「たましいの牧者」 伝道師 宍戸ハンナ
・ 旧約聖書: 詩編 第42編1-12節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第2章18-25節
・ 讃美歌 : 459、68
はじめに
聖書に書かれている事柄とは、どこか難しい自分の生活とは少しかけ離れたところにあるような気がします。けれども聖書が語る救いとは私たちの実際の生活の間において示されているのです。主イエス・キリストを信じること、信仰を与えられるというのは抽象的な事柄ではなく大変具体的な事柄なのです。ペトロの手紙の著者はキリスト者の生活を良く見ており、生活を知っておりました。その生活の中へ、主イエス・キリストの救いの語り込んでいくような書き方をしています。それは人間の罪と主イエス・キリストの救いの出来事というものは私たちの生活のただ中において捕らえられるものなのです。私たちの生活は容易に曲がりやすい、弱いものであります。神様の御言葉である聖書によって示される救いによって、私たちは日々新しくされるのです。
心からおそれ敬って
本日与えられました箇所は「召使いたちへの勧め」と題してあり、この次の部分では「妻と夫」と題して、それぞれの家庭における勧めを説いています。ここでの「召使い」と言うのは、もともとは戦争によって捕らえられた捕虜のことを指しております。そして家庭における奴隷達を意味しています。ですから、この時代の教会にも奴隷の人たちが非常に多かったのでしょう。当時、ローマ帝国には約6000万人の奴隷がいたのではないか、と言われております。奴隷は戦争の度に敵の捕虜を連れて来てその人たちを奴隷とします。戦争に勝つ度に奴隷が増えます。
ですから、はじめの頃の教会にもこのような家庭における奴隷であるキリスト者が多かったのであります。それゆえにペトロはそのようなキリスト者である召使いたちへの勧めが記しております。召使いたちに対して、「心からおそれ敬って主人に従いなさい。」と勧めています。召使い達は心からのおそれをもって主人に仕えなさい、と言うのです。「心からの」と言うのは見かけだけでなく「あらゆる」気持ちからという意味です。ひたすらに「おそれを持って主人に仕えなさい」と言っても良いでしょう。召使いたちの多くはその家族から愛され、信頼されておりました。ですから主人との関係も良好な場合もあるのです。召使いにとって善良で寛大な、優しい主人もいたかもしれないでしょう。けれども、主人という人は絶対的に権力を持った主人と言うことです。召使い達の多くは家族から愛され、信頼をされていたでしょう。けれども彼らには法律的には財産の所有が認められず、仕事に情熱を持てないでおりました。絶対的な権力のゆえに、無慈悲な主人も多かったでしょう。時に不当な判断をする、気難しい主人も多かったでしょう。けれども、そのような主人にもひたすらにおそれを持って仕えるようにと、言うのであります。ここでの奴隷というのは、先ほども申しましたように戦争の捕虜として連れて来られた人が多かったので、元々は様々な職業の人がおりました。医者、教師、音楽家、俳優や秘書などの社会的立場のあった人などが多かったのであります。奴隷というのが常にみじめであったわけでもないと言うことが分かります。もしかするとその家の主人以上の人もいたであろうと思われます。そのような立場にあった奴隷達に対して「無慈悲な主人にも心からおそれ敬って従いなさい」と言うのは、奴隷達にとってはとても辛いことであります。けれども「心からおそれ敬って主人に従いなさい、仕えなさい」と言うのです。うわべだけでなく、「心から仕えなさい」と勧めるのです。私たちが人に仕えるというときに、その仕える相手、主人が明らかに正しくない、無慈悲な主人のときがあります。そのために、どんなに心からのおそれ敬って仕えても、不当な苦しみを受けることになるのです。自分は正しく仕えているのに、主人が明らかに間違っている、どうにもこうにも無理難題を押し付ける、馬鹿にされるということが起こります。そうなるととてもやりきれない時であります。そのようになると、「仕える」と言うよりは「耐える」耐え忍ぶということになります。そのような苦痛を耐えるのです。
御心の適う
19節からこのようにあります。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」耐え忍ぶとは、耐え忍ぶことができないと思うことがある時にだけ言えることでしょう。簡単に辛抱できることをしても、どうして耐え忍ぶと言えるでしょうか。不当な苦しみを受ける、自分は良いことをしているのに苦しみを受けなければならない、「神様、どうしてでしょうか。」と神様に嘆かざるを得ない時があります。それを耐え忍ぶことが神様の御心である、とここでは申しております。あるいはこのように考えることが出来るかもしれません。正しくないことが起きたら、そこから逃げれば良いではないかと言えるでしょう。わざわざ苦しみを受けることはない、言うのです。自分だけ、その場から逃げ出し満足のいく生活をすることもできるでしょう。しかし、逃げられないこともあります。自分に与えられた状況、立場や仕事などと言うものは苦しいから言って、簡単に逃げ出すことはできないでしょう。自分の力でこの状況を打破しょうと、克服しょうと思うかもしれません。けれども限界があります。そうなると、神様は神様のお与えになる時まで、私たちが「耐え忍ぶ」ことこそ求められているのです。自分の判断で逃げ出すことも、自分の力で克服しょうとすることも、中心になっているのは「自分自身」です。この不当な苦しみをどうにかするのは人間しかいないと考えているのです。19節には「神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら」とあります。理由のない、不当な理由によって苦しみを受けることになっても神様がそうお望みだとわきまえ、苦痛に耐えるのです。そしてそのことこそ、神様の「御心に適うこと」であると勧めます。神様が望まれること、神様が意識されることが耐え忍ぶというのです。神様が望まれること、神様が意識されることが「御心に適うこと」であり、即ち神様の「恵み」であります。
