「主イエスに遣わされる」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:出エジプト記 第3章12節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第6章6b-13節
・ 讃美歌:202、517、78
<新しい年の歩み>
2019年になり、新年を迎えました。なんだかフレッシュな気分になりますけれども、実は教会の暦では、クリスマスを待つアドヴェントから新しい年が始まっています。
クリスマスは、わたしたちの救いのために、神の独り子イエスさまが、まことの人となって、この世に生まれて下さったことを覚える日です。イエスさまがわたしたちのところに来て下さり、「インマヌエル」「神はわたしたちと共におられる」という約束が実現しました。主イエスは、いつもわたしたちと共にいて下さいます。
主イエスと共に歩む人生は、ただ淡々と自分の人生を無事にこなしていくような歩みにはなりません。主イエスの十字架と復活の救いにあずかって、神のものとされた者たちは、神のお働きのために用いられる者となります。神の救いを宣べ伝え、神のご計画に参加し、神と共に、神の国の完成に向かって働き、大きな天の喜びを共に味わうことへ招かれています。
伝道のために、神がわたしたちのような罪人に、福音を託して下さり、用いて下さるのは驚くべきことです。
しかし、わたしたちは罪人であるからこそ、このようなわたしを救い出して下さり、愛し抜いて下さり、捕らわれていた罪と死から解放し、永遠であられる神と共に生きる者として下さった、ということを、自分自身が与えられた大きな喜びとして証言し、心から語る者とされるのです。
本当に美味しいものを自分が食べた時に、友人に勧めたくなることがあります。もうこれは絶対に美味しい。保証するから、一度食べてみて欲しい。絶対に後悔はさせない。お願いだから、奢ってもいいから、この美味しさを味わってみて!と、そんな風に、何とかこの美味しさを知ってもらって、一緒に「美味しいね」と言いたいなぁ、と思って、必死に伝えようとすることがあると思います。
福音を伝えるとは、その何百倍も素晴らしいものをイエスさまからいただいて、癒されて、慰められて、喜びを与えられた自分が、何とかこの喜びを大切な人にも知ってもらいたい!お願いだから、このイエスさまと出会って、御言葉を聞いて欲しい!あなたも絶対に慰められ、癒され、救われるから、この喜びを味わってほしい!分かちあいたい!という思いが与えられるものだと思うのです。
イエスさまに救われた者は、この喜びに押し出されて、他の人にイエスさまを紹介し、教会に招いてくるのです。その他の誰かは、ずっと前から神が選び、救い出そうとしておられた者ですが、神は救いのみ業に、わたしたち一人一人を用いたいと仰るのです。すべての者が神のもとに立ち帰り、神と共に生きる者になることが、神の御心です。そして、そのために、神がわたしたちに与えられた働きがあるのです。
特に御言葉を取り次ぐ務めをする伝道者の働きがありますが、そうでなくても、教会に連なるキリスト者一人一人が、家庭で、社会で、学校で、与えられた場所で、イエスさまを知らない人に、自分を支え生かして下さるイエスさまを伝えるために遣わされているのです。
<派遣>
さて今日の箇所は、主イエスが十二人の弟子たちを遣わす場面です。目的は12節にあるように、人々を「悔い改めさせるため」。つまり、神から離れて、自分勝手に罪の中で生きている人々が、神のもとに帰ってくるように。悪や、罪や、死に支配された人々が、神の恵みのご支配に生きるようになるためです。
主イエスは、1:15で宣べ伝えられた「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」との御言葉を十二人に託し、宣べ伝えさせられたのです。
今回の6章に語られている派遣のために、実はだいぶ前から、主イエスは準備をしておられました。
弟子たちが主イエスによって十二人選ばれたのは、だいぶ遡って、3:13以下のことでした。そこを見ていただくと、このようにあります。(65頁)
「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。」
主イエスがこの時、十二人を選ばれたのには、理由があります。十二という数字は、神が選び、エジプトから救い出されたイスラエルの部族の数です。この十二部族からなる神の民イスラエルに、神は約束をなさいました。それは、この十二部族を用いて、すべての国の民を救う、という約束です。
