主日礼拝

信仰による救い

「信仰による救い」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第34編1-23節 
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第8章40-56節
・ 讃美歌:22、127、446

二つの奇跡物語
 本日ご一緒に読みますルカによる福音書第8章40節以下には、主イエスがなさった二つの奇跡が語られています。一つは病気の人の癒し、もう一つは死んでしまった人を生き返らせたというみ業です。しかもこの二つの奇跡物語が一つに組み合わされて語られているのです。40節から始まっているのは、会堂長ヤイロという人が、自分の十二歳の娘が病気で死にかけているので家に来て下さいと主イエスに願った話です。主イエスはその願いを聞いて彼の家へと向かいました。その途中で、十二年間出血の止まらない病気で苦しんでいた一人の女性が、群衆にまぎれて主イエスに近付き、その服の房に触れると病気が癒されたという出来事が起りました。主イエスは立ち止まって「わたしに触れたのはだれか」とおっしゃってその女性を探し出し、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と声をおかけになったのです。そうしているうちに、会堂長の家から使いが来て、娘が死んでしまったことが伝えられました。「間に合わなかった」と誰もが思ったのです。ところが主イエスは父親に「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」とおっしゃいました。そして彼の家に行き、死んだ娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけると、娘は生き返ったのです。このように、会堂長ヤイロの娘を生き返らせるという奇跡の話に挟まれて、病気で苦しんでいた女性の癒しの話が語られているというサンドイッチ構造がここにあります。この話はマタイ、マルコ福音書にもあり、どちらも同じ構造になっています。この二つの奇跡の話はもともと結びつけられて、一つの話として伝えられてきたのです。この二つの物語を結びつけているものは何でしょうか。両者に共通していること何でしょうか。それを探り求めつつ本日の箇所を読んでいきたいと思います。

会堂長ヤイロの娘
 40節に「イエスが帰って来られると」とあります。それはガリラヤ湖の対岸のゲラサ人の地方から帰って来られると、ということです。舟でその地に渡った主イエスは、悪霊に取りつかれていたある男を癒されたのですが、その地方の人々が主イエスに出て行ってもらいたいと願ったので、すぐにガリラヤへと戻って来られたのでした。ガリラヤの人々は主イエスを喜んで迎えました。それは、主イエスによる病の癒しを期待してのことでした。ヤイロもそういう思いで主イエスの帰りを待っていたのでしょう。早速主イエスのもとに来てひれ伏し、娘を助けて下さるように願ったのです。彼は会堂長でした。会堂というのはユダヤ人たちが礼拝や集会のために集う場所で、その長であった彼はその地域のユダヤ人社会の重鎮、指導的な立場にある人でした。このヤイロの十二歳の一人娘が病気で死にかけていたのです。十二歳というと私たちにおいては小学校6年生か中学1年生でまだ子供ですが、当時はそろそろ結婚適齢期という年齢です。これからいよいよ自分の人生を歩み出そうとする年齢にあったこの娘が、病気で死にそうになっているのです。父親ヤイロは勿論娘の病気を直すために必死になったでしょう。様々な医者に見せ、治療を試みたに違いありません。それだけの財産も、人脈も彼にはあったはずです。しかしそのように八方手を尽くしても病気は悪くなるばかりで、ついに娘は危篤状態に陥ったのです。そういう絶望の中で彼は主イエスに、来てくださるように願ったのです。主イエスはその願いを聞き入れて彼の家へと向かいました。

もう一人の女性の癒し
 その途中で、もう一人の女性の癒しが起りました。この人は、十二年このかた出血が止まらない病気を抱えていました。これは肉体的につらい病気であるだけでなく、ユダヤ人の社会においてはむしろ精神的に大きな苦しみを引き起こす病気でした。律法においては、生理の出血のある期間はその女性は穢れているとされていました。ということはこの人は一年中穢れた者であり続けることになります。穢れている者に触れるとその穢れが伝染するとも考えられていました。だから彼女はまともに人と接触することができないのです。普通の社会生活を送ることができないのです。ですから彼女が群衆の中に紛れて主イエスに近付いたのは相当の勇気が必要なことでした。穢れた者であることが周囲の人に知れたら白い目で見られ、追い出されてしまうのです。そして彼女が主イエスの服の房に触れたというのもまことに大それたことです。それは主イエスに自分の穢れを移すような行為なのです。彼女がそんな思いきったことをしたのは、この十二年の間、病気の癒しを願ってほうぼうの医者にかかり、全財産を使い果たしたけれども治してもらえなかったという苦しみ、絶望によってです。彼女は最後の望みを主イエスにかけ、群衆の中で後ろからそっとその服の房に触れたのです。すると、「直ちに出血が止まった」とあります。十二年間苦しんできた病が、たちどころに癒され。そのことを彼女自身自分の体に感じたのです。

