「多くの罪を赦されて」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: ミカ書 第7章14-20節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第7章36―50節
・ 讃美歌:8、442、505
平和の福音を
本日は8月9日、長崎の原爆記念日です。三日前は広島の原爆記念日でした。そして今週末には終戦記念日を迎えます。この8月は私たちにとって、戦争と平和について特に思いを深めさせられる月です。太平洋戦争が終わって64年、直接戦争の体験を持っておられる方はだんだん少なくなってきています。私もその一人ですが、戦後生まれの者たちが、戦争の悲惨さを直接体験した方々の思いをどう受け止め、継承していくことができるかが、これからの大きな課題であると思います。今月の聖句を、エフェソの信徒への手紙第6章15節の、「平和の福音を告げる準備を履物としなさい」としました。平和の福音をしっかりと語り、宣べ伝えていく群れでありたいと願います。私たち一人一人が、そのための準備を整えられていきたいのです。そして本当に平和を築き、平和の内を生きる者でありたいのです。そのことを覚えつつ、本日与えられているみ言葉に耳を傾けていきたいと思います。
ファリサイ派シモンの家の宴席で
本日はルカによる福音書第7章36節以下を読みます。ここには、主イエスがあるファリサイ派の人、その名前はシモンといったことが途中で分かりますが、その人の家に招かれて食事の席に着いておられた時の出来事が語られています。そこには他にも何人かの人々が招かれていたことが、49節に「同席の人たち」がいたと語られていることから分かります。ファリサイ派の一人であるシモンが、自宅に宴席を設けて、そこに仲間のファリサイ派の人々を招き、そして当時神の言葉を語り伝える預言者であるとの評判が高まってきていた主イエスをも招いたのです。主イエスはこの招きに応じて出かけ、シモンの家の宴席に連なりました。当時のユダヤ人たちの宗教的指導者であるファリサイ派は、律法を厳格に守り、またそのような生活を人々にも教え、指導することによって、ユダヤ人たちに神の民としての自覚と自負を植え付けようとしていました。要するに自分たちが熱心な信仰者であるだけでなく、その信仰と生活を人々にも伝え、人々を導こうとする伝道に熱心だった人々です。この人々は主イエスの言葉や業に対して既に何度かクレームを着けていました。律法を守ることについての彼らの主張と主イエスの言動とは相容れないものがあったのです。そういうある緊張関係を持ちつつ、しかし中にはこのシモンのように、主イエスを招いてその語ることを聞いてみようとする人々もいました。主イエスも、そういう招きに積極的に応じて、語り合おうとしておられたのです。
さてこの町に住む一人の女性が、主イエスがファリサイ派のシモンの家で宴席に着いておられることを知ってそこへやって来ました。このことから私たちはいくつかのことを知ることができます。一つは、このような宴席が設けられることは単なるプライベートなことではなくて、町の人皆がそれを知って話題にするような事柄だったということです。そして第二に、招待を受けていなくても、その宴会の場に出入りすることができたということです。宴席に連なることができるのは勿論招待された人のみですが、それを見物し、そこで語られることを聞くことは誰でもできる、要するにこの宴会は人々の目の前で行われるのです。だから、この女性もこの場に来ることができたのです。
37節の後半から38節にかけて、彼女がしたことが語られています。「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」。これも私たちは読んで不思議に思う記述です。「後ろからイエスの足もとに近寄り」とはどういうことなのか。テーブルの下に潜り込んだのだろうか、などと考えてしまいます。しかしこの疑問は、当時の宴会における座り方を知ることによって解決します。この宴会は椅子に座ってテーブルに着いて行われるのではありません。列席者は、食べ物を並べた低いテーブルを囲むように置かれた平らな台の上に、体の左側を下にして寝そべって、右手で食べ物を取って食べるのです。ですから足はテーブルの下にあるのではなくて、寝ている台の上にあり、周りで見ている人々の側に伸ばされています。ですから、「後ろからイエスの足もとに近寄り」というのはごく自然な動きなのです。
罪深い女