十二人が選ばれたのは、主イエスによって、このイスラエルに約束された神の救いが実現し、そこから救われた新しい神の民が興されることを示すためです。この、新しい神の民こそ、神に招かれ、主イエスを信じた者の群れである「教会」なのです。
このようにイエスさまは、彼らを選んで任命し、「使徒」と名付けられました。
「使徒」とは、「遣わされた者、派遣された者」ということです。具体的には、派遣する者の代理人です。代理人は、派遣した主人の権威を預かり、それを用いることが出来ますし、その責任を負います。法的な行為も、代理ですることが出来ます。そのため、代理人となる者には、自分を派遣した主人に対する厳しい服従の義務があったといいます。
主イエスは、十二人をそのようなご自分の「使徒」とされました。彼らにご自分の権威を与え、派遣して、多くの人々に、神の国の福音を宣教させるために、彼らを呼び寄せられたのです。ご自分の宣教の業を、この十二人に託されたのです。
しかし、すぐに遣わされたのではありません。3:14にまず書かれていることは「彼らを自分の側に置く」ということです。主イエスは、十二人を御自分の側に置き、何度も神の国について彼らに教え、また、神のご支配を証しする多くの奇跡の御業を、十二人に目撃させました。神のご支配が確かに主イエスによって実現すること、その恵みの確かさを、弟子たちにたくさん経験させて下さったのです。
このように、十二人の使徒たち自身が、御言葉に養われ、神の恵みのご支配の中で生かされる者とされてから、やっと6章になって、派遣されたのです。
<どのように派遣されるか>
今日のところには、派遣される時の具体的なことが語られています。二人ずつ組みになること。悪霊を追い出す権能を授けられること。旅の持ち物。旅先での滞在中のことなどです。
二人一組で行動するのは、ユダヤ人の慣習でしたが、福音を宣べ伝える時に、一人ではない、ということは大切なことです。同じお一人の神を信じ、主イエスの一つの救いにあずかるのですから、主イエスを信じる者は、絶対に一人にはなり得ません。神の民の一員になるのです。ですから信仰者は、必然的に、他者との交わりの中で生きることになります。この交わりの中で、共に祈りつつ、共に支え合いつつ、主イエスを証しし、伝道していくのです。
また、一人で行動すると、独りよがりになったり、決断を迷うこともあるでしょう。そういう中で、共に神の御心に耳を傾け、共に神を仰いで歩んでいく仲間がいることは、必要不可欠なことなのです。
主イエスは、マルコ福音書の他の箇所でも、弟子たちを使いに出す時も必ず二人で行かせました。それに、主イエスの復活の後の初代教会でも、伝道に出かける時には、必ず二人一組で送り出されているのです。
また、主イエスは彼らに悪霊を追い出す権能を持たせられました。人を神から引き離そうとする悪霊を滅ぼし、それらの支配から解放し、神の恵みへと招く力です。神の御言葉が語られるところには、神に逆らう悪霊の居場所はありません。神のご支配を宣べ伝えるとは、同時に悪霊の支配を打ち破り、人を捕えようとするあらゆる力を追い散らすことでもあるのです。そこに、神によるまことの癒しと、平安と、慰めが訪れ、神の恵みによるご支配が実現するのです。
さらには、旅の持ち物のことが語られています。これは、中々厳しいご命令です。杖一本の他は何も持たず、パンも、袋も、帯の中に金も持ってはいけない。履物は履いても良い。下着は二枚着てはならない。
パンも、袋も、金も持たず、下着も余分を持たない、というのは、自分のものに頼ったり、先のことを考えて自分の備えによって安心を確保し、それを拠り所としないように、ということでしょう。
神の国を宣べ伝えることは、神のご支配を信じ、神がすべてを与え、守り、導く方である、神のみが頼るべき方である、ということを宣べ伝えることです。それを宣べ伝える当人が、将来の自分に対する神の備えや守りに不安を抱き、どうしても心配なので、自分で必要そうなものを準備しておこうとするならば、その人が「神の国を信じなさい」と力強く語っても、「あなたは神の力に本当は頼っていないのでは?」ということになってしまうでしょう。
語る者自身が、心も体も、まことに神にすべてを委ね、神に頼り、神の支えによって生きている、ということが、大切なことです。主イエスが召し出し、主イエスが権能を与え、主イエスが遣わして下さるのですから、自分のものに一切頼らず、神にのみ頼って伝道の業に仕えなさい、ということでしょう。
また、旅先でのふるまいについて語られます。当時のパレスチナ地方では、巡回する伝道者に対して、その村人が自ら申し出て客として招き、宿泊ともてなしをする習慣がありました。主イエスの福音を聞き、受け入れた者がいれば、その者が自分の家に使徒を招きます。使徒は、そこを拠点に伝道する、ということになります。そうして、自宅に招いた者も、伝道の業に協力し、神の御業に参加することになるのです。