わたしに触れたのはだれか
 これだけなら、主イエスの神秘的な力、あるいは主イエスの服の房に宿る癒しの力が語られているということになるわけですが、この話が示そうとしているのはそういうことではありません。大事なのはむしろその後の所です。主イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言って、自分に触れた人を探し出そうとなさったのです。しかし誰も名乗り出る者がいません。弟子のペトロは「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言いました。多くの人々が主イエスを取り囲み、押し合っていたのだから、誰かが触れることぐらい自然に起るのです。しかし主イエスは46節で、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言っておられます。誰かが救いを求めて自分に触れたことを主イエスは敏感に感じ取り、その人を見つけ出そうとなさるのです。
 47節「女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した」。彼女は、できることならこの出来事を隠しておきたかったのです。穢れた者である自分が群衆に紛れて主イエスに触れたことが明らかになれば、人々からどんな非難を受けるか分かりません。またそれは主イエスに対しても大変申し訳ないことです。できれば、誰にも気付かれずにそっと家に帰りたいと思っていたのです。そういう意味では、「わたしに触れたのはだれか」と問い、その人を探し出そうとする主イエスの行為は彼女には酷な、気の毒なことだとも思われます。けれどもここに、主イエスのなさる癒しのみ業、救いのみ業の基本的な性格が示されているのです。それは、主イエスがその人と正面から向き合い、出会おうとなさるということです。この女性は、イエスという人が数々の癒しのみ業を行なっているといううわさを聞き、その人に触れるだけで癒されるかもしれないと思って、後ろからそっと触れました。そしてそのまま静かに立ち去るつもりだったのです。つまり主イエスと出会うことなしに、自分のことを知られることもなしに、癒しの恵みだけをいただいて帰ろうとしていたのです。しかし主イエスは振り返って彼女を探し出し、彼女と出会い、交わりを築こうとなさるのです。皆さんの中にも、この女性と同じような思いでこの礼拝に集っている方がおられるかもしれません。教会の礼拝に行って、イエス・キリストの恵み、慰め、助けをいただいて、誰にも気付かれずに家に帰りたい、あるいは聖書のお話を聞いてそれを自分の生活の中で参考にしていこう、という思いで来ている人もおられるでしょう。しかし、主イエスご自身との出会いと交わりなしにただ癒しや慰めや支えだけを受けるということはあり得ないのが、主イエス・キリストによる救いの基本的な性格なのです。それは言い換えれば、主イエスによる救いの中心は病気が癒されたり苦しみが取り除かれたり、何らかの道徳的教えを受けることにあるのではない、ということです。それらはあくまでも付随的なことであって、救いの中心は、主イエスとの出会いと交わりにこそあるのです。それゆえに、後ろからそっと触れて癒しや慰めだけをいただくということはあり得ません。しかし勘違いしないでいただきたいのですが、後ろからそっと触れてはいけない、ということではありません。この女性はまさにそのようにして癒されたのです。ですから、イエス・キリストの恵み、慰め、助け、あるいは良い教えだけを求めて礼拝に来ることがいけないのではありません。そういう思いで来られる方を教会は歓迎します。しかし大事なのは、それだけで終わることはない、ということです。救いを求めて後ろからそっと触れたこの女性の思いを、主イエスはしっかりと感じ取って下さり、振り向いて、その人と向き合い、出会おうとなさるのです。

主イエスとの出会い
 彼女は群衆の前で震えながら進み出て、自分の病気のこと、主イエスに触れたらそれが癒されたことを語りました。それは彼女にとってつらいことだったでしょう。主イエスと正面から向き合うというのはこういうことでもあります。つまりそれは人々の前で、自分が主イエスによる救いを受けたことを明らかにし、語る、ということを伴うのです。この救いを、主イエスと自分の二人だけの、誰にも知られない秘密にしておくことはできないのです。何故なら、そのような秘密の関係は、主イエスと本当に出会い、交わりを持つのではなくて、自分が心の中で造り上げた主イエスのイメージと対話するだけで、結局は独り言に終ってしまうことがしばしばだからです。本当に主イエスとの出会いと交わりに生きるならば、そのことが他の人の前でも明らかにならなければなりません。洗礼を受けるとはそういうことです。洗礼において私たちは自分の信仰を人々の前で言い表し、人々の前で水を注がれてキリストの救いにあずかる者となるのです。そういうのは恥ずかしいから誰も見ていない所で受けたい、とおっしゃる方が時々いますが、それはできません。ある意味で恥ずかしい、つらいことかもしれませんが、人々の前で主イエスを信じることを公にすることによってこそ、救いにあずかることができるのです。パウロがローマの信徒への手紙の10章10節で「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」と言ったのはそういうことなのです。

