「開け」 副牧師 乾元美
・ 旧約聖書:イザヤ書 第35章1-10節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第7章31-37節
・ 讃美歌:3、481
<何もできない人に>
先週、共にみ言葉を聞いた7:24~30には、主イエスが、敵対するユダヤの指導者たちや、奇跡や癒しを求めて殺到する人々から遠ざかるために、異邦人の地、ティルス地方へ行かれた、とありました。
そのティルスでは、主イエスが来られたことをすぐに聞きつけた異邦人の女が、娘から悪霊を追い出して下して欲しいと、主イエスにひれ伏し、願ったことが語られていました。
主イエスは、まだ異邦人の救いの時ではない、ということを語られましたが、この異邦人の女は、それでも主イエスを自分のまことの主人とし、身を低くして、主イエスが注いで下さる憐れみを見つめ、恵みを求め続けたのでした。
そして、主イエスは、その女の主イエスへの信頼の言葉を受け止めて下さり、神のご支配の「しるし」として、娘を悪霊の支配から解放して下さったことが語られていました。
一方、今日の箇所は、耳が聞こえず舌の回らない人が登場します。この人は、先ほどの異邦人の女のように主イエスの噂を聞くこともできず、自ら苦しみを訴えたり、願いを語ることもできません。苦しみと困難の中にいながら、救いを自分で求めることがまったく出来ない人です。誰に救いを求めて良いかも知らない人です。
しかし、主イエスはこのような者にも、このような者のところにこそ、やって来て下さり、出会って下さり、まことの救いを与えて下さる方なのです。
<デカポリス地方を通って>
31節で、まず主イエスは「ティルスの地方を去り、シドンを経て、デカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやってこられた」とあります。
ご覧になれる方は、聖書の後ろの地図6(新約時代のパレスチナ)を見て頂きますと、このルートが大変な遠回りをしているということが分かります。ティルスは地中海沿いの、地図の上の方に、北からシドン、サレプタ、ティルスと並んでいます。ティルスからガリラヤ湖へ行くには、南に下れば良いのですが、主イエスは一度北のシドンの方へ行き、そこからガリラヤ湖の東側のデカポリスの地方を通って、ガリラヤ湖へやってこられたのです。
ある人は、福音書を書いたマルコが、当時の地理をよく分かっていなかったのだと言います。しかし、7:24に「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられた…」とあるように、主イエスの語られる福音を理解せず、奇跡ばかりを求めて殺到するユダヤ人たちや、主イエスを殺そうと企んでいるユダヤ人の指導者たちから、主イエスが身を隠そうとしておられた、ということが聖書に書かれています。また、弟子たちと過ごす時間を取るためにも、わざわざ遠回りをして異邦人の地を通ってガリラヤ湖へ行かれた、というのは、考えられないことではありません。
特に、「デカポリス地方」は、マルコ福音書において、印象深い出来事があった場所です。
この「デカポリス地方」は、以前、マルコ福音書の5章1~20節(69頁)に出てきました。そこに出て来る「ゲラサ人の地方」というのは、デカポリス地方にある場所です。「ゲラサの豚」と聞くと、すぐに物語を思い出せる方も、いらっしゃるかも知れません。
ゲラサ人の地方には、悪霊に取りつかれ、自分を傷つけ、人の手に負えず、墓場に住んでいた男がいたのですが、主イエスがやって来られて、その悪霊を追い出して下さいました。その時、悪霊は豚に憑りつくことを願いました。主イエスがそれをお許しになると、悪霊は豚の中に入って、二千匹もの豚が、崖を降って湖で溺れ死んでしまったのです。これを見た人々は、主イエスにその地方から「出て行ってもらいたい」と言いだしました。
それで、主イエスは出て行かれるのですが、この悪霊を追い出していただいた男が、その時に「自分も一緒に行きたい」と願ったのです。しかし、主イエスはそれをお許しになりませんでした。その男に、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と仰ったのです。
