夕礼拝

平和を願って

「平和を願って」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第34編1-23節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第3章8-12節
・ 讃美歌 : 493、358

「最後に」
本日は、ペトロの手紙一第3章8節から12節までの御言葉に聞きたいと思います。このペトロの手紙一とは、教会の歴史において、始めの頃に教会に対する迫害や弾圧が強くなりかけていたときに、教会に連なるキリスト者を励ますために書かれました。本日の箇所の8節は「終わりに」と言う句から始まります。「終わりに」とは、これは2章の11節から3章の7節までに語ってきたことに対して「最後に」「終わり」にという意味があります。これまで、様々な立場にあるキリスト者に対して勧めをしてきました。立てられた全ての制度に従い、主人に従い、妻は夫に従い、夫は妻を尊敬する者として、またキリスト者ではない者に対してキリストを証しすることを勧めて来ました。そのことを受けて「最後に」と始めています。いよいよこの手紙の目的である困難の中にあるキリスト者に励まし語り始めるという意味を持っています。困難の中にあるキリスト者を励ます。困難の中にあるキリスト者と一口に言っても、教会に連なる人たちそれぞれがそれぞれの立場にいますので、それぞれの立場におけるキリスト者としての生活があります。様々な職業であったり、家庭における立場であったり、キリスト者となった経緯であったりそれぞれが異なる立場におります。ペトロはこれまで、キリスト者である奴隷や妻や夫、キリスト者である配偶者を持つ夫や妻たちという人たちへ勧めをしてきました。当然、それぞれの立場に応じて状況が違います。また始めの頃の教会の信仰者たちの相違は一層甚だしかったでしょう。人種、階級、話す言葉、習慣などあらゆることが違っていた。けれども、ただ一つ同じことは信仰者としてそれぞれの立場に召され、遣わされているということでしょう。キリスト者である限り、主イエス・キリストを救い主として信じる信仰者としてどう生きるか、という根本的なところはたとえ奴隷であり、妻であると言うようにどのような立場にあっても同じです。奴隷の信仰、妻の信仰、夫の信仰という区別があるはずはないでしょう。

「ただ一つの信仰」
どのような立場にあっても変わらないものは「ただ一つの信仰である」と最後にペトロは勧めています。立場が違うからと異なった信仰ではなく、ただ一つの信仰が、立場が違う事によって異なった形で現れてくるのですただ一つの信仰がそれぞれの人に応じて現れてくる。一人一人が違うように、信仰の現れ方が違うのでしょう。だからと言って違う信仰ではなく同じただ一つの信仰なのです。信仰とはどのような立場においても、その人を生かすものとなるのです。
このペトロの手紙一が書かれた頃は、キリスト教会に対する迫害や弾圧が強くなりかけていたときです。そのように教会に対する迫害や弾圧がある時こそ、「皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」と語られています。「心を一つに」するとあります。それぞれ立場が違う人が集まる、与えられている状況が違う。けれども、主イエス・キリストを信じることは同じであるがゆえに、心を一つに出来るのです。教会には様々な人がおります。信仰者も同じように様々なことが一人一人違います。けれども、ただ一つ同じなことは信仰であります。そして、「互いに同情し合い、兄弟を愛し、憐れみを深く」とあります。自分のことを中心に考えるのではなく、他者の立場に身を置いて考え、相手に対する愛情を持ち、信仰者達が互いに心を配るようにと勧めています。「憐れみを深く」とは腹の底から相手を愛するように、同情をするということです。「謙虚になりなさい。」と謙遜というよりも、やさしく親切にという意味であって、神様の前における態度として「謙虚になりなさい。」と言われております。隣人に行なうことは即ち神様に対して行なうことなのです。信仰者は神様の御前に生きている人間です。このように信仰者同士の強い結びつきによって、外からの悪に耐える力が与えられると言うのです。