あなたの信仰があなたを救った
 少し脱線しましたが、この女性は主イエスの前に震えながら進み出て、人々の前で事の次第を語りました。それはつらいことだったでしょうが、しかしそれによってこそ48節のみ言葉が彼女に与えられたのです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。このみ言葉を主イエスからいただいたことこそが、彼女の救いです。主イエスのこのみ言葉によってこそ、彼女は本当に新しくされ、安心して生きる者となることができたのです。このみ言葉をいただくことなしに家に帰ったとしたらどうだったでしょうか。勿論その場合にも、十二年間苦しんできた病気が治った喜びはあったでしょう。しかしそれは一時のことで、病気がいつ再発するかもしれない、別の病気になるかもしれない、あるいは病気とは全く別の苦しみ悲しみが新たに襲ってくるかもしれない、という不安がいつもつきまとうのです。勿論それは主イエスとの出会いと交わりに生きる信仰者だって同じです。いつどんな苦しみや悲しみが襲ってくるか分からないのが人間の人生です。そのような基本的に不安に満ちた人生であるからこそ、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」という主イエスのみ言葉を受けているのといないのとでは決定的な違いがあるのです。主イエスを信じ、信仰者として生きるとは、このみ言葉を常に聞きながら生きることです。主イエス・キリストが、「あなたの信仰」と言って下さる、つまり私たちが主イエスを信じる信仰者であると認めて下さり、その私たちが救われていると宣言して下さり、安心して行きなさいと励まし、人生の旅路へと送り出して下さるのです。ここにこそ救いがあります。このみ言葉を聞きつつ生きることができるならば、私たちは、人生における様々な苦しみや悲しみ、病や老いの現実の中でも、そして死を迎える時にも、基本的に安心して歩むことができるのです。

信仰による救い
 しかしそこには当然一つの問いが生まれます。「あなたの信仰があなたを救った」と主イエスに言っていただけるような信仰とはどのような信仰なのか、そういう信仰をどうしたら持つことができるのだろうか、という問いです。その問いを心に留めつつ、さらにこの話を読み進めていきたいと思います。
 会堂長の家に向かう途中で、この女性の癒しの出来事が起ったために時間がかかってしまいました。そこに、会堂長の家から人が来て、「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」と言ったのです。ついに恐れていた事態になってしまった、最後の望みをかけて主イエスに来ていただこうとしていたのに、間に合わなかった、父親はその場にくずおれてしまったに違いありません。しかし主イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」とおっしゃいました。このお言葉は、主イエスがたった今あの女性にお語りになった「あなたの信仰があなたを救った」というお言葉と同じことを語っていると言えます。信仰があなたを救う、信じることによって救われる、信仰による救いということです。それが、この二つの奇跡物語を結び付けている絆であると言えるでしょう。この二つの話が語っているのは、主イエスが奇跡を行う力を持った方であることだけではなく、信仰による救い、ということなのです。

死に勝利する主イエス
 その信仰とは、何を信じることなのでしょうか。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」という主イエスのお言葉は、「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」という知らせに対抗して語られています。この知らせの言葉は、娘は死んでしまったのだからもう来ても無駄だ、主イエスであってももうどうすることもできない、ということです。死の現実の前では人間は無力であり、主イエスとてもそれに打ち勝つことはできない、と言っているのです。それに対して主イエスは「恐れることはない」と言われました。娘を奪った死の力に屈服して絶望している父親に、恐れるな、死の力を打ち破って娘を救う力のある者がここにいる、と語りかけたのです。会堂長の家に着くと、人々が娘の死を悼んで泣いていました。主イエスは「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」とおっしゃいました。すると人々は主イエスをあざ笑ったとあります。「娘が死んだことを知っていたので」とその理由が語られています。この娘は本当に死んでしまったのです。眠っていたのを人々が死んだのと間違えたのではないのです。「死んだのではない。眠っているのだ」という主イエスのお言葉は、人々からあざ笑われるたわ言としか思えないのです。しかし、主イエスが手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけると、娘は生き返り、起き上がったのです。つまり、たわ言と思えた主イエスのお言葉が現実となったのです。ここに描かれているのは、死の力の前では主イエスも無力であり、人がひとたび死んだら、その現実を主イエスといえどもどうすることもできない、という人間の体験的常識に主イエスが挑み、それを打ち破られたという出来事です。死の力の前では主イエスも無力だという常識がくつがえされ、主イエスの力の前では死こそが無力なのだということが示されたのです。「ただ信じなさい」というのは、このことを信じなさいということです。主イエスの前では死も無力であることを信じることによって、私たちは救われるのです。