しかしそこで彼女がしたことは、自然なことではない、異常なことでした。「泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」。この女性がなぜこのようなことをしたのか、その理由は語られていません。聖書が語っているのは、このことによってファリサイ派のシモンと主イエスとの間に交わされていった会話です。シモンはこの出来事を見て「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と心の中で思ったのです。この女性は、この町の誰もが知っている「罪深い女」でした。どのような罪を犯していたのかは分かりません。多くの人は、彼女は娼婦だったのではないか、と想像しています。とにかく、誰もが、あの女は罪深い人間だ、と思っていたのです。しかしシモンは、そんな罪深い女が自分の家に入ってきて宴会の周りをうろうろしていることに怒りを覚えたのではありません。彼女が自分の足に触れることを拒まず、そのままにしている主イエスを批判する思いが彼の中に湧き上がってきたのです。罪深い女に触れられると自分もその罪に汚れてしまう、とファリサイ派は考えていました。だから罪人や汚れた者とは一線を画し、近付かないように、触れないようにしていたのです。そのような感覚から彼は、イエスが本当に神から遣わされた預言者なら、今自分に触れている女の正体が分かるはずだ、そしてそのような女には「自分に触れるな」と言うはずだ、この女に触れられても何も感じていないイエスは預言者とは言えない、と思ったのです。
五百デナリオンと五十デナリオン
主イエスは彼の思いを見通しておられ、一つのたとえ話によって彼に問いかけました。ある金貸しから、一人は五百デナリオン、一人は五十デナリオンの金を借りていた。返すことができなかったので、金貸しは二人の借金を帳消しにしてやった。二人の内どちらが多くその金貸しを愛するだろうか、という問いです。一デナリオンは、一人の労働者が一日働いて得る賃金です。ですから五百デナリオンは五百日分の賃金、五十デナリオンは五十日分の賃金です。どちらの人もその借金を帳消しに、チャラにしてもらったのです。当然、多くの金額を帳消しにしてもらった人の方が、免除してくれた金貸しをより多く愛するでしょう、とシモンは答えます。このシモンの答えを確認した上で主イエスは、これこそが、今ここで起っていることなのだ、とお語りになったのです。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた」。主イエスは、「あなた」つまりファリサイ派のシモンと、「この人」つまりこの女性とを対照させて語っておられます。家に入った時、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女性は自分の涙で私の足を濡らし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたは接吻の挨拶をしなかったが、この女性は私の足に接吻してやまない。あなたは頭に油を塗ってくれなかったが、この女性は私の足に香油を塗ってくれた。彼女は、私をこの家に招いたあなたよりもずっと真実な、心のこもった愛のもてなしをしてくれたのだ、というのです。そこに、五百デナリオンの借金を免除された人と、五十デナリオンを免除された人との違いがある。五百デナリオンを帳消しにしてもらったのがこの女性です。五十デナリオンの方がシモンです。それゆえに、この女性の方があなたより多く、私に対する愛を示したのだ。それをまとめているのが47節です。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。
多くの罪を赦されて
ここに来て初めて、「罪を赦す」ということが出てきています。「この人は多くの罪を赦された」それが、五百デナリオンの借金を帳消しにしてもらったことと重ね合わされているのです。つまりあのたとえ話は、罪の赦しについて語っていたのです。人間の罪を借金にたとえる話は他にもあります。一番有名なのは、マタイ福音書18章の、「仲間を赦さない家来のたとえ」です。それは、王様に一万タラントン借金をしていた家来が、それを全部帳消しにしてもらったという話でした。神様によって罪を赦していただくというのはそういうことなのだ、とこの話は語っています。罪が借金にたとえられるのは、借金は返すか、免除してもらうか、どちらかによってしかなくならないように、罪も償うか、赦してもらうか、どちらかによってしかなくならないからです。一万タラントンの借金というのは、一生かかってどんなに頑張っても決して返すことができないぐらい莫大な借金ということです。ちなみに、一タラントンは六千デナリオンに当たります。五百デナリオンの12倍です。ですから一万タラントンは五百デナリオンの十二万倍です。それだけの負債を免除してくれた、帳消しにしてくれた、それが神様によって与えられる罪の赦しの恵みなのです。「仲間を赦さない家来のたとえ」は、そのように一万タラントンの借金を帳消しにしてもらった家来が、自分に百デナリオンの借金をしている仲間を赦そうとしなかった、という話です。それは、隣人が自分に対して犯している罪のことです。一万タラントンの罪を神様が赦して下さったのに、隣人の百デナリオンの罪を赦さないということがあっていいのか、とこの話は問いかけているのです。本日の箇所の話は、隣人の罪を赦すことではなくて、神様に罪を赦していただいた者は、赦して下さった神様を愛して生きるはずだ、ということを語っています。多くの罪を赦された者ほど、より多く神様を愛して生きるはずだ、と言っているのです。