「祝福を祈る」
ここの8節で勧められていることを一つにまとめますと、9節にある「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。」と言うことと繋がります。大変立派なことであると思います。それゆえに、少し現実離れしているように思われます。私たちの生活は、悪には悪をもって、侮辱に対して侮辱をもって対抗するものではないでしょうか。悪に対しては悪をもって報い、悪口を言われたら悪口を言い返す。お互いに自分の生活は自分が良く知っております。誰々が面と向かって、または陰で自分の悪口を言った。そうと知ると、実際私たちはそれに対して、すぐに祝福をもって応えることができるでしょうか。言われたら、それに対して悪口を言い返す。そのように言い返すことでバランスを保っているのではないでしょうか。「悪に対して悪をもって報いること」が私たちの本性ではないでしょうか。生まれながらの本性になってしまっているのではないか思われます。そのような姿が私たちの姿ではないでしょうか。聖書がどのように教えようと、悪事をされ、悪口を言われても、祝福をもって報いなければならない、そのようなことであれば、自分が損をしてしまう。悪に対しては悪をもって報いないと割が合わないと私たちは思うのです。様々な形で人から傷つけられる、自分は決してあの人を許すことはできない、と報復の執念を持ち続けてしまう、私たちではないでしょうか。そのような私たちに聖書は語りかけるのです。あなたがたは、悪に対して悪をもって報いるのではなく、「かえって祝福を祈りなさい。」と勧めています。悪に対して悪をもって報いるのではないと、主イエスもまたそのように教えられました。主イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイによる福音書5章44節)と教えております。信仰者はその主イエス・キリストの教えに従い、キリストの模範に倣うのみです。パウロも「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」(ローマの信徒への手紙2章17節)と勧めております。けれども、このようなことと言うのは自分にはとても出来ないと思います。自分に出来るか、出来ないかと言うことはあまり重要ではなく、主イエスがこのように教えておられることをしっかりと信じることが大切なのではないでしょうか。「かえって祝福を祈りなさい。」とあります。「かえって」とありまので、より積極的な振る舞いが勧められています。注意したいのはここで、悪に対して「無抵抗であれ」とは言ってはおりません。悪に対しても「祝福を祈りなさい」と言っているのです。祝福は人間が与えるものではありません。神様が与えられるものです。悪に対しても、神様は与えて下さる「祝福を祈る」ことが求められています。先ほどのローマの信徒への手紙の第2章の19、18節にはこのようにあります。「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に対して悪をもって報いることは私たち人間が悪に負けてしまうことです、人間の本性である罪に負けてしまうことになります。悪には負けないで、かえって「祝福をもって」悪に勝ちなさいということです。神様が「復讐はわたしのすること、私が報復する。」と言われております。私たちの思い煩いは全て神様にお委ねして良いのです。

「祈るために召されている」
なぜ、悪に対して「祝福を祈ること」を勧められるのでしょうか。信仰者は「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」とあるからです。祝福を受け継ぐために信仰者は召されたとあります。このために信仰を与えられたということです。信仰者が信仰を与えられたのは、祝福を受け継ぐためであります。信仰によって生活をしていくことは、神様の前での生活へと変えられることです。人間からの報酬を期待しないで、神様からの報いを期待する生活です。悪に対しても、人からの報いを期待しないで、神様からの祝福のみを待ち望むのです。私たち、人間には失望ばかりであります。私たちは自分自身も含めて失望をしてしまいます。自分に対しても、他者に対しても望みを見出すことが出来ない。そのような人間が望みを持って、頼りにできるのは、神様の祝福のみではないでしょうか。神様のみが正しいことを行うことが出来るからです。また、神様だけが全てのことを知っておられるからです。神様だけが罪に報い、許し、一切にまさる祝福を与えて下さることができるのです。神様がこの世にイエス・キリストとして来られ、人間の罪をすべて負って下さり、罪を赦して下さった。そのことにより、人間は一切にまさる祝福を与えられました。その祝福とは、この世における利益や繁栄ではありません。祝福とは、どのような時も「神がわたしとともにおられる」そのこと自体が祝福であります。また信仰者がどのような時も神様が自分と一緒にいて下さると信じることが祝福なのです。どこで何をしていても、神様がともにいてくださると言う信仰を持っている人は祝福された人であります。悪に対して悪をもって報いるのではなく、祝福を祈るように勧めています。祝福をもって、報いることに徹することを求めています。

「祝福を受け継ぐ」
本日の箇所の後半の部分、10-12節までのカッコの部分は先ほどお読みした旧約聖書の詩編第34編12節以下と大変よく似ています。この詩編の34編12節以下はギリシア語による旧約聖書からの引用であり、私たちの旧約聖書はヘブル語から直接訳した聖書ですので少し言葉が違うかもしれませんが、意味は変わっておらず、ほぼ同じです。詩編34編の13節には「長生きして幸いを見ようと望む者は」とあります。これは本日の10節「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、」と同じ意味であります。1日1日を幸せに過ごしたいのであれば「舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。」とあります。この10節以下にどのしてこのように詩編の言葉が引用されるのでしょうか。この引用に先立って「なぜならば」という言葉を入れると分かりやすいでしょう。この10節の引用は9節の説明、その根拠を示すものであります。「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」神様の祝福を受け継ぐために、神様によって信仰を与えられました。この世で生きている間は、この世の資産を与えられるでしょう。財産、地位、名誉、健康、家族、友人、愛する者が主なる神様によって与えられる。けれども、それらのものが取り上げられる時が訪れます。何も持てないときが来るのです。何も持てないかもしれないけど、神様の祝福を与えられる。神様が共にいて下さる。このことを信じ、主の祝福を求めよと勧められています。私どもに与えられている現実の歩みは厳しいかもしれない。悪に対して悪をもって報いてしまう自分の姿があるでしょう。また正しいことをしていても誰の目にも止められない。こんなに祈っても祈りが聞き届けられない。この世での業が空しく終わるように見えてしまう。人間の目からはそのように見える現実においても、神様が確かに祝福を保証して下さります。神は人間の現実に主イエス・キリストをお与え下さり、人間の罪の姿をイエス・キリストの十字架の出来事によって祝福へと招き入れて下さいました。主が復活なさったことはこの世に打ち勝たれ、人間の罪に勝利をされました。私たちにはその神が共におられます。その方に全てを委ね、与えられた週を歩んで参りましょう。

関連記事

TOP