夕礼拝

みんなで行こう

「みんなで行こう」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第40章9-11節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第1章29-39節
・ 讃美歌:204、509

<主イエスの教え>
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
これは、主イエスが教え、宣べ伝えておられることです。今も、わたしたちに呼びかけておられることです。

前回の21節以下のところでは、主イエスが安息日に会堂に入って、人々に教えておられたことが語られていました。そこで教えておられたのも、この「神の国」、神のご支配が近づいた、という喜びの知らせです。
そして、主イエスはそのとき、会堂にいた、汚れた霊に取りつかれた男から、その霊を追い出されたことが語られていました。汚れた霊に支配された男を解放し、この男を神の恵みのご支配へ招いて下さったのです。教えを聞き、また御業を目撃した人々は、「新しい権威ある教だ」と驚き、その評判はガリラヤ地方の隅々にまで広まった、とあります。

主イエスの教えられる福音は、神の権威をもって、神のご支配を告げるものです。
神に逆らい、神から離れて罪の中を歩むのではなく、すべての造り主である神に従い、神が命を与え、養い、導いて下さる方であることを受け入れて、神のご支配のもとで生きなさいと、招く声です。主イエスは、すべての人々が、この神のご支配のもとで生きることが出来るようになるために、わたしたちを救うために、この世に来られました。そして、人々にこの良い知らせを、告げておられるのです。

<シモンのしゅうとめの癒し>
さて、本日の箇所では、安息日に会堂で教えられた後、すぐに主イエスと弟子たちの一行は、シモンとアンデレの家に行った、とあります。この二人は兄弟で主イエスの弟子になりました。そして、シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した、とあります。

このことからシモンは、主イエスの弟子になった時点で、結婚をしていたことが分かります。そして、家族で一緒に暮らしていたのでしょう。
シモンとアンデレは漁師でしたが、主イエスがこの兄弟を選び、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声を掛けられ、二人は網を捨てて主イエスに従い、弟子になりました。網を捨てる、というのは、仕事を捨ててしまうこと、生活の手段を失ってしまうことです。もう一組の弟子となった兄弟、ヤコブとヨハネも漁師でしたが、彼らも主イエスに呼ばれると、父も雇人も舟に残して、主イエスの後について行ったと書かれていました。彼らは、仕事も家族も置いて、主イエスに従ったのです。
でもそれは、それほどの覚悟がないと弟子になれないとか、主イエスに従うには全部捨てなければならない、ということではありませんでした。
主イエスに従うということは、生活のあらゆることの中心を主イエスにおき、あらゆることを主イエスに委ねる、あらゆることを主イエスに頼るということです。そのような歩みの中で、主イエスは、シモンの家に来て下さり、シモンの家族、大切な人々にも、救いの御手を伸ばして下さるのです。

シモンの家に来られた主イエスに、人々はしゅうとめの熱のことを話しました。すると、31節には「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」とあります。
主イエスは熱を去らせて下さいました。そして、しゅうとめは「一同をもてなし」ました。この「もてなす」という言葉は、「奉仕する、仕える」という意味の「ディアコネオー」というギリシア語です。ですから、単に元気になったのでお客様として一同を迎えた、ということではなく、主イエスと弟子たちに奉仕をした、仕える者となった、ということです。このしゅうとめも、主イエスに従う者になったのです。この言葉は、未完了形で書かれていて、この後もずっと継続的に、しゅうとめが主イエスに奉仕を続けたことを意味していると考えられます。

主イエスの、汚れた霊を追い出したり、熱を去らせたりする力は、ただ奇跡を起こせてすごい、ということを示すものではありません。
主イエスの力は、病や汚れた霊をも支配する神の力であり、これらの御業は、その神のご支配を明らかにする「しるし」として行われています。ですから、主イエスが汚れた霊を追い出したり、熱を去らせたりする業の目的は、人々がこれらも従わせる神の力、神のご支配を信じ、神から離れていた罪を悔い改めて、神に従って生きるようになること。つまり、「神の国を受け入れ、悔い改めて福音を信じること」が目的なのです。

主イエスがしゅうとめになさった出来事は、「熱が去った」というところではなく、「しゅうとめが主イエスに仕える者になった、従う者となった」というところに大きな恵みがあります。主イエスは御自分に生活も人生も委ねて従ってきたシモンに、そのような大きな報いを与えて下さいます。しゅうとめも、救いの恵みへと招き、神のご支配の許に生きる者として下さるのです。
シモンの妻のことも、コリントの信徒への手紙一9:5に書かれていて、パウロが「わたしたちには、他の信徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか」と言っているところがあります。ケファと呼ばれているのがシモンなのですが、つまり、シモンの妻も信者になっている。主イエスに従う者になっている、ということです。主イエスは、一人の者を選び、招かれたところから、その救いのみ業を、その人の周囲の人々へも、広く、深く及ぼして下さるのです。