従って47節の、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」というのは、この女性が大きな愛で主イエスを愛したことによって多くの罪を赦された、ということではありません。主イエスを愛することと引き換えに罪が赦されるということではないのです。新共同訳はそのような誤解が生じないように、彼女が多くの罪を赦されたのだということが、彼女の示した愛の大きさによって分かる、と訳しているのです。そしてその逆、「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」というのがシモンのことです。彼が主イエスに十分なもてなしをしていないのは、赦されることが少ないからなのです。
罪の自覚と神への愛
ここには当然一つの疑問が生じます。多くの罪を赦された人の方が主イエスをより多く愛し、罪を赦されることが少ない人はあまり愛さないというなら、なるべく多くの罪を犯した方がよいということか。五十デナリオンの罪を犯していたファリサイ派のシモンよりも、五百デナリオンの罪を犯していた女の方が神様の救いにあずかるのにふさわしいということか、という疑問です。そこで考えてみたいのですが、ファリサイ派のシモンは果して、自分が五十デナリオンの借金を帳消しにしてもらった者である、と思ったでしょうか。つまり主イエスが語られたこの話を自分のこととして聞いたでしょうか。聞いてはいないと思います。彼は、自分が神様に対して、たとえ五十デナリオンであっても借金が、つまり罪があるとは思っていないのです。自分は律法に従って正しい生活をしている、罪から遠ざかって生きている、だから罪はない、と思っているのです。つまりこのたとえ話は、あの人の罪とこの人の罪の大きさを比べて、こちらは五百デナリオン、あちらは五十デナリオンだ、ということを語ろうとしているのではないのです。私たち人間が神様に対して犯している罪は、先ほど紹介した「仲間を赦さない家来のたとえ」にあるように、皆一万タラントンなのです。私たちは日々新たに罪を重ねつつ生きているのであって、一生かかってどんなに頑張っても、自分でそれを償うことはできないのです。ファリサイ派のシモンは、自分は罪などないと考え、それに比べてこの女はどうしようもない罪人だと蔑み、そしてそんな罪深い女が手を触れているのに気付かないなんて預言者ではない、と主イエスを軽んじています。そこに彼の罪があります。彼の罪はこの女性の罪とは種類が違いますが、しかし同じぐらい罪深い者なのです。あの女性の罪は五百デナリオンで、彼の罪はその十分の一だ、などということはないのです。それでは五百デナリオンと五十デナリオンの違いは何を意味しているのか。それは、自分の罪をどれだけ認識しているかの違いです。私たちが犯している罪は、誰でも皆一万タラントンです。しかし私たちは、そのことになかなか気づきません。自分が、自分ではとうてい返すことのできない負債を神様に対して負っているとはなかなか思わないのです。ファリサイ派のシモンのように、自分には罪などない、借金はない、と思っている人もいます。しかし普通の人は、自分に全く罪がないとは思わないでしょう。自分はいろいろと罪を犯すし、欠点や弱さがある、ということを私たちは知っています。そのようにして私たちが自覚している罪、それが、人によって五百デナリオンだったり五十デナリオンだったりするのです。そして、私たちが自分の罪の深さを自覚する度合いと、それを赦して下さる、その負債を帳消しにして下さる神様を愛する度合いは比例しています。自分の罪を深く知る人ほど、それを赦して下さる神様の愛をより深く知り、自分も神様を深く愛するのです。あるいは逆に、神様が自分を深く愛して下さっていることを知れば知るほど、自分の罪をより深く知ることができる、と言うこともできます。最初は五十デナリオンぐらいだと思っていた自分の罪が、実は五百デナリオンだったことが、いやさらにそれ以上の一万タラントンだったことが、独り子イエス・キリストの十字架の死によって神様が私たちの罪を赦して下さったことを知らされ、その神様のとてつもなく深い愛を示されることの中で見えてくるのです。この神様の愛を知る時に私たちは、主イエス・キリストを、より深く、より心から愛するようになっていくのです。
わたしに示した愛の大きさ