「その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい」というのは、たとえば最初にお世話になった家より、もっと良いおもてなしをするから来て下さい、などと言われて、自分の居心地の良さを求めて転々としてはいけない、ということです。この場合も、人が与えてくれるもので自分を満たし、より良い物を求めたり、人に頼ろうとすることになっていきます。そうして、神にのみ依り頼み、神にのみ求めて生きる歩みから離れていってしまうからです。
最後に、「あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出て行くとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落しなさい」と言われています。
足の裏の埃を落とすのは、異国の地を旅して帰ってきた時に、異教の汚れを聖地エルサレムへ持ち込まないための、ユダヤ人たちの習慣です。これは、関係を完全に断ち切ることを象徴する行為です。これを、神の御言葉を受け入れなかった人に対してしなさい、というのです。
神のご支配が語られるということは、聞いた者にとって、そこで神のご支配を受け入れるか、受け入れないかの決断を迫られるということです。それは、神のご支配を信じて、その恵みの中に生きる者となるか、自分は神を必要としないと言って受け入れず、自ら神の恵みの外に立って滅びに向かうか、ということです。神の御言葉が語られるところには、そのような出来事が起こるのです。
神の国を告げ知らせたのに、それを自ら拒否し、受け入れないのなら、それは語った者の責任ではなく、耳を傾けようとしなかった者たち自身の責任である、ということです。それで、語った者は、これらの者とは関わりがない、ということを示すのです。
語った使徒たちからすれば、このことは、自分の語りの上手さや、自分の力量によって、相手を信じる者に変えたり、説得したり出来るのではない、ということです。主イエスに遣わされた者は、神の力によって、主イエスの権威によって、誠実に、心を尽くして、全力で語ることしか出来ません。信じる者が興されるのは、決して自分の手柄ではありませんし、また拒否されても、その人の命に対して責任を負えるわけではありません。しかし、人の業を通して、人を用いて、神が働いて下さるのです。
一人の人が罪の中から救われるという出来事が起こるのは、そこに生きて働いて下さる、神の御業でしかありません。すべては、神の御業であり、神の力であり、神に依り頼むべきことなのです。この派遣にまつわるご命令は、そのことを徹底的に教えようとしているのではないでしょうか。
<本当の派遣への備え>
こうして3章で選ばれ、恵みで満たされ、6章で派遣された十二人でしたが、実はこの6章の派遣も、本番前の備えのようなものでした。主イエスはまだ地上におられ、十字架によるすべての人の罪の贖いは、これからなされようとしています。
本当に使徒たちが遣わされた本番は、マルコ福音書の16章、主イエスが十字架の死によってすべての人に罪の赦しを与えて下さった後、神が主イエスを復活させ、天に上げられてからなのです。
16:15以下を、一度見てみたいと思います。(98頁)
「それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。』 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」
こうして、復活の主イエスが使徒を遣わし、全世界に福音が宣べ伝えられました。今わたしたちに福音がもたらされたのも、すべてはここから始まったのです。
今回の6章の派遣は、まさにこの時の備えであったと言うことができるのです。
<選びの根拠>
さて、6:12~13で、彼らは主イエスに遣わされ、悔い改めさせるために宣教し、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒した、とあります。宣教は大成功であったかのようです。しかし、これで派遣本番への備えは完璧だったのでしょうか。この後の使徒たちの歩みはどうだったでしょうか。
主イエスは、この6章の後もずっと彼と共にいて、神の国について教え、しるしを与え、御業を行なわれました。御自分が十字架と復活によって、神の救いのご計画を成し遂げることも、繰り返し教えられました。