<人々に仕える主イエス>
 さて、その後、32節には「夕方になって日が沈むと、人々は病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た」とあります。
夕方になって日が沈むと、というのは、ユダヤ教の一日は日没から始まりますから、安息日が終わって、次の日になると、ということです。安息日は仕事をしてはいけませんから、病人を運ぶということも出来ません。ですから、主イエスの評判を聞いた人々は、安息日が明けるのを待って、病人や悪霊に取りつかれた人たちを皆連れてきたのです。

 主イエスはこの大勢の人々を癒し、また悪霊を追い出されました。「町中の人が」と書かれていますから、入れ代わり立ち代わり大変な騒ぎだったことでしょう。でも主イエスは、その一人一人を癒して下さいました。34節の「いやす」という言葉は、元来は「奉仕する、仕える」という意味の言葉で(セラピュオー)、後に医学の場面で使われるようになり「手当をする、治療を施す」という意味になりました。癒しの業は、主イエスが病人に仕えて下さることで行われる業なのです。ここには「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちに仕えた」と書かれているのです。
神の御子が来られて、弱さと苦しみの中にある人々に向き合い、仕えて下さる。そのようにして、主イエスは一人一人と出会い、神の恵みの力によって、神のご支配のもとで生きるようにと招いて下さるのです。

<人々の思い>
 主イエスのもとには、きっと夜遅くまで、人々の訪問が絶えなかったのだと思います。忙しい時が続き、主イエスもおそらく疲れを覚え、くたくたになっておられたでしょう。
しかし、主イエスは朝早くまだ暗いうちに起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた、とあります。祈りとは、天の父なる神との対話であり、交わりの時です。主イエスは、神に遣わされた方です。どのような時も、父なる神の御心、神の思いを尋ね、神の望まれることに従って歩んでいこうとしておられたのです。

 そんな主イエスのことを、シモンと弟子たちが後から追ってきて、声をかけました。「みんなが捜しています。」
 まだ多くの人々が、汚れた霊を追い出していただきたい、病を癒していただきたいと、主イエスのことを待っており、朝早く行くと姿が見えないので、どこに行かれたのかと捜していたのでしょう。

 同じ出来事が語られているルカによる福音書4:43では、この場面は人々が主イエスを捜し求めてやってきたことになっており、「群衆はイエスを捜し回ってそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた」と書かれています。
 自分たちから離れて行かないで下さい。まだ治してもらっていない人もいる。あの人も、この人も癒してほしい。また、今後病気をした時にも、あなたがそばにいて下されば安心です。いつまでも一緒にいてください。自分たちから離れて行かないでください。人々の思いは切実であり、もっともなことです。

 でも、人々の思いはとても自己中心的です。主イエスのことを、腕の良い医者としか思っていないのではないでしょうか。人々は、主イエスの御言葉に耳を傾けたでしょうか。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」神の力を目の当たりにして、神のご支配を信じたでしょうか。神から離れていた自分を見つめなおし、神のもとに立ち帰って、神と共に生きようとしたでしょうか。神の御心、神が望んでおられることに従おうとしたでしょうか。
 彼らは主イエスに従おうとするのではなく、主イエスを自分の下に留めようとしました。ずっと自分のために仕えさせようとしたのです。

 しかし主イエスは、神に立ち帰りなさい、神に従いなさい、と人々に教えておられます。そして、主イエスご自身も、神の御心に従って、前に進んで行かれるのです。主イエスは、神の救いのみ業を実現するために来られた方として、なすべきことをしなければなりません。

 ルカによる福音書では、主イエスを捜しに来た人々に対して、主イエスは「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」と言われました。これは人々に対して、主イエスが、「わたしは神の国の福音を告げるために遣わされたのであり、わたしは神の御心に従う、あなたたちのもとに留まることは出来ない」ということを告げるものです。

 しかし、マルコによる福音書では、主イエスに従ってきた弟子たちが主イエスを捜しだし、「みんなが捜しています」と言ったことに対して、弟子たちに向かって答えられた言葉が語られています。主イエスはこのように仰いました。
「近くのほかの町や村に行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された、と書かれているのです。

<みんなで行こう>
 主イエスは弟子たちに、「近くのほかの町や村に行こう」と言われました。これは正確に訳すと、「わたしたちは行こう、ほかの町や村に」となり、口語訳聖書では「ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこでも教を宣べ伝えよう」と訳されていました。
「わたしたちは行こう、みんなで行こう」。主イエスは、ご自分の、神の救いを実現するための歩みに、従う者たちを伴って、「一緒に行こう、みんなで行こう」と言って下さるのです。

 主イエスに従う弟子たちの歩みは、主イエスが先頭にたって導いて下さる歩みです。主イエスに従っていくということは、また行く先々で語られる神の国の福音を繰り返し聞くということであり、神の力、神のみ業を何度も目撃するということです。
 そうして弟子たちは、ますます神の力を知らされていく。ますます神のご支配の力を目の当たりにする。そのような恵みを味わうことができるのです。