そして、5:20には、「その人は立ち去り、イエスが自分にして下さったことを、ことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々はみな驚いた。」とあります。
今日のところに戻りますが(75頁)、デカポリス地方ではそのようにして、主イエスのことが、言い広められていたと考えられます。
かつては主イエスを追い出した地方ですが、いまや、一人の悪霊から解放された男によって、主イエスの力ある業を聞き、驚いた人々が多くいたのです。
その噂の主イエスが、再びこのデカポリス地方を通られました。
人々は、驚くべき業をする、あの、噂のお方が来られた、と知って、耳が聞こえず、舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いて下さるように願ったのです。
人々が、主イエスなら、必ずその人を治してもらえると確信して連れて来たのか、または、奇跡の業が本当かどうかをこの目で見てみたい、思ったのかどうかは、分かりません。
とにかく、主イエスのことを聞いていた人々のところに、主イエス御自身がやって来られ、そこに一人の男が連れて来られたということです。
<言葉なしの説教>
さて、人々は、耳が聞こえず舌の回らない人の上に、手を置いて欲しい、と願いました。これまでには、主イエスが触れるだけで、病が癒された人もいます。前回のように言葉で命じるだけで、悪霊を追い出すこともありました。しかし、この男を癒すのは簡単なことではありませんでした。主イエスはここで、手を置く以上の、色々なことを、この男になさいました。
ある説教者は、主イエスはこの連れて来られた男に、耳の聞こえない男に、「言葉なしの説教」を語られたのだ、と言っています。
この男は耳が聞こえませんから、おそらく主イエスについて何も知らなかったと思います。そして、舌が回らないので、人々が騒いでいるのを見ても、尋ねることさえ出来ませんでした。
ある時、周囲の何人もの人々が、自分をどこかへ連れていきます。自分が誰の元へ、何のために連れて行かれるのか、この男は全く分からなかったでしょう。不安さえ覚えたかも知れません。そうして、男はある一人のお方の前に連れて来られました。
その方は人々の中から、自分一人を連れ出して、目の前に立たれます。
その方は、男と一対一になられます。連れ出され、向き合うことで、男はこの方が、他の誰でもない、自分に、何かをしようとしておられると分かったのです。
目の前の、主イエスの眼差しは、自分一人に注がれています。
そして、主イエスの指が両耳に差し入れられます。わたしたちは、耳に触れるとゴソゴソと音が聞こえますが、男には音は聞こえません。しかし、主イエスの手の温度や、耳の穴に差し込まれた指の感触を感じます。
この人が、自分の聞こえない耳に、何かしようとしておられる、と分かります。
次に、主イエスが手に唾をつけて、舌に触れられます。この人が、自分の呂律が回らない舌に、何かしようとしておられる、と知ります。
そうして、主イエスは、天を仰ぎ、深く息をつかれました。
天を仰ぐのは祈りの姿勢です。天からの力によって、その男に何かが起きるということが示されます。男は一緒に天を見上げたかも知れません。天の父なる神に、舌が回らず、自分で祈ることができない男のために、主イエスが代わって、執り成し、祈られます。
深く息をつかれた。これは「うめく、苦しむ、もだえる」という意味を持つ単語です。同じ言葉が、ローマの信徒への手紙で使われています。「同様に、『霊』も弱いわたしたちを助けて下さいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、『霊』自らが、言葉にあらわせない『うめき』をもって執り成して下さるからです」という箇所です。
祈りの言葉を知らないわたしたちのための、『霊』の執り成しの「うめき」です。わたしたちの苦しみを、霊が共に苦しみ、呻き、嘆き、祈って下さる。そのように語るこの聖書箇所の「うめき」と、同じ言葉です。
この時、主イエスは、男の苦しみに、嘆きに、悲しみに、共にうめき、苦しまれた。
主イエス御自身が、この祈る術(すべ)を知らない男に代わって、天を仰いで父なる神に祈り、この男の苦しみを引き受け、呻き、深く息をつかれたのです。
