「あなたがたの天の父」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 詩編 第27編1-14節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第6章25-34節
・ 讃美歌:7、57、493
思いわずらうな
本日は皆さんとご一緒に、新約聖書、マタイによる福音書第6章25節以下の、イエス・キリストの言葉を味わいたいと思います。ここには「思い悩むな」という小見出しがつけられています。以前の聖書では「思いわずらうな」となっていました。その言葉で覚えておられる方も多いでしょう。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思いわずらうな」、それはイエス・キリストの教えの中で一般にもよく知られているものだと思います。今日初めて教会の礼拝に来られた方の中にも、この言葉をどこかで聞いたことがある方は多いのではないでしょうか。まして、いつも教会の礼拝に出席している人、既にクリスチャンである者たちは、もう何度も繰り返しこの言葉を読んでおり、この言葉によって慰めを与えられているのではないでしょうか。かく言う私も、子供の頃からこの言葉に触れてきました。この言葉によって養われつつ成長してきたと言ってもよいと思います。普段私は説教において自分の体験談などはほとんど語らずに聖書の言葉に聞くことに集中するのですが、本日は特別な礼拝ですから、いつもとは違って少し自分自身のことをお話ししたいと思います。
人生観の土台
私は牧師の家庭に生れ育ちましたので、必然的に小さい頃から教会の礼拝に、出席するというよりもその場におり、聖書の言葉を聞いてきました。その私にとって、子供の頃から記憶にあり、最も心に残っているのが本日のこの箇所だったように思います。中でも32節の後半が、私に最も大きな影響を与えたように思います。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」という言葉です。実はそれと同じような言葉が、この第6章の前の方、8節にもあります。そこには、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」とあります。「あなたがたの天の父」、それは神様のことですが、神様は、私たちがお願いする前から、私たちに本当に必要なものを全てご存じであり、ご存じであるということは、その必要なものを必要な時にちゃんと与えて下さるのだ、ということがこの第6章には繰り返し語られているのです。私はイエス・キリストのこの言葉を聞きながら育ちました。このみ言葉が、高校生の頃には既に私の人生観の土台になっていたのです。そのおかげで、大学受験の時にも、私は不安になったり焦ったりすることなく、落ち着いて試験に臨むことができました。私は東京大学の文科三類に現役で合格したのですが、落ち着いて試験を受けられたのは、自分の学力に自信があったからではありません。模擬試験などの実力は、客観的に見て、合格できるかどうか、ぎりぎりでした。一か八か受けてみよう、という感じだったのです。しかし全く緊張することなく、頭が真っ白になるようなこともなく、落ち着いて試験を受けました。それは、合格することが自分に必要だと神様がお考えなら合格するだろうし、別の道に行くことを神様が必要とお考えなら別の道が備えられるだろう、いずれにしても、神様が自分に必要な道を備えていて下さるのだ、と思っていたからです。そのために、自分でも感心するくらい冷静に試験に臨み、実力以上の力を発揮することが出来て、合格したのです。ですから私は、東大に入れたのは信仰があったからだと思っています。それは信仰によるご利益ということではなくて、神様が必要なものを与えて下さるという信仰によって、不安に思ったり焦ったりすることなく、力以上の成果をあげることができたということです。ですから、この中にもいるだろう受験生の皆さん、また受験生をかかえておられる親御さんに申し上げますが、合格の秘訣は、教会の礼拝に出席することです。勿論勉強しないで教会にだけ行っていてもだめですが、日曜日の午前中のこの時間は、家で勉強しているよりも、教会の礼拝で神様のみ言葉を聞いている方がよっぽど入試のためにもなることは請け合いです。
人生の岐路において
こういう話をしていると、信仰は入試に合格するためにある、と勘違いされてしまう危険がありますが、入試は一つの例であって、私たちの人生には様々な岐路、分かれ道があります。どちらの道に進むのかを自分で選ばなければならない、重大な決断を迫られることもあるし、それこそ入試や入社試験などのように、自分の願っている道に進めるかどうかを他の人の判定によって決められてしまう、ということもあります。あるいは、自然災害や病気、事故などの思いがけない出来事によって、突然方向転換を余儀なくされることもあります。そのような人生の分かれ道、それゆえに危機でもある時に、天の父である神様が、私に本当に必要なことを全てご存じであり、それを備え、与えて下さるのだ、と信じて生きることができるならば、それは大きな慰め、励まし、支えとなります。その信仰によって、困難であっても進むべき正しい道を選び取る決断ができるし、自分の努力ではどうにもならない事態の中で、現実を受け入れてその中で前向きに生きていくこともできるようになります。天の父である神様を信じる信仰によって、私たちの人生に、特に岐路にさしかかった時に、歩みを支え導いてくれるという恵みが与えられるのです。