 しかしこのあと聖書には、弟子たちは、主イエスが十字架に架かられる前に、みんな主イエスのもとを離れてしまった、ということが語られています。
主イエスの歩みは、神の国の完成へと向かっていく歩みですが、その神の救いのみ業を実現するために、主イエスは苦しみを受け、十字架に架けられ、すべての人の神に背いた罪を代わりに負って、命を捨てて下さいます。
その十字架を前に、弟子たちは主イエスのもとから去ってしまったのです。弟子たちは、自分の覚悟や力に頼り、主イエスに従い通すことは出来ませんでした。

しかし、主イエスは、その弟子たちの罪をも担って、赦しを与えるために、十字架に架かられました。そうして、すべての者を罪から解放し、死から救い出し、救いを実現して下さる。そのようにして神のご支配を打ち立て、この神の恵みに元に生きることを赦して下さるのです。
神の御子、主イエスただお一人が、神の御心に最後まで、十字架の死に至るまで従い抜かれました。この方を、神は復活させて下さり、この方を信じる者に、罪の赦しを与え、また永遠の命と復活を与えることを約束して下さったのです。
復活の主は、逃げ去った弟子たちに再び出会って下さいました。弟子たちは復活なさった主イエスによって、まことに従う者へと新しく変えられたのです。

ですから、わたしたちが主イエスに従う、神に従うということも、自分の熱心さや、決意や、覚悟によるものでは、決してありません。
主イエスが「わたしに付いてきなさい」「みんなで行こう」と言われたのは、わたしたちが覚悟を決めて、必死に全力で主イエスに置いて行かれないようについて行く、ということではなくて、父なる神に従い抜いて下さり、救いを実現して下さった、たったお一人の方である主イエスに、全面的に頼って、自分をこの方にすべてお委ねして歩みなさい、ということなのです。

本日の旧約聖書のイザヤ書40章では、9節に「高い山に登れ/良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ/良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな/ユダの町々に告げよ」と、良い知らせ、福音が告げ知らされることが宣べられ、「見よ、あなたたちの神/見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ/御腕をもって統治される。」と、神のご支配が実現することが語られています。

そして、「見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む。」とあります。「主のかち得られたものは御もとに従い」とあるように、主がかち取って下さったものが、主の御もとに従うのです。わたしたちが頑張って神に近付いて、必死について行って従わなければ、神の国に入ることが出来ないのではありません。神がわたしたちの罪の贖いを実現し、わたしたちをかち得て下さるから、わたしたちは神の御もとに置かれ、従っていくことが出来るのです。
神は、わたしたちを、罪の中から、死の中から、神の独り子である主イエス・キリストの十字架の死と復活の御業によって、ご自分のものとして下さったのです。その恵みを受け取り、感謝して生きることが、主に従うことです。

そしてそれは、11節にあるように、弱く何も出来ない小羊が、羊飼いのふところに抱かれ、またその母の羊はやさしく導かれ、羊の群れが豊かな牧草地に連れて行かれて養われるように、わたしたちも主イエスのふところに抱かれ、守られ、慈しまれ、導かれながら、神の恵みのもとで養われ、生かされていくことです。
わたしたちが主イエスに従うとは、小羊のように、無力なままで、養って下さる主を信じて、主の御手に自分をお委ねすることなのです。それしか出来ないのです。
そのような中で「わたしたちは行こう、みんなで行こう」と、主イエスはわたしたちをふところに抱いて、ご自分の勝利の歩みにわたしたちを伴って下さるのです。

これは、救われた者の群れである教会の歩みです。主イエスに救われた者たちは、主イエスに養われ、導かれながら、「みんなで行こう」と言って主イエスご自身が先頭に立って歩んで下さる、神の国の完成への歩みに従っていきます。
また、なお前進する救いのみ業に参加し、そこで行われる神の恵みの御業、救いのみ業を間近に目撃する幸いを与えられているのです。

今朝のペンテコステの礼拝では、4名の方が洗礼を受けました。主イエスの救いのみ業を信じ、神の恵みを受け入れた4名の方が、新しい命を受け、神の群れに加えられたのです。教会の者たちは、「みんなで行こう」と言って下さる主イエスに従って歩む中で、その神の救いの御業を一緒に目撃しました。そうしてわたしたちもまた、天に満ちる神の喜びと一緒に、声を合わせて喜ぶことが出来るのです。そしてかつて、わたしたち一人一人も、そのようにして神に救われ、神の群れの中に受け入れられた恵みを覚えるのです。

主イエスは、ご自分の御業によってかち取って下さった者たちに、「みんなで行こう」と言って下さいます。そうして、主イエスに結ばれた者たちが、一つとなり、みんなで主イエスと一緒に、福音を告げ知らせ、神の御業に用いられ、主によって養われつつ、神の国の完成に向かって歩んでいくのです。

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