主イエスは、魔法のように簡単に男を回復されたのではありません。
主イエスは、神の子でありながら、低くなって、この地上に降ってこられ、貧しく、弱く、力の無い、人と同じになられました。その方が、この一人の男の前に立って下さり、触れて下さり、共に苦しみ、切なるうめきを持って、執り成しの祈りを祈って下さり、天からの力を祈り求めて下さったのです。
<まことの回復>
そして、主イエスは男に命じます。「エッファタ」。「開け」という意味です。
この主イエスのご命令の言葉によって、男の聞こえなかった耳は開かれました。
男のもつれた舌は解けて、はっきりと話すことが出来るようになりました。
これは、単なる、体の器官としての耳と舌の、機能的な回復の物語ではありません。
耳が開かれたのは、主イエスの言葉を聞くためです。ここで「耳が開き」と訳されている「耳」という単語は、体の器官の「耳」という意味ではなく、「聞くこと」そのものを意味する言葉です。正確に訳すならば、「聞くことに開かれた」と言った方が正しいかも知れません。救い主を信じる信仰は、福音を聞くことから始まります。
もつれた舌が解けたのは、神を賛美するためです。「はっきりと話す」というのは、単に呂律が回るという意味ではありません。「正しいことを話す」という意味です。人が語るべき正しい言葉、神への賛美の言葉を、語ることが出来るようになったのです。
「エッファタ」「開け」という命令は、その男の、体も、心も、魂も、すべてが神に向かって開かれるようにとの、ご命令です。
そうして男は、主イエスによって機能的に耳や舌が回復したというだけでなく、主イエスの御声を、救いの言葉を、聞くようにされ、正しい言葉、神を賛美する言葉を語るようにされたのです。神に応答する言葉を語る者とされたのです。
これは、単なる癒しの出来事なのではありません。自分で救いを求めることも知らなかった一人の男が、主イエスと出会うことによって、神のみ言葉を聞き、神を賛美する者とされ、神との関係の回復を与えられた、その救いの出来事が語られているのです。
<まことの救い主>
そして聖書では、男の回復の後に、人々がこのことを言い広め、すっかり驚いてこう言った、とあります。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにして下さる。」
この人々が言った言葉は、今日読んだ、旧約聖書のイザヤ書35:5~6に対応しています。この35章は、小見出しに「栄光の回復」とあるように、救い主が来られて、神が救いを実現して下さる、という預言が書かれています。
5~6節には、「そのとき、目の見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」とあります。
耳が聞こえず舌の回らない人の救いの出来事を通して、イザヤ書に語られていた「聞こえない人の耳が開く」「口の利けなかった人が喜び歌う」という、救い主が来られたことの「しるし」が、主イエスによって実現したのです。また、今日の箇所よりもう少し後の、8:22以下では、盲人のいやしが語られており、「目の見えない人の目が開き」という言葉が実現したことが示されています。
これらのことを通して、この旧約聖書に示された神の約束が、救いが、主イエスによって実現する。この方こそ、神が遣わして下さったメシア、救い主である、ということが示されているのです。まことに、救い主はこの世に来て下さったのです。
<わたしたちも開かれる>
さて、そのように男の閉ざされた耳が開き、もつれた舌が解かれた出来事を聞いてきました。しかしこれは、この男だけの出来事ではありません。この男の状態は、まさにわたしたちのことを示しています。わたしたちの耳と舌はどうなっているでしょうか。
わたしたちの耳は、ちゃんと神の御言葉が聞こえているでしょうか。
わたしたちの耳は、福音を聞いたとしても、聞いたことを、受け入れない。素直に聞くことが出来ない、閉ざされている耳です。
わたしたちの舌は、神を賛美する、正しいことを語る舌でしょうか。
わたしたちの舌は、むしろ自分を語り、自分を賛美し、人を傷つけ、神に向かって暴言を吐くような、罪に縛られ、もつれている舌です。