恵み
キリスト者が召されたのは、人々がキリスト者へとされたのはこの「恵み」のためであると語ります。21節「あなたがたが召されたのはこのためです。」誰もが様々な形で不当な苦しみを受け、無慈悲な主人に従う生活を送ります。ペトロはキリスト者にこの地上で不当な苦しみをも耐え忍ぶことを勧めます。それは最終的に神様の恵みである神様の救いに与るためなのです。この地上における不当な苦しみ、人々の不正を耐え忍ぶためにキリスト者は召された、と言うのです。ここでのあなた方は「奴隷」でありますので、「奴隷として召された」ということになります。それは同時に奴隷として召され、「信仰に召された」と言うことでしょう。奴隷として信仰を与えられた。奴隷の生活において信仰生活をするように召されたのです。奴隷と言うことが良いと言っているのではなく、奴隷なら奴隷のままでも良い。私たちの受ける不当な苦しみと言うのは、職業を変えたり、境遇が変わることによって全くなくなるということではないでしょう。境遇が変わると、そこにおいて新しい苦しみがあるのです。なぜなら不当な苦しみと言うのは人間の罪から来るからです。人間のいる場所には人間の罪が存在するのです。私たちの生きる世界というのはそのような人間同士の罪に満ちた世界であると言えます。それはどこにおいても同じです。職場でも家庭でも地上の教会でもそうであります。そのような世界にあなたがたが召された。このためにあなたがたは召されたのです。このような世界の中で耐え忍ぶ生き方がキリスト者の生き方であるとペトロは勧めるのです。なぜ、そのように耐え忍ぶのか、耐え忍ぶために召されたのでしょうか。それには、理由があるのです。
模範となられて
その理由とは主イエス・キリストのことであると語られております。耐え忍ぶといのは何のためであるのか。21節には「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」とあります。キリストはあなたがた、つまり私たちのために苦しみを受けられた。イエス・キリストの救いの出来事は簡単に与えられた出来事ではなく、神の御子であるイエスが私たちのために十字架にかかられたという苦しみの出来事であったのです。その出来事こそが救いの出来事となったのです。神の御子が私たちのために苦しみを受けられた。その救いを受けた者もまた、キリストのために苦しむことが大切なことなのです。主イエス・キリストはその苦しみをキリスト者が歩む道として、その模範を残されたのです。イエス・キリストの足跡に続くようにと模範を私たちに残された。私たちが自分の力で、ない力で従う模範ではないのです。イエス・キリストがこの私のために苦しみを受けられた。その出来事によって救いを与えられた。そしてそのことを感謝して受け止めることによって力が与えられるのです。イエス・キリストが十字架において苦しみを受けられたのは私たちの救いのためであると、同時に私たちの模範となって下さったというのです。救いを与えられた者の生活を示しているのです。救いを与えられ、イエス・キリストが私たちの模範となって下さったイエス・キリストの足跡に続く、足跡を辿るのが救いを与えられた者の生活ではないでしょうか。模範というのは、元々「下に書く」という意味を持っています。筆写の手本となる習字帳を指していました。イエス・キリストを模範とすること、イエス・キリストに倣うことは、キリストをなぞることなのです。イエス・キリストは「罪を犯しことがなく、その口には偽りがなかった。」とあります。人間の罪を赦すために、私たち人間をお救いになるための十字架の出来事でありました。この十字架刑というのは、全く不当な、不公正な、理にかなわない刑罰でした。罪を犯したことがない方、偽りがない方である主イエスに人々は嘲りの言葉を浴びせられ、辱めの仕打ちを受けました。けれども、主は静かにこれを受け、耐え、かつ忍び、神様の御心に従い通し、私たちの贖い主となられました。この方が私たちの模範であります。25節で「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」ここに書いてあることは、今までのことの理由と言えます。ここには、はじめに「なぜならば」という言葉が入っているのです。このように耐え忍ぶ、忍耐の生活をするのはこのようなためです。あなたがたは羊のようにさまよっていたが、今は魂の牧者であり監督者であるイエス・キリストところに戻った、立ち帰ったからであります。ただ耐え忍ぶ生活というのは辛いものです。けれども今、私たちは魂の牧者、監督者のもとに立ち帰ることが出来るのです。この方の元で荷を降ろし、心からの平安を与えられます。魂の牧者であり、監督者であられる方は主イエス・キリストのもとに立ち返る人生の歩みをしている。監督者というのは、ここでは監視したり支配したりする人のことではなく、見守っていてくれる人であります。罪のゆえに、それまでさまよう歩みをしている。けれども主イエス・キリストの十字架によって、魂の牧者であり、監督者である神のもとに確実に帰ることができるのです。主イエスは私たちを見守っていて下さることを信じて1週間を歩んで参りたいと思います。