人間の苦しみを見つめておられるキリスト
本日の聖書の箇所はそういう恵みを告げており、信仰に基づく人生観の土台となるような所だと、私は自分の体験を通して言うことができます。けれども今回この礼拝のためにこの箇所を改めて読んでいく中で私は、ここにはそういう恵みだけでなく、もっと別のことも語られている、と思うようになりました。いやそれは決して別のことではなくて、今申しました信仰による慰め、励まし、支えと深く結びついているのですが、イエス・キリストは、ここでそういう恵みを語るだけでなく、人間の苦しみ悲しみ、また背負っている重荷を、具体的にしっかりと見つめておられる、そのことに改めて気付かされたのです。
貧しさの苦しみ
「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むな」とお語りになったイエス・キリストは、その日の食べ物、飲み物、着る物にも事欠いている人間の貧しさ、それによる苦しみ悲しみを具体的に見つめておられます。日々の衣食住に特に困ることなく、三度三度の食事を当たり前に食べることができている者たちは、この苦しみ悲しみを実感することがなかなか出来ません。それゆえに「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」という主イエスの言葉も、人生において体験する様々な苦しみや心配事を象徴する比喩として受け止めてしまうのです。しかし主イエスがこの言葉を語られた当時、その周りには、具体的に食べる物、飲む物、着る物に困っている人たちが沢山いたのです。ですから主イエスは決して比喩としてではなくて、具体的に貧しさの中で苦しんでいる人々を見つめながらこれをお語りになったに違いありません。そしてそういう人々は現在私たちの周りにもおり、しかもその数は今増えています。私は毎日馬車道の駅で乗り降りしていますが、あの構内で寝ているホームレスの人の数は今とても多くなっています。またこの教会のすぐ近くには、日本の三大ドヤ街の一つである寿町があるわけです。そこにおける炊き出し等の奉仕に、私たちの教会からも何人かが具体的に参加しており、また多くの者たちがその働きを覚えて献品や献金を捧げています。主イエスはまさにそのような、食べるもの、飲むもの、着るものに具体的に困っている貧しさの中にある人々の苦しみ悲しみをしっかり見つめておられるのです。
寿命をわずかでも延ばそうとして
それだけではありません。27節には「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」とあります。これは、出来もしないことを思い悩むことの空しさを語っている言葉ですが、ここで主イエスは、出来もしないのに寿命をわずかでも延ばそうとしてあれこれ思い悩んでいる人間を見つめておられるのです。それは今日の私たちにこそあてはまることだと言えます。昔は、王様や大金持ちだけが、寿命をわずかでも延ばそうとして、不老不死の薬を求めて金を注ぎ込みました。今は多くの普通の人々が、寿命を少しでも延ばそうとして健康食品とかサプリメントを買い求め、健康に良いとされるいろいろな試みをしています。また医療技術の進歩によって、いわゆる延命治療もある程度可能になりました。寿命をわずかなら延ばすことができるようになったのです。しかしそれが本人にも家族にも本当に幸せな結果を生んでいるかというと、大いに疑問です。延命措置によってかえって思い悩みが深まる、という面もあります。主イエスの当時とは全く違う仕方で、しかし「寿命をわずかでも延ば」そうとする中で人間は思い悩んでいるのです。そういう私たちの苦しみをも、主イエスはしっかりと見つめておられるのです。
人生のはかなさ
また30節には、「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ」という言葉があります。私は子供の頃からこの言葉にひどく寂しいものを感じていました。今日は生えていても、明日は引き抜かれて炉に投げ込まれてしまう、それは野の草だけでなく、人間も同じではないか、そういう人生のはかなさ、不確かさを、勿論そんなふうに明確に意識してはいませんでしたが、子供心に感じ取っていたのだと思います。そしてそういう人生のはかなさ、不確かさを、今日本人は、東日本大震災などの災害を通して深く感じています。まさに今日は元気に生えていても、明日突然引き抜かれて炉に投げ込まれてしまうようなことが人生には起る。そういう空しさ、不確かさの中に置かれている私たちの不安、悲しみを、主イエスは見つめておられるのです。