しかし、使徒たちは、主イエスの十字架の時には、裏切り、見捨て、逃げ去り、全員主イエスのもとからいなくなってしまったのです。誰一人残らず、です。
彼らは本当に、主イエスに遣わされる使徒としてふさわしかったのでしょうか。
…誰も、使徒としてふさわしい者などいませんでした。そもそも彼らは、信仰深いとか、語るのが得意とか、熱心で努力家だとか、根性があるからとか、そんな、わたしたちが思うようなふさわしさの理由があって選ばれたのではありません。
弱く、愚かで、裏切るような者なのに、それでも主イエスが、彼ら一人一人に目を留め、選ばれたのです。選びの根拠は、もっぱら主イエスご自身の自由なご決断にありました。
主イエスは、彼らが最後まで御自分に従うことが出来ないことも、よくご存知でした。彼らには、宣べ伝える能力も、奇跡を起こす力も、従い抜く誠実さも、何もありません。
しかし、主イエスは、彼らに福音を託し、彼らを御自分の御業のために、用いることがお出来になるのです。彼らが使徒であるのは、主イエスが彼らを選ばれ、立てられたから、という理由によってのみです。
<使徒となる>
使徒たちは、主イエスが捕らえられ十字架に架けられる時に、散々自分の不信仰さ、弱さ、愚かさを突き付けられました。それは誇りも、自信も、熱心さも、何もかも打ち砕かれる経験だったでしょう。
ところが、そんな彼らが、主イエスが復活された後には、今度は別人のように、迫害も、死も恐れずに、力強く福音を宣べ伝える者となったのです。
それは彼らが自ら成長して、反省をして、覚悟を決めて、完璧な使徒になったからではありません。裏切り、逃げ去り、ぼろぼろに打ち砕かれた使徒たちに、十字架の死から復活なさった主イエスが再び出会って下さったからです。主イエスが、彼らの打ち砕かれた傷を癒し、その罪を赦し、立ち上がらせ、新しい力を与えて、再び「福音を宣べ伝えなさい」と命じて下さったからです。
彼らは、復活の主イエスの宣教のご命令を聞いた時に、今日の聖書箇所の、初めての派遣のことを思い起こしたと思うのです。
主イエスは、使徒たちが裏切り、離れ去る前から、そのような者であると知りながら、確かに使徒たちを選び、ご自分の御業のために、権能を与え、派遣して下さったのです。そして、すべてを神に依り頼むことを教えて下さいました。
そして、恥ずかしい、情けない罪の姿を晒した後でも、その選びを取り消すことなく、御自分の十字架の死によって罪を赦し、再び、彼らを呼び寄せ、宣教を命じて下さったのです。
使徒たちはこのことを通して、知りました。自分たちの中に、頼ることが出来るものは、本当に、一切何もないということ。何の力も、信じ抜く力さえないということ。そして十字架と復活の御業を成し遂げられた、救い主イエスが、信仰を与え、言葉を与え、力を与えて下さる。崩れ落ちた自分たちを立ち上がらせ、主イエスに従う者として新しく変えて下さる、ということです。使徒たちは、この救いを確かにいただきました。そして、主イエスは必ずあなたも慰め、癒して下さる。あなたを必ず救って下さる。その確信と、本物の喜びに満たされて、主によって遣わされ、多くの人々に力強く伝道していったのです。
今日の箇所のご命令によって教えられていたように、救いも、伝道の業も、すべては神の力であり、神の御業です。復活の主に出会い、赦され、再び遣わされた使徒たちは、復活の主イエスご自身が、生きて、共にいて、働いて下さる。ただそのことによって、何も恐れずに、福音を宣べ伝えることが出来たのです。
<派遣される>
わたしたちも、使徒たちのように、主イエスの十字架の御業によって罪を赦され、復活の恵みを受け、苦しみから、絶望から、死の中から立ち上がらせていただきました。主イエスは、わたしたちを側に置いて下さり、礼拝を通していつも御言葉を語り、御業を見せて下さり、わたしたちの信仰を強め、励まし、導いて下さいます。
それでもなお、わたしたちは時に主イエスから離れ、疑い、自分の力や、他のものに頼ろうとして、神を悲しませるような者です。しかし、復活の主が、いつでも、何度でもわたしたちを立ち上がらせ、新しくして下さるのです。そこに、まことの癒しと、平安と、慰めを与え、この喜びによって、「全世界に福音を宣べ伝えなさい」と、わたしたちを遣わして下さるのです。
わたしたちの中には、力も、言葉も、強さも何もありません。しかし、何もないわたしに、主イエスの恵みが溢れるほど注がれて、神の御業に仕える力を、祈りを与えて下さるのです。
信じる者が生まれるのは、神の御業であり、この教会は、その神の力によって興された新しい神の民の群れです。この喜びの群れに、一人でも多くの者が加えられるため、主イエスはわたしたち一人一人をまた用いて下さり、それぞれの場所にお遣わしになるのです。