによる解放の恵みを告げる説教を聞いています。主イエス・キリストが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、父なる神様が主イエスを復活させて下さったことによって、あなたがたはもはや罪と死の支配から解放されているのだ、というみ言葉を毎週聞いているのです。しかし私たちはある時、そのみ言葉が、まさに自分自身に対して語られていることに気付きます。つまりもはや「あなたがたは」ではなく、「あなたは、あなたを捕えている弱さから、罪から、問題から、解放された」という主イエスの宣言を聞くのです。それが信仰の始まりです。信仰とは、主イエスの解放の宣言が、様々な具体的な悩みや苦しみ、弱さや罪をかかえているこの自分に向かって語られていることに気付かされることです。しかもそこで主イエスが私たちにお語りになるのは、「あなたはこうすれば解放される」ということではなくて、「あなたはもう解放された」という宣言なのです。
 先日教会に一人の女性から電話がかかってきました。その人は私が電話に出るなりこう言いました。「牧師さんは、電話で話しただけで私の健康状態を見抜く力を持っておられますか」。私は「いや私はそんな力は持っていません」と答えました。すると「伝道師の先生はどうですか」と言うので、宍戸先生も多分そういう力は持っていないだろうと思ってそう答えました。すると「誰かそういう力を持っている人を知りませんか」と言うので、「教会にはそういう人はいません」と言うと電話は切れました。このことから考えさせられたのですが、私たちはこの人と同じように、自分のことを、健康状態のみならず、自分がかかえているいろいろな悩み苦しみや問題を見抜くことができ、そして、こうすれば病気が治るとか、問題が解決すると教えてくれる存在を求めているのではないでしょうか。しかし教会において、礼拝において、私たちが出会う主イエス・キリストは、私たちの健康状態を見抜いてどう対処すればよいかを教えるのではなくて、「あなたの病気は治った」「あなたはあなたを捕えている問題から既に解放されている」と宣言して下さる方なのです。そのような主イエスとの出会いを、私たちは礼拝において与えられているのです。

会堂長の腹立ち
 ところが、主イエスによるこのような解放、癒しのみ業を見た会堂長が腹を立てたということが14節以下に語られています。彼は群衆に、「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」と言ったのです。安息日は、一切の仕事を休むべき日です。週の七日目を安息日として聖別し、その日にはいかなる仕事もしてはならない、ということが、主なる神様がイスラエルの民に与えた十戒に記されています。先ほど共に読まれた申命記第5章12節以下がその箇所です。会堂長はユダヤ人たちの宗教的指導者として、人々にこの戒めをきちんと守らせようとしたのです。しかしこのことによって彼は明らかに、この癒しのみ業をなさった主イエスを批判しています。安息日に病人を癒したイエスは律法に違反している、と彼は思っているのです。ですから15節に「しかし、主は彼に答えて言われた」とあるのは当然の流れです。主イエスは彼にこう言われました。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」。特に説明の必要はないお言葉でしょう。安息日であっても、つないでいる牛やろばを解いて水を飲ませることはするのです。それなのに、十八年間サタンに、先ほどの言葉では病の霊に縛られていたこの人をその束縛から解き、解放してあげることを、どうして安息日にしてはならないのか。このことに腹を立てるこの会堂長は、律法を形式的、外面的に守ることによって自分の正しさを主張し、人を批判しているまさに偽善者です。そういう律法主義者、形式主義者をやりこめた主イエスのこのお言葉はまことに痛快であり、17節に「こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ」とあるのはうなずけるのです。

安息日の本当の意味
 しかし私たちはここで、主イエスのお言葉の痛快さを楽しんでいるだけではならないでしょう。このお言葉の意味を正しく受け止めなければなりません。つまりこれは、安息日にだって牛やろばに水をやることは許されているのだから、病気の人を癒して何が悪い、という開き直りではないのです。主イエスはここで、安息日の本当の意味、主なる神様が十戒においてそれを定め、その日にはいかなる仕事もしてはならないとお命じになったそのみ心は何なのかを示そうとしておられるのです。その安息日の本当の意味を教えているのが本日の申命記第5章12節以下です。そこには、安息日を守ることの理由、根拠がこのように語られています。14、15節をもう一度読んでみます。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」。「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」とあるように、安息日に仕事を休むのは、自分が休むためと言うよりも、自分の下でいつも働かされている奴隷たち、そして牛やろばなどの家畜にも休みを与えるためです。彼らを愛し、慈しみ、生かすためです。そしてそのようにする根拠は、「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない」ということです。つまり神様が、エジプトの奴隷状態から解放して下さった、その解放の恵みを覚え、感謝し、その恵みに応えて生きるために、自分の下にいる奴隷や家畜にも、安息を与え、解放の恵みを味わわせるのです。つまり安息日とは、神様によって与えられた解放を記念し、感謝し、なお捕われの中にある人々にその解放の恵みを分け与え、共にその恵みにあずかるための日なのです。安息日に家畜を解いてやって水を飲ませるのもそのためです。ですから、アブラハムの娘、神様の民イスラエルの一員であるこの女性を十八年に及ぶ苦しみから解放することは、安息日にしてもよいどころか、安息日にこそ相応しいことなのです。このように主イエスはここで、安息日が神様による解放の恵みを記念するための日であることを教えておられるのです。

解放の記念日
 このように見てくると、主イエスがこの日も会堂においてお語りになった解放を告げる説教と、その続きとしての「あなたはあなたを捉えている病気から、弱さや無力さから解放された」という宣言による癒しのみ業と、それに続く、安息日とは解放の記念日であるという話はみんなつながっています。そしてこれらのことは全て、私たちが、礼拝において体験していることなのです。私たちにとっての安息日は、主イエスの十字架と復活によって実現した罪と死の支配からの解放の記念日である主の日、日曜日です。この主の日に、私たちは礼拝に集い、聖書のみ言葉とその説き明かしを通して、主イエス・キリストによって実現した私たちの解放を告げる説教を聞きます。そしてそこには、主イエスが私たち一人一人に個別に語りかけて下さっている「私があなたのために十字架にかかって死に、そして復活したのだから、あなたはあなたを捕えている弱さ、罪、問題から既に解放されているのだ」という宣言が響いているのです。

からし種とパン種
 神の国をたとえているからし種とパン種とは、私たちが礼拝において与えられている、主イエスによるこの解放の宣言です。それはからし種のように、今はまことにちっぽけな、あるのかないのか分からないようなものです。しかしこの種は、蒔かれたならば必ず成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作るほどになるのです。またそれはパン種のようなものです。粉全体の量に比べて、つまり私たちの一週間の生活における様々な困難な問題、悩みや苦しみ、悲しみ、それらの原因となっている弱さや罪と比べると、礼拝において告げられる主イエスによる解放の宣言、罪の赦しの恵みはまことに僅かな、何の力もない、私たちの現実を変える力などないように思われます。けれども、このパン種が混ぜられると、やがて全体が膨れていくのです。主イエスによる解放の宣言は、私たちの歩みに、人生に、神様と隣人との関係に、やがて大きな力を、影響力を発揮し、その全体を変えていくのです。しかもそれは粉が発酵しておいしいパン生地に変えられていくような良い変化です。私たちは、主イエスの十字架と復活による解放の恵みの記念日であるこの主の日に教会に集い、神様を礼拝することによって、主イエスによる解放の宣言という恵みのパン種を練り込んでいただき、私たちの歩みの全体がそれによっておいしいパンとなっていくのを、神の国がそのようにして実現していくのを、楽しみにして生きることができるのです。

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