信仰と救い
 しかし、そのような信仰はどうしたら得ることができるのでしょうか。そもそも会堂長ヤイロは、このような信仰を持っていたのでしょうか。そうではありません。その証拠に彼は娘の死の知らせを聞いて絶望と恐れに捕えられたのです。主イエスが「ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」とおっしゃった後も、彼が「信じます」と告白したとは書かれていません。ヤイロは救いを求めて主イエスのもとにやって来ましたが、主イエスこそ死に打ち勝つ救い主だとはっきりと信じていたわけではないのです。それは病を癒されたあの女性も同じです。「あなたの信仰があなたを救った」と主イエスはおっしゃいましたが、彼女も、救いを求めて後ろからそっと主イエスの服の房に触れただけで、主イエスをはっきり信じていたわけではありません。できれば主イエスにも気付かれずに立ち去ろうとしていたのです。「信仰による救い」がこの二つの話を繋ぐ絆だと申しましたが、そのように言われるに値するほどの信仰は、あの女性にも、会堂長ヤイロにも見出すことはできないのです。
 そうであるならば私たちは、信仰と救いとの関係を、この物語に即して考え直さなければなりません。主イエスこそ病や死に打ち勝つ救い主だという確固たる信仰を持つことによって救われる、ということをこの話は語っていません。ここに登場する人々は、苦しみ悲しみの中で主イエスの救いを求めたのです。そういう思いなら私たちにもあります。私たちはそういう思いを抱いて主イエスのもとにやって来るし、救いの恵みだけをそっといただいて気付かれずに帰ろうとします。そのような思いは、本来信仰などと呼べるものではありません。けれども主イエス・キリストは、そのようなあやふやな、また自分勝手な思いを抱いてやって来た私たちと、正面から出会い、交わりを持とうとなさるのです。私たちの願いを受け止めて下さり、私たちが期待している以上の救いのみ業を行なって下さるのです。そしてその中で、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と語りかけて下さるのです。私たちは、主イエスのこの語りかけによってこそ、主イエスを信じる信仰を与えられ、安心して歩み出すことができるのです。私たちが死の力に捕えられ、苦しみ悲しみ絶望の中でうちひしがれている時に主イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば救われる」と語りかけて下さるのです。私たちは、主イエスのこの語りかけを聞くことによって、恐れから解放されるのです。勿論この語りかけだけでそれが実現するわけではありません。主イエスのご生涯の全体、とりわけ十字架の死と復活を見つめなければなりません。主イエスは私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、罪の赦しを実現して下さいました。そして父なる神様が、死の力を打ち破って主イエスを復活させて下さったのです。主イエスの十字架と復活によって実現した神様の救いの恵みによって、罪に支配され、死の力に屈服して恐れの中にいる私たちに、罪の赦しの恵みと、主イエスの前では死も無力なのだという信仰が与えられていくのです。

聖餐にあずかりつつ
 あの病気の女性は、人々の前で主イエスのもとに進み出て、自分のつたない、信仰とは呼べないような、救いを求める思いに主イエスが応えて下さり、恵みのみ業を行なって下さったことを告白しました。それは私たちが人々の前で信仰を告白して洗礼を受けることにつながると先ほど申しました。そのようにして洗礼を受けた者は、これから行われる聖餐にあずかることができるのです。聖餐のパンと杯は、主イエスが私たちのために十字架にかかり、肉を裂き血を流して成し遂げて下さった救いの印です。またそれは、私たちがこの世が終わりに主イエスの復活にあずかり、永遠の命に生かされるという神様の約束の保証、先取りでもあります。聖餐にあずかることができることは、主イエスが私たちに、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と語りかけて下さっていることの目に見える印なのです。私たちは聖餐において、主の恵み深さを味わい、主イエス・キリストの御もとに身を寄せる者の幸いをかみしめつつ歩むのです。

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