このわたしたちの、閉ざされた耳が開かれるために、罪に縛られた舌が解かれるために、神の御前に正しく立つ者とされるために、一体、主イエスがどれだけのことをして下さったでしょうか。
今日の聖書の、一人の男の回復のためにして下さったこと以上に、わたしたちが開かれて、神の愛を受け入れるために、神の御子なる主イエス・キリストが、どれほどのことをして下さり、苦しみと、悲しみと、痛みを、負われたでしょうか。
主イエスは、遠い所にいる、耳が聞こえず舌が回らない男のところへ、わざわざ遠回りをしてでもやって来られました。そして男は、人々によって主イエスの元へ連れて来られました。自分では、まったく何も知らないし、何もできなかったのです。
わたしたちも同じです。主イエスはそんなわたしたちのために、まことの人となりこの世に来てくださいました。でも、わたしたちは、自分たった一人では何も出来ません。聞くことも、救いを求めることも知らないのです。しかし、すでに主イエスを知っている誰かによって、わたしたちはそれぞれ主イエスの御前に、連れてこられたのではないでしょうか。神は救おうとする者に聖霊の導きを与えて下さいます。神は、人や、様々な機会を用いて、御自分のもとへわたしたちを招かれるのです。
自分の意志で、一人で教会に来た、という方もいらっしゃるかも知れません。しかし、そのきっかけや、何らかの主イエスの話を、誰かが伝えてくれたことがあったはずです。
そのような様々な仕方で、自分では神の許へ行くことが出来ない者を、神は招いて下さいます。そして、主イエスが出会って下さるのです。
主イエスは、一人の前に、一対一で立たれます。そして、「あなたのためにこれらの業を行うのだ」と、語られます。その者が分かる仕方によって、一人一人のための言葉を語りかけて下さいます。抱えている苦しみに、痛みに、その手で触れて下さいます。男と一対一になり、向かい合い、耳に指を入れ、舌に触れて下さったようにです。
そして、主イエスは天を仰ぎ、深く息をつかれます。それは、聞くべきことを聞かず、正しく語ることのできない、罪に縛られたわたしたちの耳と舌のため、わたしたち罪人のための、うめきと、執り成しの祈りです。それは主イエスが、ゲツセマネで、恐れ、苦しみ、もだえながら、地面に打ち伏して祈られた祈りです。
そして主イエスは、わたしたちの罪のために、鞭打たれ、苦しみを受け、十字架で血を流され、死んで葬られました。
主イエスは、そのようにして、父なる神に執り成して下さり、わたしたちの罪と死をご自分が負って下さったのです。そこに捕らわれていたためにもがいていた、苦しみも、痛みも、嘆きも、すべてを引き受けて下さったのです。
そして、父なる神は主イエスを復活させて下さり、わたしたちの罪を赦し、主イエスを信じる者に、新しい命を得させて下さり、神の御前に立つ者へと回復させて下さったのです。
主はわたしたちに命じられます。「エッファタ」「開け」。
主イエスは、すべての罪人の耳を開いて、福音を聞くことが出来るようにして下さいます。神の永遠の愛と、約束を、受け入れることが出来るようにして下さいます。
主イエスは、すべてのもつれた舌を解いて、主イエスの素晴らしい恵みのみ業について語り、信仰を告白し、神を賛美するようにして下さいます。
主イエス・キリストが「エッファタ」「開け」と命じて下さり、わたしたちを罪から解き放ち、神に向かって開いて下さるのです。
それはただ、主イエスの「開け」というご命令によってなされることです。
男は主イエスのご命令を聞いて、自分で耳を開き、自分で舌を解いたのではありません。
主イエスのご命令によって、耳が主によって開かれた。舌が主によって解かれた。主のご命令は、すべてを従わせ、そのように成さしめて下さる、ご命令です。
その主イエスの救いのみ業によって、今、わたしたちはこの礼拝で、福音を聞き、神に祈り、賛美を献げることが出来るのです。
耳を開かれ、もつれた舌を解かれて、回復された者として、復活の主イエスと共に、ここにいることを許されているのです。
わたしたちは、み言葉を聞き、その恵みを知り、受け取ることが出来ます。またわたしたちの舌は、神の呼びかけに答えて、神を賛美し、神に祈り、救いの恵みを喜んで語る、正しいことを語る舌となることができます。
すべてを支配して下さる、まことの救い主、主イエスが、「エッファタ」「開け」と、わたしたちに命じて下さるからです。