ファリサイ派のシモンとの対話において主イエスが語っておられるのはこのようなことです。それでは、この女性と主イエスとの間では何が起っているのでしょうか。彼女は、主イエスの足を自分の涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、主イエスの足に接吻して香油を塗りました。この彼女の行為は何だったのでしょうか。彼女が流した涙はどのような涙だったのでしょうか。先ほどまで語ってきたことを当てはめて考えると、彼女の涙は、主イエスに自分の罪を赦していただいたことへの感謝の涙であり、彼女の行為はその主イエスへの感謝の現れだということになるでしょうか。あるいは、彼女の涙は自分の罪を悔いる、いわゆる慚愧の涙であり、彼女の行為は悔い改めの思いの表明だということでしょうか。私たちはそのように理屈をつけたがるわけですが、主イエスはここで、彼女のしたことを一言で表現しておられます。それは47節の「わたしに示した愛の大きさ」という言葉です。この人は私に大きな愛を示した、主イエスはそのように彼女の行為を受け止めておられるのです。私たちも、彼女のしたことをそのように受け止めたいと思います。この女性は、主イエス・キリストを心から愛し、その愛を精一杯表したのです。その愛は勿論友人としての愛ではありません。男と女の愛でもありません。この話は、この女性が主イエスに激しい恋心を抱いているというふうにも読まれやすく、そうなると彼女の行為はかなりエロチックなものにも感じられたりしますが、そんなふうに読むのは全く間違いであり、いわゆる下種の勘ぐりです。彼女は、罪人である自分に救いを与えてくれる救い主であるイエス・キリストを愛したのです。彼女の流した涙には、いろいろな思いが込められていたでしょう。自分の罪を嘆き、悔いる思いも勿論あったし、罪を意識しながらもその罪の中でしか生きることのできない自分を情けなく思う気持ちもあったでしょう。しかしまた、そのような罪の中にある自分を受け止めて下さるに違いない主イエスへの深い信頼もあったのです。私たちは、本当に信頼し、裸になって身を委ねることのできる人の前でなければ、涙を流すことはできません。彼女の涙は主イエスへの深い信頼の現れでもあるのです。そして彼女は、自分にできる精一杯のことをして、主イエスに尽くし、仕えたのです。主イエスはその彼女の思いの全てを受け止めて、「わたしに示した愛の大きさ」と言って下さったのです。
あなたの罪は赦された
そして主イエスは彼女に、「あなたの罪は赦された」と宣言して下さいました。何故ここにこの宣言があるのか、主イエスを愛したから罪が赦されたのか、赦されたからこそ愛したのではなかったのか、赦されることと愛することと、どっちが先なのか、などと問うのは無意味であり、野暮なことです。彼女は、自分の罪を深く自覚しつつ、主イエス・キリストの救いを切に求めて、人々の蔑みや好奇の目にさらされながら、主イエスのもとに来たのです。主イエスもその思いにしっかりと応えて彼女と出会って下さり、主イエスと彼女との間に深いつながりが、愛の呼応関係が生まれたのです。そこに、罪の赦し、救いの宣言が与えられ、また主イエスを心から愛して生きる歩みが与えられたのです。
あなたの信仰があなたを救った
最後の30節で主イエスは彼女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われました。「あなたの信仰があなたを救った」、主イエスはそれほどに深い信仰を彼女の中に見て下さっています。しかしここにいるのは、誰が見ても立派な信仰深い人ではありません。一人の罪深い女が、自分の罪を悔いつつ、罪に捕われている悲しみをかかえつつ、赦しと救いを主イエス・キリストにひたすら求めていったのです。その思いを主イエスは、受け止め、その信仰があなたを救った、と告げて下さったのです。
平和の内に行きなさい
そして、「安心して行きなさい」と語りかけて、彼女を送り出して下さいました。この言葉は、「平和の内に行きなさい」と訳すことができます。主イエスのこのみ言葉によって送り出されていくことによってこそ、私たちは、平和の内を歩み、平和の福音を告げ、平和を築いていく者となることができます。広島、長崎の原爆記念日を覚え、終戦記念日を覚えることにおいて私たちがなすべきことは、これらの出来事の背後にある人間の深い罪を覚えることです。原爆を一般市民に向けて投下したアメリカの罪を覚えるだけではありません。あの戦争において、またそれに先立つ植民地支配において、日本もまた、朝鮮半島や中国や東南アジアの人々に対して、数々の残虐なことをしてきたのです。戦争の悲惨さを覚えるというのは、それを生み出す人間の罪を深く知り、それを過去の事柄としてではなく、今生きている私たち自身の罪として意識していく想像力を働かせることです。今も世界各地に争いがあり戦いがあるし、またそれを引き起こしていく憎しみや不信、疑心暗鬼は私たちの社会、戦後64年曲がりなりにも平和を維持してきたこの国をも包んでいます。このような深い罪をかかえている私たちが、その罪を深く自覚し、嘆き悲しみつつ、その私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった救い主イエス・キリストを信じて、そのみ前に跪き、涙を流しつつ主を礼拝し、主を愛し、主に仕えていく時に、主は私たちにも、「あなたの罪は赦された」「あなたの信仰があなたを救った。安心して、平和の内に行きなさい」と語りかけて下さるのです。この主のみ言葉によって、平和の福音を告げる準備を整えられて、新しい週の歩みへと送り出されていきたいのです。