その日の苦労はその日だけで十分である
そしてこの箇所の最後の所、34節には「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」とあります。これは、明日のことを思いわずらうな、心配するな、という教えですが、しかしここで主イエスが見つめておられることは、私たちの人生には、その日その日に、思い悩み、苦労がある、ということです。不安や苦労がない日などはない、だからせめてその日のことだけを心配しなさい、明日のことまで今日心配することはない、それはどうせ明日になれば心配しなければならないのだから、と主イエスは言っておられるのです。ですからこの言葉は、心配するな、というよりも、心配や苦労に満ちた日々の中で、先々のことまできりのない心配を背負って押しつぶされ、一歩も前進することができなくなってしまうのでなく、先のことは天の父である神様にお任せして、その日その日のことに集中しなさい、ということです。それによって、苦労や不安に満ちた人生においても、一歩一歩前進していくことができるのです。このように教えておられる主イエスは、私たちが日々苦労や不安を背負って生きている、その現実をしっかり見ていて下さるのです。
あなたがたには天の父がおられる
そのように、私たち人間の貧しさ、苦しみ悲しみ、苦労や不安を具体的にしっかりと見つめておられるイエス・キリストが、その苦しみ悲しみ、苦労と不安の中にいる私たちにここで語りかけておられること、それは、「あなたのその貧しさは、苦しみや悲しみは、苦労や不安は、こうすれば解決できる、このようにして乗り越えることができる」ということではありません。主イエスの教えは、苦しみや悲しみ、苦労や不安を解消するためのノウハウ、方策ではないのです。主イエスがここで語っておられることは一言で言えば、「あなたがたには天の父がおられる」ということです。神様が、あなたがたの天の父であられるのだ、そのことをしっかり弁えて歩みなさい、と主イエスは言っておられるのです。
神様が天の父であられる、その「父」というのは、私たちを子として愛し、慈しみ、養い、守り、育てて下さる方、ということです。ちなみにこれは神様が男性であるということではありません。男と女という性別は、神様が人間をそのようにお造りになったことによって生じたのであって、神様ご自身には男とか女ということはないのです。その神様を「父」と呼ぶのは、人間の父が子を愛し、養い、守り、育てる、という常識的なイメージに基づく比喩です。しかし人間の父は父としての務めをきちんと果たすことができない場合も多々あります。今日のこの社会においてはそういう問題が非常に顕著になっていると言えるでしょう。私たちは今、人間の父親の姿から神様のことを類推することのできにくい時代を生きています。今はむしろ逆に、天の父であられる神様を見つめることによって、そこから、父とは本来どのようなものか、父は子に対してどのようにするべきなのかを学び直さなければならないのです。
必要なものをご存じである天の父
それはともかく、あなたがたには天の父がおられ、あなたがたを子として愛し、慈しみ、養い、守り、育てて下さっているのだ、と主イエスはおっしゃっています。そしてその天の父の愛を代表的に言い表しているのが、先ほどの32節後半の、「あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」という言葉です。天の父であられる神様は、子である私たちに何が必要なのかをしっかりご存じなのです。この「ご存じである」というのは、先ほども申しましたが、それを与えて下さるということを意味しています。私たちの必要をちゃんと知っているから、それを与えることができるのです。けれどもこの言葉は同時に、私たちが願い求めたものがその通りにすぐに与えられるわけではないことをも示しています。先ほど紹介しました6章8節には「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」とありました。神様は私たちが願う前から必要なものをご存じであるわけですが、願うのはそれがまだ与えられていないからです。必要なものがすぐには与えられないことがある、あるいは、私たちが必要と思うことと、神様が私たちに必要だと思っておられることとが食い違っていて、願っても与えられなかったり、願ったものとは違うものが与えられることがあるのです。つまりこれらの言葉は、私たちにとって何が本当に必要なのかは、私たちではなく神様こそがご存じなのであり、またその必要なものを与えて下さる最も相応しいタイミングも、神様こそがご存じなのだ、ということを教えているのです。このことは、子供を育てることの中で私たちも不十分ながら体験します。子供はいろいろなものを欲しがりますが、もしもその欲しがるものを全て与える親がいたとしたら、それは子供の愛し方が間違っている、子供を駄目にする親です。本当に子供を愛し、しっかり育てようとする親は、子供の成長の様子を見ながら、その時その時に、必要なものを与えるべきなのであって、子供が欲しがっても駄目なものは駄目、とはっきり言うのです。また、子供にとって必要なものは成長の段階に従って変わっていくのであって、何を何時与えるのかというタイミングも大事です。タイミングを間違うと、必要なものも役に立たなくなったり、かえって害をもたらしたりするのです。人間の親も本来そのように、子供に必要なものを判断し、またそれを与えるタイミングをはかって子育てをします。本当に子供を愛している親はそうするのです。しかし私たちはその子育てにしばしば失敗します。愛し方を間違ってしまうのです。そういう親が今増えていることが感じられます。しかし天の父であられる神様は、私たち一人一人の真実な父として、本当に必要なものを、必要な時に与えて下さるのです。
天の父の子として生きる
それゆえに次の33節では「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と語られています。「神の国と神の義を求める」というのは、説明を省略して一言で言ってしまえば、天の父である神様との、父と子という関係をこそ求める、ということです。私たちに本当に必要なものを、必要な時に与えて下さる天の父の子として生きるならば、本当に必要なものによってしっかりと養われ、守られ、導かれる神の子としての歩みが与えられるのです。この、天の父の子として生きることをこそまず第一に求めていくことが大切なのです。そうすれば、苦労に満ちた日々の中で、きりのない心配を背負って押しつぶされてしまうのでなく、その日の苦労をしっかり背負って一歩一歩前進していくような歩みが与えられる、と主イエスは私たちに教えておられるのです。そしてそのように天の父に愛され、養われている子として生きることの中で、私たちは、共に生きている人々、隣人の貧しさや苦しみ悲しみ、苦労や不安を具体的にしっかりと見つめ、そこに手を差し伸べていく者となるのです。私たちの隣人が、貧しさや苦しみ悲しみ、苦労や不安によって思い悩んでいる、その人々の苦しみを天の父なる神様は具体的にしっかりと見つめておられ、その人々を養い、守り導き、必要なものを与えようとしておられる、そのみ業を、天の父である神様は、子である私たちを用いて行なおうとしておられるのです。
私たちを子とするために
「あなたがたには天の父がおられる、あなたがたは神に愛されている子供なのだ」。主イエス・キリストはこのみ言葉によって今私たちにそう語りかけて下さっています。それは「そういうふうに考えなさい。そうすれば慰めや励ましが与えられ、不安が解消するよ」という話ではありません。私たちが、神様を天の父と呼び、その子として生きることができるようになるために、神様の独り子であられる主イエスは、ご自分の命を投げ出して下さったのです。神様を天の父と呼ぶことができるのは、本来主イエスお一人です。私たちは、神様に造られた被造物であって、子ではありません。神様を天の父と呼ぶことなどできない、むしろいつも神様に背き逆らい、神様をも隣人をも愛することができず、傷つけてしまう罪人です。その私たちを神様の子とするために、神様の独り子、まことの神であられる主イエスが、私たちと同じ人間になって下さり、そして私たちの全ての罪をご自分の身に引き受けて、十字架にかかって死んで下さったのです。そこに、聖書の教える救いがあります。神の独り子の十字架の死によって、私たちの罪は赦され、神様と良い関係を持って新しく生きる道が開かれたのです。主イエスの十字架の死によって与えられた救いの恵みによってこそ、私たちは天の父であられる神様の子として生きることができるのです。「あなたがたには天の父がおられる」というイエス・キリストのお言葉は、主イエスがこの後私たちのために十字架の死への道を歩み、苦しみを受け、私たちのために命を与えて下さろうとしているからこそ語られているのです。
洗礼への招き
この主イエスを自分の救い主と信じ、主イエスと結び合わされて新しく生かされている者たちの群れが教会です。教会の一員となり、このように神様を礼拝しつつ生きていくことによってこそ私たちは、神様の子として、私たちに必要なものを全てご存じであり、それを必要な時に与えて下さる父なる神様の愛の下で、思いわずらい、不安から解放されて、その日の苦労をその日しっかり背負って生きていく者となることができるのです。教会に加えられ、神様の子とされることの印が、洗礼を受けるということです。今日この礼拝にいらっしゃった方々の中で、まだ洗礼を受けておられない皆さんが、これからも続けてこの場に集い、神様の恵みのみ言葉を聞き続けていって、いつか洗礼を受け、天の父なる神様の子とされて生きる新しい人生を歩み出すことができますように、既に教会に連なっている者たち一同心から祈り願っていますし、何よりも、あなたがたの天の父であられる神様が、皆さんを招いておられるのです。